内村鑑三 武士道的キリスト教
実例として、幕末の武士の一人であり、内村鑑三が代表的日本人の一人に選
んだ西郷隆盛を挙げている。西郷は、陽明学を深く学び、「敬天愛人」を生き
る理念として掲げていた。天の法則に従い、人を愛する心をもつことを重視す
る西郷の姿は、「キリスト者」と言える、とまで語っている。
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Friday, August 24, 2018
Saturday, July 07, 2018
Sense of sin in Japan
“The conception of sin, as distinct
from uncleanness, is wanting, or rudimentary, and throughout their history the
Japanese seem to have retained in some measure this incapacity to discern, or
this reluctance to grapple with a problem of Evil. […]Much that is baffling in
the study of their history, from ancient to modern times, becomes clearer when one
remembers that they have never been tortured
by the sense of sin”
(G.B. Sansom, Japan. A Short Cultural History, New York, 1931,
p. 54)
Saturday, June 02, 2018
Saturday, May 05, 2018
Wednesday, September 24, 2014
Monday, September 01, 2014
日本教
阿部仲麻呂、「不干斎ハビアンにおける15年間の意義」、日本カトリック神学院紀要、第5号、2014年、158-159頁。
4・最近のハビアン研究Ⅲ一政治イデオロギー論の視点から
Kiri Paramore,Ideology and Christianity in Japan,Routledge,London & NewYork,2009,pp.230・(キリ・パラモア『日本におけるイデオロギーとキリスト教』)-
一本書は日本人キリスト者の思考傾向をハビアンの著作テクスト(特に『妙貞問答』)を手がかりにして分析している。同時に、『どちりな・きりしたん』や日本におけるイエズス会の信仰教育関連文書や中国におけるマテオ・リッチのキリスト教関連著作の文脈をも参照しながら、ハビアンが生きていた当時の日本人キリスト者の信仰態度を浮き彫りにしている。その際に、16世紀のキリスト教伝来から明治期の政府によるキリスト教弾圧に至るまでの政治的動向のメカニズムが背景として紹介されている。
パラモアは欧米人の立場で近世および近代の日本社会に特有な政治的状況をキリスト教受容という主題を手がかりにして整理している。往々にして日本人キリスト者は日本という土地の政治状況を客観視しながら捉え直す作業をまったくしないまま安穏と過ごしている場合が多いと思われるが、パラモアの研究は日本人の限界を補いつつ、欧米人にも予想外の反信仰的な社会状況が存在することを知らしめた点が秀逸な成果となっている。まさに、本書は日本人キリスト者の自画像を垣間見るための鏡である。
5.課題
こうして、ハビアンに関する近年の研究書のいくつかを紹介してきたが、17世紀のハビアンの歩みをとおして、日本人によるキリスト教的信仰理解の心性(心のもちかたの傾向性)を垣間見ることとなる。以下の三つの段階が日本人独自の信仰理解の心性として浮上してくることだろう。
①もともと仏教の立場で生きていた日本人がキリスト教の世界に入る場合に、いつまでもキリスト教には馴染めないままであると実感し、居心地の悪さを身に覚える。
②その後、仏教からキリスト教へと改宗した日本人が、長期間、キリスト教の世界で生きているうちに、もともとの仏教とは異質な思考パターンを身につけて、もはや仏教的な世界観とは異なる物の見方をするようになってゆく。
③結局は、どちらの世界にも入り込めていないという「ダブルパインド」の宙ぶらりんの状態で、日本人は苦しみを身に覚える。
上に述べたような三段階の流れを経て、自らの立ち位置をどうするかで悩みつづけた日本人の心の葛藤のメカニズムと適正な対処の仕方に関して論じることが今後の課題となる。
4・最近のハビアン研究Ⅲ一政治イデオロギー論の視点から
Kiri Paramore,Ideology and Christianity in Japan,Routledge,London & NewYork,2009,pp.230・(キリ・パラモア『日本におけるイデオロギーとキリスト教』)-
一本書は日本人キリスト者の思考傾向をハビアンの著作テクスト(特に『妙貞問答』)を手がかりにして分析している。同時に、『どちりな・きりしたん』や日本におけるイエズス会の信仰教育関連文書や中国におけるマテオ・リッチのキリスト教関連著作の文脈をも参照しながら、ハビアンが生きていた当時の日本人キリスト者の信仰態度を浮き彫りにしている。その際に、16世紀のキリスト教伝来から明治期の政府によるキリスト教弾圧に至るまでの政治的動向のメカニズムが背景として紹介されている。
パラモアは欧米人の立場で近世および近代の日本社会に特有な政治的状況をキリスト教受容という主題を手がかりにして整理している。往々にして日本人キリスト者は日本という土地の政治状況を客観視しながら捉え直す作業をまったくしないまま安穏と過ごしている場合が多いと思われるが、パラモアの研究は日本人の限界を補いつつ、欧米人にも予想外の反信仰的な社会状況が存在することを知らしめた点が秀逸な成果となっている。まさに、本書は日本人キリスト者の自画像を垣間見るための鏡である。
5.課題
こうして、ハビアンに関する近年の研究書のいくつかを紹介してきたが、17世紀のハビアンの歩みをとおして、日本人によるキリスト教的信仰理解の心性(心のもちかたの傾向性)を垣間見ることとなる。以下の三つの段階が日本人独自の信仰理解の心性として浮上してくることだろう。
①もともと仏教の立場で生きていた日本人がキリスト教の世界に入る場合に、いつまでもキリスト教には馴染めないままであると実感し、居心地の悪さを身に覚える。
②その後、仏教からキリスト教へと改宗した日本人が、長期間、キリスト教の世界で生きているうちに、もともとの仏教とは異質な思考パターンを身につけて、もはや仏教的な世界観とは異なる物の見方をするようになってゆく。
③結局は、どちらの世界にも入り込めていないという「ダブルパインド」の宙ぶらりんの状態で、日本人は苦しみを身に覚える。
上に述べたような三段階の流れを経て、自らの立ち位置をどうするかで悩みつづけた日本人の心の葛藤のメカニズムと適正な対処の仕方に関して論じることが今後の課題となる。
Monday, June 09, 2014
キリスト教以前とポスト・キリスト教
"Pre-Christian and consciously post-Christian views might be structurally similar, but in their deepest intentionality they remain essentialy different, since today the yeast of Christianity has permeated the whole of mankind. For that reason, it would be quite difficult in today's global village to find something naively {pre-Christian} even in world views (in Asia, for example) that have apparently remained the same since pre-Christian times. Quite often they will have absorbed Christian (or at least biblical) elements to show that they do not need Christianity in order to maintain their own claim to totality"
(H. U. Von Balthasar, Epilogue, San Francisco, 2004, p. 18)
キリスト教以前とポスト・キリスト教
キリスト教に未だに出会っていない世界観と、キリスト教を卒業したと思っている世界観は構造的に類似しているかもしれないが、キリスト教的酵母が全人類に浸透している今は、最も深い志向性としては、本質的に異なるものであり続ける。そいうわけで、今日の世界村においては、単純にキリスト教以前の世界観を、そのように思われている文化の中でさえ(例えば、アジアの諸文化)、見つけることが至難のわざである。逆に、全体的な独自性への自己主張を維持するためにキリスト教を必要としないことを示すために、キリスト教的要素(少なくとも聖書的要素)を吸収しているのはしばしばである。
(H. U. Von Balthasar, Epilogue, p. 18)
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(H. U. Von Balthasar, Epilogue, San Francisco, 2004, p. 18)
キリスト教以前とポスト・キリスト教
キリスト教に未だに出会っていない世界観と、キリスト教を卒業したと思っている世界観は構造的に類似しているかもしれないが、キリスト教的酵母が全人類に浸透している今は、最も深い志向性としては、本質的に異なるものであり続ける。そいうわけで、今日の世界村においては、単純にキリスト教以前の世界観を、そのように思われている文化の中でさえ(例えば、アジアの諸文化)、見つけることが至難のわざである。逆に、全体的な独自性への自己主張を維持するためにキリスト教を必要としないことを示すために、キリスト教的要素(少なくとも聖書的要素)を吸収しているのはしばしばである。
(H. U. Von Balthasar, Epilogue, p. 18)
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Wednesday, February 26, 2014
歴史的反省
十六世紀、スペイン・ポルトガルから、キリスト教宣教師が来て、新しい西欧の宗教とルネッサンス期の文明を日本に紹介したとき、日本人の人格と高潔な生活態度、それに知的レベルの高さを評価する手紙を本国に書き送っている。これは日本人の中に、依然として人格の統一性があった証拠になる。
ただし現代日本人の人格形成の上で、想像以上の影響を与えたのは、徳川時代の長期にわたる封建制、鎖国、切支丹の禁制である。概して宗教弾圧には非論理的要素が多いが、切支丹大名の追放処分、庶民にたいする残酷な処刑法は、日本人の性格を歪めないわけにはいかない。五人組制度など、同一の村落隣組内の切支丹密告組織として、同胞隣人にたいする不信感を植え付けたことは疑えない。
日本の歴史を顧みて、国全土にわたって、国家的規模で、同国民女子供を含め、住民を容赦なく引き出し、逆さ吊りにしたり、穴蔵に放り込んだり、燃える硫黄を浴びせたり、十字架につけたりして拷問・惨殺を行ったのは、この時代を除いてはない。宗教とか信仰に命がかかるのは、その信仰が人間生活に重大な意味を持ってくるからであるが、信長や秀吉の初期の好意的な態度が一転して、迫害と追放、それから鎖国へと極端な形を取ったことは、日本国民全体にとって不幸な時代であった。このような宗教弾圧によって、気骨のある切支丹が容赦なく追放されたり、殺されたりしたあげく、結局はコロビの背教者と、幕府の迫害に荷担した臆病な日本人が生き残って、今日の日本人が存続しているといえば、言い過ぎであろうか。
そのあいだ世界は、近代に向かって急速に前進していた。切支丹弾圧と鎖国の期間、つまり十六、十七、十八世紀なくしては、現代世界と自由主義、啓蒙思想は語れないなら、当時の日本の損失は想像を越える。そのあいだ江戸時代の町人文化は栄えたが、その反面、日本人の論理性が後退し、それに代わって内向的な情緒性が花開いたと言える。十九世紀後半、日本は明治の開国と同時に、切支丹禁制の高札を撤去し、近代国家の仲間入りをすると同時に、三百年の遅れを一挙にとり戻そうと、西洋の文化を大車輪で取り入れた。さらに軍備を強化し、日清日露両戦役で勝利をおさめた結果、自信を深め、さらに太平洋戦争に突入した。長年の閉鎖的国策が、反対方向に向かって爆発した。
このようにして戦後日本の経済が急速に伸びていく一九六、七〇年代、日本人自身のアイデンティティーを求める著書が、書店の店頭を賑わすようになる。日本人とは一体どんな民族か、日本人を理解するためのキーワードは何かが問われる。それは恥の文化、恩、義理、それに甘え、和、タテ社会の論理、単一民族社会、農耕社会、神道的空間、日本教理論、日本会社論など、いろいろの角度と立場から、批判と内省と分析の声が上がった。「日本論Japanology」が口にされ始めたのは、そのころからである。
http://www.arcanapress.com/NagashimaNihonjinron.htm
ただし現代日本人の人格形成の上で、想像以上の影響を与えたのは、徳川時代の長期にわたる封建制、鎖国、切支丹の禁制である。概して宗教弾圧には非論理的要素が多いが、切支丹大名の追放処分、庶民にたいする残酷な処刑法は、日本人の性格を歪めないわけにはいかない。五人組制度など、同一の村落隣組内の切支丹密告組織として、同胞隣人にたいする不信感を植え付けたことは疑えない。
日本の歴史を顧みて、国全土にわたって、国家的規模で、同国民女子供を含め、住民を容赦なく引き出し、逆さ吊りにしたり、穴蔵に放り込んだり、燃える硫黄を浴びせたり、十字架につけたりして拷問・惨殺を行ったのは、この時代を除いてはない。宗教とか信仰に命がかかるのは、その信仰が人間生活に重大な意味を持ってくるからであるが、信長や秀吉の初期の好意的な態度が一転して、迫害と追放、それから鎖国へと極端な形を取ったことは、日本国民全体にとって不幸な時代であった。このような宗教弾圧によって、気骨のある切支丹が容赦なく追放されたり、殺されたりしたあげく、結局はコロビの背教者と、幕府の迫害に荷担した臆病な日本人が生き残って、今日の日本人が存続しているといえば、言い過ぎであろうか。
そのあいだ世界は、近代に向かって急速に前進していた。切支丹弾圧と鎖国の期間、つまり十六、十七、十八世紀なくしては、現代世界と自由主義、啓蒙思想は語れないなら、当時の日本の損失は想像を越える。そのあいだ江戸時代の町人文化は栄えたが、その反面、日本人の論理性が後退し、それに代わって内向的な情緒性が花開いたと言える。十九世紀後半、日本は明治の開国と同時に、切支丹禁制の高札を撤去し、近代国家の仲間入りをすると同時に、三百年の遅れを一挙にとり戻そうと、西洋の文化を大車輪で取り入れた。さらに軍備を強化し、日清日露両戦役で勝利をおさめた結果、自信を深め、さらに太平洋戦争に突入した。長年の閉鎖的国策が、反対方向に向かって爆発した。
このようにして戦後日本の経済が急速に伸びていく一九六、七〇年代、日本人自身のアイデンティティーを求める著書が、書店の店頭を賑わすようになる。日本人とは一体どんな民族か、日本人を理解するためのキーワードは何かが問われる。それは恥の文化、恩、義理、それに甘え、和、タテ社会の論理、単一民族社会、農耕社会、神道的空間、日本教理論、日本会社論など、いろいろの角度と立場から、批判と内省と分析の声が上がった。「日本論Japanology」が口にされ始めたのは、そのころからである。
http://www.arcanapress.com/NagashimaNihonjinron.htm
Monday, February 10, 2014
Shūsaku Endō
Shūsaku Endō
It seems to me that Catholicism is not a solo, but a symphony. It fits, of course, man's sinless side, but unless a religion can find a place for man's sinful side in the ensemble, it is a false religion. If I have trust in Catholicism, it is because I find in it much more possibility than in any other religion for presenting the full symphony of humanity. The other religions have almost no fullness; they have but solo parts. Only Catholicism can present the full symphony. And unless there is in that symphony a part that corresponds to Japan's mud swamp, it cannot be a true religion. What exactly this part is – that is what I want to find out.
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It seems to me that Catholicism is not a solo, but a symphony. It fits, of course, man's sinless side, but unless a religion can find a place for man's sinful side in the ensemble, it is a false religion. If I have trust in Catholicism, it is because I find in it much more possibility than in any other religion for presenting the full symphony of humanity. The other religions have almost no fullness; they have but solo parts. Only Catholicism can present the full symphony. And unless there is in that symphony a part that corresponds to Japan's mud swamp, it cannot be a true religion. What exactly this part is – that is what I want to find out.
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Tuesday, July 23, 2013
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