Monday, October 29, 2018

希望と音楽 (Timothy Radcliffe ティモシー・ラドクリフ)

希望と音楽 (Timothy Radcliffe ティモシー・ラドクリフ)

マルコ福音書によると、イエスは最後の晩餐が終わると、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」(14、26)。賛美の歌とは、「ハレル」の第2部のこと、つまり詩篇113〜118。
ハレルヤは、ヘブライ語由来の言葉で、「神をほめたたえよ」の意 。この単語は「讃える、賛美する」を意味する動詞ヒッレールからの派生名詞で、「賛美」を意味する。この動詞の複数命令形ハレルーに神の名ヤハウェを短縮したヤーを付した形がハレルヤ。「ヤハ(ヤハウェ)」を「ハレル(ほめたたえよ)」)。ラテン語では、アレルヤ。
「神のいつくしみは永遠」(118、1〜4)は何回も繰り返される。
イエスは、受難に向かうにあたって、賛美の歌を歌った。
・殉教者は歌いながら死んだ。長崎の殉教者もそうです。十字架に架けられ槍に刺されて死んでいった彼らは、実は殉教の瞬間、賛美歌を歌っていたのだそうだ。西坂のレリーフはその瞬間を表現している。
・2015年、エジプトのコプト教会(キリスト教)に所属する21人のエジプト人が、リビアの海岸で、イスラム国の兵士によって首を斬られて、処刑される時も、彼らは歌っていました。
・ドミニコ会の習慣として、修道士が死ぬ間際に、共同体は全員、ベッドのもとを囲んで、サルベレジーナを歌うそうです。本人は、目をあけて、「まだ早すぎるではないか」という場合もある。
・ティモシー・ラドクリフ師は、自分のお父さんが死んでいるときに、エルサレムから駆けつけて、父親に聞いた、何かしてほしいことありますか。ウオークマンを持ってきてほしい。モーザルトのレクイエムと
『十字架上での最期の七つの言葉』(Die sieben letzten Worte unseres Erlösers am kreuze)は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1786年に作曲した管弦楽曲。同じ趣向のハインリヒ・シュッツの『十字架上での七つの言葉』と並んで知られる。原曲は管弦楽曲であるが、後にハイドン自身の手によって、弦楽四重奏版とオラトリオ版が編曲されており、さらにハイドンが監修したクラヴィーア用の編曲版がある。
歌と音楽によってのみ、死の怖い沈黙を前にして、希望を表現するすることはできる。
・2015年、イングリッシュ・ナショナル・オペラ(English National Opera、ロンドンを拠点とするイギリスのオペラ・カンパニー)の依頼によって作られたオペラがある。ストリーは、アメリカ同時多発テロ事件、2001年9月11日にニューヨークである。テロは歌劇の題材になれるか。
炎上するワールドトレードセンター・ツインタワーに取り残された人々を救出すべくある警備員は44階から降りようとする人々を励ますために、歌を歌っていたエピソードがある。この人はベトナム戦争のベテランで、戦争の時にも、砲撃される中で、部下を励ますために歌っていた。
タワーの中から、家族に最後の電話した人々は、言う言葉に困って、歌を歌っていた。
・朝日新聞の記事、2015年。イラク、不屈のタクト 演奏続ける国立交響楽団

 過激派組織「イスラム国」が勢力を広げ、混乱が続くイラクで、国立交響楽団が「音楽による連帯」をめざして活動を続けている。テロの脅威を乗り越え、1月に開いた定期演奏会には、1千人を超える聴衆が集まった。

 イスラム教スンニ派やシーア派、キリスト教、クルド人。様々な背景を持つ団員の奏でる音色が、ひとつの指揮棒の下で共鳴した。
それでもワスフィさんが祖国で活動を続けるのは、「前向きなエネルギーは暴力に必ず勝てる」と信じるからだ。「過激派の青年たちと話せるなら、15分で彼らの銃を楽器に持ち替えさせてみせる」。国難を、指揮棒1本で戦い抜く覚悟を決めている。(バグダッド=渡辺淳基)
・ドミトリー・ショスタコービッチ(1906-1975) 交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」というのがある。
そしてレニングラード。
1942年7月上旬に楽譜が届きましたがレニングラードでは、食料も不足していましたが、紙や鉛筆、ペンも不足していました。楽譜が届いてからそれらも必死に集められ、
模写係の一団が昼夜を徹してパート譜を用意しました。リハーサルが始まったのが7月下旬。レニングラード市内に残っていた演奏家だけでは、足りないので戦場にいた演奏家たちも呼び戻されました。食糧難でしたが、市民は演奏家への特別な配給を認めました。
こんな非常時に音楽を演奏している場合か、という声もありましたが、非常時だから音楽が必要なんだという声が圧倒しました。人々は、食料に飢えていましたが、音楽にも飢えていたのです。8月9日、ホールは超満員になりました。入れなかった人のために拡声器を使いレニングラード全市に流されました。その音楽は、レニングラードを包囲しているドイツ兵にも届きました。ドイツ軍のレニングラード戦線司令官は、演奏中は戦闘の中止を命じ、
かれらドイツ兵士もこの演奏を聴きました。もしかしたら、いやきっと包囲するドイツ兵の中にこの曲を聴きながら、ナチス・ドイツの愚かしさを呪っっていた兵士もいたことでしょう。演奏が終わったら、また戦闘が始まりました。そしてこのレニングラード初演から約1年半後の1944年1月18日に、レニングラード包囲戦は、ドイツ軍の敗退によって終わるのでした。

歌を歌う、音楽が演奏されることはクリスチャンの生活の普通の姿であるが、


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