Tuesday, April 11, 2017

Summa Contra Gentiles Book II Incipit


トマス・アクィナス

『カトリック信仰の真理について 不信仰者の誤謬を論駁する書』

(『対異教徒大全』)

 

2巻 序 論(第1-5章)



フォームの終わり


                     第二巻

1

1巻と第2巻の連続性

  1.        

わたしはあなたのなさったこと(operibus)をひとつひとつ思い返し/御手の業(factis)を思いめぐらします。」『詩篇』1435節。[1]

  1.  

どんな事物であってもそれの完全な認識はそれの働き(operatio[2]が認識されなければ得られ得ない。実際、働きの様態と種とから、能力(virtus)の尺度と質とは量られ、能力は事物の本性を示すのである。というのも、それぞれのものは現実的に一定の本性を得ていることに即して、働きをなすものだからである。[3]

  1.  

ところで、哲学者〈アリストテレス〉が『形而上学』第9(1050a23-b2)で教えているように、事物の働きには二種がある。一つは働くもののうちにとどまり、働くもの自身の完全性であるようなものである。たとえば、感覚する働き、知性認識する働き、意志する働きがそうである。それに対してもう一つは、外的事物に移ってゆき、その働きによって作り上げられたものにとっての完全性であるような働きである。たとえば、熱くする働き、切る働き、建築する働きなどがそうである。

  1.  

さて、今述べた二つの働きのいずれもが神に適合している。第一の働きは神が知性認識し、意志し、愛することにおいて適合し、第二の働きは事物を存在へと産出し保存し支配することにおいて適合しているのである。しかし、第一の働きは働く者の完全性であり、第二の働きは作られたものの完全性である。そして、作用者は作られたものよりも本性上先なるものであるし、それの原因である。したがって、前述のうちの第一の働きが第二の働きの根拠であり、原因が結果に先立つように[4]、本性上第二の働きに先立っている。このことは人間的事象において明らかである。つまり、技術者の考察と意志とが建設の働きの原理であり根拠なのである。

  1.  

したがって、上述のうちの第一の働きが、働くものの端的な完全性として、「働き(operatio)」、または「活動(actio)」という名称を得ることになる。それに対して第二の働きは、作られたものの完全性であることによって、「制作(factio)」という名称を受けることになる。だから、この種の作用を通じて技術者から存在へと進み出る(procedunt[5]ようなものは手工物(しゅこうぶつ)と呼ばれるのである。

  1.  

さて、神の第一の種類の働きについては、われわれは神的認識と意志が論じられた前巻においてすでに述べた。そこで今、神的真理の十全な考察[6]のために残されていることは、第二の働き、すなわち事物を産出し支配する神の働きを論じることである。

  1.  

そしてこれを論じる順序を冒頭の聖句から知ることができる。というのは、「わたしはあなたのなさったことをひとつひとつ思い返し」と述べられており、第一の種類の働きの省察が先に置かれている。それに対して、次に「御手の業を思いめぐらします」と語られたときに制作についての省察について述べられているのである。つまり、神の手によって作られたものとは天と地、そして技術者から手工品がでてくるのと同じように、神から存在へと出て来たすべてのもののことであると、われわれは理解しているのである。


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2

被造物についての考察は信仰の教示に有益であること

  1.  

さて、このような神の作ったものについての省察は神についての人間の信仰を教示するのに必要である。

  1.  

というのは、第一には、作られたものについての省察からわれわれは神的知恵を何ほどか賛嘆し考察することができるからである。実際、技術知によって生じたことがらは、技術知の類似性へと作られたものとして、技術知そのものを表象するものだからである。ところで、神は自己の知恵によって諸事物を存在へと産出した。そのために『詩篇』10424節で「あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた」と言われているのである。それゆえ、作られたものの考察から神的知恵を取りまとめることができるのである。それは、作られた事物において散在して何らかの仕方で伝達されている神の類似性を通じて取りまとめるようなものなのである。実際、『集会の書〔シラ書〕』110節では「神は自己の業のすべての上にそれを」すなわち知恵を「押し広げている」[7]と語られているのである。だから、『詩篇』1396節で「その驚くべき知恵はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない」と語られている。また、続いて「夜も光が私わたしを照らし出す12節)云々と語られているときには、神的照明の助けのことが語られているのである。そして、神的業についての考察から神的知恵を認識するのに自分が助けられたことを告白しているのが、「御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている14節)と語る言葉なのである。

  1.  

第二には、この考察によって神の最高のちからへの賛嘆へと導かれ、それに続いて人間の心の中に神への崇敬が生み出されるからである。実際、制作者のちからは作られた事物によってより卓越した仕方で理解されなければならないのであって、だから『知恵の書』134節で「彼らは」すなわち哲学者たちは「それらのもの」すなわち天や星々や世界の元素の「力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ」と述べられているのである。また、『ローマ人への手紙』120節では「目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」と言われている。また、この神への賛嘆から畏れと尊崇がでてくる。だから、『エレミア書』1067節では「御名には大いなる力があります。諸国民の王なる主よ、あなたを恐れないものはありません」と語られているのである。

  1.  

第三には、この考察によって人間の魂は神的善性への愛へと高められる。実際、第1巻で示されているように(第2840章)、さまざまな被造物において個別的な仕方で配されている善性と完全性は、その全体が善性全体の源泉としての神において普遍的な仕方で一なるものとなっている。それゆえ、被造物の善性、美、甘美さが人間の精神を引きつけている。だとすれば、個々の被造物において見いだされる小川のような善性と比べるならば、泉であるような神自身の善性は、人間の魂を燃え立たせてその魂を全面的に自己の方へと引き寄せるのである。だから、『詩篇』925節で「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います」と語られるのである。また、他の箇所[『詩篇』369-10節]では人の子が「あなたの家」という被造物全体「に滴る恵みに潤い」、そして「あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり」とある。さらに、『知恵の書』131節ではある人々に反対して、「目に見えるよいもの」すなわち何らかの参与によって善である被造物から、「存在そのものである方を」、すなわち、第1巻で示されているように(38)、真に善なる、というより善性そのものである方を「知ることはできな〔かった〕」とあるのである。

  1.  

第四には、この考察は人間を神的完全性の何らかの類似性においてあるものとする。というのは、第1巻ですでに示されているように(第49章以下)、神は自己を認識することによって、自己のうちで他のすべてのものを直観している。それゆえ、キリスト教信仰によって人間が神について主要に教示を受け、神的啓示の光を通じて被造物の認識者となる時に、人間のうちには神的知恵の何らかの類似性が生じることになるのである。このゆえに、『コリント人への手紙二』318節で「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」とあるのである。

  1.  

以上から、キリスト教信仰の教示には被造物についての考察が含まれることが明らかなのである。だから、『集会の書』4215節で「わたしは今、主の業を思い浮かべ、わたしの見たことを詳しく語ろう。主の言葉によって御業はな〔る〕」と語られるのである。





3

被造物の本性の認識は神に関する誤謬を論破するために役立つこと

  1.  

また、被造物についての考察は真理の教示にとってだけではなく、誤謬を排除するのにも必要なのである。というのは、被造物に関する誤謬は、神についての真なる認識と背馳している限りにおいて、信仰の真理からの離反をもたらすことがあるからである。こういったことは多くの仕方で生じる。

  1.  

第一には、被造物の本性を知らない者どもは時として、他者によってしか存在し得ないものを第一原因であり神であると想定し、目に見えている被造物を越えたものが何もないとみなしてしまうという転倒に陥るということによる。たとえば、どんなものであっても物体を神であると評価した人々がいたのである。このような人々について『知恵の書』132節で、「火、息、すばやく動く空気、あるいは連なる星々、巨大な水、太陽や月を神々であると考えていた」と述べられているのである。

  1.  

第二には、神のみに属することをある種の被造物に帰属させることによる。このことは被造物に関する誤謬からも生じる。すなわち、或る事物の本性が受容しないようなことがその事物に帰属させられるのは、その本性が知られていないからでしかない。たとえば、三本足ということが人間に帰属させられる場合がそうである。ところで、神のみに属することを被造物の本性は受容しない。それは、人間だけに属することを他の事物の本性が受容しないのと同じことである。それゆえ、被造物の本性が知られていないことによって、前述の誤謬が生じるのである。このような誤謬に反対して、『知恵の書』1421節で「彼らは共有化されえない名前を木や石に与えた」と語られているのである。諸事物の創造、未来のことがらの認識、あるいは奇跡の働きを神以外の別の原因に帰している人々はこの誤謬に陥っているのである。

  1.  

第三には、被造物の本性が知られていないために、被造物に働きかける神的ちからから何らかのことが差し引かれてしまうということによる。このことは次のような人々において明らかである。すなわち、事物に二つの原理を設定してしまう人、事物が神的意志からではなく、神から本性の必然性によって発出していると主張する人、さらに、すべての事物あるいはある種の事物が神的摂理を免れているとする人、あるいは神的摂理が通常の道程をはずれて働き得るということを否定する人である。このようなことすべては神的権能を弱めるものなのである。このような人々に反対して、『ヨブ記』2217節で「彼らは万能である者が何もなすことができないかのうに見なした」と語られ、『知恵の書』1217節では「あなたがちからにおいて全きものであることを信じない者に、ちからを示される」とあるのである。

  1.  

第四。人間は信仰を通じて究極目的としての神へ導かれるのであるが、諸事物の本性を知らないことによって、したがって宇宙における秩序における自己の地位を知らないことによって、自分の方が上位にある何らかの被造物に自分は従属していると考えてしまうのである。たとえば、人間の意志を星辰の下においてしまう人々がそうである。このような人々に反対して『エレミア書』102節で「民が怖れている天のしるしを恐れるな」と語られているのである。また、天使を魂の創造者であるとみなす人々や、人間の魂が可死的であるとみなす人々もそうである。そして、これと同様のことによって人間の尊厳を弱めている人々も同じである。

  1.  

以上から、或る人々の見解が間違っていることが明らかである。すなわち、アウグスティヌスが『魂の起源について』で語っているように、神について正しい見解を持ってさえいれば、被造物についてどんな見解を持っているのかは信仰の真理に何の関係もないと語った人々の間違いである。実際、被造物に関する誤謬は神に関する間違った見解へと反響し、人間の精神を何か他の原因の下におくことことによって、信仰がそれに向かわせようとしている神からその精神を離反させることになるのである。

  1.  

だから、被造物について誤謬を犯す人々に聖書は不信仰者として罰を科しており、『詩篇』285節で「彼らは主の業を主の手の業において知性認識しなかったので、かれらを滅ぼし建てないようにしてください」とある。また、『知恵の書』221節では「かれらはこのことを考えたが間違った」とあり、その後に「聖なる魂の名誉を見分けなかった」とあるのである。





4

哲学者と神学者は被造物について別の仕方で考察すること

  1.  

さて、上述のことから明らかなことであるが、キリスト教信仰の教えが被造物に関する考察をするのは被造物のうちに神の何らかの類似性が反映していること、また被造物における誤謬が神的なものに関する誤謬を導き入れてしまうこと、このことの限りである。だから、前述の教えと人間的哲学とでは、被造物は別の特質のもとに主題とされることになる。というのは、人間的哲学は被造物を被造物である限りにおいて考察する。だからまた、諸事物の類が異なるのに応じて哲学の諸分野が見いだされることになるのである。それに対して、キリスト教信仰は被造物を被造物である限りにおいてではなく(たとえば火を火である限りにおいてではなく)、神的高貴さを表象し神そのものへと何らかの仕方で秩序づけられている限りにおいて考察するのである。実際、『集会の書』4216-17節では「主の業はその栄光に満ちている。主は聖者たちにも自分の驚くべきことのすべてを語らしめなかったのではないか」とあるのである。

  1.  

a)このために、被造物に関して哲学者と信仰者とは別のことを考察することにもなる。実際、哲学者は被造物にそれ固有の本性に即して適合していることがらを考察する。たとえば、火において上昇するということを考察するのである。それに対して、信仰者は被造物について神に関係づけられている限りにおいて適合することだけを考察する。たとえば、被造物が神によって創造されたこと、神に従属していることなどである。

b)だから、天の形状や運動の性質など、諸事物の多くの固有性を信仰の教えが等閑に付すとしても、それは不完全性に属することではないのである。実際、自然学者も同じように、線について幾何学者が考察するような特質を考察するのではなく、自然的物体の限界である限りにおいて線に生じていることだけを考察するのである。

  1.  

また、仮に哲学者と信仰者が被造物に関して何かを共通して考察する場合にも、別々の原理を通じて伝えられることになる。というのは、哲学者は議論を事物固有の諸原因から得てくる。それに対して、信仰者は第一原理から得てくるからである。たとえば、そのように神によって伝えられているから、あるいはこのことが神の栄光に資するから、あるいは神の権能は無限であるからということから得られてくるのである。

  1.  

だから、『申命記』46節で「これは民の前でのあなたがたの知恵であり理解である」とあるように、信仰は最も高度の原因を考察するものとして、最高の知恵そのものと語られねばならないのである。

  1.  

a)このために、人間的哲学は最高の知恵を原理的な知恵としてそれに仕えるのである。だから、時には人間的哲学の諸原理から神的知恵がでてくることにもなるのである。

b)というのも、哲学者たちにおいても、第一哲学というものがそれに与えられた課題を明らかにするために、すべての知識の証拠を用いるからである。

  1.  

a)そこからまた、その二つの教えが同じ秩序で議論を進めるのではないことになる。というのは、哲学の教えにおいては、それ自体としての被造物を考察しそれから神の認識へと達するものであるから、最初に考察されるのは被造物であり神は最後に考察されることになる。ところが、信仰の教えにおいては、被造物は神への秩序においてしか考察されない以上、最初に神についての考察があり、のちに被造物についての考察があることになるのである。

b)この意味で信仰の教えの方がより完全である。つまり、自己を認識することによって他者を直観している神の有する認識により類似しているからである。

c)以上から、この順序に従って、第1巻で神それ自体について語られたことに引き続いて、神に由来することがらへと進むことが残っていることになるのである。





5

論述の順序

  1.  

そこで、以下での議論の順序は次のようになるであろう。第一にわれわれは諸事物の存在の産出を論じる。第二に諸事物の区別について論じる。そして第三に、その産出され区別されている諸事物そのものの本性を、信仰の真理に属する限りにおいて論じることになろう。

 




 



[1] 聖書の引用は『新共同訳』(日本聖書協会)による。
[2] トマスは詩編のoperibusという語からoperatioを引き出し、factisは次章の外的働きにあてられる。「聖霊の力強い働きにより、すべてにいのちを与え、とうといものにし(“Spiritus Sancti operante virtute vivificas et sanctificas universa”)」(第三奉献文)参照。
[3] 「飛ぶこと」を無視しては、鳥というものは認識されえない。鳥は飛ぶ能力を持ち、飛ぶことは鳥の本性に属している。
[4] “In general, causality denotes the objective and real counterpart of the question and further questions raised by the detached, disinterested, and unrestricted desire to know” (Lonergan, Insight, 1997, p. 674).近代科学はアリストテレス的な因果関係を疑問にしたが、上記のロナーガンの定義で考えると現代にも通用できると思われる。「一般的に因果性とは、(何ものにも)執着しない、私心のない、無制限な知る欲求によって立てられた設問とさらなる設問に対応する客観的で現実的なものを意味する」。第一巻第81686参照。
[5] 三位一体論に使われるprocessio(発出)と同じ語源。
[6][6] Kretzman (1999, 9)が指摘するように、この「十全」(completam)は、神についての「完全(perfecta)な認識」(I,14,118およびI,30.278参照)と区別すべきである。考察すべき側面はすべて取り上げられるが、対象は完全に把握されるわけではない。
[7] Vulgataから直訳。新共同訳では、「主は、御自分を示すために、知恵を分け与え、こうして彼らは主を見るようになる」となっている。

Sunday, April 02, 2017

What, if anything, makes Japan unique? | The Japan Times

What, if anything, makes Japan unique? | The Japan Times: In February, American comedian Atsugiri Jason remarked on a Fuji TV talk show that one of the 'demerits' of being a foreign TV personality in Japan is that

Thursday, March 30, 2017

Detti

Nel suo motto episcopale, tratto dalla Regola pastorale di Gregorio Magno, si coglie la chiarezza di idee circa il suo ministero«Pro veritate adversa diligere et prospera formidando declinare – Per la Verità amare le avversità ed essere cauti e guardinghi di fronte al successo»

Wednesday, March 22, 2017

Contra missionarios ignorantes

A proposito della possibilità  degli istituti missionari di uscire dalla crisi.


Sembra impossibile che gli istituti missionari possano uscire dalla cattività babilonese in cui stati cacciati nel post concilio.

  1. perché è finita l'era coloniale e gli istituti missionari erano legati ai poteri coloniali.
  2. Il concilio Vaticano II ha dato una valutazione positiva delle religioni non cristiane, per cui la predicazione del Vangelo e il battesimo non sono più strettamente necessari per la salvezza.
  3. Il concetto di missione è stato allargato a tutti i battezzati, per cui non può più essere appannaggio esclusivo di nessuna entità ecclesiale.


Sed contra. San Guido Maria Conforti ha fondato un istituto missionario nel bel mezzo della epoca coloniale, era un vescovo diocesano e credeva nella assoluta necessità della predicazione e del battesimo in ordine alla salvezza.


Rispondo dicendo che San Guido non era uno sprovveduto ne' politicamente (vedi come ha trattato la Questione Romana), ne' culturalmente, ne in campo teologico.

La valutazione che il Conforti dava del fenomeno colonialista come si evince dagli scritti, era basata sul buon senso e su una sana ermeneutica biblica. Ora, i cosiddetti "post colonial studies" del nostro tempo si basano pochissimo sul buon senso e quasi per niente sul pensiero biblico. Ci sono ampi motivi per credere che il Conforti abbia fondato il suo istituto a ragion veduta e desta meraviglia che certi suoi figli si attardino da decenni a piangere sul latte versato. I cultori del pensiero postcoloniale non perdono occasione per screditare la chiesa cattolica, perfino i giapponesi. Il Giappone, nazione che in pochi definirebbero cristiana, è stato potenza coloniale di primo ordine. Questo fatto la direbbe lunga sul supposto legame tra fenomeno coloniale e religione cristiana. Purtroppo alcuni, per farsi vedere "politically correct" non prendono in considerazione i fatti. Se si vuole uscire dalla crisi ci vuole prima di tutto una sana conversione intellettuale (B. Lonergan).


Il Conforti era un provetto e impenitente tomista per cui non si sarebbe fatto turlupinare dalle fumisterie di un Karl Rahner, tanto meno da un Heidegger o da un Levinas. Chi vuole controllare veda come il Conforti ha trattato il problema del Modernismo. Se fosse vissuto nel nostro tempo io sono convinto che non avrebbe abbandonato la philosophia perennis e in campo teologico sarebbe più vicino a un Ratzinger che a Rahner. Per quanto riguarda il ruolo degli istituti missionari proporrebbe ai suoi figli la Evangelii nuntiandi, ma anche la Redemptoris missio e la Dominus Iesus. Purtroppo nel post concilio gli istituti missionari sembra che si siano alleati per boicottare il Magistero autentico e per seguire un "magistero parallelo" (vedi il "concilio parallelo" di cui ha parlato Benedetto XVI). Se si vuole uscire dalla crisi ci vuole una conversione oltre che intellettuale anche morale e religiosa. Il predicatore della casa pontificia ha detto in una predica che molte congregazioni religiose hanno speso denaro ed energie a non finire per far canonizzare i loro fondatori, ma quasi niente per santificare i membri dell'istituto. Sembra detto apposta per gli istituti missionari italiani. Povero San Guido, dopo che lo hanno fatto fuori adesso gli fanno il monumento. Guai a voi direbbe Matteo al capitolo 23.


Il precursore delle missioni moderne (e anche del concilio a mio parere) è stato Matteo Ricci. Difficile pensare che potesse essere un gruppo di laici come nel caso della Corea, che appunto hanno usato le opere del Ricci. Oppure una conferenza episcopale. Ci vuole una vocazione particolare come quella della Regina apostolorum, o dell' apostolo delle genti, o di un Saverio, che sicuramente non ha fatto un Capitolo o una assemblea, o un incontro comunitario, per vedere se accettare la propria vocazione o per decidere cosa dire agli ateniesi o ai tessalocinesi.


Chi è che ha il coraggio di sostenere che Matteo Ricci era la longa manus dei poteri coloniali? Solo un ignorante abissale. Certo anche lui come il Saverio hanno viaggiato sulle navi portoghesi, ma possibile che non si riesca a fare delle semplicissime distinzioni? Basterebbe leggere le lettere. E allora perché le opere del Ricci non entrano nel curriculum di formazione dei missionari e nella biblioteca di certe case saveriane non ci sono per niente, neanche in una traduzione recente? Ai posteri l'ardua sentenza!Possibile che non ci sia vita dopo Rahner? Qualcuno si lamentava perché non voleva morire democristiano. Che i Saveriani siano condannati a morire rahneriani? Ci sarà ancora fede quando il Signore ritornerà a giudicare il mondo? 






Sunday, March 19, 2017

Immutabilità di Dio

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https://www.youtube.com/watch?v=FqEnlK_CKEc


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Industriae ad curandos animae morbos

Si chiama Accorgimenti per curare le malattie dellanima ed è la traduzione italiana di un libro (edito da San Paolo) del terzo superiore dei gesuiti, padre Claudio Acquaviva (1543-1615), il dono natalizio di Papa Francesco alla Curia romana. Tre mesi fa è uscita unedizione molto buona, in italiano, fatta dal padre Giuliano Raffo, morto recentemente”, ha detto il Papa al termine del suo discorso odierno in occasione della presentazione degli auguri natalizi, citando il titolo originale, in latino,  Industriae pro superioribus eiusdem Societatis: Ad curandos Animae morbos. La traduzione è bellissima, ben fatta, e credo che possa aiutare, e come dono di Natale mi piacerebbe offrirla a ognuno di voi”, ha aggiunto, prima di salutare uno a uno i membri della Curia e consegnare loro il volume.

Monday, March 13, 2017

名言

"The fear of the Lord tends to take away all other fears...this is the secret of Christian courage and boldness." - Sinclair Ferguson

名言

"People who use kindness as a means to an end are often mean in the end." - Andy Stanley

Monday, March 06, 2017

星の物質循環と生物の細胞

http://www.geocities.jp/jirikidekenkou/hosinozyunkan.html 


星の物質循環と生物の細胞


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ビッグバンで宇宙が誕生した時には、宇宙には水素とヘリウム、ごくわずかのリチウムとベリリウムしか元素は存在しませんでした

しかし現在、私たちの周りには、酸素や窒素、炭素や鉄といった様々な元素があります。


これら身の回りの元素、例えば生物の細胞に含まれる炭素、空気中の酸素はもちろんのこと、岩石やコンピューターのチップを構成するケイ素や、血液や機械の材料になる鉄などは、宇宙が生まれてから現在までの137億年間に星の中で作られたものです。
星の内部で形成された元素を宇宙空間に放出するのは、「数十億年前に起こった恒星の『爆発』」です。


比較的質量の小さな星(太陽くらい)の場合には、中心部で作られた炭素や酸素の一部は恒星内部の対流によって外側まで運ばれ、恒星風となって宇宙空間に流れ出し(爆発はしません)『惑星状星雲』となります。

それよりも重い星の場合は、『超新星爆発』によって大量の元素を高速で宇宙空間にまきちらします。

さらに、『非常に高温になる超新星爆発』の瞬間にはさまざまな元素合成反応が進み、金や銀といった鉄よりも重い元素が作られ、他の元素と一緒に宇宙空間に散らばります。


こうして宇宙空間にばらまかれた元素は、やがて周囲の星間物質と混ざり合い、次の世代の星の材料となります。
このようなプロセスを何度もたどることで、宇宙の中にいろいろな元素が少しずつ蓄積されていきます。
私たちの体を作る炭素や酸素、身近なところにある鉄や金や銀などすべての元素は、太陽系が生まれる前に宇宙に輝いていた星の中で作られたものなのです。




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大宇宙と小宇宙 - 星を研究する人

http://astro.hateblo.jp/entry/2016/03/24/190000

大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス

 

f:id:leon8:20160331221203j:plain

 

空に無限に広がる宇宙のことを「大宇宙(マクロコスモス)」というのに対して、人間のことを小宇宙(ミクロコスモス)と言います。

が、これはとても言い得て妙で、話を宇宙誕生まで広げますが、そもそも「ビッグ・バン」というものによってこの宇宙が誕生したときのことまで遡れば、人間もこの惑星も、宇宙を構成する要素の一部であり、もともとは同じだったと考えると、星と人間は無関係じゃないんだな、となんとなく納得させられます。

 

中学生か高校生だった頃か、人間の脳のシナプスの形が、宇宙の銀河の連なりと形が似ている!と気づいたとき、妙に興奮した記憶が。。笑

(宇宙の話は興味が尽きない話題なのでこれはまた別のときに。)

 

 

月が地球を1周する周期(ホロスコープの12サインを1周)が、女性の生理周期と同じだったり、細胞の生まれ変わりの周期が、天王星の1つのサインの異動年数と同じだったり、人間の個人の中に小さな宇宙があるように、個人も宇宙も繋がっているんだなぁと感じます。

人間以外にも、地球の自然現象としてのフラクタル*1も、大宇宙の中の、小さな要素の小宇宙の関係に似ていて、これまた興味深い。

 

ほんとにこの世界は、知らないことに満ちていて、それが実はすべて知っていることだったりする。本当に面白いと思う。

 



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Water






Balls


https://www.google.co.jp/search?q=balls+in+a+box&client=safari&hl=ja-jp&prmd=ivsn&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwiqkIzO7s3SAhVHWrwKHQEoA7sQ_AUIBygB&biw=768&bih=928

ガス ボンベ - Google 検索

https://www.google.co.jp/search?q=ガス+ボンベ&client=safari&hl=ja-jp&prmd=sinv&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjazc6TzMDSAhXFurwKHfM6DGYQ_AUICCgC&biw=768&bih=928


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Coffee

エントロピー - Wikipedia

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/エントロピー


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From Vatican Radio

ja.radiovaticana.va: http://ja.radiovaticana.va/news/1295945 

イエスの過ぎ越しは、イエスご自身の「出エジプト」であり、これを通してイエスは満ち満てる永遠の至福の命への道を開いたと教皇は述べつつ、この道を開くために、イエスがその栄光を脱ぎ捨て、十字架上の死に至るまでの謙遜と従順を示され、ご自分のすべてを犠牲にされたことを忘れないよう招かれた。

教皇は、わたしたちはイエスの犠牲のおかげで罪への隷属から救われたが、それは「イエスがすべてしてくださったので、自分たちはもう何もしなくてよい。イエスは十字架を経て過ぎ越されたが、わたしたちは馬車で天国に行こう」ということではないと注意。



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キリスト教の相対化

Evangelii gaudium

85 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>不毛な悲観主義に対する「いいえという返事」




85.熱意と大胆さを窒息させる最も深刻な誘惑のうちの一つは、文句の多い悲観主義者、また酢に漬けられたような顔の不快感に満ちた人にわたしたちを変える敗北の意識です。だれも最初から勝利を全く信じられないなら戦い始めることはできません。信頼することなく始める人は最初から半分戦いに負けており、そのタレントを地に埋めてしまいます。自分のもろさに関する痛みを伴う自覚があっても、敗北宣言をせずに前進し、主が聖パウロに告げた「わたしの恵みはあなたに充分である。なぜならわたしの強さは弱さのうちに示されるからだ」(Ⅱコリ129節)という言葉を思い出さなければなりません。キリスト者の勝利はいつでもひとつの十字架にあります。けれど同時に勝利の旗であり、悪との戦いを前に戦いに備えた温もりを伴う十字架なのです。敗北の悪い霊は、落ち着かず自己中心的な不信感の産物である、時が来る前に麦を毒麦から分けたがる誘惑の兄弟分です。


 Evangelii Gaudium(福音の喜び)』

Friday, March 03, 2017

Pope Francisさんのツイート

Pope Francis (@Pontifex)
Lent is a new beginning, a path leading to the certain goal of Easter, Christ's victory over death.

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Papa Francescoさんのツイート

Papa Francesco (@Pontifex_it)
La Quaresima è un nuovo inizio, una strada che conduce a una meta sicura: la Pasqua di Risurrezione, la vittoria di Cristo sulla morte.

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Thursday, March 02, 2017

教皇フランシスコ(邦訳)さんのツイート

教皇フランシスコ(邦訳) (@chuokyo_pope)
四旬節は新たな始まりです。死に打ち勝つキリストの勝利、復活祭という確かなゴールへと続く道なのです RT @Pontifex Lent is a new beginning, a path leading to the certain goal of Easter, Christ…

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Saturday, January 28, 2017

Una bolgia dantesca

Ho letto:

Antonio Amorosi, Coop connection, Chiarelettere, 2016


L'impressione è quella di attraversare una montagna di rifiuti puzzolenti. Mi chiedo: come si fa a non contaminarsi in mezzo a tanta corruzione? Viene da chiedersi: perché gli esseri umani odiano così tanto i propri simili? Chi ci salverà da tanta cattiveria?

Fortunatamente nell' ultima pagina (288)l'autore cita il Convivio di Dante. Il che mi ha messo la pulce nell orecchio e così ho cercato su Google "Dante-Italia-corruzione" e sono arrivato al documento che ti allego (se ci riesco, se no te lo spedisco a parte).


Le mie riflessioni personali sono le seguenti:


  1. come dice la Bibbia non c'è niente di nuovo sotto il sole. Se anche ai tempi di Dante (più di 700 anni fa) c'era lo stesso tipo di corruzione, vuol dire che il problema è antropologico. Ogni epoca ha la sua parte di corruzione con cui deve fare i conti.
  2. Dante dice che la porta dell Inferno può essere in qualsiasi punto della terra e che ogni uomo può diventare l'occasione per entrarvi. Fuor di metafora, gli uomini sanno creare, se vogliono, un perfetto inferno qui sulla terra. E che non è per niente difficile caderci dentro.
  3. Se uno non vuole cadere in questo inferno è meglio pregare ogni giorno per avere la grazia di non farsi contaminare da tanta feccia. 


http://www.upcf.it/prosa/prose/2014%20-%20Alberto%20Fiore%20-%20Dante%20e%20la%20corruzione.pdf

Wednesday, January 18, 2017

Method 210

Method 210



  • アウグスト・ベック 『言語学的諸科学の百科全書および方法論』Enzyklopädie und Methodologie der philologischen Wissenschaften1877年)安酸敏真訳, アウグスト・ベーク『解釈学と批判―古典文献学の精髄』2014

歴史主義の危機 /
Rekishi shugi no kiki
著者: K.ホイシー ; 佐伯守訳 = Die krisis des historismus / K. Heussi. 佐伯守, ; Karl Heussi; Mamoru Saeki 
出版: イザラ書房, Tōkyō : Izara Shobō, Shōwa 46 [1974]

Saturday, December 31, 2016

タゴール

     赤ちゃんは、神がまだ、私たちに絶望していない、
     というメッセージを持って生まれてくる…。

「すべての嬰児は
 神がまだ人間に絶望してはいない
 というメッセージをたずさえて生れて来る」

Saturday, December 10, 2016

Male

Il male è come un particolare brutto in un’opera. E anche dipende dal fatto che noi vediamo la vita come un mosaico da una distanza troppo ravvicinata, ci sfugge l’intero disegno. Che solo Dio può vedere, e dunque patiamo questo limite. Il mondo è come un’opera d’arte, secondo quanto suggerito dal Libro della Sapienza: “Omnia in numero, mensura,  pondere disposuisti”