Friday, February 23, 2018

Buddismo e cristianesimo

Thursday, February 22, 2018

Hさんへのメール(その二)

 
Hさん

 

パウロの書簡には、キリストは「新しいアダム」として紹介されていますね。これは、どういうことかと、問うてみた場合は、かなりの深みのある言葉ということに気づきますが、例えば、次のような事柄が含まれているだろうと思われます。「新しいアダム」とは、古いアダムの抱えた問題に解決をつける人だと。古いアダムが抱えた問題とは、神学の専門用語では「原罪」と言います。(注意:原罪に関して不十分な認識を持っていると話は通じなくなる)。分かりやすく言うと、新しいアダムは原罪を持っていない、ということになります。ところが、アウグスティヌスあたりから、議論されてきたように、原罪は人間の誕生によって継承される、というような認識があって、そしたら、イエスは人間のマリアから生まれることで、原罪を受け継ぐことになってしまう。イエスから新しい人類が始まる。「新しい創造」(Kaine Ktisis, 2コリ5・17など参照)が始まった。そしたら、イエスはアダムの原罪を受け継いでいないということを見せるために、マリアにも原罪がないということが必要になってくる。新しい人類は、昔の預言者によって準備されているが、具体的なスタートとして、預言者の子孫であるマリアからである、と。かつて、原罪のないアダムを創造されたゴッドは、原罪のないマリアを造ることはできない、となれば、これは本当におかしな話になります。当然すぎるぐらい当然ですね。でないと、「新しいアダム」という考えた方の重要な中身はわからなくなる。

聖書にないから、という反論はプロテスタントの古い偏見で、すでにトリエント公会議(五百年前)で論駁されていますが、無知な者だけは現在でも繰り返している。特に日本では中途半端な説えを述べる人は目立ちます。

 

以上、同じような話は、聖母被昇天と煉獄(ところで、煉獄を信じない人はダンテの『神曲』を読んだことがない、ということはすぐに推測できます。やはり、無知ですね。無知なものに耳を貸すとどうなる?)についてもできるのですが、長すぎることになるので、別の機会に譲ります。

 

それより以前の話をしておきます。教会の教えには何千年の深い知恵が詰まっていて、知っている人でしたら誰でも認める、史上トップレベルな思考者(アウグスティヌスやトマス・アクイナス)によって吟味されています。ですから、それに反論を唱えるためにはかなりの覚悟が必要でしょう。トマス・アクイナスやアウグスティヌスに勝てるというような気分が必要。これが、かなり傲慢なひとでないとできない。ところが、信仰のことを理解するために逆の態度が必要です。つまり、謙虚さですね。自分の小さな頭や視野に信頼をおくのではなく、本ものの知恵のある者に学び、その知恵に頼ることです。

 

それでは、お元気で

 

ボナツィ

Tuesday, February 13, 2018

Hさんへのメール


Hさん

 

メールを受け取りました。

P・ティリッヒというアメリカの有名な神学者は、「信仰」あるいは「信じる」ということを、「究極的関心」と言う風に説明しています。ティリッヒは、マルコ福音書から次の言葉を引用しています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ1230)。「心」「精神」「思い」「力」という四つのものとの関係と聖書的な意味について説明するとかなり長くなりますので、おおざっぱに言って「知情意」と言われる場合の「知」「情」「意」に対応すると考えていただいてもいい。

したがって、「信じる」とは、知情意という人間の精神機能すべてがしかも統合された形で関わっている全人格的なものと考えるべきなのです。ですから、信仰=認識(不完全なあやふやな知識)、信仰=意志(無理に信じようとすること、オウム真理教みたいな他律的精神性)、信仰=感情(主観的な気分、独りよがり)といった理解は、よくありがちな信仰への誤解であると言わねばならない。人間の精神全体に関わることなんですが、それは「宗教的」信仰に限ったことではない。我々は日常的にさまざまなものを信頼することによって生きており、人間として生きる上で何ものをもまったく信じないということはおそらく不可能でしょう(電車や飛行機に乗ることを考えてみてください)。つまり、「信じる」とは人間だれしも経験することであり、特別な感受性か鋭い感覚に限ったことではない。相手の誠実さに信頼し、約束を行い、それを遵守したり破ったりする自由と責任を担っているということは、人格的存在者としての人間の基本に属するものであり、宗教的信仰と日常的な信頼関係との両者に共通の構造をもっている。

この共通の構造を表現する用語として「関心」という概念が採用される理由を考えてみると、人間は日常生活において、さまざまな対象に関心をもちながら生活している。家族、恋人、仕事、趣味、事件、食事など。その意味で、「人間である」とは、世界の中で出会う事物や出来事に対して関心を持って生きることであると言い換えることができる。関心をもたない人間はありえない、というぐらいなもの(だから、皆何かを「信じて」いるといえる)。「信仰」とは、人間の全体性に関わる重要なものであると言えるでしょう。

次に「究極性」について。これは、先のマルコ福音書の言葉で言えば、「…尽くして」と表現されていた信仰の性格に関わる。宗教における「信仰」は、日常的な関心(「心」「精神」「思い」「力」)を最高度に高め集中させるところに成立するのであって、真剣で強烈な愛にきわめて類似したものなんです。信仰の対象となるものは信仰する者にとって特別な意味深い価値あるものとして経験されるのです。日常的関心は、生活の一部分にしか関わらない(学生時代は学校に深く関心していても、一生続くわけではない)のに対して、宗教的信仰が生活の一部分ではなく、その全体、つまり全生活、全人生に関わっているということです。信仰者の人生全体の意味がかけられているのです。

ところが、全人生と言っても、これまで経験した部分に関しても、全部理解しているわけではない。これからの部分は、全く分からないから、自分から「神信仰」を生み出すことはできない。信仰の対象を「示して」もらうことが必要なのです。

 

話は変わりますが、この前いただいたプリント(『カトリック教会の文書資料集』)を見たが、これは専門家の使う書物であって、言ってみれば、医者さんが医者になるために勉強する書物みたいなもので、一般の人には分かるはずがない。もっと分かりやすいものを読んでくださるようにお勧めします。例えば、『カトリック教会のカテキズム』。

 

それでは、今回はこの辺で終わりたいと思います。お元気で。

 

ボナツィ


 

 

Sunday, February 11, 2018

Il problema del dolore (Teodrammatica, vol. V)

(Rm 8, 19-26)Il dolore qui non viene visto come un destino che chiude il mondo terreno in se stesso e lo defrauda piu' che tutto di ogni trascendenza -- "sull'aldila' ogni prospettiva e' venuta meno" -- e ci incita a lavorare piu' che tutto al miglioramento dello stato intollerabile del mondo. No, ma il dolore viene visto come un fenomeno che ci viene imposto quale compito dall'alto e che parla di aldila' con tutto il volume del suo linguaggio.
   L'inesplicabile (per noi) eccesso di dolore nel mondo non dovrebbe consistere, in ultima analisi e nella sua totalita', in questa trascendenza per lo piu' inconsapevole? Non dovrebbe essere l'iniziazione al grande atto del dono di se' che conclude la nostra vita nel tempo? Iniziazione anche la' dove colui che soffre, e che viene intimamente devastato contro volonta', insorge con tutte le sue fibbre contro un fenomeno che gli appare insano e che ha su di lui un dominio gelido assoluto? Tutto questo sangue invano versato non dovrebbe alla fine avere qualcosa a che fare con il solo "sangue prezioso", mediante cui siamo "comperati" e "lavati"?

(H. U. von Balthasar, Teodrammatica, vol. V, pp. 423-424)

Monday, January 22, 2018

祈りというドラマ

祈りというドラマ

日常生活の中で「自分」と呼んでいるものも、演劇(ドラマ)的構築物である。主に記憶によって、ひげそりするたびにかがみでみること、「内面を覗く」という、いとも簡単に外れやすい活動で、構築されている。普段から、この構築物を「自分」と呼び、その舞台を「現実の世界」と呼んでいる。さて、祈りという状態は、この「現実の世界」および「現実の自分」とは、岩のようにしっかりとしたものに程遠い、ということに気づくことから成り立っている。なるほど、自分は体でもって舞台を去って、舞台裏に移ることはできない。観客席に座ることもできない。けれども、舞台裏とか、観客席とかいう、そういう別の場所もあるということを思い出すことができる。現実性に乏しいこの自分は、ピエロか、英雄か、あるいは政治家であったりするが、ルージュの下に実際の自己を持っていて、舞台から離れた生活もある、ということも思い出す。この演劇的な自分は、実際の自己をどこかで隠していなければ、舞台に乗ることは一切ありえないのだから。祈りにおいて、この実際の自己は、言葉を作り出すために闘うのだ。それは、ステージ上の俳優と交わす台詞ではない。何と呼ぶべきだろうか迷ってしまう。誰もがすべてを発明したものだから、脚本家というべきか、彼は我々すべてを指示するから、監督というべきか、彼は演じ方を見ていて、我々すべてのパフォーマンスを判断するから、視聴者というべきか、その彼と交わす言葉を作り出すために闘うのだ。

(C. S. Lewis, Letters to Malcolm, 1964, pp. 122-123)





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Sunday, January 07, 2018

Disincantamento del mondo

"L'uomo moderno non porta piu' gli occhiali iridescenti che la fede cristiana offriva all'uomo osservatore del mondo (un mondo che era stato trivato 'assai buono' da Dio, forse nella prospettiva che le sue perdite sarebbero state riequilibrate dal sacrificio della croce). L'uomo moderno scopre la parte notturna del mondo: aggressivita', volonta' di potenza, reciproco annientamento, e nella sfera della storia il tragico della cultura, il cui proseguimento secondo tutte le apparenze conduce al suo proprio annientamento. Una luce si e' spenta; il paesaggio dell'essere appare livido e ostile. Da nessuna parte si riesce a percepire la vittoria sul peccato mediante la morte sacrificale di Cristo; la fede si vede posta fuori combattimento dal sovrappeso del reale. Come il cristiano ha da lottare in maniera nuova per la possibilita' della fede, cosi' il non cristiano ha di fronte l'angosciosa domanda se egli possa accusare una qualche istanza per lo stato del mondo (Sigmund Freud riconosce che questa istanza non c'e' e che l'uomo 'oppresso' deve venire a capo di ogni cosa e di se stesso rimanendo muto), o se debba vedere nel male una pura energia di natura. Anche il cristiano finisce col dubitare che 'i cieli e la terra siano pieni della gloria di Dio' e che per un simile mondo ci sia davvero da offire soltanto lode e ringraziamento. Egli si lascia in tal modo convincere dal non cristiano che e' piu' intelligente dedicarsi unicamente a smuovere le cose e a cambiare un mondo cosi' mal riuscito"

(H. U. von Balthasar, Introduzione al dramma. Teo-drammatica vol. 1, Milano 1980, p. 49)