Wednesday, January 30, 2019

聖書の読み方 『福音の喜び』146-154から

聖書を理解しようとすると立ち止まって、「真理に対して敬虔の念(reverence for truth)」を実践しなければならない。それは、みことばはつねに私たちを超えること、そして私たちは次のような者だと気づいている謙虚な心です。私たちは「決して真理の支配者ではない。私たちは単なる保管者、伝達者、しもべにすぎない」。み言葉に対する敬虔な感嘆を込めた崇敬の態度が必要。私たちに語りたいと願う神への愛がなければ分からない。その愛ゆえに弟子の態度をもって祈る「主よ、お話し下さい。しもべは聞いております(サムエル上3・9)。聖書は文学書としても読めるが、文学書だけではない。「いのちのことば」として読まないと、「死に至る書」となってしまいます。マタイ福音書も指摘しているように、サタンでも聖書を読んで引用している。この点はよくよく注意していただきたい。
テキストの中心をなすメッセージの意味を適切に理解するためには、教会の伝えてきた聖書の教え全体に照らして理解する必要があります。次の点を考慮に入れることは、聖書解釈の重要な原則です。それは、一部分だけではなく聖書全体が、聖霊による霊感を受けたということ、そして、何らかの問題を抱えた民は、その豊かな経験に基づいて神の意志を理解しながら成長していったということです。こうしたりかいによって、同じ聖書の中で矛盾するほかの教えについて、誤った解釈や部分的な解釈を避けます。言語学や釈義上の知識も必要ですが、「いのちのことば」を自分自身のものとすることま必要。従順と祈りの心で近づくことも必要。聖書は剣のように、「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4・12)
たとえば、次のように尋ねてみるのはよいことです。「主よ、このテキストはわたしに何を語っているのですか。そのメッセージによって、わたしの生活の何を変えようとなさっているのですか。このテキストの何がわたしを煩わせるのでしょうか。どうしてここに興味が持てないのでしょうか」。あるいは、「なぜわたしはこのテキストが気に入ったのだろう。このみことばの、何がわたしを駆り立てるのだろう。何がわたしを引き付けるのだろう。なぜ吹き付けられるのだろう」。主に耳を傾けようとすると、しばしば誘惑に駆られます。つまり、単純にいらいらしたり、たまらなくなったり、耳や心を閉ざしたくなったりすることなどです。また、誰もが身に覚えのある誘惑は、そのテキストが示すのは他の人のことと考え、自分の生活に当てはめようとはしないというものです。テキストに特有のメッセージを骨抜きにしてしまうための口実を見付けることです。場合によっては、神から求められる決断があまりにも大きく感じられ、今の自分には受け止めきれないと思ってしまうこともあります。そのために多くの人はみことばに出会う喜びを失ってしまうのです。それは、父なる神よりも忍耐強いかたはなく、神よりも理解してくださり、待っていて下さるかたはないということを忘れてしまうことです。神はわたしたちを一歩先へ導こうといつも待ってくださいます。けれどもわたしたちの準備ができていないのに、完全なこたえを求めたりはしません。神は、わたしたちが誠実に自分の生活を見つめ、ありのままの姿を誠実にご自分に差し出すよう求めておられるだけです。
そして、もっと成長したいと願い、わたしたち自身がまだ手にしていないものを神に求めるようにと望んでおられるのです。

Monday, January 28, 2019

現代日本における霊性 スピリチュアリティ

現代日本における霊性 スピリチュアリティ

脱宗教化の時代と言われるが、しかし人々は霊性を持ちたい。スピリチュアルでありたい、スピリチュアリティを持ちたい。個人化し現世的な仕方で霊的なものを求めている。
20世紀後半から、社会変動が加速し、高度情報社会となってからは、世界観が急速に変化し、もはや親子の間でさえ共有することが難しい時代となった。安定した価値観、大きな枠組みを実感することのない世界になってきた。価値観と幸福感が個人化するということは、個人の自由な領域を拡大すると同時に、人は孤独化、孤立していくことでもある。自分で判断し、自分で体験しなければならなず、それが正しいかどうかの判断も自分でするしかないとしたら、人々は不安を抱くことになる。そんな多くの人々が、その都度安心を与え、不安を和らげてくれる何かを求め、個人的霊性として「癒し」を求めるのは当然であろう。
しかし、その癒しは、大きな枠組みの中に受け入れること、つまり回心によるのではなく、あくまで、現状を維持し向上させることができるようになるための癒しだ。不安と危機の中で弱まっている自分を癒し、自分への信頼と自身を取り戻させてくれる霊性をもとめている。社会的にうまくやっていけるようになること、自分に自信を取り戻すこと、学校、仕事、家庭などの共同体でのかんけいをうまく維持し成功へとむすびつけること。それらが霊性の目的だ。こうした霊性の特徴は、霊性が個人の内部で完結するものとみなされていることだと思われる。ただ、そのような霊性は、人の生涯ぜんたいを導くものではないため、人々に究極の目的地を指し示して巡礼へと旅立たせることはない。
現代日本社会において一般に霊性とみなされているのは、こうした個人の内的再生であり、一時的回復であり、元気を取り戻すための癒しだ。これは人間性の変革ではなく現状回復であり、新たに生まれ変わるといった意味での霊性とはだいぶ異なっている。人々を寄留の民へと変化させるのではなく、この世の定住者として生きるためのサポートを提供することが、今日一般社会で人々が霊性に求めていることだ。

(越川弘英編、『宣教ってなんだ』、キリスト教新聞社、2012年、42-43)


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越川弘英編、『宣教ってなんだ』、キリスト教新聞社、2012年 読書ノート

越川弘英編、『宣教ってなんだ』、キリスト教新聞社、2012年 読書ノート

ページ109、キリスト教が「いかに神に近づくか」ということを宗教的な根源的な求めとするのに対して、日本の宗教性には、「いかに神に近づかないで済むか」というところがある。「あなたはこうすれば神に近づけます」というキリスト教のアプローチはそもそも理解されにくい。
〆鎮魂 (死者の魂をしずめる)参照 折口信夫の鎮魂論参照。

ページ110、マイノリティであるという、その存在の意味をもっと肯定的に受け止める必要があると思う。だから教会に人が来なくてもいいんだとか、小さいままでいいんだとか、そういう意味ではありませんが、本質的にキリスト教というのは、少数者の集団なんだ、そういう共同体なんだということを、もっとはっきり理解する必要がある。
〆ベネディクト16世のcreative minority参照

ページ111、マイノリティのままでいいよということではなく、今そうであるならばそれを生かしながら社会を変えていくという性質をキリスト教というのは本来持っているんだということ。

ページ111-112、日本にキリスト教が伝えられたのは、西欧世界でキリスト教がもう圧倒的な社会的マジョリティになって1500年あまりも経ってからの話ですよね。神学的構造そのものがキリスト教世界を前提となっているキリスト教が日本に来た時に、その神学とか、それから礼拝のかたちもそうだが、日本のキリスト教徒たちは必然的に、自分たちが社会的マジョリティではないという劣等感を抱かざるをえなかった。
ページ125、今の日本ではすでにそこにいる人たちだけの教会になってしまっている面が非常に強くなってきている。…すでに教会員になっている人たちの既得権が中心というか、悪い意味での「自分たちの教会」という意識ですね。神から託された働きを意識しない、宣教も行わないという結果になれば、教会がそもそもそこにあることの意味が問われる。
ひとつの集団の形とか雰囲気ができあがってしまうと、なかなか変わらない、変わろうとしないものになっていく。その中にいる人たちにはそれがとてもいいことだが、外部から新しくやってくる人たちにとって非常に高いハードルになってしまう。

ページ140、婦人会とか壮年会とかそういう組織があるけど、それが結束の絆であると同時に、限界というか、閉鎖的なものになってしまっている面がある。

ページ153、クリスチャンというアイデンティティが、自己紹介するとき、一般社会のなかでは出さない、出せない人もいる。

ページ168、もともと日本の教会は極端なマイノリティなわけですから、自分たちだけで十全な働きができるはずもないわけです。

ページ176、宣教が教会にとっての本質的な課題であるという発言には、おそらく誰も異論は唱えないであろう。宣教を通して教会となっていく、換言すれば、宣教する教会こそが教会なのだという表現にも、多くの人は賛意を示すことであろう。しかし、問題はこうした表現の内実に関わることがらであり、「宣教」をどう理解するか、「教会」をどう理解するかによって、これらの発言の意味するところは随分変わることになる。

ページ177、日本のキリスト教は退潮傾向に入ったという声を聞くことが増えてきた。こうした現象を目の前にして、こういう時代だからこそ、私たちは、今、自分たちがどういう状況のもとにあるのか、これまでの、そしてこれからの宣教や教会について、本気で考え抜くべき時に立っていると言える。

ページ178、二一世紀半ばに向かう時代にあって、イエス・キリストの福音に堅くたつと同時に、この時代のニーズと期待に応えることのできる教会と宣教とはいったいどういうものなのか、私たちの教会の本質、宣教の本質が問われていることに、今こそ思いを寄せたい。


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Friday, January 25, 2019

Monday, January 14, 2019

爆発の噴火口 ②

爆発の噴火口 ②

以上の状態の負い目は主に「教会」または「キリスト教界(Christendom)」(訳注、鎮護国家{例えば、聖徳太子の十七条憲法}を参照。)に負わせられる。が、この現象を歴史内的道徳的範囲内に還元しないでより深く考えれば、キリスト教はすでにその創始者からして、人類の未来のために地上的に満足いく計画の概要を描くことはできなかったし、そうする意思もなかった、と言うことを発見する。いずれにせよ、この点に関して、今でも次のように自問自答することは許されるであろう。すべてにもかかわらず、イエスとその真なる弟子から世界史の上に間接的に後退する光は、人類によって設計された救済プログラムのいかなるものよりも、もっと便利で啓蒙的ではないか、と。さらに、次のように自問自答することも許されるであろう。キリスト以後に考案された、未来に関するこれらの諸プログラムは皆、事実上キリストのアイデアに触発されたアイデアを、(相対的)地上の未来に投影しようとしてるではないか。ところが、キリストのアイデアは、神の絶対的な未来にも向けられているのである。
となると、キリストの到来によって世界史にできた爆発の噴火口は、その歴史の中心を規定づけるものとなるであろう。そして、キリストは我々の間に現れたことによって時代
(訳注:Aeon、永劫、年代区分の最大単位)の間にできた分水嶺(ぶんすいれい)は、彼は本当に時が満ちることにおいて、時が満ちるとともに来たしるしではないかと思われる。ところが、彼が現れたのは、神の無限的自由の地方から、「上から」(ヨハネ8・23; 3・13; 6・62)であり、そして最後に自分の存在をその「上」に超越させるためであるから、現れた時点は、歴史内在的な必然性を持っているかどうか、と言う質問に答えるのはきわめて難しいことである。ヘーゲルのように、歴史を合理的に再構築する者は、ためらうことなくその必然性を肯定する。その裏付けとして、ヘブライ文化の時代(eon)とギリシャ・ローマの時代の継続として、到来は予想されるべきであったという指摘をあげている。K・Löwithは、このような合理的な歴史再構築とそれに似たものを脱構築させるのに努力した(Weltgeschichte und Heilsgeschehen、1953参照)、それは、ハベルマスのPhilosophische-politische Profile, 1971においても批判されるように、「歴史的意識からの後退」として)。ところが、ここで「世界の歴史」、一義的に人間から構築されるものと、一義的に神から構造される「救済史」との間に区別を設けるのは避けられないであろう。後者は、"それ自身において"前者と同一の広がりを持たなければならないが、我々にとって明確に把握できるのは、旧約史によってカバーされる短時間の外にはありえない。旧約史においてこそ、そしてそこにおいてのみ、キリストの到来という出来事に収束する線を描くことができる。もちろん、収束する点を定めるのは、振り返ってみることにおいてのみである。つまり、受肉の「適切性(convenientia)」(訳注、トマス・アクイナスの神学大全を参照)が確認されてからである。さまざまな時代に現れた救済に対するさまざまな期待にもかかわらず、世界の歴史から出発しては、このような必然性は導き出すことはできない。旧約から、ギリシアとローマを媒介に、新訳への移行を説明しようとしたヘーゲルの天才的な試み、及び救済史を世界史に(逆の方向もありうる)還元しようとする試みは、失敗としか考えられない。ヘーゲルの真似を試みる今日の神学者についても同じことが言える。我々から言えるのは、キリストは存在して(いた)いるのは、世界の歴史全体にとって、繰り返すことのできない挑発である、と言うことだけである。それは、後の時代、遅い時代、恐らくはキリストの出来事の影響力に間接的にしか触れなかった大陸や文明についても同じことが言える。キリストは、再現できない挑発であるのは、それは歴史の流れのど真ん中にユートピア的超越の理想を描いたからだけではなく、それはすでにヘブライ文化が成し遂げた、その理想への到達可能性をも保証しているからである。それ故に、イエスのメッセージは、歴史内的に見ても、終末論的なものとして、克服できない。人類の大多数によって受け入れられても拒否されても、あるいは、反立脚の強制的な終末論によって抑制されても、克服できないのである。神と人類の間に展開されるドラマは、人類自身のうちに、反対したり、生きる意味の自家製のプロジェクトを支持して反論したりすることで展開するドラマは、キリストの終末論的挑発から見れば、すでに「エン ・クリスト」なのである。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」(使徒言行録1・8)届かなければならない彼のたよりの結果は、必ずしも、福音の前ですべての民族は改心するということではなく、少なくとも彼と直面せざるを得ない必然性である。

訳注:「エン・クリスト」
 パウロはその書簡の中でしばしば(70回以上)「エン・クリスト」という表現を用いている。「エン」というギリシャ語は、ほぼ英語の「イン」に相当する前置詞ですから、「エン・クリスト」は普通「キリストにあって」とか、「キリストにおいて」「キリストの内に」と訳される。新共同訳がこれを「キリストに結ばれて」と訳しているのは、分かりやすい訳だと言える。この句はパウロのキリスト告白の鍵となる句です。天地創造も救いもすべてが「エン・クリスト」にあるわけで、ユダヤ人も異邦人も、洗礼を受けた者も受けていないものも、とにかく「エン・クリスト」に存在している。

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Saturday, January 12, 2019

Nature and Man

Nature and Man

The main point of Christianity was this: that Nature is not our mother: Nature is our sister. We can be proud of her beauty, since we have the same father; but she has no authority over us; we have to admire, but not to imitate.

Chesterton, Orthodoxy


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Tuesday, January 08, 2019

爆発の噴火口 ①

爆発の噴火口

H. U. Von Balthasar, TeoDrammatica, II/2, 1978、pp. 25-31 からの私訳


啓蒙主義と歴史主義の時代とともに、キリストがその時代に主張したように、人類史のドラマの中心にキリストがある、という主張を支持する近現代のクリスチャンたちの主張に議論の余地ができるようになった。どのようにして、一個人が、しかも歴史において我々からますます遠ざかる一個人が、天秤のプレートに重さを感じさせることができるのか。その一個人がいかに巨大な重量を置こうとしても、相手のプレートの歴史全体、過去だけでなく、言うまでもなく未来の重さ全体がかかっているのであれば、どうやってそれに上回ることができるだろうか。世界のドラマを自分の人格へと質的に偏向させる、そのドラマを自分自身のなかに担えさえし、生き、変える、というキリストの主張に対して、歴史の尊大(そんだい)さに圧倒的な主張がある。歴史が逆に、ほかの無数な個人の主張と同じように、キリストの特殊的な主張をも、妥当な一(いち)ケースとして盛り込み、生かし変えることができる。その古代のエピソードから当面の議題に移るために。

ところが、キリストの現れによって、人類史にできた傷跡は膿(う)みつづけている。傷のインパクトは歴史の平面を決定的に二つのセグメント、キリスト以前とキリスト以後、とに分けたことは偶然ではない。この症状に対応するのは、人間論における三段階で描いた深層な変異である。キリストの到来によって、人間に働いた力は働き続けている。キリスト以前の状態に戻ることはできない。絶対者から発行物が注入された。それによって、コスモス的本性に縛られていた人類の束縛は解かれ、自由を授けられた。また、その自由に絶対性の烙印が押されて、キリストの起源から離れてもその性格は働き続ける

(ニーチェ、またはエルンスト・ジーモン・ブロッホの ▪ 1968年 Atheismus im Christentum 『キリスト教の中の無神論 脱出と御国との宗教のために』上下巻 竹内豊治・高尾利数訳 法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス 1975.12-1979.3参照)

反キリスト教の巨大な運動のパトス(情念)は、キリスト教的側面の偽造である以外は理解できないであろう。『共産党宣言』

(訳注:1848年にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって書かれた書籍)

のパトスは、キリスト教以前のギリシアにも、インドにも、中国にも成立できないであろう。つきつめて言えば、イエスの次の言葉から成立する。
「群衆がかわいそうだ。(…)空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」(マタイ15、32)。むしろ、これは、クリスチャンたちは主キリストの教えと生き方を歴史の中で効果的にすることはできなたった証明である、と言っても過言ではない。新しい時代を設立するニーチェの野心は、変で縁起の悪い情念ではあるが、紛れもなくイエス・キリストの真似事である。歴史的効果性をめぐって、キリストのライバルとなるマニアである(脚注、Cfr. Henri de Lubac, Affrontements mystiques, 1950)。イエスを生かしたいという様々な異なった試みは、いかなる形態をとっても、イエスの超越への開放性、そしてその超越の中に隠れる、ということを厄払いしたい共通点として持っている。その超越性との関係をこの世界の内在性に変えたい、あたかも洪水の水を水路に集中させ、人類の益のために人類のタービンに流す、と。地上で使わなければならない太陽エネルギー、淡い光線しか掴めないのに、"リベラルなキリスト教"を作るのに充分であるかのように。このリベラル流す態度は、肯定にも否定にも中途半端でありながらも、源からのある程度の光を広めることができる、多くの誤解とともに。とにもかくにも、起源となる出来事は、今日に至るまで効果史(wirkungsgeschichte)をもっており、たえず歴史に働いている。(脚注、偉大な現象とその効果の歴史の不離について、H. G. Gadamer, Wahrheit und Methode, pp. 284-290 参照) また、この話題に戻らなければならない。

イエスの主張をどれほどに普遍的で、どれほど基本的なものと見なしていたとしても、まだ足りないであろう。緒福音書の言葉は、自らの比類のない仕事についてイエスが持っていた意識を、集中的に伝えている。初代教会の数十年のあいだや、教義形成に至るあいだにイエスの主張はこっそりと拡大させられたのではないかと、疑いを投げかける人がいる。けれども、それに対してただちに聖パウロのキリスト告白を思い出すことができる。それは、生前のイエスに一番近いもので、イエス自身の最も強い自己定義に比べても決してヒケをとらない。パウロのキリスト告白は、世界創造は「エン・クリスト」の中心にあるだけでなく、人類史、救済史の中心にもあり、救いのドラマの諸々の主人公すべてを包括しているということもはっきりと含んでいる。イエスは生きたメンバー、人格を持ったメンバーたちの頭(かしら)である、と。このパウロの立場は、彼以前の蓄積された考えを包括的に示している。証拠として、パウロが受け継いで書簡において使用している偉大な「キリスト賛歌」を見れば充分であろう。諸福音書におけるイエスの自己定義は、パウロに依存して策定されたわけではない、と言うことを疑う余地はない。明示的にか、暗示的にか、それほど重要なことではないが、確かに、イエスは自分のことを、世界の宗教史のアルキメデス的なてこ(訳注、「私に支店を与えよ。そうすれば世界を動かして見せようと」参照)のように考えていたと思われる。この事実を無くして、パウロ以前とパウロ自身のような神学は、絶好のタイミングを考えれば、発展できなかったであろう。
イエスは従う人を求めたり、許したりするが、彼自身は誰にも従わない。彼のためにいのちを失なう者はそれを救う(マタイ19・39)。旧約聖書においてアドナイが、「魂に安らぎを得よ」(エレミヤ6・16)と約束するが、新約においては、イエスは「だれでも、わたしのもとに来る」(マタイ11・29)者にやすらぎを約束している。イエスに対してとった態度に従って、どの人も自分の究極の運命を決めてしまう。(マルコ8・38)世の終わりの時に、彼自身がこの世の審判者になる(マタイ25・31以下)。この世の者はすべて滅びるが、イエスの言葉に信頼を置く者は、滅びない岩の上に家を建てた(マタイ7・24)ことになる。というのは、これはこれ以上考えられないほど一番強い自己主張であるが、「天地は滅びるが、わたしの言葉決して滅びない。」(マルコ13・31)。このように共観福音書はすでに、ヨハネ福音書の全面的に包括する表現に限りなく近づいている。「わたしにつながる者は、…あなたがたはわたしにつながっており、そしてわたしの言葉はあなたがたの内にいつもあるならば、…わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15・5-9)。もっと広い意味で、ヨハネのプロローグには、神の言であるイエスにおいてすべてが造られた、彼によって万物は成った。パウロの包括的公式「エン・クリスト」は、上記のとらえ方と完全に意気投合している。

イエスは自分のメッセージ、そしてそのメッセージに示されている自己主張に対しての躓きを、いつも極めて率直に見越している。十字架まで絶えまなくずますます大きくなる反感を感じている。この事実は、伝わってきた自己定義にも増して、彼の言行は前代未聞、信じがたい、望ましくないものであった強い証拠となる。預言者たちも神の名によって望ましくないことを語っていた時は、不信感と反感を買っていた。ところが、イエスの場合は、他ならぬ自分の名によって語られている。彼がそのミッションのゆえに、磁石のごとく中心に立ち、好むと好まざるとにかかわらず、運命をかけて「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12・32)としていたのである。

地上に及ぼせる影響力はすべて永遠に絶たれた時、つまり十字架に上げられた時こそまことに磁石となり、歴史として語られ得るものとして残ったのはその大失敗だけである。その大失敗は、神によってのみ、しかも復活という隠れた次元で、そのミッションの偉大で完全な成功に変えられた。イエスは、その超越した成功を何らかの形で予感していたはずである。失敗のなかで、失敗を通して(ルカ12・50)見越した実りとして望まれたその成功に対する予感があったからこそ、自分の使命についてあんなに自信に満ちた、挑発的な語り方ができたであろう。しかしながらこれが意味するのは、彼の使命は地上で始まっただけで、完成するのは地上、歴史全体を超えた次元であった、ということである。その使命、ミッション、における最大の誘惑は、"引き上げられる"こと、こうした超越的"エクソダス"(脱出、ルカ9・31参照。訳注、新共同訳は「最期」と成っているが、正しくは「脱出」)に抵抗することであり、すべてが地上というレベルに成し遂げられる意思であった。(マタイ4・1-11、並行箇所参照)
以上、イエスの地上における効果史について話す問題群が示されている。一方、すでに述べたように彼ほど世界史を変えた人は他にいない。人間を神的宇宙観(theion)から切り離して(脚注、Teodrammatica, vol. 2, p. 361s)、

訳注:The main point of Christianity was this: that Nature is not our mother: Nature is our sister. We can be proud of her beauty, since we have the same father; but she has no authority over us; we have to admire, but not to imitate. (Chesterton, Orthodoxy)

そうして不可逆の"解放史"を切り拓いたからである。他方、彼の効果の世界内的な計算は、本質的なもの決定的なものがそこにのみ実現したであろう彼の超越的脱出からみたら、絶えまない誤解に導く他ない。あるいは、もっと悪いことに、上に述べた誘惑にぶつからせる。彼の意図にあった効果がある、つまり、彼の呼びかけに答えて、彼に従うこと。このような反応は、直接に、きっちりと記録できるならば、正真正銘なイエスの効果史は可能になる。けれども、そのような記録は不可能であり、可能となることはありえない。他に、彼の中心的意図に、積極的にか消極的につながっている効果がある、つまり、手段と制度である。これらは、彼の呼びかけに十分に答えるのに役立つべきものである。また、敵対的な反応と詐欺的な模倣とがある。議論の余地もなく、これらも彼の意図の生きた永続性から湧き出るものである。この両方は、間接的で状況的証拠に過ぎないが、イエスの進歩的効果史が存在すると証言できると思われる。

イエスの言葉に対する人間の答え、無条件な信頼に基づいた模倣があるところに、解放の真の歴史がある。たとえば、教会の最も親密な核心であるマリア、そして彼女を囲んでいる真なる諸聖人である。しかし、この効果史も、キリストの人格の効果性は記録出来ないように、はっきりと把握できるものではない。イエスは、公的生活の間に、倫理的と理解し得る掟を公布したとしても、彼の主たる業は倫理的なものと呼べない。その業は、身を運命に任せる、受難とエウカリスティアで自分を分散、搾取されるに任せるようなことであった。これは、確実に御父のみこころとの一致に基づいていたであろうが、彼において成熟する実りを生み出し、それに注意を払うことなく(脚注、Cfr. Gloria vol. 7, Nuovo Patto, pp, 133ss)彼から分配されるのである。ぶどうの木という譬え話(ヨハネ15)で、イエス自身が同じことを約束している。その約束は、木につながっている枝のように、彼につながっている人々、そしていよいよ豊かに実を結ぶように、ぶどうの木の持ち主である御父に手入れを任せる人々にむけたものである。この実の豊かさは、実を結ぶ本人の評価から差し引かれており(本人の行い、苦難、任せる気持ちの実りを好きなように配るのは神だから)、倫理を超えるものであり、したがって外からの統計学的な記録をゆるさない。聖人であることは本人に分からない、本人自身に分からない聖人もいれば、世間にも分からない聖人はいる。これらの聖人は知らずに世界史に偉大な効果をもたらした。それは、シンプルな祈りの行為とか、献身的な行為を通してであった。これらの行為は、"心理学的"に評価してみても、何も特別な性格はないかもしれない。

以上のことは真であれば、そしてこれが効果史の中心であろうとするならば、目に見える教会の制度に、あるいは教会の正式的な代表者たちによって決められたものに、キリストの宗教の所属メンバーの記録可能な(文化的、倫理的、政治的)成果に、キリストの効果史を読み込もうとするいかなる試みは失敗に終わらざるを得ないことは理解できるであろう。キリスト自身とその真なる弟子でさえ、その効果は神出鬼没(しんしゅつきぼつ)的な性格をもっているので、それ以下の存在に関しては、経験的にその欠点や足りなさが確かめられるものはなおさら成功しにくいであろう。最善の場合、手がかりとなるもの、その中で派手なものもありうるが、歴史主義的(歴史内在的)に観た場合、それらは砂の上に描いたもののように消えてしまう。事情は次のとおりである、キリスト教信仰は生きている場合は統計によって把握できないことになっている。生きた(超越的な)信仰を歴史主義的に翻訳しようとするすべての試みは、それは教会側からであっても、難破して失敗に終わるに決まっている。
十字架と復活から放たれた光は世界史に反射するのは間接的にのみである。パウロは、例えば「光の実り」(エフェソ5・9)について語る時は、念頭に教会の光をもおいている。イエスも同じことをほのめかしている。「山の上にある町は隠れることはできない。…そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5・14、16)。この、どうしようもない直接性(Umittelbare Unmittelbarkeit)は、みんなをイライラさせる。キリスト教徒であろうとなかろうと、"キリスト教"を一勢力と捉えて、現象学的に歴史の中で位置付けようとすると、どうしても歯がゆいものが出てくる。従って、キリスト教信仰は、非間接的な素直さで生きられていないところ、むしろ俗世間にひ弱く反映されているところは、だいたいその評価は否定的である。それは、最初から失敗したもの、創立者の理想から逸れたもの、無数の改革にもかかわらず根から癒されることのなかったもの、として捉えられる。終(つい)に歴史内的に見て、現代や未来に対する人間による計画の成功の有無の問題と思って、競争のもつれにますます屈するものとして捉えれている。



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Wednesday, January 02, 2019