Sunday, May 21, 2023

“聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー:教皇フランシスコの教皇職の最新の方向性 2023年5月12日”


聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー:教皇フランシスコの教皇職の最新の方向性 2023512


    彼らは、教理もなく、教義もなく、信仰もない教会を提唱しており、そこではもはや何かを教える権威は必要ありません。すべては『愛と奉仕』の精神に溶解しているのですが、それが何を意味するのか、どこに至るのか、よく分からないままです。

    教会は、矮小化された超自然的ではない「福音」を提示するだけに還元され、人類がもはや回心する必要がないと提示するのです。

    残念なことですが、エクレジア・デイのこれらの団体のメンバーは、トリエント典礼を捧げることを望む他の多くの司祭と同様に、教会生活における現在の出来事に直面して沈黙し、恐怖の中に生きています。この状況は、典礼の領域と教理の領域との間に永久に続く二項対立を引き起こし、そのことが、司祭たちを永久に続く欺瞞の中に生きさせ、信仰告白の必要に直面したときに、彼らを救いようのないほど麻痺させるという危険性があります。


Interview with the Superior General of the Priestly Society of Saint Pius X


聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー


2023512

FSSPX.NEWSサイト


教皇フランシスコの教皇職の最新の方向性


202355日の聖ピオ五世の祝日にFSSPX.NEWSがメンツィンゲンで行ったインタビュー


【問い(FSSPX.NEWS)】総長様、教皇フランシスコは先日、教皇在位10年を迎えました。ここ数年で最も重要なポイントは何だとお考えですか?


【ダヴィデ・パリャラーニ神父】教皇の二つの中心的かつ革新的な思想、つまり「普遍的な恩赦」【全てをゆるす】と理解されるあわれみと、地球を「全人類の共通の家」として尊重することに基礎を置く新しい道徳、この二つの思想に続いて、近年ではシノダリティーという思想によって特徴づけられていることは否定できません。シノダリティーは決して新しい思想ではありません(注1)が、教皇フランシスコはこれを自らの教皇職の優先軸に据えました。


シノダリティーとは、成熟し完成した近代主義の真髄を表しているにもかかわらず、この思想があまりにもどこかしこにも遍在しているため、多くの人は、時に、これに関心を失っています。教会学的な観点から見ると、シノドス革命は、教会の位階構造、機能、そして何よりも信仰の教えにおいて、教会に衝撃を与えるとともに、教会を深く変容させるものだと考えられます。


(注1)第二バチカン公会議直後から始まったシノドス運動だが、それ以来、千回以上の教区シノドスが開催されており、その際、信者が頻繁に参加していた。このことは、まったく革新的なことである。

教皇フランシスコは、教皇就任当初からシノダリティーという概念の要素を明確にした。第一に、「信仰の感覚」(sensus fidei)および、民衆の敬虔さを啓示の源として解釈することを通して(使徒的勧告「福音の喜び」[Evangelii gaudium119-120番参照)、次に、「司教シノドス設立50周年記念講演」(20151017日)において、より率直にシノダリティーの問題を述べることによって、明示していたからである。これに基づいて、国際神学委員会は、「教会の生活と使命におけるシノダリティー」(2018年)という概念を具体的にするテキストを作成し、今日私たちが動いているのを目にしているプロセスを理論化した。

このように、シノダリティーに関するシノドスは、公会議以来広く実験されてきた概念を教会全体の規模で実践的に適用したものとして現れている。この概念は、現教皇在位期間を通じて、提示され、神学的に探求されてきた。


【問い】なぜ、人々はこのシノダリティーに疲れてしまったのでしょうか?


【パラリャーニ神父】考えられるのは、シノダリティーが過度にドイツ語圏の問題として認識されてきたこと、あるいは、おそらく、すべての物事を誇張せずに言えば、シノダリティーは基本的にはベルギーの問題であって、その普遍的な次元が時間の経過とともに失われてきた可能性があることです。ドイツ人たちがこのシノドスのプロセスで特別な役割を果たしたことは確かですが、この問題自体はローマの問題であり、したがって普遍的なものであり、そのため、カトリック教会全体に関わるものなのです。


【問い】このシノドスのプロセスをどのように定義なさいますか?


【パラリャーニ神父】第一に、このプロセスは、あらかじめ定義された教理というよりは、或る具体的な現実です。このプロセスは、混乱した手法であり、もっとよく言えば「一つの実践」(a praxis)です。あらゆる可能性を前もって知ることがないままに開始されたものです。具体的に言うならば、教会をひっくり返そうという断固とした願望です。教導教会は、もはや自らを天主からの啓示の管理者、守護者であるとみなしていません。そうではなく、教皇と共にいる司教団とみなしており、彼らが耳を傾けるのは、信者の声、特にあらゆる周辺部の声であり、つまり最も疎外された霊魂が提案するものに特に注意を払っているのです。それは、牧者が羊になり、羊が牧者になる教会なのです。


その根底にある思想は、天主がご自身を啓示なさるのは、位階階級によって守られている聖書や聖伝という伝統的な経路を通じてではなく、「天主の民の体験」を通じてである、というものです。このため、シノドスのプロセスは、世界中の全教区の信者による話し合いから始まりました。このデータに基づいて、司教協議会のレベルで要約が作成され、数カ月前に最初のローマのまとめ(synthesis)が発表されました。


【問い】天主がご自身を啓示され、天主の民の体験を通じて御旨を周知させられるという思想は、どのような意味を持つのでしょうか?


【パラリャーニ神父】この思想は、近代主義という建築物全体の基盤そのものです。聖ピオ十世は、回勅「パッシェンディ」(Pascendi)全体を、啓示に関するこの誤った思想を糾弾することで構築しています。もし、聖書と聖伝に言及する代わりに、信仰が、最初は個人的な体験に、そして共有されたときには共同体的な体験に還元されるとすれば、信仰の内容、ひいては教会の構造は、あらゆる種類の可能性のある進化に開かれてしまいます。定義によれば、体験とは、ある瞬間と、あるいはある期間と結びついています。体験とは、時間と歴史の中で起こる現実であり、したがって本質的に進化的なものです。それと同じように、私たち一人一人の人生の中にも運動があり、それゆえに進化していくものなのです。


このような信仰体験は、歴史のさまざまな瞬間の認識と必要性に応じて必然的に進化する運命にあり、新しい内容で常に「豊かに」され、同時に、もはや現代的でないものは脇に置かれます。このように、信仰は、むしろ、人類の歴史と同様に、常に新しくて変化する偶発的な出来事と結びついた、人間的な現実となるのです。長期的には、永遠のもの、超越的なもの、不変のものが残される余地はあまりありません。私たちがまだ、天主とカトリック教会について語るならば、この二つの現実は、体験が「ここで、今」(hic et nunc)感じられることを投影したものに終わってしまいます。この二つの用語【天主とカトリック教会】は、私たちの信仰の他のすべての教義的な要素とともに、その真の意味と範囲において取り返しのつかないほど変えられています。この二つの用語は、ぼんやりとしたこの世的で変化しやすいだけのものの中に、徐々に再吸収されていくのです。その用語の意味は、人類と、人類の持つ天主への経験とともに進化します。この思想は新しいものではありませんが、シノドスのプロセスは、その広さと深さの新たな最高点を表しているのです。


【問い】総長様が言われたこの「ローマのまとめ」について、どんなものかをお教えいただけますか。


【パラリャーニ神父】このローマのまとめは、202210月に発表された文書で、タイトルは「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」です。


これは、シノドスの旅の大陸段階で司教たちの内省のために、すなわち、それぞれの大陸で共に会う司教たちのために、作成された作業文書です(注2)。この文書は、信者の「信仰の感覚」(sensus fidei)を表現したものであり、司教たちはこれを「シノドス的な教会への回心の道筋を示すあかしであると認識する弟子の目で」祈りながら読み()「教会は()どのようにその福音宣教を刷新するか、()耳を傾けることから学びます。」(注3)したがって、この「信仰の感覚」の表現を前提として、司教たちは結果を導き出して最終決定を下すことが期待されているのです。


(注2)大陸のグループは七つに分かれている。南米と北米は別の存在であり、中東はアジアと別である。

(注3)「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」、13番。


さて、このテキストの内容とそこに含まれる提案は、最初から最後まで大惨事です。カトリックの信仰を表現したものとみなされ得るものは、実質的に何一つありません。それどころか、提案のほとんどは、教会がまったく新しい現実へと溶解していくことを提唱しています。信者の一部(そして特に現代では司祭の一部)が奇妙なことを言うのは理解できるかもしれませんが、バチカンのシノドス事務局が作成したまとめにそのような記述が残されたのは絶対にあり得ないことです。


【問い】このまとめの中で、特に危険だと思われる箇所はありますか?


【パラリャーニ神父】残念ながら、文章のほとんどが恐ろしいものです! しかし、特に二つだけ、この文書全体の意図、特に、カトリック教会の本質そのものを、シノドスのプロセスを通じて変えたいという願望を要約しているように思えるものがあります。第一に、権威に関連して、逆向きに機能する教会、教導教会がもはや何も教えることができないという教会を認めたいという明確な願望があります。「一人だけで行う運営を特権化するピラミッド型の権力を解体する教会的パラダイムとして、シノドス的組織モデルを構築することが重要です。教会における唯一の正当な権威は、主の模範に従った、愛と奉仕の権威でなければなりません」(注4)。


ここで私たちが疑問に思うのは、一つの異端があるのか、あるいは単に、私たちが表現することさえできない「無」があるのか、どちらだろうかということです。異端者とは、実際には、まだ何かを「信じて」おり、たとえその思想が歪んでいるとしても、まだ教会についての思想を持っているかもしれません。しかし、ここで私たちが扱っている教会の概念は、曖昧であるばかりでなく、現代の表現を用いれば「流動的」でもあるのです。ここで彼らは、教理もなく、教義もなく、信仰もない教会を提唱しており、そこではもはや何かを教える権威は必要ありません。すべてが「愛と奉仕」の精神に溶解しています。しかし、それが何を意味するのか、どこに至るのか、よく分からないままなのです。


(注4)同上、57番。


【問い】総長様は、特に気になる第二の箇所があるとも言われましたね?


【パリャラーニ神父】はい、あります。次の第二の文章は、全テキストの精神を要約していると同時に、教皇フランシスコの教皇職のこの数年の本当の感情を表しているように私には思えます。「世界は『出向いていく教会』を必要としています。それは、信者と非信者の間の分裂を断ち切り、人類に目を向け、教義や戦略以上のもの、救いの経験、人類と自然の叫びに応える『贈り物の一撃』を提供する教会です」(注5)。この短い文章には、最初に見る文章よりもはるかに深い意味と重要性があると私は確信しています。


(注5)同上、42


信者と信者でない人の区別を拒否することは、現在の文脈では論理的ですが、確かに狂っています。もはや信仰が本物の超自然の現実でなくなれば、信仰を守って宣教するはずの教会そのものが、その存在意義(raison d'être)と人間の中での使命とを変えることになります。


実際、もし信仰が他の経験の中の一つに過ぎないのであれば、どうして信仰がより良いものであるかのように描かれ、またなぜ信仰が普遍的に課されなければならないのでしょうか? 簡単に言えば、一つの感情・経験は、絶対的真理に一致することはあり得ません。その価値は、特定の意見の価値であり、これはもはや伝統的な言葉の意味での真理ではあり得ません。このことは、論理的には、信者と信者でない人の区別を拒否することになります。残っている唯一のものは、期待、意見、叫びを持つ人類であり、そのような人類は超自然のものを主張することはないのです。


このように、教会は人類に対して、もはや超越的な啓示の伝達とは言えない教えを提供することになります。教会は、矮小化された超自然的ではない「福音」を提示するだけに還元され、その時、福音は単なる内省と慰めの書にすぎず、区別なくすべての人に適応している本になりさがります。この観点から、「ラウダ―ト・シ」(Laudato si)が提案する新しい神学と新しい環境保護的な道徳は、人類がもはや回心する必要がないと提示するのです。またその神学と道徳においては、信者と信者でない人の区別はもはや存在していないことを私たちは理解します。


【問い】メディアでは、シノドスが同性婚に注意を払っていることが特に目立ちます。この問題をどのように捉えておられますか?


【パリャラーニ神父】この分野における世界的な圧力が、シノドスのプロセスにも影響を与えていることは否定できません。教会は、特に使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Lætitia)によってこれらの人々に扉が開かれた後、これらの人々の感情的な必要性に対して、さらに歓迎し、気配りをするよう求められています。これは、最も期待が高まっているテーマの一つです。私たちの受けた印象は、一方では、教会当局が、このようなカップルを祝福することはできないという原則を繰り返し(例えば、20213月の教理省の回答)、他方では、何度かこのようなカップルが祝福されている(役所で法律上の結婚をした後に祝福を受けるために教会に来るカップルもある)というものです。


数カ月前、フラマン語圏ベルギーの司教団は、これらのカップルを祝福する公式な儀式を発表したほどです。この新しい取り組みに対して、バチカンは今のところまだ反応を示していません。アントワープの司教によれば、教皇はこのことをご存じでしたが、ただなすがままにさせておくことにしたのだということです。同じように、ドイツの司教団は、この分野での大きな、そしてあからさまに革命的である前進を提案しています。このすべてのことが、司教や信者の一部による反発を引き起こすのは避けられません。しかし、他の多くの人々は、物事を受動的に観察することで満足しています。


こうして、この分野でも他の分野でも、弁証法的で混乱した状況が生まれ、その中で誰もが自然に、管轄当局からの宣言を待つだけになってしまっています。すると、この当局は、物事が早すぎると思われるときには自由にブレーキをかけますが、譲歩して物事を前に進め、少しずつ、さまざまな慣習や習慣の一部になるようにすることもできます。時には、教会の伝統的な教理が繰り返し述べられ、不変のものとして定義されることもあり、このことは保守派を安心させます。しかし、特定のケースの司牧上の必要性も同様に強調され、和解不可能なものを和解させるという「奇跡的」なあわれみが適用されます。現実には、伝統的な道徳原理や信仰は、このようにして選択可能な意見へと変容していくのです。これは、権威を行使する方法の特徴であり、もはや超越的な原則に導かれることなく、その時々の期待に対して敏感に反応を見せ、純粋に現実的な方法で評価された好機に従って、その期待を満たすことを決意するのです。


しかし、このようなことが、ある時点ですべて止まるというわけではないと理解することが重要です。このように権威を行使する方法は、現代の民主主義国家を支配しているのと同じメカニズムを使っています。今日認可され得なかったものが、明日、同じ弁証法によって、また新しい圧力と新しい前例によって、状況が十分に成熟し、心が十分に準備されたときに、認可されることになるのです。これが、シノダリティーが引き起こすメカニズムの簡単な説明であり、これが、私たちが近代主義の最も完成された例に直面していると言った理由です。


【問い】直近では、教皇フランシスコの教令は、トリエント・ミサを捧げることを望む新任司祭は、聖座の明示的な許可を得なければならないと再定義されました。さらに、小教区の教会で聖伝のミサを許可するためには、聖座の許可も必要であるとされています。これらの施策をどのように評価なさっていますか?


【パリャラーニ神父】経験豊かな専門家でなくても、聖伝のミサを廃止しようという明確な願望がここに見て取れると思います。20232月に発表されたこの教令も、20226月の使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio desideravi)も、聖伝のミサ典礼書の使用をできる限り制限し、さらにそれを使いたいと思う人を脅して挫かせようとするものです。このような状況下で、トリエント・ミサを捧げる許可を得るために聖座に働きかける勇気を持つ若い司祭がいるとは到底思えません。好むと好まざるとにかかわらず、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)以来、このミサは教会で事実上禁じられています。ロシュ枢機卿がつい最近私たちに思い出させたように、公会議によって「教会の神学は変化した」(注6)ため、その結果として典礼も変化したのです。なぜなら、典礼は教会の神学を表現したものであるからです。


(注6)ロシュ枢機卿はこう主張した。「教会の神学は変化しました。以前は、司祭が少し離れたところにいるすべての人々を代表していました。彼らは、ミサを捧げるこの人物だけを通して、いわばつながって(channnelled)いました。(しかし、今日では、)典礼を捧げるのは司祭だけでなく、洗礼を受けた人々も司祭とともにそうするのです。ですからそれは、非常に大きな声となるのです」(BBCラジオ4放送、2023319日)。


【問い】このような状況の中で、エクレジア・デイ団体のさまざまなメンバーは、不確実性と不安の瞬間を経験しているところです。もうすぐ、それに関する新しい教皇の文書が出されるかもしれないと私たちは聞いています。このことについて、何か語ることがおできになりますか?


【パリャラーニ神父】そのような文書については、私は何も知りません。しかし、私は、ダモクレスの剣が常に頭の上にぶら下がっているようでは、司祭は充実した司祭職を送ることはできないと思います。同じように、いつも単なる噂に常に気を取られていては、司祭は平穏な生活を送れません。司祭は、明日ミサを捧げるのを長上から許されるかどうかを気にせずに、ミサに忠実に生きなければなりません。


司祭は、自分が配る大いなる宝を、他の霊魂に与えることに関心を持つべきであり、自分からそれを奪われることを常に恐れて生きたり、自分が置かれている不安定な状況から逃れることができる奇跡を希望して生きなければならなかったりするべきではありません。私は、天主の御摂理がこのような状況を望んでおられるとは、まったくもって思っていません。


さらに、残念なことですが、エクレジア・デイのこれらの団体のメンバーは、トリエント典礼を捧げることを望む他の多くの司祭と同様に、教会生活における現在の出来事に直面して沈黙し、恐怖の中に生きています。悲しいかな、彼らは、今日教会で起こっていることについて懸念を表明し始めたその日に、ダモクレスの剣が自分たちに落ちてくる可能性があることを十分に承知しています。また、ロシュ枢機卿は、彼らにいつでもこのことを思い出させることができるように準備しています! 私は愛徳の心でこう言います。この状況は、典礼の領域と教理の領域との間に永久に続く二項対立を引き起こし、そのことが、司祭たちを永久に続く欺瞞の中に生きさせ、信仰告白の必要に直面したときに、彼らを救いようのないほど麻痺させるという危険性があります。そのため、今日、特にある国々では、シノドス運動という狂気に対する反発が、逆説的ではありますが、聖伝のミサ典礼書の使用を固守しないグループから多く出てきているのです。


【問い】聖ピオ十世会の将来を、どのように考えておられますか?


【パラリャーニ神父】簡単に言えば、聖ピオ十世会は、今まで当会が代表していたものと完全に連続していると私は考えています。聖ピオ十世会は教会の現状に関心を持たなければなりませんが、噂や、この枢機卿があの神学生に内緒で言ったこと、あるいは教会で起こり得るであろうこと、あるいは私たちに起こるかもしれないことに関心を持つことはありません私たちはそのすべてを超えて生きる必要があるのです。


カトリック教会の善のために、聖ピオ十世会は、聖伝の典礼を捧げる完全な自由を、司祭と信者に維持し、保証しなければなりません。同時に、聖ピオ十世会は、この同じ典礼に付随し、その典礼を支える聖伝のカトリック神学を保存していくのを確実にし続けなければなりません。今でもまだ明晰なカトリック信者は、この教理を放棄することはできません。ロシュ枢機卿の言葉を借りれば、公会議によって行われた教理の変更が、まさに新しいミサを作らせたのです! ミサとカトリック教理の両方を維持し、誤謬とそれを教える人々に対して挑戦する完全な自由を保持することは、私たちの義務です。結局のところ、典礼が定義により公的なものであるならば、それに付随する信仰告白も公的なものです。


今日、私たちはこれまで以上に、カトリック教会の聖伝の典礼が、道徳――私たちにはその原則を変える権利がありません――にも一致していることを、私たちは認識しなければなりません。私たちの宗教の中心に、全能の天主が十字架と真の犠牲とを植えられました。十字架なくして、この犠牲なくして、誰も救われることはあり得ません。偽りの愛と偽りのあわれみの感覚の名において、あらゆる種類の忌まわしいものを受け入れることによっては、誰も救われることはあり得ません。救う愛はただ一種類しかありません。なぜなら、清める真の愛はただ一つしかないからです。それは十字架の愛であり、天主の贖いの愛であり、私たちの主が私たちに示してくださり、私たちに伝えてくださった愛であり、主が「愛徳」と呼んでくださった愛です。しかし、この愛は、信仰なしには存在できず、また、それを教える人たちなしには存在できないのです。


iPadから送信

Tuesday, May 16, 2023

政治と神学

C.シュミットの著書。 1922年刊。このなかで彼は,近代国家におけるすべての重要概念は世俗化された神学概念にほかならないと主張し,しかしながら近代議会制民主主義は,奇跡すなわち例外状況を政治の世界から追放した結果,国家の非常事態たる例外状況の決断を不可能にしたと批判する。そして,神学上の神概念を世俗化させた主権者,すなわち例外状況における決断者の独裁という観念を持出し,マルクス主義の階級神話に対抗するために民族神話を独裁の根拠とするところにこの議論の特徴がある。これは,神学を母体として生み出されてきた近代政治理論が,神学を否定して合理的理論を展開しようとして処理しえなかった政治の非合理的性格を逆手にとった議論であるといえる。


iPadから送信

Forme politiche forme teologiche

Andrebbe anche ricordato che Schmitt ha sostenuto che tutte le forme politiche della modernità sono forme teologiche secolarizzate. Il punto è di fondamentale importanza, perché induce a valutare il nuovo totalitarismo come un fatto "teologico" o, se vogliamo, pseudo-religioso: come una religione dell'irreligione. E qui i giochi si fanno veramente duri. Il termine "pandemonio" presente nel titolo, credo alluda a questa confusione "diabolica" dell'attuale corso della storia che, senza una prospettiva di teologia della storia, diventa scarsamente comprensibile.


iPadから送信

Sunday, April 30, 2023

La verità

Gregorio Marañón: "El mérito de la verdad no está casi nunca en quien la dice, sino casi siempre en quien sabe escucharla".


iPadから送信

Saturday, April 01, 2023

Omelia

Festa di San Francesco Saverio ( Parma 3 dicembre '2022)
Omelia P. Fernando, SUP.GEN.

1. Nella Festa di San Francesco Saverio risuona a noi le stesse parole che chiamarono gli apostoli ad essere missionari, come a San Francesco "Andate in tutto il mondo e predicate il Vangelo". Il carisma missionario è al centro della nostra Vita, è parte della nostra Identità. Nell'oggi in cui viviamo nasce spontanea la DOMANDA.. "perché CONTINUARE ad annunciare il Vangelo ? Perché essere Missionari?
2. Guardiamo al Giappone : un paese moderno , sviluppato, ricco.. va avanti senza il vangelo, sembra che non ne abbia bisogno. .. Perché allora predicare loro il Vangelo? 2/3 dell'umanità non conosce Gesù Cristo. Ritorniamo al nostro Mondo occidentale .. siamo difronte a grandi cambiamenti e le cose non sono più come prima: sembra non abbia più bisogno del Vangelo. Se andiamo al nostro mondo Saveriano, siamo forse spiazzati: c'è un elemento al quale dobbiamo fare attenzione: Forse ci rendiamo conto che c'è una certa perdita della nostra identità missionaria

3. Ci poniamo allora la stessa domanda
Perché essere missionari? Perché continuare a predicare il vangelo? Ebbene: La risposta la dà lo stesso Vangelo e la troviamo nella Vita di san Paolo : Semplicemente perché è la Missione di Dio…è la missione di Cristo" e in Paolo Guai a me se non predicassi il vangelo! (1Cor 9, 16).
Allora per crescere nel nostro Zelo missionario vorrei far presente DUE elementi portanti che vediamo nel nostro Patrono ma anche nella vita del n.s fondatore
a. Primo elemento portante che sta alla base: la nostra vita di fede. L'annuncio del Vangelo nasce, cresce e si sviluppa in una vita intensa di fede.. Non c'è spazio dell'essere missionario senza la fede. Nella vita tutta di San Francesco Saverio è sempre il suo SI! Totale a Dio: la sua disponibilità al progetto di Dio. Ignazio chiederà a Lui di andare e Lui dice il suo SI! E' questa vita di Fede che ci permette di andare avanti e di far crescere in noi la missione, di AMARE soprattutto quella vocazione, quella semente che lo Spirito ha seminato nei nostri cuori. Quando San Paolo parla della sua vita dice che la sua ricompensa è annunciare il vangelo"
b. "Non è infatti per me un vanto predicare il vangelo; è un dovere per me: guai a me se non predicassi il vangelo! 17Se lo faccio di mia iniziativa, ho diritto alla ricompensa; ma se non lo faccio di mia iniziativa, è un incarico che mi è stato affidato. 18Quale è dunque la mia ricompensa? Quella di predicare gratuitamente il vangelo senza usare del diritto conferitomi dal vangelo" (Cor). Purtroppo la nostra vita di fede è molto esposta alla superficialità dimenticando quello che noi siamo. La nostra lettera testamento ci fa presente la necessità di far crescere la vita di fede.

c. 2° Elemento di crescita. Guardare il mondo con gli occhi di Dio , Nel libro degli esercizi spirituali (2°settimana), Ignazio immagina Dio e Lo Spirito che dal Cielo si affacciano sul mondo vedono quello che succede, vedono che ha bisogno di un intervento.. "da solo non ce la farà mai " E decidono di mandare … il figlio. SGUARDO DI DIO SUL MONDO.. Il progetto di Dio sul mondo non si realizza senza un intervento di colui che Egli misteriosamente chiama: Dio continua a chiamare seminando nel suo cuore la chiamata a realizzare il regno. TI SENTI ANCORA CHIAMATO?

d. Guardando il mondo forse si è tentati al pessimismo, sembra che il male trionfi. Assolutamente NO! Anzi: Ci deve chiamare a sentire compassione vedendo tanta ingiustizia, tanta violenza. Il sentire dolore ci può portare all'azione a dire "ECCOMI". Se manca questo sguardo contemplativo sul mondo allora anche la nostra risposta sarà debole, forse superficiale. Se manca questa visione contemplativa allora si può arrivare ad avere idee, visione contenuti



diversi dal progetto di Dio … Non sguardo ideologico ma contemplativo. . Dobbiamo fare attenzione in questo noi non siamo politici. "Il missionario, se non è un contemplativo, non può annunziare il Cristo in modo credibile" (Redemptoris Missio, 91).

e. Ecco San Francesco Saverio anche se in un contesto deverso dal nostro , tipico di quel tempo, nelle sue lettere agli studenti della Sorbona aveva questa visione del mondo e della società : sguardo contemplativo.

f. Altra domanda che esige una nostra risposta Perché essere o continuare ad essere missionari Saveriani? Forse la risposta la troviamo nell'Inizio dell'enciclica "Evangeli gaudium" di papa Francesco " La gioia del Vangelo riempie il cuore e la vita intera di coloro che si incontrano con Gesù. Coloro che si lasciano salvare da Lui sono liberati dal peccato, dalla tristezza, dal vuoto interiore, dall'isolamento. Con Gesù Cristo sempre nasce e rinasce la gioia."

g. Ecco il mondo oggi ha bisogno di gioia, non vedere solo i lati negativi del mondo, delle persone, dei confratelli e questo sarà possibile solo se siamo testimoni. Il Testimone è uno che ha fatto esperienza della nostra Vocazione e della chiamata di Gesù… Se cadiamo nel peccato, siamo inviati a rialzarci . Anche se sentiamo gli effetti negativi del peccato ricordiamo sempre che siamo testimoni e solo i testimoni trasmettono i messaggi.

h. Abbiamo visto nella nostra vita come tante persone si sono avvicinate a Cristo per il nostro testimonio . Pensiamo ai martiri del Giappone .. tante persone si sono convertite al vedere questi martiri Paolo Miki e compagni andare al martirio gioiosi, cantando… e poi sono migliaia e migliaia che hanno dato la loro vita per il Vangelo.. Per San Paolo era una necessità annunciare il Vangelo. Non è un'obbligazione per Lui (Guai a me se non evangelizzo). annunciare Gesù. E perché questa fiamma ci alimenti, e ci spinga abbiamo bisogno di alimentare la nostra vita di fede. Dare costantemente la nostra vita al Signore. "Predicare il Vangelo" vuol dire più che tenere una predica missionaria, una conferenza in un ritiro spirituale o un'omelia la domenica, più che denunciare l'ingiustizia o insegnare alla gente a pregare. In effetti, la realtà va al di là d'ogni singola forma di attività pastorale. Chiediamoci Cosa vuol dire e perché è fondamentale per noi il fatto, , di essere "nei guai" se non "predichiamo il Vangelo"? (forse perché non si ha una vita di fede profonda.
i. La Preparazione al capitolo generale gira attorno a questo concetto "Amare la nostra Vocazione Saveriana- Missionaria …Abbiamo bisogno di questo: ricordiamo che .. quello che siamo lo siamo per Grazia di Dio. E' vero siamo poveri, il Signore sa di che cosa siamo fatti, però lui lo sa e ha messo nelle nostre mani questa responsabilità. Essere saveriano è una grazia e quando viene meno l'amore per ciò che siamo, abbiamo bisogno ancora di più della preghiera, anche nell'oscurità della Notte. Sappiamo che il Signore è fedele, e anche se io non lo sento e non lo vedo, lui è vicino a Noi … Abbiamo bisogno di alimentare lo zelo missionario, la disponibilità missionaria che hanno caratterizzato la vita di Francesco Saverio.
j. E poi anche partecipare attivamente in un modo o nell'altro, all'annuncio del Vangelo. Dico questo perché quando vengono meno le nostre forze fisiche dovrò dire "io mi ritiro" NO! L'amore al Vangelo lo portiamo fino all'ultimo sospiro. Non possiamo negare quello che siamo.. lo siamo per tutta la nostra vita.
k. Ricordiamo Il progetto di Dio lo si vede e e lo si vive là dove abitiamo nelle nostre comunità, la casa come spazio dove si vive il Vangelo .


iPadから送信

Tuesday, March 28, 2023

Matter and Spirit

A modern spiritual master, Teilhard de Chardin expressed it this way: "Matter is spirit moving slowly enough to be seen." Slowly enough? Why? Because Spirit is much, much faster! So fast, in fact, as to be invisible. This is atomic motion; it is so fast and so small that we cannot see it, but it is the foundation of reality.


iPadから送信

Sunday, March 26, 2023

Human Nature in Gaudium et Spes 22

 More to the point, the consideration of the divine economy requires a careful
thinking through of the particular theological states of human nature (1) in
dependence upon grace, (2) in secession from the life of grace, (3) in the
still wounded yet partially redeemed economy of Christian grace, (4) in the
eschaton and (5) in Christ himself. None of these states is simply reducible
to another, and yet it is necessary to affirm the existence of a persisting
human nature undergirding them all, albeit in different states.Were this not
the case, consider some inevitable theological consequences:(1) Concerning
original justice and the fall:we would be unable to consider man in the
state of original innocence as truly and essentially human or we would be
unable to consider the fallen human person as retaining his or her essentially
human characteristics (as still being made in the image of God,
despite the consequence of sin). (2) Concerning redemption:we would be
unable to consider the redeemed human person as essentially human in
continuity with the fallen human person and yet as more perfect qua human, that is to say, in the potencies of his or her nature. (3) Concerning
Christology: we would be unable to understand the incarnate Lord, in his
passion and resurrection, as bringing our human nature to an eschatalogical
fulfillment, distinct in mode, yet identical in kind to our current state
of being.Any understanding of Christ’s redemption thereby would appear
wholly alien (i.e., extrinsic) to our human historical condition (and the
reason for his redemption of our human nature from “sin”would be unintelligible
as well). Or contrastingly, we would be obliged to abolish all
distinction of nature and grace, thus seeing our human historical condition
as necessarily bound up with Christ such that human salvation in Christ simply
would be co-extensive with our “natural” existence (a not-so-subtle
version of apokatastasis panton ). Nature in separation from Christ would be literally inconceivable. Either of the final alternatives, however, is theologically
unfeasible and deeply unrealistic.

Monday, March 06, 2023

Consolatio sine causa

聖人には独特の喜びがあり、苦しみも越える。体の病気、敵からの迫害、教会からの迫害など、いろいろだが、人間的世間的でない喜び、「原因のない慰めconsolatio sine causa」(聖イグナチオ・デ・ロヨラ)がある。食べて喜び、人から拍手されてうれしいのには原因があるが、原因のない喜び、つまり神からの喜びと慰めがある。穴吊の刑を受けた長崎のマグダレナは、十三日間なかなか死なかった。しかし毎朝一つの手に慰められ、苦しみがなくなっていた。


iPadから送信

Tuesday, January 10, 2023

Sequeri

La benedizione della mano era il tocco leggero della dedizione del cuore. « Fecondità invisibile e inafferrabile – prosegue Francesco, citando 2 Tim 1, 12 – che nasce dal sapere in quali mani si è posta la fiducia». La dedizione, che mai si inorgoglisce del dono, rifiuta di requisirlo come privilegio personale e di convertirlo in prebenda clientelare. Una simile limpidezza interiore del cuore, unita al tratto di uno spirito gentile – commenta Francesco – espone alla stanchezza dell'intercessione, al logoramento dell'unzione: mette alla prova di una bontà che deve lottare con la malizia, e di una fraternità ferita dalla mancanza di dignità. La prova non fu risparmiata al Signore. Non verrà risparmiata ai suoi Discepoli. Pietro per primo. Il Signore provvede, generando la mitezza capace di capire, accogliere, sperare e affidarsi al di là delle incomprensioni.

E lo Spirito della ricerca appassionata e della gioiosa bellezza del Vangelo, ispira ogni volta la decisione opportuna, procura ogni volta la consolazione necessaria. Dovremo congedarci il più rapidamente possibile dall'aneddotica delle immagini di scena e delle indiscrezioni di retroscena. E incominciare a leggere e a rileggere il prodigioso lascito di testi nei quali il teologo Joseph Ratzinger ha finemente cesellato, in favore della fede e della testimonianza, la sapienza nella quale egli ha saputo filtrare come illuminazione e restituire in benedizione la sua lotta con l'Angelo. La profondità e la potenza della sua passione per l'intelligenza che orienta la fede ha occupato interamente anche il ministero del pontefice Benedetto XVI.


iPadから送信

Friday, January 06, 2023

Dopo Benedetto

la segnalazione di alcuni problemi nei rapporti tra la Chiesa e la modernità che Benedetto ha affrontato in modo da porre le basi per la loro soluzione, ma che non è riuscito a risolvere definitivamente. La partita non è stata completamente chiusa. Chiuderla non è compito dei laici ma del magistero. Secondo i tempi della provvidenza divina e nonostante periodi confusi come quello attuale, esso fornirà le necessarie precisazioni sulle questioni ancora aperte, come per esempio la libertà di religione, il dialogo interreligioso, il ruolo pubblico della religio vera, l'ordo missae ed altre ancora. Non spetta ai laici farlo. Il nostro Osservatorio ritiene comunque di dover continuare il proprio impegno nell'approfondimento e nella formazione affinché nella Chiesa si possa recuperare quando ancora manca e definire quanto è ancora inconcluso.


iPadから送信

Monday, January 02, 2023

Chapter 27

Life of Cardinal Newman,
Volumes 1 and 2
by Wilfrid Ward


iPadから送信

Sunday, January 01, 2023

Newman reader

Newman Reader — Works of John Henry Newman
Copyright © 2007 by The National Institute for Newman Studies. All rights reserved.


iPadから送信

John Henry Newman

And now, alas, I fear that in one sense the iron has entered into my soul. I mean that confidence in any superiors whatever never can blossom again within me. I never shall feel easy with them. I shall, I feel, always think they will be taking some advantage of me,—that at length their way will lie across mine, and that my efforts will be displeasing to them. I shall ever be suspicious that they or theirs have secret unkind thoughts of me, and that they deal with me with some arrière pensee. And, as it my happiness so to be placed as not to have much intercourse with them, therefore, while I hope ever loyally to fulfil their orders, it is my highest gain and most earnest request to them, that they would let me alone—and, since I do not want to initiate any new plan of any kind, that, if they can, {202} they would keep their hands off me. Whether or not they will consent to this is more than I can say, for they seem to wish to ostracise me. But, in saying this, I repeat what I said when I began to write, I am now in a state of quiescence, and fear as little as I hope. And I do not expect this state of mind to be reversed. God forbid I should liken them to the "Scribes and Pharisees"—but still I obey them, as Scribes and Pharisees were to be obeyed, as God's representatives, not from devotion to them.


iPadから送信

Tuesday, December 27, 2022

Multi faith

There is of course no such thing a "multi-faith". It is a cosmetic shibboleth designed to hide the predatory intentions of one kind of philosophical absolutism against another. It is a mechanism for undermining the distinctive and absolutist claims of non-relative religious movements so that they can be rendered increasingly irrelevant by an uncompromising secular rationalism.


iPadから送信

Sunday, December 18, 2022

Ti adoro mio Dio

"Mio Dio, ti amo con tutto il cuore", ma "Mio Dio, credo con tutto il cuore che tu mi ami".


iPadから送信

Saturday, December 17, 2022

Osservatore Romano 16 dic 2022

La seconda parola è umiltà, che viene dal latino, humus. Quindi, essere umili «è sentirsi come un campo ara- to, pronti ad accogliere i semi di bel- lezza e conoscenza che tutti mi posso- no donare». In questo senso, da un «bambino a un anziano, da una casa- linga a un filosofo, se torno ad essere terra, posso davvero imparare da chiunque». Cristicchi ha detto di ap- prezzare l'umiltà di «chi vive in di- sparte, di chi non insegue il consenso, e non vuole emergere a tutti i costi»: di quei "santi silenziosi", cioè dei per- fetti "signor nessuno", che «si occu- pano della loro piccolissima porzione di mondo, senza chiedere applausi o medaglie al valore». Perché, ha fatto notare, «è molto meglio un anonimo perbene, che un mediocre di succes- so»; l'umiltà dell'albero, che regala «l'ossigeno, i frutti, la legna, l'ombra, senza chiedere niente in cambio». E allora, essere umile significa dire "gra- zie", anche «a un albero qualsiasi».


iPadから送信

Saturday, December 10, 2022

Teologia Dantesca Osservatore Romano

di GABRIELLA M.
DI PAOLA DOLLORENZO
vanti alla Mente divina. Ciò è dimostrato dalla concretezza della loro opera. In Pier Damiani l'elogio dell'ascesi si accompagna all'invettiva contro la decadenza, ma anche alla riforma della Chiesa (fu consigliere di Niccolò II e Alessandro II). Benedetto si definisce: «e quel son io che su vi portai prima / lo nome di colui che 'terra addusse / la verità che tanto ci soblima» (XXII, 40- 42), quella evangelizzazione di terre ancora legate al culto di Apollo e la fondazione della Regola: «La regola mia / rimasa è per danno delle carte» (XXII, 74-75).
Tommaso e Bonventura, Pier Damiani e Benedetto definiscono le coordinate della teologia dantesca che è figlia dell'anelito ri- formatore del Medioevo (si pensi a Gioac- chino da Fiore), ma è assolutamente mo- derna per il ruolo assegnato all'umanesi- mo: «L'umanesimo di Dante (...) è basato sui principi, che la grazia non distrugge la natura, ma la risana e la corona, e che perso- na est nomen dignitatis. In Dante tutti i valori umani sono riconosciuti ed esaltati (...) mentre egli si sprofonda nel divino" (Paolo VI, Altissimi cantus, 7). Pertanto non stupisca che l'excessus mentis di Dante, davanti al trionfo di Cristo e della Vergine Maria, si verifichi dopo le invettive dei Santi: Arriva- to nell'ottavo Cielo, sotto la "sua" costella- zione dei Gemelli, chiede aiuto alle Stelle per affrontare il «passo forte» (XXII, 123). L'excessus è collegato al processo di forma- zione del fulmine: attraverso l'estrema ten- sionedell'espressivitàDantetoccaillimite della mente e dell'arte, avvalendosi di lumi- nose analogie. «Come foco di nube si dis- serra / per dilatarsi sì che non vi cape, e fuor di sua natura in giù s'atterra, / la mente mia(...) / fatta più grande, di sé stessa uscìo» (XXIIi, 40-44). Conseguentemente vede il trionfo di Cristo: «Quale ne' pleni- lunii sereni / Trivia ride tra le ninfe etterne / che dipingon lo ciel per tutti i seni, / vid'io sopra migliaia di lucerne / un sol che tutte quante l'accendea,/ (...) e per la viva luce trasparea / la lucente sustanza tanto chia- ra» (XXIII, 25-32) e insieme il Trionfo di Maria «il nome del bel fior ch'io sempre in- voco e mane e sera» (XXIII, 88), circondata dalla luce dell'Arcangelo Gabriele. La Ver- gine è la Rosa mystica, in cui fu incarnato il Verbo (Giovanni, I, 14); per Bernardo rosa... candida per virginitatem, rubicunda per charitatem. Per la liturgia i Sancti tui, Domine, florebunt sicut lilium et sicut odor balsami erunt ante te (Cantico dei Cantici, II, 1; VI, 3 Ecclesiaste XXXIX , 18-19; ii Corinzi II, 14-15). Essi cantano Regina coeli, l'antifona del periodo pasquale.
Nell'apoteosi del Cielo dei Gemelli si in- serisce il triangolo della santità evocato da Benedetto: «Pier cominciò sanz'oro e sa- n'argento, / e io (Benedetto) con orazione e con digiuno, / e Francesco umilmente il suo convento» (XXII, 88-90). Pietro sarà il protagonista dei canti successivi: «Quivi triunfa, sotto l'alto Filio / di Dio e di Ma- ria, di sua vittoria, e con l'antico e col novo concilio, / Colui che tien le chiavi di tal glo- ria» (XXIII, 136-139).
«A
Papa Francesco ci introducono all'intreccio dei significati teologici che connotano i canti XXI, XXII e XXIIi del Paradiso.
I Beni della Chiesa appartengono ai Po- veri, XXII, 82-83, poiché la povertà è nella genesi della Chiesa stessa, per volere di Cristo e del suo primo Vicario: Petrus autem dixit: Argentum et aurum non est mihi (Atti Ap. III, 6) Et ego dico tibi quia tu es Petrus, et super hanc pe- tram aedificabo ecclesiam meam (Matteo 16, 18). Dante è particolarmente sensibile alla que- stione della povertà delle Origini: «Venne Cefàs e venne il gran vasello / de lo Spirito Santo, magri e scalzi / prendendo il cibo da qualunque ostello» (XXI, 127-129), con esi- bito riferimento alle Scritture: Iesus dixit. Tu es Simon, filius Iona; tu vocaberis Cephas, quod in- terpretatur Petrus (Giovanni I, 42) e Vas electionis (Atti Apostoli. IX, 15 riferito a Paolo) e si inse- risce nel contesto teologico dei Cieli VI, VII e VIII, in cui si riconosce la progressione Aquila, segno dell'impero romano, simbo- lo del potere terreno — Croce di Cristo, ponte tra Cielo e Terra — Scala d'oro, sim- bolo biblico (Genesi, XVIII,12) proteso solo verso il Cielo, per indicare il graduale di- stacco di Dante dalla Terra, nell'avvicinarsi aDio:«dicolord'oroincheraggiotraluce / vid'io uno scaleo eretto in suso/, Tanto, che nol seguiva la mia luce xxi, 28-30 ; e no- stra scala (...) / onde così dal viso ti s'invo- la. / Infin là su la vide il patriarca/ Iacobbe porger la superna parte, quando li apparve d'angeli sì carca» (XXII, 68-72).
Nell'affrontare il tema quanto mai arduo della santità vissuta nell'ascesi e nel mistici- smo, Pier Damiani e Benedetto da Norcia, Dante approda all'archetipo della santità papale, «Colui che tien le chiavi di tal glo- ria» (XXIII, 139) Pietro e, indirettamente, la- scia trasparire il suo ideale di Prelato, uomo dedito alle pratiche ascetiche e alla sua mis- sione spirituale, sprezzante di onori e agi mondani. Dopo gli Spiriti militanti del cie- lo di Marte e gli Spiriti Giusti del cielo di Giove, occorre descrivere la santità "con- templativa" del cielo di Saturno, necessaria premessa al Trionfo di Cristo e della Vergi- ne Maria. Nella concezione dantesca la contemplazione/ascesi sono a un tempo premessa e guida all'attività apostolica e approdo estremo di una sofferta esperienza terrena, così Pier Damiani: «Lievemente passava caldi e geli / contento ne' pensier contemplativi» (XXI, 116-117). Ciò introdu- ce il Lettore all'esperienza dell'excessus men- tis: «S'io torni mai, lettore, a quel divoto / triunfo per lo quale io piango spesso / le mie peccata» (XXII, 106-108), fortemente legata alla spiritualità di Pier Damiani e Benedetto, in cui ascesi e misticismo porta- no il segno della razionalità teologica, non dell'annichilimento della mente umana da-


iPadから送信

Vita eterna

Alla presenza del Pontefice la seconda predica di Avvento La porta della speranza
Dopo la venuta di Gesù «per il credente la mor- te non è più un atterraggio, ma un decollo!». Il messaggio rivoluzionario di speranza portato da Cristo con la sua incarnazione è stato rilan- ciato stamane dal cardinale Raniero Cantala- messa durante la seconda predica di Avvento te- nuta nell'Aula Paolo VI alla presenza di Papa Francesco.
Il predicatore della Casa pontificia sta appro- fondendo quest'anno le virtù teologali, soffer- mandosi oggi sulla speranza. Per rendersi conto della novità assoluta recata da Cristo su questo tema — è stata la premessa del porporato cap- puccino — occorre «collocare la rivelazione evangelica sullo sfondo delle credenze antiche sull'aldilà», a proposito delle quali l'Antico Te- stamento non aveva risposte. Soltanto «verso la fine si ha qualche affermazione. Prima — ha chiarito — la credenza d'Israele non differiva da quella dei popoli vicini. La morte pone fine per sempre alla vita; si finisce tutti, buoni e cattivi, in una specie di "fossa comune"». Israele però si
«distingue» — ha aggiunto Cantalamessa — p er- ché «ha continuato a credere nella bontà e nel- l'amore del suo Dio» e verso la fine dell'Antico Testamento giunge a maturazione il convinci- mento che la «sopravvivenza consiste nella ri- surrezione — corpo e anima — dalla morte (Dan 12, 2-3; 2 Macc 7, 9)». Però è soprattutto con Ge- sù che questa certezza, «dopo averla annunciata in parabole e detti», si realizza nella sua perso- na. In proposito il cardinale cappuccino ha cita- to la regina d'Inghilterra Elisabetta II, che nel suo rito funebre ha voluto fosse proclamato il noto passo di Paolo ai Corinzi (1 Cor 15, 54-57), con la frase «Dov'è, o morte, il tuo pungiglio- ne?».
Il predicatore ha quindi osservato come man- chino «le categorie necessarie per rappresentar- ci in cosa consista» la vita eterna con Dio; men- tre ad «alcuni mistici è stato dato di sperimenta- re qualche goccia dell'oceano infinito di gioia che Dio tiene preparato per i suoi». Dopodiché, ha esortato alla riflessione sull'«oggi della no- stra vita». E in proposito ha individuato «una cosa comune a tutti»: ovvero «l'anelito a vivere "bene"». Per Cantalamessa, infatti, «vivere "sempre" non si oppone al vivere "bene". La
speranza della vita eterna è ciò che rende bella, o accettabile, anche» quella «presente. Tutti ab- biamo la nostra parte di croce. Ma una cosa è soffrire senza sapere a che scopo, e un'altra sof- frire sapendo che "le sofferenze del tempo pre- sente non sono paragonabili alla gloria futura" (Rom 8, 18)». Da qui l'esortazione a rendere ra- gione della speranza teologale, la quale ha an- che «un ruolo importante da svolgere nei con- fronti dell'evangelizzazione» e «nel cammino personale di santificazione» cristiana.
Riguardo al primo aspetto il cardinale ha pre- so spunto dalla constatazione che il «rapido dif- fondersi del cristianesimo» fu dovuto in origine all'annuncio «di una vita dopo la morte». Per tale motivo «oggi abbiamo bisogno di una rige- nerazione della speranza, se vogliamo intra- prendere una nuova evangelizzazione. Gli uo- mini vanno dove si respira aria di speranza e fuggono dove non» ne «avvertono la presen- za». Essa «dà il coraggio ai giovani di formarsi una famiglia o di seguire una vocazione religio-
sa e sacerdotale, li tiene lontani da cedi- menti alla disperazione». Con un van- taggio rispetto al passato: quello di non dover più difenderla «dagli attacchi esterni; possiamo quindi proclamarla, offrirla e irradiarla nel mondo», dopo che — ha detto a titolo di esempio — da oltre un secolo a questa parte essa è stata l'obiettivo della critica di gente come Feuerbach, Marx e Nietzsche. Ora, in- vece, «la situazione è cambiata» e la speranza non è più da giustificare «filo- soficamente e teologicamente», ma da annunciare, mostrare e donare «a un mondo che sprofonda in un pessimismo
e nichilismo che è il vero "buco nero" dell'uni- verso». Da qui l'invito a «riprendere il moto di speranza avviato dal concilio» Vaticano II, a «parlare di "gioia e speranza" (Gaudium et spes)» senza timore di sembrare ingenui.
In seconda battuta, inoltre, la speranza aiuta nel cammino personale di santificazione, ha detto ancora il predicatore, visto che «essa divie- ne il principio del progresso spirituale. Permette di scoprire nuove "possibilità di bene". Non la- scia che ci si adagi nella tiepidezza e nell'accidia. E anche quando la situazione dovesse diventare dura, tale da sembrare che non c'è nulla da fare, ecco che la speranza addita ancora un compito: sopportare non perdere la pazienza, unendoti a Cristo sulla croce». Di conseguenza, ha conclu- so, «il Natale può essere l'occasione per un sus- sulto di speranza» alla scuola di due grandi poe- ti delle virtù teologali: Charles Péguy, il quale ha descritto fede, speranza e carità come tre so- relle, due grandi e una piccina, di cui si pensa che sono le prime due a trascinare la terza, sba- gliando «perché se viene a mancare la speranza, tutto si ferma». E poi Dante Alighieri, il quale descrive Maria come «colei che quaggiù "intra i mortali", è "di speranza fontana vivace"».


iPadから送信

Tuesday, November 29, 2022

Homiletic and pastoral review

Living priestly obedience in a post-McCarrick Church is certainly not easy. Neither is learning obedience as seminarians in a polarized climate of distrust. Yet, such a situation is perhaps an important opportunity for a deepened understanding of priestly obedience. This study has demonstrated that priestly obedience in every era should be more than simply not breaking rules, not teaching heresy, and not turning down a priestly assignment from one's bishop. Priestly obedience is above all something positive: an orientation of one's entire self toward the Father, a robust participation in the interior freedom of Christ, an active building up of priestly fraternity. Obedience is an act of faith in Almighty God. As we contemplate leadership figures in the Church, we might question: "Why is this guy in charge?" or "Why is he so incompetent?" or "How will the Church ever regain any credibility?" An obedient priest or seminarian facing these questions finds his response in an act of faith. God is the one who chose to work through broken, sinful men. From the first twelve to the shepherds of today, the Church has stayed afloat and effectively evangelized not primarily because of the skills and virtues of men, but because of supernatural grace abundantly provided by God and accepted in obedience.


iPadから送信

Francesco ai Generali dei religiosity

In tale contesto, si deve vedere e forse rivedere anche il modo di esercitare il servizio dell'autorità. Infatti, è necessario vigilare sul pericolo che esso possa degenerare in forme autoritarie, a volte dispotiche, con abusi di coscienza o spirituali che sono terreno propizio anche per abusi sessuali, perché non si rispetta più la persona e i suoi diritti. E inoltre vi è il rischio che l'autorità venga esercitata come privilegio, per chi la detiene o per chi la sostiene, quindi anche come una forma di complicità tra le parti, affinché ognuno faccia quello che vuole, favorendo così paradossalmente una specie di anarchia, che tanto danno comporta per la comunità.

Auspico che il servizio dell'autorità venga esercitato sempre in stile sinodale, rispettando il diritto proprio e le mediazioni che esso prevede, per evitare sia l'autoritarismo, sia i privilegi, sia il "lasciar fare"; favorendo un clima di ascolto, di rispetto per l'altro, di dialogo, di partecipazione e di condivisione. I consacrati, con la loro testimonianza, possono apportare molto alla Chiesa in questo processo di sinodalità che stiamo vivendo. Purché voi siate i primi a viverla: a camminare insieme, ad ascoltarvi, a valorizzare la varietà dei doni, ad essere comunità accoglienti.

In questa prospettiva, rientrano anche i percorsi di valutazione di idoneità e attitudine, perché possa avvenire nel modo migliore un rinnovamento generazionale alla guida degli istituti. Senza improvvisazioni. Infatti, la comprensione dei problemi attuali, spesso inediti e complessi, comporta un'adeguata formazione, altrimenti non si sa bene dove andare e si "naviga a vista". Inoltre, una riorganizzazione o riconfigurazione dell'istituto va fatta sempre nella salvaguardia della comunione, per non ridurre tutto ad accorpamenti di circoscrizioni, che poi possono risultare non facilmente gestibili o motivo di contrasti. Al riguardo, è importante che i superiori stiano attenti a evitare che qualche persona non sia ben occupata, perché questo, oltre a danneggiare i soggetti, genera tensioni nella comunità.


iPadから送信

San Gregorio Magno citato da Alfonso de Liguori apparecchio

Dio per nostro bene ci nasconde l'ora della morte, ac- ciocché ci troviamo sempre apparecchiati».


iPadから送信

Wednesday, November 16, 2022

Wife in Japanese 2

Eiji Takano(高野 英二)
Lived in Japan (1942–1995)Author has 2K answers and 15.7M answer views4y
Related
What's the difference between 家内 and 妻 in Japanese?
私(わたし)の妻(つま)"watashi no tsuma" Equivalent to "my wife." Most formal and suitable expression in court or TV interview.

うちの奥(おく)さん "uchi no oku-san" Humorous and respectful. Not suitable for public speech.

うちの嫁(よめ)さん "uchi no yomé-san" 嫁(よめ)means "bride." This expression will be heard in honeymoon period of the couple.

うちのカミさん "uchi no kami-san" Ditto.

うちの家内(かない)"uchi no kanai" Standard expression in conversation with friends and coworkers. This is the sample of Japanese humbleness.

うちのかあちゃん "uchi no ka'a-chan" When we have children, husband and his wife call each other お父(とう)ちゃん "o-toh-chan" and お母(かあ)ちゃん "o-ka'a-chan" or "mama" and "papa" respectively because of training their children. うちのかあちゃん is an unpretentious expression for ordinary people.

うちの女房(にょうぼう)"uchi no nyohboh" This might be the opposite word of "my hubby" in English. No respect but friendly.

I'll add their counterpart expressions:

私(わたし)の夫(おっと)"watashi no otto" Equivalent to "my husband." Most formal. This is suitable expression in court or TV interview.

うちの旦那様(だんなさま) "uchi no dan'na-sama" Humorous and respectful. Not suitable for public speech. 旦那 originally means "boss" or "master," but it's just an informal expression of "my husband" here.

うちの旦那 "uchi no dan'na" Standard expression in conversation with friends and coworkers. Informal.

うちの亭主(ていしゅ)"uchi no téishu" equivalent to "my hubby" in English. No respect but friendly.

うちの宿六(やどろく)"uchi no yadoroku" An expression which has a feeling of disdain or ridicule. The origin of the word: A husband who behaves like a guest at an inn because he comes back home and goes to bed six days in a week. 宿 means "inn" and 六 means "six."


iPadから送信

Wife in Japanese

In Japanese, what is the difference between 家内、嫁、妻、奥さん、かみさん and other words meaning wife?


Timothy Powell
Knows Japanese4y
They all mean wife.

奥さん is a polite form and should only ever be used to refer to another's wife and not your own.

妻 is what I would say is the dictionary standard noun for wife. Most neutral and polite way to refer to your own wife, or to yourself being a wife.

家内 and カミさん more old fashion/colloquial.

家内 means literally "inside the house" as in that's where a wife should be, so not a very modern term. Interestingly, 奥 means a place deep inside a house, I.e. the kitchen in a traditional Japanese house.

嫁 can mean wife, or bride. It can be used in the phrase 嫁に行った "went to be a wife", and often describes a situation where the husband and wife live with the husband's parents.
1.1K viewsView upvotes

2
Eiji Takano(高野 英二)
Lived in Japan (1942–1995)Author has 2K answers and 15.7M answer views4y
Related
What's the difference between 家内 and 妻 in Japanese?


iPadから送信

Friday, November 11, 2022

Monday, November 07, 2022

Sunday, November 06, 2022

実態について

 実体(substantia)について  (第2巻第46章を参照)基体


(名称や外形に対する)正体。本体。実質。内容。「~がつかめない」「~のない理論」

〔哲学〕(ousia(ギリシア)・substantia(ラテン)・substance(イギリス))変化する諸性質の根底にある持続的な担い手と考えられるもの。それ自身によって存在するもの。世界ないし事物の実体は古来哲学の重要問題とされ、殊にギリシア哲学・スコラ哲学・デカルト・スピノザにおいて中心的役割を演じた。カントは実体を現象認識のためのカテゴリーに過ぎないと考えたが、現在では、実体ではなく関係を事物の根底に捉える考え方が盛んになっている。(広辞苑、第5版、1998年)

日本において、この哲学用語は使われ始めたのは明治時代、おそらく西周(にしあまね、1829年‐1897年)からであると思われる。飯田隆(いいだ・たかし)氏(「西洋近代音楽の受容との比較からみた近代日本哲学」、2014年、オンライン閲覧)によれば、「日本における哲学用語の成熟は、一般に漠然と思われているように第二次大戦前のことではなく、むしろ戦後の1960年代になってから」である。

---------

知的実体および分離実体

たとえば、テレビ、ラジオ、スマホに「緊急地震速報」が送られてきて、「直ちに避難してください」というメッセージが現れる。日本語の分かる人の場合はメッセージの意味内容は伝わり、理解され、その人の知性の中に特定の思いが存在し始める。

もし、不手際で韓国語で送られてきたら、こんなものでしょうか:「긴급 지진 속보를 대피하십시오.」。ハングル語の分から

ない人は意味内容は伝わらない、したがって特定な思いは存在し始めない。

存在するのと存在しないのとでは事情は全く異なります。死活問題になりうる。存在しない場合は、「実体のない」ものになり

ます。存在する場合、肝心なメッセージは伝わり、理解され、重要な行動にもつながる「実体的」ものになる。

物質的には音声や文字として耳や目に存在するが「知的」部分は存在しない。物質的部分と精神的部分はつながっているが、存在の観点から別々である。前者はあっても後者を伴わない場合がある。


Saturday, October 01, 2022

思弁か自己犠牲か

親愛なる読者よ、神に入るには二つの方法がある。一つは思弁によるもので、もう一つは...
自己犠牲の精神で、前者の方が潔いですが、後者の方が有益です。前者は自己満足が多く、後者は堅実さや安心感がある。1は、善意の人であっても、誰にでも見つかるものである。
もう一つは、善意あるすべての人に開かれていることです。この「本書の規則」は、むしろ前者よりも後者を教えている。したがって、しばしば魂の利益よりも耳を楽しませるような立派な演説がこの中に見当たらなくても、落胆してはならない。この言葉によって、キャンフィールドのベネディクトは、最近フランシスカン図書館版から再出版された霊性文学の非常に重要な例である『完全性の規則』を紹介している。
編集:マルコ・ヴァニーニ
ウィリアム・フィッチは、1562年にロンドンから北に50キロほど離れたリトル・キャンフィールドという村に生まれ、そこで暮らすことになった。


iPadから送信

Speculazione e abnegazione

MAURIZIO SCHOEPFLIN

«Amico Lettore, ci sono due vie per entrare in Dio: una attraverso la speculazione, l'altra at-

traverso l'abnegazione. La prima è più gradevole, ma l'altra è più profittevole. La prima ha molto di compiacimento, l'altra di solidità e sicurezza. La prima non è trovata da tutti, anche se dotati di buona volontà;

l'altra è aperta a tutti quelli che hanno buon desiderio. Questa presente Regola insegna piuttosto la seconda che la prima, e perciò non scoraggiarti se non ci trovi quei bei discorsi che spesso piacciono all'orecchio più di quanto rechino profitto all'anima, ma metti qui solo un desiderio buono, e troverai aperta la strada per il cielo». Con queste parole Benedetto da Canfield presenta la sua Regola di perfezione, esempio assai importante di letteratura spirituale ripubblicato di recente dalle Edizioni Biblioteca

Francescana a cura di Marco Vannini.

William Fitch nacque nel 1562 a Little Canfield, un villaggio a circa cinquanta chilometri a nord di Londra, dove andò a vivere


Avvenire

マウリツィオ・シェプフリン
"A
親愛なる読者よ、神に入るには二つの方法がある。一つは思弁によるもので、もう一つは...
自己犠牲の精神で、前者の方が潔いですが、後者の方が有益です。前者は自己満足が多く、後者は堅実さや安心感がある。1は、善意の人であっても、誰にでも見つかるものである。
もう一つは、善意あるすべての人に開かれていることです。この「本書の規則」は、むしろ前者よりも後者を教えている。したがって、しばしば魂の利益よりも耳を楽しませるような立派な演説がこの中に見当たらなくても、落胆してはならない。この言葉によって、キャンフィールドのベネディクトは、最近フランシスカン図書館版から再出版された霊性文学の非常に重要な例である『完全性の規則』を紹介している。
編集:マルコ・ヴァニーニ
ウィリアム・フィッチは、1562年にロンドンから北に50キロほど離れたリトル・キャンフィールドという村に生まれ、そこで暮らすことになった。

未来

DeepLで翻訳しました (https://www.deepl.com/app/?utm_source=ios&utm_medium=app&utm_campaign=share-translation


iPadから送信

Friday, September 23, 2022

Carmelo Boesso

Sono sempre restio a scrivere qualcosa di me, della mia vita…Non perché non ci sia niente da dire o sia deluso della mia esperienza missionaria saveriana. Al contrario, sono contento, felice della mia consacrazione, del mio sacerdozio, della mia missione, direi ogni giorno di più. E ti assicuro che non è una frase di circostanza, ma esperienza quotidiana di unione con Cristo che mi dà pace, forza, allegria qualunque cosa succeda..." (lettera a p. Giovanni Montesi, in occasione dei 25 anni di sacerdozio missionario. Guadalajara, Jalisco, Messico 17.09.1991).


iPhoneから送信

Saturday, September 03, 2022

Inflazione, retorica, inbonimento, dispute territorili e altre amenita'

Anormale aumento quantitativo accompagnato da un corrispondente deprezzamento qualitativo; incremento eccessivo, sproporzionato al reale bisogno


imbonitóre s. m. (f. -trice) [der. di imbonire]. – Venditore ambulante che con frasi d’effetto e decantando i pregi della propria merce cerca di attirare il pubblico e convincerlo a fare acquisti; anche lo strillone che, all’ingresso di locali di spettacolo, di baracche da fiera, ecc., alletta la gente ad entrare. Per estens., chi esalta le qualità inesistenti di qualche cosa o fa uso di parole sonanti per dare a intendere cose lontane dal vero.


euroretorica (euro-retorica), s. f. Slancio eccessivo e ridondante nei confronti delle questioni europee. 


movimento culturale greco-romano del periodo dal 1° al 4° sec. d. C., fondato sul preminente interesse per la retorica intesa come patrimonio di verità morali. 2. Con valore negativo e polemico (già acquisito in Grecia con la critica di Platone e Aristotele alla prima sofistica), teoria o modo di ragionare fondati su sofismi, capziosi e ingannevoli


politicamente corretto


La tesi che qui vorrei proporre e' che un uso sproporzionato della parola corrisponde (secondo una non debole analogia) a quello che nella virtu' di castita' viene chiamato "incontinenza".


1. In genere, incapacità di trattenersi, di moderarsi nei proprî atti, di astenersi da cose illecite o eccessive: i. nei desiderî, nelle parole, nei discorsi. In partic., il non saper tenere la giusta misura nella soddisfazione dei bisogni naturali, la tendenza a soddisfa

re i proprî disordinati appetiti, per l’incapacità di sottomettere gli istinti al controllo della ragione; peccati d’i., soprattutto quelli contro la castità e, in senso più ampio, la gola, l’avarizia, l’ira (che nell’Inferno dantesco sono puniti nei cerchi 2°, 3°, 4° e 5°). 2. In medicina, i. sfinterica, o semplicem. incontinenza, la patologica deficienza, negli sfinteri, della funzione di regolare e controllare il transito del contenuto di organi cavi; di particolare importanza quella degli sfinteri del retto (i. ano-rettale) e della vescica (i. vescicale), il cui svuotamento non è più controllato dalla volontà; i. notturna, sinon. di enuresi.


malìzia s. f. [dal lat. malitia, der. di malus «malvagio»]. – 1. a. Tendenza, inclinazione a commettere il male consapevolmente: la m. del demonio; l’intenzione stessa, la volontà di fare il male, di recare danno: agire con malizia. In Dante (Inf. XI, 22-24) la parola è usata in senso ampio per indicare ogni agire volontario e cosciente in danno altrui sia per mezzo di violenza sia per mezzo di frode (contrapposto dunque alla sola incontinenza): D’ogne m., ch’odio in cielo acquista, Ingiuria è ’l fine, ed ogne fin cotale O con forza o con frode altrui contrista; ma nello stesso canto (XI, 82-83) è poi ristretta a indicare la colpa dei fraudolenti, e contrapposta non solo all’incontinenza ma anche alla «matta bestialità», cioè alla violenza: Incontinenza, m. e la matta Bestialitade. b. La conoscenza del male, furbesca e quasi compiaciuta di sé (il contr. di ingenuità, semplicità): è ancora un ragazzone senza m.; non sa che cosa sia la m.; insegnare la m. a qualcuno, smaliziarlo; e quindi la capacità di intuire il male dissimulato, o di alludervi in discorsi all’apparenza innocenti, o il compiacimento di vedere il male anche dove non c’è; anche con riferimento alla sfera erotica o sessuale: ho parlato senza m.; allusioni piene di m.; giudicava con m. quelle premure innocenti. In senso ancor più generico, furberia, astuzia: sur un certo fondo di goffaggine, dipintogli in viso dalla natura, ... balenò un raggio di m., che vi faceva un bellissimo vedere (Manzoni). 2. Con valore concr.: a. Azione astuta, sottile accorgimento per raggiungere un fine più o meno lecito: ricorrere a una m.; per entrare di nascosto, pensò questa sottile malizia. b. estens. La conoscenza che ciascuno ha dei segreti della sua arte; gli utili espedienti che sono il frutto di una lunga pratica: le m. dei fotografi per ottenere certi effetti di luce; lo scrittore d’istinto sdegna le solite m. del mestiere; essere esperto di tutte le m. del gioco. 3. ant. Condizione di malattia, di infezione, di corruzione: Quando fu l’aere sì pien di malizia, Che li animali ... Cascaron tutti (Dante). ◆ Dim. maliziétta; dim. o spreg. maliziùccia; pegg. maliziàccia.


Turf wars Dispute territoriali

 

Thursday, September 01, 2022

Eulabeia

Dal greco antico impariamo questa parola, tradotta con "pietà" (in Ebrei 5, 7 con: "pieno abbandono"). Viene da eu-, che significa "bene", e "lambano", che significa "prendere, afferrare, ricevere".

Che bella espressione!
I nostri antichi sapienti ci hanno trasferito la consapevolezza che abbiamo sempre l'opzione di PRENDERE BENE o di PRENDERE MALE la nostra vita.
Non importa allora se quello che abbiamo davanti è un dovere faticoso da affrontare o un piacevole momento da gustare con leggerezza: abbiamo sempre la possibilità di prendere male o di prendere bene ciò che ci è "dato" da vivere. Abbiamo sempre la possibilità di aprire o chiudere il cuore, di prendere bene ogni cosa o di prender male ogni cosa! Anche i miei figli o i miei genitori, il mio lavoro, il mio stato di salute, i colleghi, la città…

Oggi voglio prendere bene la giornata che ho davanti, le persone che incontrerò, i compiti che dovrò svolgere, i fastidi che dovrò sopportare, ma anche le gioie e i piaceri che avrò da gustare…
Oggi voglio prendere bene tutta la mia vita, cominciando proprio da questo QUI e ORA in cui mi trovo.

Certo che, nel momento in cui benedico ciò che vivo, "prendendolo bene", mi lascio raggiungere da quella Benedizione che "afferrandomi saldamente (bene) nel bene" si mostra come il Bene stesso al fondo/origine del mio essere.

E' così che la mia "pietà" permette a Dio di "esaudire" il mio desiderio di bene!

Già qui e ora.



iPhoneから送信

Ingannevole come l'amore » EULABEIA

https://www.ingannevolecomelamore.it/eulabeia/


iPhoneから送信

Wednesday, August 31, 2022

教皇フランシスコの最近のホミリアから

人は往々にして、この世の自分の居場所によって自分の価値を考えるものです。人間とは、自分が持っている場所ではなく、自分ができる自由であり、最後の場所を占めるとき、あるいは十字架の上に自分のために場所が確保されるときに、それを完全に現すのです。

キリスト者は、自分の人生がこの世の流儀に従った経歴ではなく、キリストの流儀に従った経歴であることを知っています。福音の革命がこのような自由にあることを理解しない限り、私たちは戦争、暴力、不正を目撃し続けるでしょう。これらは、内なる自由の欠如の外的症状に過ぎないのです。内なる自由がないところでは、利己主義、個人主義、利己主義、抑圧、そしてこれらすべての不幸が入り込んでくるのです。そして、彼らは主役であるミサワを取るのです。

DeepLで翻訳しました (https://www.deepl.com/app/?utm_source=ios&utm_medium=app&utm_campaign=share-translation


iPadから送信

Papa all Aquila

Troppe volte si pensa di valere in base al posto che si occupa in questo mondo. L'uomo non è il posto che detiene, l'uomo è la libertà di cui è capace e che manifesta pienamente quando occupa l'ultimo posto, o quando gli è riservato un posto sulla Croce.

Il cristiano sa che la sua vita non è una carriera alla maniera di questo mondo, ma una carriera alla maniera di Cristo, che dirà di sé stesso di essere venuto per servire e non per essere servito (cfr Mc 10,45). Finché non comprenderemo che la rivoluzione del Vangelo sta tutta in questo tipo di libertà, continueremo ad assistere a guerre, violenze e ingiustizie, che altro non sono che il sintomo esterno di una mancanza di libertà interiore. Lì dove non c'è libertà interiore, si fanno strada l'egoismo, l'individualismo, l'interesse, la sopraffazione e tutte queste miserie. E prendono il comando, le miserie.


iPadから送信

Papa all Aquila

«On raisonne trop souvent en fonction des postes que les gens occupent. Le chrétien sait que sa vie n'est pas une carrière au sens du monde. Et la révolution de l'Évangile propose ce type de liberté. Sans cette liberté intérieure, pas de frein à l'égoïsme, à l'individualisme, à l'intérêt et à la domination.»


iPadから送信

Thursday, August 11, 2022

Human condition 1

When the physicist Max Planck said 'Science progresses funeral by funeral' (Marilyn Ferguson's reference to a comment by Planck in his Scientific Autobiography, 1948; New Age mag. Aug. 1982; see www.wtmsources.com/174)


iPadから送信

Tuesday, August 09, 2022

70esimo Missione Saveriana in Giappone



La missione Saveriana in Giappone terzo periodo (1985-1999)


1.1985. Southern Baptist Convention. Plantatio ecclesiae. Unapologetic Christianity. Reagan e Nakasone. A "special relationship".


2. Kobe, Scuola delle Carmelitane. Stella Maris di Kobe (Francescane missionarie di Maria.


3. 1987. Osaka City University (cf. Kyoto Univ.). Ricercatore, Licenza e dottorato. Sato Masahiro, Uchimura Kanzo, Yanaibara Tadao, Nitobe Inazo, "No Church"、無教会). M.R. Mullins, "Christianity made in Japan", 1998.


4. "Commentario di Zuo al Periodo delle primavere e degli autunni"『春秋左氏傳』700?-250 a. C. Matteo Ricci, Il vero significato del Signore del Cielo, 1602『天主実義』。"Quamvis parum sit quod de Deo percipimus, tamen illud modicum est magis omni cognitionem quam de aliis habemus" (SCG I, 5).「雖知、天主之寡其寡之益尚勝於知他事之多」(序)  ACCOMODATIO.


5. Matsuo Basho, Sarumino (impermeabile della scimmia), 1691 。Cf. Mario Ricco', Paolo Lagazzi,Il muschio e la rugiada. Antologia di poesia giapponese, Rizzoli, 1996.


"è alla poesia che lo spirito giapponese, lontano dall’astrazione e alla costante ricerca dell’intuitivo e del “concreto”, pone le domande più radicali sul mistero dell’essere. Solo dalle profondità della parola può infatti balenare la verità, e solo attraverso il serrato confronto con la complessità del linguaggio e della tradizione letteraria è possibile catturare in versi l’autenticità e la naturalezza del reale."(P. Lagazzi) 



"Pioggia d'inverno, anche la scimmia vuole il suo impermeabile"「はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり」(芭蕉)


。Genroku 元禄(1688-1704)文化 L'eta d'oro della cultura giapponese cfr. Kabuki, jooruri, ukiyoe, haiku, ecc.


6. Immanuel Kant, Kritik der Urteilskraft。Tempio shinto in cui si venera Kant カント神社。


7. 1993. Bonazzi Andrea, La fede razionale di Kant e la filosofia comparata delle religioni. Fondamento filosofico del dialogo interreligioso, 1994.(『カントの理性信仰と比較宗教哲学 : 諸宗教間の対話への哲学的基礎付


け』 

著者Bonazzi, Andrea [著] 出版年月日1994  請求記号UT51-94-V234書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク)。Su Amazon 5 usati da 2100 a 16000 yen.


8. 1994. Wakayama Shin-ai Women's Junior College


9. 1995. Sapientia University (fondata dal Cardinal Taguchi)。Introduzione al Cristianesimo, Teologia Fondamentale, Fenomenologia della religione, Storia delle Religioni. Greco e Latino. Cappellano dell'Universita', Direttore del "Centro di studi cristiani". Responsabile dei corsi di teologia rivolti al pubblico. 

10. 1999. Kobe Stella Maris University.


11. "Nonoyurikai"(野の百合会,百合学園) Suor Narihiro (Sr 成弘) defunta nel 2015. battezzati 220.


12. 1987.NICE: National Incentive Convention for Evangelization, 1993 0ttobre, "2a Convenzione nazionale a Nagasaki.