Saturday, May 12, 2018

World map of religion: see which countries are the most religious

https://aleteia.org/2018/05/09/world-map-of-religion-see-which-countries-are-the-most-religious/


iPadから送信

Wednesday, May 09, 2018

Antelami Battistero Barlaam e Iosaphat

Il portale del Battista
Da questa porta un tempo entravano i catecumeni, ovvero coloro che intraprendevano il percorso di fede per essere ammessi al Sacramento del Battesimo.
Nella lunetta è narrato il racconto devozionale di origine indiana: si tratta della storia del principe indiano Josaphat, che per mano del vecchio eremita Barlaam, si converte al Cristianesimo. Al centro della scena si trova un albero, sul quale un giovane è intento a prendere del miele da un’arnia, incurante della presenza sottostante di un drago minaccioso, simbolo della morte. Due topi, intanto, stanno rosicchiando la radice dell’albero, mentre ai due lati il sole e la luna cavalcano i loro carri, allegorie del tempo che trascorre inesorabile.

Nel portale sud lo scultore antelamico ha dato immagine a una iconografia di origine probabilmente buddista, molto popolare nel medioevo. È la storia di Barlaam e di Josaphat. Il rilievo rappresenta un giovane che arrampicato su un albero sta gustando un favo di miele e non si accorge, lo sventurato, che due roditori e un drago stanno consumando il tronco alla base. Intanto, a simboleggiare lo scorrere del tempo, le figure allegoriche del Sole e della Luna attraversano il firmamento sui loro carri celesti. Il tutto è trasparente metafora della vita che il Male insidia e che, nel veloce precipitare dei giorni, può finire all'improvviso, proprio quando ci sembra più dolce.
Si tratta del quarto apologo narrato da Barlaam al giovane discepolo Iosaphat, per insegnare la vanita' dell'esistenza.  Probabilmente la prima raffigurazione in occidente. Diversamente dalle altre lunette qui non c'e' nessuna scritta, probabilmente per distinguerlo come episodio non biblico.


Saturday, April 28, 2018

グアルディーニの摂理論 02

グアルディーニの摂理論 02

運命のモデル

以上述べたことをモデル化すると、次のようなメタファーを考えてみよう。
野球やサッカーの試合を控えた二つのチーム。環境は、パシフィックリーグやジェイリーグ、チームのシーズン、各プレイヤーの状態、控えた試合に対する作戦、メンバーの組み方、試合に対する態度(相手を恐れすぎている、あるいは逆に相手を見くびっている)。これら全てが運命(勝ち負け)を決める。
以上と似たような状況は、経済(会社の運営)、教育と学問、健康管理などにもみられる。

運命とは、要するに諸出来事のパターンとしての環境である。けれども、出来事は外から起こるばかりでなく、内面からも起こる。事物からだけではなく、人間からもである。落雷は起こるのは大気の状況からである。人間はそれに影響を及ぼさない。けれども、落雷は具体的な生活環境内に起こり、それによって独特な性格付けされる。事故も、人間と関係ない客観的な因果性から起こるが、人間の反応も必ずある。自己防衛のメカニズムのようなものは必ず働いている。地震によるけが人の研究から明らかになったように、本人が意識しないような内面的な促しに導かれて、多くの場合は考えられないようなタイミングで助かったりすることがある。
この人は運がよかった、あの人は運が悪かったという場合は、どのような意味になるだろうか?あることは今回うまくいくいった。あるいは、今回はうまくできなかった。「今日は運がついていない」という場合、その「今日」は前日とはどのように違っているのか?世界とでも違うのというのか?事実上、違う世界である。なぜなら、私が接している世界は、物理的総体だけではない、私の環境であるから。その世界が外から作り出されるのは半分だけであり、残りの半分は私の内面からであり、絶えず私から性格づけられている。ローマの詩人サッルスティウスの名言のように、「めいめいが自分の運命の作者である」("Faber est suae quisque fortunae")。これは、意味の浅い諺ともなっているが、それ以上の真理性がある。
運命というときは、概念としてまず避けることのできない一連の出来事ということになる。これは、部分的には誤魔化しである。この概念はおそらく、一定の非常に複雑な文脈はそれなりの結果の方に働くのは、意識されないという状況の中であると言いたいであろう。実は、運命の出発点には影響を及ぼせない部分はあるが、他の多くに時点には出来るはず。人間は、自分自身に影響を及ぼすことができるのは疑えないのだから。最初の外部配置


iPadから送信