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Sunday, January 20, 2013
Brother Sun Sister Moon Messiaen Wagner Debussy
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ルネッサンスの先駆者ともいうべき画家、ジョットが描いた美しい画面とか、音楽ではフランスの現代音楽家オリビエ・メシアンが書き残したオペラ「アッシジの聖フランチェスコ]
フランコ・ゼフィレッリ監督は1972年のイタリア・イギリスの合作映画。この映画のために、歌手のドノヴァンが主題歌と挿入曲を書き下ろしている。
ブラザー・サン シスター・ムーン ( エンディングの歌 )
1.Brother Sun and Sister Moon
Brother Sun and Sister Moon,
I seldom see you, seldom hear your tune
Preoccupied with selfish misery.
Brother Wind and Sister Air,
Open my eyes to visions pure and fair.
That I may see the glory around me.
I am God's creature, of him I am a part
I feel his love awaking in my heart
Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear your tune
So much in love with all that I survey
ブラザーサン シスタームーン
その声はめったに私には届かない
自分の悩みだけに心を奪われて
兄である風よ
姉である空の精よ
私の目を開いておくれ
清く正しい心の目を
私を包む栄光が
目にうつるように
神に与えられた命
私にも神は宿る
その愛がいま
この胸によみがえる
ブラザーサン シスタームーン
今こそ
その姿に触れ
その声を耳に
そして胸を打つ
あふれるこの愛
2.The Little Church
If you want your dream to be
Build it slow and surely.
Small beginnings, greater ends.
Heartfelt work grows purely.
If you want to live life free,
Take your time, go slowly.
Do few things, but do them well.
Simple joys are holy.
Day by day, stone by stone,
Build your secret slowly.
Day by day, you'll grow, too,
You'll know heaven's glory.
夢をまことにと思うならば
あせらずに築きなさい
その静かな歩みが遠い道を行く
心をこめればすべては清い
この世に自由を求めるならば
あせらずに進みなさい
小さいことにも
すべてを尽くし
飾りない喜びに
気高さが住む
日ごとに
石を積み続け
あせらずに築きなさい
日ごとにそれであなたも育つ
やがて天国の光があなたを包む
Lyrics and music by Donovan
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メシアン/歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」
『アッシジの聖フランチェスコ』(アッシジのせいフランチェスコ、フランス語: Saint François d'Assise)は、フランスの作曲家オリヴィエ・メシアン( Messiaen)による3幕(8場)のオペラで、1975年から1983年にかけて作曲された。台本も本人による。アッシジのフランチェスコ(タイトルロール)をテーマとし、作曲家のカトリックへの深い信仰を示す。世界初演は、1983年11月28日に小澤征爾の指揮でパリのオペラ座で行われた。
約4時間から4時間半かかる(各幕80分、2時間、1時間)。
演奏時間が長、く管弦楽が大編成で、台本が自作ということと、題材が宗教的だということで、ワーグナーの神聖舞台祭典劇「パルシファル」に先駆を見出すことができる。
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パルジファル
舞台神聖祝典劇 『パルジファル』(Bühnenweihfestspiel "Parsifal")はリヒャルト・ワーグナーが1865年、国王ルートヴィッヒ二世のために書いたオペラ。全3幕。原語ドイツ語。台本も作曲家自身による。中世(10世紀ごろ)スペインのモンサルヴァート城及びクリングゾルの魔の城を舞台とする。
第1幕への前奏曲
変イ長調。ワーグナー自身は、前奏曲は「劇的」でなく「根源的」に演奏されねばならないと語っていたとされる。また、ワーグナーがルートヴィヒ2世のために書いた注釈には、「愛-信仰-:希望?」と記されている。前奏曲では、主として「愛餐の動機」(イングリッシュホルン、クラリネット、ファゴット、弱音器付きのヴァイオリン、チェロ)、「聖杯の動機」(金管の順次上行。ドイツの賛美歌『ドレスデン・アーメン』を借用)、「信仰の動機」(ホルン、トランペット)が扱われる。とくに「愛餐の動機」は、多種の楽器を重ねることで楽器独自の響きがぼかされており、これはバイロイト祝祭歌劇場での上演を意識した音色と見られる。『ローエングリン』前奏曲がイ長調であるのに対し、『パルジファル』前奏曲がそれより半音低い変イ長調で書かれていることも、より柔らかい、くぐもったような雰囲気を表出することに役立っていると考えられる。曲は次第に重苦しくなっていくが、やがて「聖杯の動機」が希望を示すかのように繰り返され、第1幕へとつながっている。
Overture
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クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年 - 1918年)
『ベルガマスク組曲』(ベルガマスクくみきょく、仏語:Suite bergamasque )
親しみやすい曲想で知られる。とりわけ第3曲「月の光」(Clair de Lune)はドビュッシーの作品のなかでももっとも有名であり、単独での演奏機会も多い。
3. 月の光 (Clair de Lune)
変ニ長調。ほとんどピアニッシモで演奏される夜想曲で、優しく切ない曲想で有名。中間部の優雅な旋律は教会旋法の一種ミクソリディア旋法が採用されている。
Monday, January 14, 2013
Spirituals Gospel Rhapsody in blue
聖者の行進(せいじゃのこうしん、When The Saints Go Marchin' In)は、黒人霊歌の一つ。
ディキシーランド・ジャズのナンバーである。「聖者が街にやってくる」という邦題でも知られる。
発祥 [編集]
元々は、アメリカ合衆国の黒人の葬儀の際に演奏された曲。
ニューオーリンズでは、埋葬に行くときには静かな調子で、埋葬の時は悲しげに。埋葬が終わると、この曲でパレードをして帰っていく
兵庫県を本拠地とする家電量販店、ミドリ電化のコマーシャルソングとしておなじみである。
歌詞(一部)・日本語訳(意訳)
Oh, when the saints go marching in
Oh, when the saints go marching in
Lord, how I want to be in that number
When the saints go marching in
おお 聖者達が行進して行く
おお 聖者達が行進して行く
主よ 私もあの列に加わりたい
聖者達が行進して行く
We are traveling in the footsteps 私たちは逝ってしまった人たちの
Of those who've gone before, 足跡を踏みながら旅をしている
And we'll all be reunited, そしてやがてひとつになるのだ
On a new and sunlit shore, 新しく光り輝く岸辺で
Oh, when the saints go marchin' in 聖者が行進していく時
Oh, when the saints go marchin' in 聖者が行進していく時
Lord how I want to be in that number 神よ、私もそこに居たいのです
When the saints go marchin' in 聖者が行進していく時
And when the sun begins to shine 太陽が輝き始める時
And when the sun begins to shine 太陽が輝き始める時
Lord, how I want to be in that number 神よ、私もそこに居たいのです
When the sun begins to shine 太陽が輝き始める時
Oh, when the trumpet sounds its call 裁きのラッパが鳴る時
Oh, when the trumpet sounds its call 裁きのラッパが鳴る時
Lord, how I want to be in that number 神よ、私もそこに居たいのです
When the trumpet sounds its call 裁きのラッパが鳴る時
Some say this world of trouble, この乱れし世も
Is the only one we need, 我々に必要なものだといいます
But I'm waiting for that morning, しかし新しい世界が始まる朝を
When the new world is revealed. 私は待ち望みたい
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アメイジング・グレイス(英語:Amazing Grace, 和訳例:すばらしき恩寵)は、ジョン・ニュートン (John Newton)の作詞による賛美歌である。特にアメリカ合衆国で愛唱され、またバグパイプでも演奏される。"grace"とは「神の恵み」「恩寵」の意。
原詞詞名(初行): Amazing grace! how sweet the sound
作詞者はジョン・ニュートン (John Newton)。作曲者は不詳。アイルランドかスコットランドの民謡を掛け合わせて作られたとしたり、19世紀に南部アメリカで作られたとするなど、諸説がある。
ジョン・ニュートンは1725年、イギリスに生まれた。母親は幼いジョンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンだったが、ジョンが7歳の時に亡くなった。成長したジョンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に手を染め巨万の富を得るようになった。
当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡したといわれる。
ジョンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して当然のように行っていたが、1748年5月10日、彼が22歳の時に転機はやってきた。船長として任された船が嵐に遭い、非常に危険な状態に陥ったのである。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったという。すると船は奇跡的に嵐を脱し、難を逃れたのである。彼はこの日をみずからの第二の誕生日と決めた。その後の6年間も、ジョンは奴隷を運び続けた。しかし彼の船に乗った奴隷への待遇は、動物以下の扱いではあったものの、当時の奴隷商としては飛躍的に改善されたという。
1755年、ジョンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の寄付を重ねて牧師となった。そして1772年、「アメイジング・グレイス」が生まれたのである[1]。この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨と、それにも関わらず赦しを与えた神の愛に対する感謝が込められているといわれている。
この曲のほかにも、彼はいくつかの賛美歌を遺している。
「Amazing Grace」歌詞
Amazing Grace, how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now am found
Was blind but now I see
'Twas Grace that taught my heart to fear
And Grace, My fears relieved
How precious did that Grace appear
The hour I first believed
Through many dangers, toils and snares
We have already come
'Twas Grace that brought us safe thus far
And Grace will lead us home
When we've been here ten thousand years
Bright shining as the sun
We've no less days to sing God's praise
Than when we've first begun
Than when we've first begun
「アメイジング・グレース」和訳歌詞
アメイジング・グレース なんと素晴らしい言葉だろう
私のような愚かな人間も救ってくれた
自分を見失っていた時期もあったが今は大丈夫
見えなくなっていたものも今は見える
心が恐怖に支配されている時、神の恵みを知った
神の恵みが私を恐怖から救い出してくれた
神の恵みを知った瞬間のなんと素晴らしかったことか
初めて信じたあの瞬間
たくさんの危機や誘惑の罠を
私達はいつも乗り越えてきた
神の恵みはこれまで私たちを守ってくれた
これからも神の恵みが私たちを導くでしょう
私たちは何万年経っても
太陽のように明るく輝き
神を褒め称える歌を歌うだろう
初めて歌ったその時よりも
初めて歌ったその時よりも
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"Go Down Moses" is an American Negro spiritual. It describes events in the Old Testament of the Bible, specifically Exodus 7:26: "And the Lord spoke unto Moses, go unto Pharaoh, and say unto him, thus saith the Lord, Let my people go, that they may serve me", in which God commands Moses to demand the release of the Israelites from bondage in Egypt. The opening verse as published by the Jubilee Singers in 1872:
When Israel was in Egypt's land: Let my people go,
Oppress'd so hard they could not stand, Let my People go.
Go down, Moses,
Way down in Egypt's land,
Tell old Pharaoh,
Let my people go.
In the song "Israel" represents the African-American slaves while "Egypt" and "Pharaoh" represent the slavemaster.
Going "down" to Egypt is derived from the Biblical origin, where Egypt is consistently perceived as being "below" other lands, with going to Egypt being "down" [1] while going away from Egypt is "up".[2] In the context of American slavery, this ancient sense of "down" converged with the concept of "down the river" (the Mississippi), where slaves' conditions were notoriously worse, a situation which left the idiom "sell [someone] down the river" in present-day English.[3]
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ジェリコの戦い(英語:Joshua Fit The Battle Of Jericho)は、旧約聖書に登場する、古代イスラエルのモーセの後継者ヨシュア(英名ジョシュア)によるカナン人の都市ジェリコの攻略を歌った歌である。もとはこの戦いの歌だが、黒人霊歌、ジャズのスタンダード・ナンバーとしても有名である。
主な内容 [編集]
ヨシュアはジェリコとの戦いを始め、兵士達は手に槍を持って突撃した。ヨシュアはこの戦いは我が手中にあると言い、兵士達に叫べ、角笛(羊の角を使ったトランペット)を吹けと命令した。すると笛と声によってジェリコの城壁は崩れ落ちた、という「ヨシュア記」6章の内容が歌詞となっている。また歌詞の中で、この戦いにおけるヨシュアより偉大な人物はいないと言っている。
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ブルース(Blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。
アフリカ系アメリカ人によるフォークミュージック 労働歌 スピリチュアル・ミュージック
日本におけるブルース・ブーム [編集]
日本では、1970年代にブルース・ブームが起こった。
1971年、B.B.キングが初来日を果たす。1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of Sleepy John Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。
1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。
京都、大阪を中心にウエスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団、BREAK DOWN(1970年代前半当時、三大ブルースバンドと呼ばれた)など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。
スピリチュアル(英: spirituals)とは、霊歌、すなわち、黒人霊歌、白人霊歌と呼ばれてきたものの総称である。黒人霊歌のことをニグロ・スピリチュアルという言い方がある。奴隷としてアフリカから連れてこられたアフリカ系アメリカ人にキリスト教が広まり、賛美歌とアフリカ独特の音楽的感性が融合したものである。スピリチュアルを賛美歌に含めて考える考えと、賛美歌としては取り扱わない考えとがある。
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ラプソディ・イン・ブルー(Rhapsody in Blue)は、アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィン Gershwin が作曲、ファーディ・グローフェが編曲したピアノ独奏と管弦楽のための音楽作品である。
1924
ラプソディ・イン・ブルーというタイトルは「ジャズの語法によるラプソディ」といった程度の意味がある。ところでラプソディ(狂詩曲)とは「民族音楽風な叙事詩的な特に形式がなく、自由奔放なファンタジー風の楽曲」という意味があるので、このタイトルから、ガーシュウィンはジャズをアメリカにおけるある種の「民族音楽」と捉えていたことが伺える。
実際この曲はアメリカ的な芸術音楽の代表格とみなされている。
finale: andante misterioso
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『炎のランナー』(ほのおのランナー、原題: Chariots of Fire)は、1981年公開のイギリス映画。監督はヒュー・ハドソン。第54回アカデミー賞作品賞受賞作品。当時の時代背景の中で権威主義的排他的なイギリスを描きながらもイギリス的尊厳を彫り込んだ作品になっている。
走ることによって栄光を勝ち取り真のイギリス人になろうとするユダヤ人のハロルド・エーブラムスと、神のために走るスコットランド人宣教師エリック・リデル、実在の二人のランナーを描いている。舞台は1919年、エーブラムスが入学するケンブリッジ大学と、リデルが伝道活動をする北スコットランド・エディンバラから、1924年のパリオリンピックへと移ってゆく。
おおむね実話に基づいているが、リデルと妹の確執、エーブラムスと友人モンタギューの関係、エーブラムスとシビルの出会いなど、いくつかは映画用に潤色されている。ヴァンゲリスが作曲したサウンドトラックの中の『タイトルズ』は、日本でも耳にする機会の多い有名な曲となった。
Lascia ch'io pianga Ombra mai fu
私を泣かせてください
『私を泣かせてください』(伊語:Lascia ch'io pianga)は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが作曲したオペラ『リナルド』のなかのアリア。「涙の流れるままに」、「涙の流るるままに」等と表記されることもある。
劇中でエルサレムのイスラーム側の魔法使いの囚われの身になったアルミレーナが、敵軍の王アルガンテに求愛されるが愛するリナルドへの貞節を守るため「苛酷な運命に涙を流しましょう」と歌うアリアである。
日本では、全音楽譜出版社の「イタリア歌曲集1」や音楽之友社の「イタリア歌曲集Ⅰ」、「声楽名曲選集 イタリア編Ⅰ」等の歌曲集に掲載されている[1]。またテレビドラマ『牡丹と薔薇』のテーマソングとして岡本知高 (おかもと ともたか) が歌唱したことで有名である[2]。その他にもNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』の挿入歌として知られている。
(ぼたんとばら)は、東海テレビ・フジテレビ系列で、2004年1月5日から3月26日まで放送された昼のテレビドラマである。全60回。
Lascia ch'io pianga mia cruda sorte
過酷な運命に涙し、
e che sospiri la liberta.
自由に憧れることをお許しください。
Il duolo infranga queste ritorte
私の苦しみに対する憐れみだけによって、
de'miei martiri sol per pieta.
苦悩がこの鎖を打ち毀してくれますように。
(幸田浩子さんの歌)がこちらに。Kooda Hiroko
http://www.youtube.com/watch?v=Sioo2n-pgMc
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『オンブラ・マイ・フ』(Ombra mai fù)または『ラルゴ』(Largo)は、ヘンデルの作曲したオペラ『セルセ』(Serse, Xerxes)第1幕第1場の中のアリア。ペルシャ王セルセ(クセルクセス1世)によって歌われる。調性はヘ長調。詩は木陰への愛を歌ったもの。
The opera was a commercial failure, lasting only five performances in London after its premiere. In the 19th century, however, the aria was rediscovered and became one of Handel's best-known pieces. Handel adapted the aria from the setting by Bononcini who, in turn, adapted it from the setting by Francesco Cavalli. All three composers had produced settings of the same opera libretto by Nicolò Minato.
下降および上昇旋律を組み合わせた、伸びやかな明るい旋律線を持つ。旋律素材はボノンチーニによるもので、ヘンデルの独創ではないとされる。
従来より、この曲の速度記号から『ラルゴ』とも呼ばれる。『オンブラ・マイ・フ』は歌詞の初行から。今日オペラはほとんど上演されないが、この曲は美しい小品として愛され、しばしば演奏される。元来カストラートのための曲だが、今日は主にソプラノにより歌われる。
この曲は「世界で初めて電波に乗せて放送された音楽」でもある。1906年12月24日、レジナルド・フェッセンデンによって行われた初めてのラジオ実験放送でレコード演奏された。
原詩
Ombra mai fù
di vegetabile,
cara ed amabile,
soave più
日本語訳
こんな木陰は 今まで決してなかった
緑の木陰
親しく、そして愛らしい、
よりやさしい木陰
ヨナ預言者 4:6
どうごまの木はヨナの苦痛を救うために
Tuesday, December 11, 2012
易占い 信仰年
易占いは 四千年の歴史をもち 様々な人々に 生きる道を示してきました。 古代中国では、王者はみずから 易占いを行い 国をおさめてきました。
また、 老成した思想家が その深い意味を探り、 古典の書物を残しています。 人々も その知恵の深さに 敬意をはらい 長く長く 受け継がれてきました。
そこには 我々の今を解明し、 より良い道を歩むヒントがあります。
易占いは、 筮竹(ぜいちく)と卦木(かぼく、「さんぎ」とも言う)を用いて占い、 64卦の中から一つの卦をだし、 卦辞 64、 爻辞 386、 あわせて 450辞の中から あなたの現在の状況とその未来、 さらに より良い方向に向かう方法を示してくれます。
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52.艮為山(ごんいざん)山 のように動かないが一番の時
卦 象
運勢予報
晴れたり曇ったり
卦 辞
艮其背。不獲其身。行其庭。不見其人。无咎。
(そのはいにとどまりてそのみをえず。そのていにゆきてそのひとをみず。とがなし。)
運 勢
「艮」は止まること。「人間の体の中で動かない背中に止まる。そうすれば、動くところに惑わされない。庭に行っても人をきょろきょろ 見ない。問題はない」。この卦は山が二つ重なった姿です。山は不動 の象徴です。艮為山の時は、行く手は山また山の時です。こうした時は悟りを開いて無欲、無関心にして、心静かに「動かざること山の如し」をモットーとする ことです。あなたの守るべき立場をしっかりと守ること。
初爻 爻辞 艮其趾。无咎。利永貞。
(そのあしにとどまる。とがなし。えいていによろし。)
対処法 「足を止め、動かない。問題はない。いつまでも貞正を保てば良い」。現状維持に徹する時です。転職などはもってのほかです。
二爻 爻辞 艮其腓。不拯其隋。其心不快。
(そのこむらにとどまる。そのしたがうをすくわず。そのこころこころよからず。)
対処法 「腓」はふくらはぎのこと。「ふくらはぎを止める。上にある者が従ってくる者を助けてくれない。不愉快である」。会社では上司と心が 合わず、意見が通じず、思うようにならない時です。我慢するしかないでしょう。
三爻 爻辞 艮其限。列其夤。厲薰心。
(そのげんにとどまる。そのいんをさく。あやうくしてこころをくんす。)
対処法 「限」は「腰」、「夤」は腰骨、「薰」は煙でいぶすこと。「腰を止める。そうしたら腰骨が裂ける。危うく煙でいぶされたように心が痛 む」。会社の中では上下の板ばさみになって、引き裂かれるような思いをするなど、労多くして功少なく、中途で挫折しやすい時です。あまりに柔軟性がないの も考えもの。
◎あなたの考え方、進み方に問題点があります。よく反省し、改めましょう。
四爻 爻辞 艮其身。无咎。
(そのみにとどまる。とがなし。)
対処法 「自分自身が動かない。問題はない」。会社では部長の位です。上には社長が控えていますので、自分の分を守り、時の来るのを待つこと です。
五爻 爻辞 艮其輔。言有序。悔亡。
(そのほにとどまる。ことじょあり。くいほろぶ。)
対処法 「輔」は口のまわり。「口を止める。すなわち言葉を慎む。意見がある時は順序正しく述べる。悔いはなくなる」。「沈黙は金」の時で す。風格のある人は言葉を選ぶもの。
上爻 爻辞 敦艮。吉。
(とどまるにあつし。きち。)
対処法 「一番高い山に心敦く止まる。吉」。止まるところに見事に止まり終えて、今や見識、財力ともに山の如しの時です。仕上げは入念に。
◎良い時です。
※太極・陰陽・八卦(天、沢、火、雷、風、水、 山、地)の解説については、こちらをクリックしてご覧下さい。
※易経六十四卦はそれぞれ、卦象、卦辞、爻辞からなります。1. 乾為天と2.坤為地の所には卦象と爻の位置関係を詳しく記してお ります。
http://www5.ocn.ne.jp/~keisho/64/k52.html
上九━━━
六五━ ━
九四━ ━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━
九三、艮其限、列其夤、厲薫心、
九三(きゅうさん)、其(そ)の限(こしぼね)に艮(とど)まり、其(そ)の夤(せじし)を列(さ)く、厲(あやう)きこと心(こころ)を薫(くす)ぶ、
九三は上下二体を分ける位置にして、艮止にして動かない。
人体の上下を分けるところは、腰である。
だから、限(こしぼね)に艮まる、という。
夤は背骨を差し挟む肉のことである。
九三は陽剛にして内卦の上に艮(とど)まり、上下四陰を隔て拒んで、相通じることができないようにしている。
恰も、背骨が左右の肉を隔てるかのように。
だから、其の夤を列く、という。
このように、九三は好んで上下四陰の中間に横たわって隔て、四陰を苦しめるわけだが、およそ他者を苦しめる者は、その苦しめられた他者から背き離れられるとともに、恨まれもする。
恨まれたら、何をされるかわからない。
したがって、その身も厲く、その心も安寧ではない。
だから、厲きこと心を薫ぶ、という。
薫ぶとは、物を燃やして煙と匂いを出すこと。
心を薫ぶとは、心を燃やしている様子の形容すなわち不安で落ち着かないことである。
http://www5.ocn.ne.jp/~keisho/64/k52.html
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星座 おおうし
総合運
ゆったりとした気分で過ごせそう
あなたの思い通りに物事が進みそう。今日はやるべき仕事や、こなすべき用事などがスムーズに進みそうです。ここのところ毎日を忙しく過ごしていたのであれば、久々にゆったりとした気分で過ごすことができるでしょう。長い間「頑張らなくてはいけない……」とプレッシャーに感じすぎていたことも、気楽に考えることができそう。自分はどこに向かい、今、何をするべきなのか考える時間ができて、軌道修正をすることが可能になりそうです。
近所のお寺や神社の古木に触れながら、空を見上げて自分を取り戻して。
仕事運
取引先との連絡は、携帯かパソコンのメールで。文字として残しておいたほうが確実です。
Thursday, November 29, 2012
La parola chiave dell’Anno della fede
L’arcivescovo di Philadelphia Chaput e il rinnovamento della Chiesa
La parola chiave dell’Anno della fede
PHILADELPHIA, 28. Rinnovamento, Chiesa, missione e fede. Sono queste le quattro parole che, secondo l’arcivescovo di Philadelphia, monsignor Charles Joseph Chaput, esigono maggiore attenzione nel contesto dell’Anno della fede. Il presule, durante un discorso tenuto nei giorni scorsi al Catholic Life Congress di Philadelphia, dal titolo: «Anno della fede: rinnovamento della Chiesa e della sua missione» ha sottolineato che «l’unica cosa che conta è essere santi. È ciò che dobbiamo essere. È ciò che dobbiamo diventare».
In merito alla parola “rinnovamento”, l’arcivescovo Chaput ha ricordato che «nel corso del tempo, anche il matrimonio più saldo può logorarsi per difficoltà e fatiche. Le coppie rinnovano le promesse matrimoniali per ravvivare e rafforzare il reciproco amore. La storia della
Chiesa è molto simile: quante volte è accaduto che la vita della Chiesa
sia divenuta routine; poi un ripensamento, e ancora stagnazione e cinismo, o peggio. Per il cambiamento, Dio ci dona santi come Bernardo di Chiaravalle, Francesco di Assisi, Teresa d’Avila e Caterina da Siena, per ripulire il cuore della Chiesa; in altre parole, per ringiovanirla. I santi riaccendono il “fuoco sulla terra” (Luca, 12, 49), perché così Gesù ha voluto che siano tutti i suoi discepoli. Ai nostri giorni — ha proseguito il presule — possiamo vedere questo
stesso agire dello Spirito Santo nel cammino neo-catecumenale, nel movimento di vita cristiana, nel Walking with Purpose, nella Fellowship of Catholic University Students e in tante altre forme apostoliche. Questi nuovi movimenti ecclesiali rappresentano un momento di grazia molto importante per la Chiesa, compresa la Chiesa in Philadelphia».
Secondo l’arcivescovo, non bisogna avere paura, perché questo è esattamente il modo in cui cominciarono i francescani e altri ordini religiosi. «Dobbiamo accogliere cordialmente lo zelo che sta dietro a questi nuovi carismi, anche quando li mettiamo alla prova. La Chiesa ha sempre bisogno di cambiamento e riforma, ma cambiamento e riforma che siano fedeli a Gesù Cristo e al magistero cattolico. L’autentico rinnovamento è organico, non distruttivo».
L’arcivescovo, inoltre, ha analizzato la seconda parola: “Chiesa”.
«La Chiesa — ha detto — non è un “che cosa” ma un “chi”. La Chiesa ha forme istituzionali poiché deve lavorare nelle strutture legali e materiali del mondo. Ma la Chiesa è
essenzialmente madre e maestra, guida e consolatrice, famiglia e comunità di fede. È così che dobbiamo pensarla. E la Chiesa è la “Sua” Chiesa, la sposa di Gesù Cristo,
non la “nostra” Chiesa nel senso di possederla o di avere autorità per riscrivere i suoi insegnamenti».
Monsignor Chaput ha focalizzato l’attenzione sul grande vescovo del terzo secolo, san Cipriano, il quale scriveva: «Non puoi avere Dio per Padre se non hai la Chiesa per madre». «Dobbiamo appartenere alla Chiesa da figli e figlie. La Chiesa — ha aggiunto l’arcivescovo — deve vivere nei nostri cuori come ci vive la nostra famiglia, e radunarci la domenica per amarci e sostenerci a vicenda come famiglia, per lodare il Padre e per condividere il cibo che ci è donato nel Figlio. La liturgia festiva deve essere viva e piena di fede, celebrata con convinzione e gioia. La Chiesa di mattoni sarebbe un guscio vuoto se dentro le sue mura non si ardesse di zelo per Dio e per la salvezza gli uni degli altri».
La terza parola è “missione”. «La nostra missione, il nostro fine e impegno di discepoli di Cristo, è semplice: “Fate discepoli tutti i popoli” (Ma t t e o , 28, 19). Gesù voleva dire esattamente quello che ha detto, e quelle parole del Vangelo valgono per tutti, compresi io e voi. Dobbiamo portare Gesù Cristo a tutto il mondo e tutto il mondo a Gesù Cristo. La nostra missione — ha sottolineato il presule — discende direttamente dalla vita intima della Trinità. Dio Padre ha inviato il suo Figlio, il Figlio invia la sua Chiesa, e la Chiesa invia noi. Ovviamente, non possiamo convertire il mondo da soli. Non siamo chiamati al successo, che spetta solo a Dio. A noi
spetta di provare, di lavorare insieme e di sostenerci a vicenda da credenti e sempre chiedendo l’aiuto di Dio. Dio ascolta. Il resto è compito suo, ma noi dobbiamo provare.
Dobbiamo fare ben più che conservare vecchie strutture, dobbiamo essere missionari».
Infine, l’arcivescovo di Philadelphia ha spiegato il significato autentico della parola “fede”. «La fede non è un’emozione. Non è una serie di dottrine o concetti, benché queste giochino un ruolo importante nella vita di fede. La fede è fiducia nelle realtà invisibili basata sulla parola di qualcuno che conosciamo e amiamo, in questo caso Dio. La fede è dono di Dio. Lui sceglie noi.
Possiamo certamente chiedere il dono della fede, e quando ci è data, possiamo scegliere liberamente se accoglierla o no. Ma l’iniziativa è di Dio, e solo un incontro vivo e un rapporto vivo con Gesù Cristo rende la fede sostenibile. La fede — ha concluso — apre i nostri occhi sull’autentica realtà di Dio. Guardando con occhi nuovi, abbiamo ragione di sperare. E la speranza attiva la carità, facendoci superare la paura per vedere al di là di noi stessi le sofferenze e i bisogni degli altri. Si forma la storia e si promuove la vita, credendo in qualcosa più
importante di noi stessi. Così, la fede è la pietra d’angolo della vita cristiana, perché ci dilata, ci anima, è sempre all’opera. Se non è condivisa, muore. Ci conduce oltre noi stessi e ci fa rischiare»
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