Wednesday, April 30, 2014

お迎え現象

http://www.ox-tv.co.jp/SA/lecture_05.shtml

「あの世」はどこへ行ったか?近代日本における死生の行方
講師/東北大学大学院文学研究科文学部 助教
   桐原 健真 氏

近代以降の日本人は死んだらどうなると考えるかと言う事を中心にお話ししたいと思います。

現代日本における終の棲家(亡くなる場所)というのはどのようになっているのか
時代を経ることに病院死が右肩上がりになって、今では在宅死は2割、病院死が8割を超えます。現代日本の死の有り様を考えた時に、8割以上の方が病院で亡くなっているということは大きな意味があります。病院における死は日常と社会から隔離されていて、私たちは死に直接触れることができなくなっています。臨終が病院に囲い込まれて行くにつれて「看取り」「お迎え」といったものを語れる機会が少なくなってきているのです。なぜならば医療とは化学的・合理的で、「あの世」・「お迎え」といった目で見えないようなものは排除して考えるのが基本だからです。これらは「せん妄」現象と捉えられ、治療されてしまう事もあります。治療とは薬を使って興奮している精神を鎮静させる、思考力を取る事で、それは患者の活動そのものを抑制してしまうことにもなり、生活の質・生命の質を下げてしまう危険性も否定できません。果たして治療は本当に必要なのかというのが本日のお話しの1つの出発点であります。
近代以降の宗教と社会
江戸時代の後期から現代までの知識人が無神論を展開しているのは仏教に対する批判の一面があります。仏教的な道徳論としての因果応報論などは極楽に行くために良い事をしなさいという教説です。しかしこれは善行は「死後の救済」のために行うという態度で、仏教に批判的な知識人は善行は「善であるがゆえに行うべき」と考えいて、知ることのできない「あの世」のためではないとしています。
自分たちが生きているこの世界で日常的で身近な倫理が主張され、その世界では神や仏と言った現実世界を超越した存在を否定したのです。かくして近代以降日本には「あの世」を語らない文化が誕生したのであります。
「お迎え」現象について
2007年に在宅緩和ケアを利用しながら看取りをした人に対して、臨終した人が他人には見えないような人や風景を見たような様子があったかを調査しました。
この世には存在しないものが現れるのを私たちは「お迎え」現象と読んでいます。お迎え現象を体験した人は全体の42%にのぼっています。半数以上がすでに亡くなった家族・知り合いが現れたということです。みなさんも驚きなのではないでしょうか。
しかし実際の現場では「不思議な話」をしているとみられてしまいます。しかし、医者は我々を治癒するのが目的なので仕方がないのです。また、初詣に行く人は7割いるのに神仏を信じている人は半数しかいないという現代日本における宗教性のつかみどころのなさもお迎え現象を見えにくくさせている1つの要因です。
「お迎え」と宗教
お迎えに来る人を見てみると、人物・亡くなった知り合いが多く、大体の方がお父さんやお母さんが出てきています。ここからお迎えが宗教という枠組みに合致しないということが分かります。神様や仏様といった伝統的な宗教性は見られなく、鬼などの恐怖心をあおるものではなく、日常的に慣れ親しんできた人が現れ、自分ひとりで死んでいくのではないということが表現されています。近代という制度の中で取りこぼされてしまった自己の魂の救済のあり方がなじみのある人がお迎えに来るという現象に現れているのではないでしょうか。お迎え現象は人間の死に関する生理的なプロセスとしてあるととらえたほうが良いのではないでしょうか。


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Wednesday, April 23, 2014

Understanding the Resurrection

Sebastian Moore OSB
Our understanding of the Resurrection is both deepened and clarified if the method we employ is to re-create psychologically the experience of the people who first received it. This means to recover the Resurrection as revelation happening. The empty tomb told them that Jesus was not dead. The empty tomb told them that they were not 'on a high' with the experience of Jesus risen and the Holy Spirit. The empty tomb for them did not make things easier but harder, cutting off all retreat from the new age with its absolute demand….
The tomb is discovered by the women, to their consternation and fear…. Then there are the encounters with Jesus, which have a transforming effect, bringing the devastation caused by the crucifixion into a new sense of utter security and peace and joy, drawing into this new unity the tangle of emotions – shame, guilt, fear, anger – released by the fate of Jesus…. This is the peace and joy of a death of ego brought to its transformative conclusion. The ego-death, the emotional chaos into which the disciples have been thrown, finds its meaning and they are alive as never before….
It looks as though 'Dying, you destroyed our death' misses it – he did not destroy our death. He restored it! He made it work. He took it out of the bushes along the way, stuck it right up in front of us, and took us through it. 'Dying, you brought us death: Risen, you are our life.'….

(The disciples) had an experience of him as alive, in a way that neither the living nor the dead are thought of as alive: neither in the body as we know it, nor in the soul as we are taught to think about it. Rather, he was a presence that changed everything. He was, as St. Paul says, a life-giving spirit. And that this new life-giving presence was really he, was made known in the most amazing way: his tomb was empty!
From Jesus The Liberator of Desire (1989) and The Contagion of Jesus (2007)

Bede Griffiths OSB
The resurrection does not consist merely of the appearances of Jesus to his disciples after his death. Many think that these appearances in Galilee and Jerusalem are the resurrection. But they are simply to confirm the faith of the disciples. The real resurrection is the passing beyond the world altogether. It is Jesus' passage from this world to the Father. It was not an event in space and time, but the passage beyond space and time to the eternal, to reality. Jesus passed into reality. That is our starting point.
From The New Creation in Christ (1994)


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Thursday, April 17, 2014

Flannery O'Connor

“For me it is the virgin birth, the Incarnation, the resurrection which are the true laws of the flesh and the physical. Death, decay, destruction are the suspension of these laws. I am always astonished at the emphasis the Church puts on the body. It is not the soul she says that will rise but the body, glorified.”
― Flannery O'Connor, The Habit of Being: Letters of Flannery O'Connor

"Per me sono la nascita verginale, l'Incarnazione, la resurrezione le vere leggi della carne e del fisico. Morte, decadimento, distruzione sono la sospensione di queste leggi. Rimango sempre meravigliata dall'enfasi che la Chiese mette sul corpo. Non e' l'anima, essa dice, che risorgera' ma il corpo, g;orificato." (mia traduzione)

「私にとって、少女降誕、受肉、復活こそが、肉体と物理の法則である。死、腐敗、破壊はその法則の暫定的な保留である。教会が身体についてどれほど強調しているかをいつも驚きます。復活するのは霊魂ではなく、栄光を受けた身体である。」(私訳)

聖木曜日(2)

よく分かるようで分からない。分からないけれど、何か得体(えたい)の知れない深みがあって、その深みに誘い込まれていく。しかし、穴の奥に行けば行くほど暗くなり、自分が何処にいるのかも分からなくなる。でも、きっとそのもっと奥に光が輝いているのだろうと思って、どんどん深みに嵌る。ヨハネ福音書に記されている主イエスの業や言葉は、特にそういうものです。実に神秘的なのです。

 主イエスご自身が、今日の箇所でも「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われる。しかし、その直後には「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」とおっしゃるのです。「後で分かるようになる」とおっしゃった直後に、「分かるか」と言われたって困ります。そして、さらに、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とおっしゃる。これは、将来のこととして言われているのではなく、現在のこととして言われているのです。主イエスの言葉を聴き、その業を見たその時現在のことです。「後で分かった時」ではありません。

 ヨハネの二重構造

しかし、そのことが分からないペトロが、「主であるあなたが、わたしの足を洗うなんて」と驚き、「決して洗わないで下さい」と言って拒否することは、罪の赦しと新しい命を拒否することなのであり、それは主イエスとの関りを拒否することでしかありません。
ここで言わずもがなのことを一つ言っておきますが、私たちは、聖書のことをよく知っている人のことを信仰深いと思い勝ちです。主イエスの業や言葉をたくさん知っていて、そらんじる事が出来るような人は信仰深いと思ってしまう。さらに原語を知っていたり歴史的背景を知っていたりすると、イエス様のことをよく知っていると思ってしまう。しかし、それとこれとは関係がないことです。もし、そうならいわゆる聖書学者が最も信仰深いということになりかねません。もちろん、学者の中にも信仰深い人、イエス様との関係が深い人はいます。しかし、聖書のあちこちをよく知らなくても、イエス様との関係の深い人はいくらでもいるのです。何が問題かと言うと、要するに、イエス様を罪の赦しを与えてくださる救い主として信じているかいないかなのです。私たちとイエス様との関係は、ただそこに関るのであって、それ以外のことでイエス様を幾ら知っていたとしても、それは何も知らないことと同じなのです。イエス様と三年間も寝食を共にして、そのすべての言葉と業を見てきたこの時のペトロは当時の誰よりもイエス様のことを知っていると言ってもよい人物ですけれど、でも、ここで主イエスに足を洗って頂かなければ、彼と主イエスは何の関わりもないのです。何を言った、何をしたと知っていることが、イエス様を知っていることではないし、まして信じていることではありません。そのことをよく踏まえた上で、やはり聖書をよく読むことは大事であることもまた言わずもがなのことです。

最後に、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」という言葉は何を語っているかに耳を澄ませたいと思います。この言葉を巡っては様々な解釈がありますし、考えれば考えるほど迷路に入るような気もしますけれど、興味深いことに、「体を洗った者」の「洗う」は、「足を洗う」の時に使われる言葉とは違います。そして、その「体を洗う」という言葉の用法を調べてみると、その一つは、ある人を祭司として任職する際に水で汚れを洗い清める場合に使われる言葉であることが分かりました。祭司の大事な仕事は、罪人に罪の赦しを与える犠牲を捧げる祭儀を司ることです。そういう聖なる仕事に就かせる為に聖別する。それが水で「体を洗う」ことなのです。
主イエスは、ユダを除くペトロを初めとする弟子たちに向かって「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけを洗えばよい」とお語りになりました。そこで洗い清められる汚れは、もちろん罪の汚れです。その汚れが既に清められている者。それは洗礼を受けた者を表すと私は思います。主イエスを信じる告白をして、水と霊による洗礼を受けた者は既に清められているのです。新たに生まれ、神の国に入れられているのです。そして、それは聖なる職務に就かせられることをも意味します。
毎週、罪の汚れを清められ、神様との平和を与えられた礼拝の最後にこの世へと派遣されることは、そのことを意味します。私たちは礼拝によって清められて、聖なる務めをするために派遣されるのです。他人の足を洗うために。


私たちキリスト者一人一人は、主イエスの十字架の死と復活の贖いの御業を信じる信仰において既に全身を清められています。しかし、私たちはこの世を肉体をもって歩く限り、絶えず悪の誘惑にさらされ、気付きつつも負け、気付くこともなく負けていることしばしばです。しかし、そういう私たちを主イエスは、この上なく愛し、愛し続けてくださっているのです。今日もこうして礼拝を与えられていること、御言が与えられ、聖霊が与えられ、主との交わりが与えられていることがその一つの証拠です。私たちは愛されています。赦されています。そして、今日も清められています。そして、今日も聖なる職務に就くように促され、そして祝福をもって派遣されるのです。その愛に応えて歩むことが出来ますように。祈ります。

 主イエスは過越祭の直前に、「ご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たち(ご自分の者たち)を愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。その愛は、世にいるご自分の者たちのために過越の小羊として死ぬということです。そういう愛がここで言われている。
 そうなると、私は、いくらなんでも真似は出来ないと思う他ありません。このような愛は、主イエスだけが与えることが出来るものなのであって、その主イエスに「模範を示したのだ」と言われても、「はい、私もその模範に従います」と即座に応答など出来ません。しかし、主イエスは、それでも「このことが分かり、そのとおり実行するなら、幸いである」とおっしゃる。理解だけではなく、あくまでも実行することをお求めになるのです。それは一体どういうことなのか?

よく教会の内外で、「敬虔なクリスチャン」という言葉を聞きますし、「清く正しいクリスチャン」という言葉も聞きます。私たちも、信仰を持っていない人と自分たちを区別して、自分たちには罪がないかのように錯覚し、だから互いに愛し合えるかのように錯覚している場合もあると思います。私たちはえてしてそういう錯覚をしたいのです。しかし、錯覚は錯覚であって、現実ではありません。私たちは敬虔なクリスチャンであるかもしれません。でも、私たちはどうしようもない罪人です。それは教会生活を続けていれば分かることです。分かりたくないと目をつぶっていればいつまで経っても分かりません。でも、目を開けていれば分かる。御言によって目を開かれれば分かることです。私たちは誰もが罪人です。罪人だからこそ、主イエスによって罪を赦していただき、神の子として頂いたことを恵みとして受けることが出来るのです。信仰を与えられていない人と私たちの違いは、ただそこにあります。また、信仰を与えられていなかった当時の自分と、今の自分の違いもただそこにある。そして、恵みを恵みとして受ける道は、愛されたように愛し、赦されたように赦すということなのです。それ以外にはありません。恵みは応答することにおいて初めて実を結ぶのですから。


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BUONA PASQUA a TUTTI

BUONA PASQUA a TUTTI

Un antico graffito rappresenta un crocifisso con testa d'asino. Irrisione blasfema di un pagano su Cristo, o blasfema irrisione dell'Altissimo su ogni nostra immagine di lui e dell'uomo, sua immagine?
L'Idiozia, la gaffe incomprensibile: un Dio crocifisso! La sua croce, spettacolo osceno per tutti, scandalo per i credenti e follia per i non credenti, è la distanza infinita che lui ha posto tra se stesso e l'idolo, diceva Bonhoeffer.

Anche chi dice: "Nulla di nuovo sotto il sole!" (Qo 1,9), attende con ansia che gli si dica: "Il Signore crea una cosa nuova sulla terra" (Ger 31,22). "Proprio ora germoglia, non ve ne accorgete?" (Is 43,19). Per questo chiunque promette salvezza, di qualsiasi tipo, anche il più strampalato, trova sempre uno stuolo di adepti. Chi scuote l'albero della salvezza, è sicuro di trovarsi ai piedi una quantità, non di grulli, ma di uomini, i quali necessariamente sperano per vivere.

La croce è l'enigma con cui Dio risponde all'enigma dell'uomo. Un Dio crocifisso non corrisponde a nessuna concezione religiosa o atea. È una rappresentazione "oscena", fuori della scena del nostro immaginario: è "la distanza infinita che Dio ha posto tra sé e l'idolo".


All'interno della Bibbia c'è un'evoluzione nella concezione di Dio, come in ogni uomo c'è un'evoluzione nel rapporto con la madre e il padre. Non bisogna fermarsi a quello che si pensava da bambini, soprattutto nel campo spirituale (1Cor 13,11), anche se è inevitabile passare per tale fase. La storia stessa comporta uno sviluppo nella conoscenza non solo del mondo, ma anche di Dio. Non è essa, molto più della natura, il luogo della sua rivelazione, fino a quando lui sarà tutto in tutti (1Cor 15,28)? Dalla concezione di un Dio iperviolento, che contiene con la violenza della sanzione la violenza distruttiva dell'uomo, si giunge a quella del Dio misericordioso, la cui giustizia è portare su di sé l'ingiustizia.

S. Fausti, L'Idiozia, Debolezza di Dio e salvezza dell'uomo, Ancora.




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Wednesday, April 16, 2014

Insight 581

Insight 581

2.5 The Appropriation of Truth   真理の獲得


Cognitional Appropriation  認識的獲得
   
      - Learning 学習      (理解と公式化のレベル)
      - Identification  同一化   (経験のレベル)
            - Orientation 方向付け    (反省と判断のレベル)


Volitional Appropriation  意志的獲得



Sensitive Appropriation  感覚的獲得

rari nantes in gurgite vasto Rare survivors in the

rari nantes in gurgite vasto Rare survivors in the immense sea Virgil, Aeneid, I, 118

Aeneid Book 1, Lines 195 to 207

Vina bonus quae deinde cadis onerarat Acestes
litore Trinacrio dederatque abeuntibus heros,
dividit, et dictis maerentia pectora mulcet:
`O socii---neque enim ignari sumus ante malorum---
O passi graviora, dabit deus his quoque finem.
Vos et Scyllaeam rabiem penitusque sonantis
accestis scopulos, vos et Cyclopea saxa
experti: revocate animos, maestumque timorem
mittite: forsan et haec olim meminisse iuvabit.
Per varios casus, per tot discrimina rerum
tendimus in Latium; sedes ubi fata quietas
ostendunt; illic fas regna resurgere Troiae.
Durate, et vosmet rebus servate secundis.'

Oh comrades - indeed we are not inexperienced of prior evils - Oh those who have suffered worse things, god will also give an end to these. You approached both the raging Scyllae and the sounding rocks within, and you experienced the Cyclopic rocks: recall your spirits, and send away sad fear: and perhaps in a future time it will please to have remembered these things.
Through various events, through so many crises we are making our way to Latium; where the fates are showing quiet settlements; and there it is permitted that the kingdoms of Troy rise again. Endure, and preserve yourselves for coming things.'


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Friday, April 11, 2014

朝日新聞

朝日新聞

(耕論)孤立する日本 出口治明さん、加藤典洋さん
2014年4月11日05時00分


 安倍晋三首相の靖国神社参拝をきっかけに、中国・韓国だけでなく、米国ともきしむ日本。国内で政権の支持率は高いが、国際社会で日本の仲間はいるのだろうか。孤立化も指摘される背景と日本のこれからについて識者が語った。

 ■「信念より現実」こそ真の保守 ライフネット生命会長・出口治明さん

 今の日本はロシア、北朝鮮、韓国、中国、台湾と近隣の五つの国・地域すべてと領土紛争を抱えている。郊外に一戸建てを買ったが、周りのすべての家と境界争いをしているようなもの。家なら引っ越せますが、国は引っ越せません。世界史的に見ても極めて異例な状況です。

 最近、日本の孤立が深まったように見えるきっかけとなった安倍首相の靖国神社参拝からは、「信じる理念に基づき、現実を変革しよう」という首相の強い意思を感じます。その気持ちは理解できますし、戦没者を追悼したいという思いは真実だと思います。

 一方で、僕は「保守主義の父」とされる18世紀の英国人エドマンド・バークにも共感します。保守主義とはむしろ理念ではなく、理念自体を否定する考え方です。バークは「自由・平等・博愛」という一見素晴らしい理念で社会を変えようとしたフランス革命に批判的でした。

 バークは「人間の知恵や理念は信頼できない。なぜなら人間はそれほど賢くないからだ。信頼できるのは長年にわたる試行錯誤の結果、社会に定着した習慣だけだ」とし、「これまでうまくいってきたことを変えようとするな。まずいことが起こったら、そこだけ変えればいい」と主張した。

 現実にフランス革命は、バークの予想通り恐怖政治に陥った。保守主義の立場からすると、現実にさほど困っていないことを変えようとする、あるいは現実よりも信念を重視するという姿勢は奇異なものに映ります。

     *

 <過去は消せない> 第2次世界大戦の評価はとても難しい問題です。ただ、人間はそう簡単に過去を忘れることができない動物でもある。最近みなもと太郎の「風雲児たち」という歴史漫画を読みました。

 ワイド版単行本の第2巻では、関ケ原の戦いに敗れ、山口県の萩に追いやられた長州藩主・毛利家の元旦恒例の行事が描かれます。家老が殿様に「徳川家征伐の準備が整いました」と、毎年同じ口上を述べる。それに対し、殿様は「今はまだその時機ではない」と答える。「いつかは徳川を倒す」という怨念を込めたこの行事を長州藩は300年近く続けました。

 事実ではなく伝説、との見方もありますが、僕は「人間とはこういうものだ」と思います。過去は数百年程度では消せない。古代ローマの哲学者キケロの「自分が生まれる前を知らなければ、ずっと子どものままだ」という言葉をかみしめ、歴史に学んで欲しい。

 日本人が中国や韓国との関係に過敏になっているのは「戦争には負けたが、経済ではアジアのどの国にも負けない」という誇りが脅かされたことも影響しています。ですが、長い歴史の中で、日本の経済力が中国を上まわっていたのはごく一時期。それに戦後の日本の高度成長は「戦後中国に共産党政権が誕生し、米国が冷戦期のアジア外交のパートナーを日本に変えざるを得なかった」という幸運にも支えられていた。幸運はいつまでも続かない、中国は元に戻りつつあるだけだ。そう考えれば、プライドも傷つかないのでは。

     *

 <貧しい対米人脈> 実は個人的に一番懸念しているのは米国との関係です。ブッシュ政権で国家安全保障担当補佐官、国務長官を歴任したブッシュの右腕ライス氏の回顧録を読んでも、日本人の名前が出てこない。日本はブッシュ政権の最重要人物と個人的関係を築けなかった。オバマ政権とも同様です。現在の日本の対米人脈の貧しさが心配です。

 日露戦争が始まった時、伊藤博文は、自らの懐刀である金子堅太郎をただちに米国に派遣しました。金子がハーバード大学に留学した時、若き日のセオドア・ルーズベルト大統領と親交を結んでいたからです。金子がルーズベルトと旧交を温めたことは、米国が日本支持に回り、戦争を有利に進める上で大きな力となった。

 現在、米国への留学生は中国から約23万人、日本からは2万人を切っています。将来、どちらが金子のような人材を多く持てるのか。日本が今後も米国との関係を軸に中国と相対しようとするのであれば、留学生への支援強化など、米国とのしっかりとした人間関係を築く努力をするべきです。

     *

 でぐちはるあき 48年生まれ。生命保険業の傍ら、5千冊以上の歴史書を読み、京都大で歴史の特別講義をしたことも。著書に「仕事に効く教養としての『世界史』」。

 ■敗戦の「ねじれ」に向き合って 文芸評論家・加藤典洋さん

 安倍首相の靖国神社参拝から3カ月半。これだけの短期間で日本の孤立が深まった根本的原因は、日本が先の戦争について、アジア諸国に心から謝罪するだけの「強さ」を持っていないことです。

 日本が東アジア諸国と安定した関係を築くには、しっかりと謝罪し通す以外の道はない。これは戦後の世界秩序の中では、どうあがいても動かない原則です。ところが、日本が本当の意味で東アジア諸国に謝罪したと言えるのは、従軍慰安婦に関する1993年の河野官房長官談話、侵略戦争と認めた95年の村山首相談話と、それを継承した05年の小泉首相談話くらい。これらに対し、近年、政治家が繰り返し疑問や反発の声を上げて、これまでに築いた信用を自ら掘り崩してきました。

 自らが生きる東アジアで関係を築けない以上、米国との関係に依存するしかない。だから米国に「失望した」と言われたとたん、世界で孤立してしまう。同じ敗戦国のドイツが謝罪を繰り返し、今やEUで中心的な役割を担っているのとあまりにも対照的です。

     *

 <悪い戦争だった> なぜ、謝れないのか。敗戦の事実から逃げてきたから。具体的には敗戦で日本が背負った「三つのねじれ」に正面から向き合ってこなかったからです。

 戦争は通常、国益のぶつかり合いから生じるもので、「どちらが正しいか」という問題は生じません。しかし、先の戦争はグループ間の世界戦争で、「民主主義対ファシズム」というイデオロギー同士の争いでもあった。民主主義の価値を信じる限り、「日本は間違った悪い戦争をした」と認めざるを得ない。

 だが、たとえ間違った戦争であっても、当時これを正しいと信じ戦って死んだ同胞を哀悼したい、という気持ちは自然です。それを否定しては人間のつながりが成り立たない。「悪い戦争を戦って亡くなった自国民をどう追悼するのか」という、世界史上かつてなかった課題に私たちは直面したが、その解決策をいまだに見いだせない。これが第一のねじれです。

 第二のねじれは憲法です。現在の憲法は明らかに米国から押しつけられた。ひどい憲法なら作り直せばいいが、実は中身は素晴らしい。押しつけられた憲法をどうやって選び直し、自分たちのものとするのか。護憲派もこの難題に向き合うのを避けた。それで、憲法が政治の根幹として機能しない。

 第三のねじれは、天皇の戦争責任をあいまいにしてきたことです。昭和天皇と戦争については多くの考慮すべき事情がありますが、それでも私は昭和天皇は戦争に道義的責任があるし、存命中にそれについて発言すべきだったと考えています。それがなかったため、戦後多くの政治家は「自分たちも戦争責任を真剣に考える必要はない」と居直り、戦争で苦しんだ人々の思いを受け止める倫理観を麻痺(まひ)させてしまった。

     *

 <苦しみに応える> これら三つのねじれはいずれも、現在の課題と直結しています。第一のねじれは靖国神社参拝、第二のねじれは集団的自衛権をめぐる憲法解釈の見直し、そして第三のねじれが従軍慰安婦問題です。特に元慰安婦への対応は「個人の受けた苦しみや屈辱に国家がどう応えるか」という普遍的な問題で、世界中に通用します。孤立化に最も影響するでしょう。

 陳腐な言い方になってしまいますが、根本は「苦しんだ人への想像力を持てるか」「それを相手に届くように示せるか」です。人も国もそれができなかったら、信頼を失い孤立するしかない。理屈もこの心の深さの上に立たなければ意味をなさないのです。

 西ドイツの首相だったウィリー・ブラントは70年、当時共産圏だったポーランドでユダヤ人ゲットーの蜂起記念碑を訪れた際、思わずひざまずいた。ドイツ国内からは「屈辱外交」と非難され、ポーランド側さえとまどった。だが、そうした「政治家の顔が見える、本当の心をともなった謝罪」だけが、苦しめられた側に届く。「元慰安婦たちはウソをついている」と言わんばかりの姿勢でいいのか。それを判断する感度が、政治家だけでなく日本社会全体で弱くなっていることを危惧します。

 (聞き手はいずれも太田啓之)

     *

 かとうのりひろ 48年生まれ。国会図書館勤務を経て明治学院大、早稲田大教授を務め、14年3月退職。著書「アメリカの影」「敗戦後論」。




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Tuesday, April 08, 2014

狼煙(のろし)とは、

狼煙(のろし)とは、物を焼くことで煙を上げ、それを離れたところから確認することによって、情報を伝達する手段である。夜間など煙が見えない場合は、火そのものも使われる。烽火、狼火(ろうか)、狼燧(ろうすい)とも言う。

中国の万里の長城などにそれらしい遺構が残っている。

戦国時代には戦国大名が通信手段として用いたと言われ、

モンゴルのチンギス・ハーンの帝国でも狼煙の連携による情報通信が行われていた。その伝達速度は時速140kmに及んだという(2006年11月18日放送のテレビ朝日のモンゴル特集番組での実験では時速159kmを記録)。

タイトル 『The Smoke Signal』

オオカミの糞を使っていた

Smoke signals are still in use today. In Rome, the College of Cardinals uses smoke signals to indicate the selection of a new Pope

通信


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Friday, April 04, 2014

Insight, 579 exergue, epigraph(書物の巻頭・章の)題辞,標語. 奥付

Insight, 579 exergue, epigraph(書物の巻頭・章の)題辞,標語. 奥付

τὰ μὲν οὖν εἴδη τὸ νοητικὸν ἐν τοῖς φαντάσμασι νοεῖ
Forms are grasped by mind in images (p. 699-700) 
The thinking capacity of the soul, therefore, thinks the forms in images, and just as in those [cases which involve perception] it determines what is to bepursued and avoided, also [in the cases] excluding perception, when it attendsto images, it is moved; for instance, perceiving a beacon because it is fire, by the common [sense?] grasps, seeing it move, that it is the alarm signal; andsometimes [one] calculates by means of images or thoughts in the soul, asif seeing, and deliberates what is going to happen with reference to what ishappening; and when [the thinking capacity of the soul] pronounces [what isto be pursued and avoided], just as there [viz. in the cases when the perceptualcapacity of the soul pronounces] the pleasant or unpleasant, also here [in thecases when the thinking capacity determines what is to be pursued and avoided,it] avoids or pursues, and so in action generally. (DA III.7 431b
2–10; see Appendix (c))

http://blogs.yahoo.co.jp/dakuserukun/folder/1282480.html?m=lc&sv=%A6%D5%A6%C1%A6%CD%A6%D3%26%238049%3B%A6%D2%A6%CC%A6%C1%A6%D2%A6%C9&sk=1
デ・アニマ 3:7  『霊魂論』

その5

τὰ μὲν οὖν εἴδη τὸ νοητικὸν ἐν τοῖς φαντάσμασι νοεῖ, καὶ ὡς ἐν ἐκείνοις ὥρισται αὐτῷ τὸ διωκτὸν καὶ φευκτόν,
ところで、知性は知的対象*1をイメージとして*2とらえる。そしてイメージの形で、知性にとって求めるべき対象と避けるべき対象とが区別される。
(*1)エイドス・・・・形相、種、種類=ものの本質。物事の本質についてのアイディア・考え・コンセプト。
(*2)文法上「イメージを使って」とも読める。その場合、「知性はイメージを使って考えを作り出す」ということになるけれども、「人は多くのイメージ、多くの言葉を組み合わせて1つの考えを作り出す」みたいな考え方は実は誤り。イメージを組み合わせるのは、考えを「表現するとき」であって、考えが「浮かんでくるとき」つまり生まれてくるときはそんな組み合わせ作業などまったくなく、ただパッと思いつくだけ。1つのイメージとして考えが浮かぶだけ。そのパッと浮かんだ1つのイメージを、多くのパーツを組み合わせて表現する。

καὶ ἐκτὸς τῆς αἰσθήσεως, ὅταν ἐπὶ τῶν φαντασμάτων ᾖ, κινεῖται· οἷον, αἰσθανόμενος τὸν φρυκτὸν ὅτι πῦρ, τῇ κοινῇ ὁρῶν κινούμενον γνωρίζει ὅτι πολέμιος·
また心の中のイメージを見ているときは、知性は感覚なしでも働く。感覚していないことをとらえる。例えば点滅する合図を見て、火があることを知り、共通感覚*1によって点滅するものが動いているのを見て、戦が起こっていることを知る。
(*1)複数の感覚でとらえられる事柄がある。動きは視覚でも聴覚でも触覚でもとらえられる。大きさは視覚でも触覚でもとらえられる。共通感覚はそういう事柄をとらえる感覚。

ὁτὲ δὲ τοῖς ἐν τῇ ψυχῇ φαντάσμασιν ἢ νοήμασιν, ὥσπερ ὁρῶν, λογίζεται καὶ βουλεύεται τὰ μέλλοντα πρὸς τὰ παρόντα·
またときには心の中のイメージつまり思考が、あたかも眼前に起こっているみたいに、現在の状況や将来の状況を描き出し、知性がそれにしたがって将来のことを計算したり決定したりする。

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καὶ ὅταν εἴπῃ ὡς ἐκεῖ τὸ ἡδὺ ἢ λυπηρόν, ἐνταῦθα φεύγει ἢ διώκει- καὶ ὅλως ἓν πράξει.
また、快いものや苦痛なものがあるとき、霊魂は求めたり避けたりする、ということは、人間のする活動全般について言える。

καὶ τὸ ἄνευ δὲ πράξεως, τὸ ἀληθὲς καὶ τὸ ψεῦδος, ἐν τῷ αὐτῷ γένει ἐστὶ τῷ ἀγαθῷ καὶ τῷ κακῷ·
そして実際の活動のない分野、つまり知的活動・思考においては、「正しい・誤っている」が(実際の活動のある分野の)「よい・悪い」*1に相当する。
(*1)前の文の「快い・苦痛な」に相当。
デ・アニマ3:7 ⑤

VOCABULARY part 1

+men oun : used to mark a transition of the narrative, used to continue a narrative..........then, so
+en + dat. : (of place) in...., at...., on.....,  / within..., surrounded by... / (of the instrument, means, or manner) by...., with....,  by means of...., in the manner of.....@@@ / in the form of, as@@@.........”silver in the form of a plate”, “his daughter as a pledge”

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Let us now summarize our results about soul, and repeat that the soul is in a way all existing things; for existing things are either sensible or thinkable, and knowledge is in a way what is knowable, and sensation is in a way what is sensible: in what way we must inquire.

デ・アニマ3:8 ①

431b20   Νῦν δέ, περὶ ψυχῆς τὰ λεχθέντα συγκεφαλαιώσαντες, εἴπωμεν πάλιν ὅτι ἡ ψυχὴ τὰ ὄντα πώς ἐστι πάντα·
さて、霊魂について今まで言われたことをまとめて、もう一度、「霊魂は、或る意味において万物である」と言おうではないか。
ἢ γὰρ αἰσθητὰ τὰ ὄντα ἢ νοητά, ἔστι δ' ἡ ἐπιστήμη μὲν τὰ ἐπιστητά πως, ἡ δ' αἴσθησις τὰ αἰσθητά·
というのも、存在は感覚の対象であるかまたは知性の対象であるかどっちかであり、
また、知性は或る意味でその対象と同一であり、
感覚は或る意味でその対象と同一だからである。
πῶς δὲ τοῦτο, δεῖ ζητεῖν.
で、それがどういう意味においてなのか、吟味しないといけないだろう。



+lechthenta : aor. passive participle, neuter, plural, acc. of "lego^ (say)"
+sugkephalaio^santes : aor. participle, masculine, plural, nominative of "sugkephalaioo^"
+sugkephalaioo^ : to bring together under one head, to sum up, to make a summary of
+eipo^men : subjunctive of "eipon (say)"
+palin : (of space) back, backwards...........mostly with verbs of going and coming / (in abstract senses) in contrary direction........"to talk back, to reply contrariwise", "to unsay, to retract what one said", to think contrariwise"..........with genitive "contrarily to..." / (of time) again, once more / (of succession) in turn, seccondly.........."he replied in turn", "firstly..., secondly...."
+po^s : anyhow, somehow, in any way, at all, by any means, regardless of manner, without thinking of any definite manner / in a certain way, in a certain sense (opposite to "haplo^s (without any qualification, simply, absolutely)" )

+po^s touto : how so? in what way is it true?
+ze^teo^ : to examine, investigate




新福者ニューマンと信徒の地位・養成問題 — 糸永真一司教のカトリック時評

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新福者ニューマンと信徒の地位・養成問題

作成者 P.Itonaga投稿日 2010年11月25日 00時00分 最終変更日時 2010年11月15日 16時13分
列福式を司式した教皇

さる9月19日、教皇ベネディクト16世は英国公式訪問の最終日、バーミンガムのコフトン・パークでのミサで、ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿(1801-1890)を福者の列に加えた。なぜ今ニューマン枢機卿の列福なのか、その意味を考えてみよう。

正直言って、わたしはニューマン枢機卿について詳しいことは知らなかった。そこで、岡村祥子・川中なほ子編『J.H.ニューマンの現代性を探る』(南窓社2005年)を購入して読んだ。この本は、川中さんを会長とする日本ニューマン協会の20年にわたる研究の成果を10編の論文にまとめた好著である。
この本によると、枢機卿は英国国教会(聖公会)の家庭に生まれ、合理主義的な世界観と啓蒙思潮の影響を受けて育った。しかし、15歳にして福音主義の感化を受けて回心し、生涯独身の決意を固めた。そして、聖公会とカトリック教会との狭間で、教会の歴史研究から教会のカトリック性や使徒継承など、聖なる伝承に基づくエキュメニカルな刷新を求め、大学の理念や信徒の地位向上論など、現状認識からカトリック教会の近代化を訴えた。
1962年、第2バチカン公会議を招集した教皇ヨハネ23世は、「この公会議はニューマンの公会議である」と語ったという。これは、この本の執筆者の一人である西原廉太立教大学助教授の言であるが、もしこれが本当なら、教会刷新の父として、あるいは教会現代化の先駆者としてのニューマン枢機卿の役割がようやく結実の時を迎えたということであろう。今この小論で新福者の業績全体に触れるわけにはいかないので、その中から、教会における信徒の地位と役割に関する彼の主張を取り上げる。
44歳にしてローマ・カトリック教会に帰正したニューマンは、「教会は聖職者と信徒との共同体である」との信念から、あらゆる機会をとらえて信徒に対する尊敬と理解を表明し、生き生きとした教育のある信徒の重要性を説いてやまなかった。その一つの理由は、英国教会において信徒の位置と役割が重視されていたのに対し、カトリック教会においては、信徒の地位の低さと教育のなさに愕然としたからだという。
しかし、ニューマン枢機卿の訴えは、当時、歓迎されないばかりか、非難や抵抗に遭う。ようやく20世紀になって信徒神学が起こり、カトリック・アクションなどの信徒活動が推奨されるようになり、遂に第2バチカン公会議において信徒の地位と使命が解明された。まず、教会共同体において信徒は聖職者と平等の地位と尊厳を有することが宣言される。
「教会の中で、すべての人が聖性に招かれ、神の義のもとで同じ信仰を受けている。ある人々はキリストのみ旨によって他の人のための教師・秘義の管理者・牧者に立てられるのであるが、キリストのからだの建設に関するすべての信者に共通の尊厳と働きの点ではすべての人は平等である」(教会憲章32)。
信徒独自の使命については次のように述べる。「信徒によらなければ教会が地の塩となり得ない場所と環境において、教会を存在させ活動的なものとすることが、特に信徒に与えられた使命である」(教会憲章33)。
考えてみれば、18世紀以来、人類は近代合理主義や啓蒙思想の影響を受けて、人間理性の神からの独立志向や政教分離による国民国家の世俗主義(神離れ)が進む一方、信仰は公の場から締め出されて私的な世界に閉じ込められ、世間からいわば隔離された聖職者の影響は世の中、特に科学技術や政治や実業の世界には届かなくなった。だから、世俗社会の中にいる信徒たちの内側からの働きかけがなければ社会の福音化は進まない。ところがニューマン当時、そのための信徒の養成は行われず、聖職者の指導だけで十分だと考えられていた。この聖職者主義(clericalism )は、その後克服されたのだろうか。
ニューマンから一世紀、ヨハネ23世は、世俗の学問の発展に比べて信徒教育の出遅れを指摘せざるを得なかった。「あまりにもしばしば、多くのところで、宗教教育と一般の学問教育との間に均衡がなく、学問教育は高度に推し進められているのに、宗教教育は初歩の段階にとどまっている」(回勅『地上の平和』149以下参照)。これが平和回勅の言葉であること考えれば、専門知識と信仰の知識を併せ持つ高度に養成された信徒リーダーの不在ゆえに、二次にわたる世界大戦を食いとめることができず、世界平和構築に強いリーダーシップを取れなかったことへの痛切な反省の弁である。それからすでに半世紀。事態が抜本的に改善された証しはない。
ベネディクト16世は列福式の説教で新福者の信徒教育論を指摘したが(カトリック新聞の列福記事参照)、信徒養成について高邁な理想を掲げたニューマンを顕彰することが、今回の列福の一つの狙いであったことは間違いない。

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