Thursday, December 27, 2018

Role of lay people was already an issue during the 11th century

Role of lay people was already an issue during the 11th century

Wednesday, December 26, 2018

Sunday, November 25, 2018

ヨハネの黙示録について

ヨハネの黙示録について
H. U. von Balthasar, Teodrammatica, vol. IV

日常生活の中では説明不要のシンボルもたくさん使われている。例えば、「彼の方はまるで観音様だ」と言えば、話題の人が情け深い人であると分かります。「あのキツネめが」と言えば、「ずる賢いやつ」ということになる。黙示録は、私たちの文化とは違う文化圏で生まれたので、説明がないとわからない。また、著者は旧約聖書に精通していて、旧約の内容を独特の仕方で自由自在にシンボルとして利用するので、旧約の知識なしには理解できないことが非常に多いのです。著者は一つのシンボルの上に他のいくつかのシンボルを重ねて用いる。そして、著者は例に満たされて受けた啓示内容をシンボルに込めて表現しているわけですから、同じ霊によらない限り、私たちにはわからないことがある。
自分の信じる信仰を公に生きるのは難しい社会の中で、神が歴史を導き、歴史に現世を超える意味を与えることができるだけでなく、歴史を目的地に導いていかれるという確信のもとで、現実の歴史の出来事をどのように解釈したらいいのか、を教えています。

子羊は勝利者として、歴史全体の主として紹介されると同時に、いつも戦いに向かっていかなければならないという者として描かれている。宣教のパラドックス(19、11以下)。福音宣教は、勝利の宣言と同時に、絶えざる戦いでもある。
ヨハネが見ているヴィジオンは、「天と地の間」におこる。地は全てではない、天もある。また、天は地において神の臨在を示す特権的場である。その場は、空間的というより神学的な場である。6、14で天は「巻物が巻き取られるように消え去る」といことからもわかります。天は神であるとは言われない。天は地上の対局として描かれている。
ヨハネは、地上に生きながら、同時に自分のことを天にある24人の老人の一人として描いている。死ぬ前に、天における自分の役割を語っている。幼きイエスの聖テレジアが天にいる時に地上のために取りなすというように、宣教は天には不要となるが、その重心は天にある(von Speyr)。


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Saturday, November 24, 2018

Balthasar Teodrammatica vol 4

Lonergan, Method p. 341

Lonergan, Method p. 341

ルソー的桃源郷(とうげんきょう)Arcadia

Apophatic theology 否定神学
Kataphatic theology 肯定的神学
Analogical theology 類比的神学

否定、肯定、優越

イコノクラスム(英語: iconoclasm, ギリシア語: εικονομαχία)とは、宗教的に崇められる画像を破壊する運動である[1](英語の意味においては「悪習の打破」等の他の意味も含意されるが[1]、本項では「破壊運動」の語義に当たる事項のみを扱う)。聖像破壊運動(せいぞうはかいうんどう)ともいう。

キリスト教で有名なイコノクラスムには、東ローマ帝国におけるイコノクラスムと、宗教改革時に西ヨーロッパで起こったビルダーシュトゥルム(絵画嵐)がある。場合によってはイコノクラスムと言えば、東ローマ帝国において8世紀から9世紀にかけて行われたものを特に指すことがある[2]。「偶像破壊」というとキリスト教の運動を中心としていうこともあるが、包括的に宗教的な「偶像」の破壊を指すこともある。


不可知の雲(The Cloud of unknowing)

 「不可知の雲(The Cloud of unknowing)」は、14世紀末中世の英国で書かれた瞑想のガイドブックあるいは指導書である。かなり割り切って言えば、瞑想のハウツー本である。


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Monday, November 19, 2018

晴佐久昌英、福音宣言 読書ノト

晴佐久昌英、福音宣言 読書ノート


p、3 宣言されて初めて福音は福音となり、宣言して初めて福音を福音にできる。

p、102 名のある歌手が平和運動をしたり、福祉活動に協力したりするこちがあり、それ自体はすばらしいこちだし大いにやるべきことであろうが、もしもその人が歌を歌わなくなったならば、その人を歌手と呼べるだろうか。その人が本当に人の心を動かす魂の歌を歌う歌手であるからこそ運動や活動に携わる意味も生まれてくるのであって、活動を共にする仲間たちの期待と信頼もそこからうまれてくるのではないか。

p、142 音楽

p、162 宗教多元論。すべてを相対的に俯瞰(ふかん)しようとする欲望は、結局は「かみのようになれるぞ」という悪の誘惑であり、人間の経験と観念ですべてを支配しようとする傲慢である。

p、166 洗礼。生まれてからずっと親に愛されてきた子どもが物心ついてから親の愛を理解するように、もとより神の子であるのに気付いていなかった人が、自らが神の子であることに目覚める。新たに生まれる。

p、171 赤ん坊が生まれるのは何らかの資格を満たしているからでも自ら願ったからでもなく、ただ親の愛と望みによるものであるように、幼児洗礼は無条件なる恩寵による誕生を過不足なく表す秘跡である。

p、178 現代社会は、今こそ福音を求めているし、教会の秘跡に潜在的に憧れている。…いまだにこの秘跡の喜びの知られていない日本においては、福音宣言の怠惰についてはどんな言い訳も空しい。

p、194 いくつもの宗教のうちのひとつの宗教の教えを「布教」するような相対的な活動ではなく、すべての人にとって救いとなる真理を明確に「宣言」するという絶対的な奉仕であることも、理解すべきだろ。

p、218 友人が「私は絵を信じる。自分は美術に救われ、絵画こそいのちと思って生きてきたし、実際に良い絵もたくさん描いてきた」と言っているからといって、「音楽はすばらしい、音楽で魂は癒される、ぜひこの曲を聴いてほしい」ということに何か問題があるだろうか。



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Monday, October 29, 2018

希望と音楽 (Timothy Radcliffe ティモシー・ラドクリフ)

希望と音楽 (Timothy Radcliffe ティモシー・ラドクリフ)

マルコ福音書によると、イエスは最後の晩餐が終わると、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」(14、26)。賛美の歌とは、「ハレル」の第2部のこと、つまり詩篇113〜118。
ハレルヤは、ヘブライ語由来の言葉で、「神をほめたたえよ」の意 。この単語は「讃える、賛美する」を意味する動詞ヒッレールからの派生名詞で、「賛美」を意味する。この動詞の複数命令形ハレルーに神の名ヤハウェを短縮したヤーを付した形がハレルヤ。「ヤハ(ヤハウェ)」を「ハレル(ほめたたえよ)」)。ラテン語では、アレルヤ。
「神のいつくしみは永遠」(118、1〜4)は何回も繰り返される。
イエスは、受難に向かうにあたって、賛美の歌を歌った。
・殉教者は歌いながら死んだ。長崎の殉教者もそうです。十字架に架けられ槍に刺されて死んでいった彼らは、実は殉教の瞬間、賛美歌を歌っていたのだそうだ。西坂のレリーフはその瞬間を表現している。
・2015年、エジプトのコプト教会(キリスト教)に所属する21人のエジプト人が、リビアの海岸で、イスラム国の兵士によって首を斬られて、処刑される時も、彼らは歌っていました。
・ドミニコ会の習慣として、修道士が死ぬ間際に、共同体は全員、ベッドのもとを囲んで、サルベレジーナを歌うそうです。本人は、目をあけて、「まだ早すぎるではないか」という場合もある。
・ティモシー・ラドクリフ師は、自分のお父さんが死んでいるときに、エルサレムから駆けつけて、父親に聞いた、何かしてほしいことありますか。ウオークマンを持ってきてほしい。モーザルトのレクイエムと
『十字架上での最期の七つの言葉』(Die sieben letzten Worte unseres Erlösers am kreuze)は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1786年に作曲した管弦楽曲。同じ趣向のハインリヒ・シュッツの『十字架上での七つの言葉』と並んで知られる。原曲は管弦楽曲であるが、後にハイドン自身の手によって、弦楽四重奏版とオラトリオ版が編曲されており、さらにハイドンが監修したクラヴィーア用の編曲版がある。
歌と音楽によってのみ、死の怖い沈黙を前にして、希望を表現するすることはできる。
・2015年、イングリッシュ・ナショナル・オペラ(English National Opera、ロンドンを拠点とするイギリスのオペラ・カンパニー)の依頼によって作られたオペラがある。ストリーは、アメリカ同時多発テロ事件、2001年9月11日にニューヨークである。テロは歌劇の題材になれるか。
炎上するワールドトレードセンター・ツインタワーに取り残された人々を救出すべくある警備員は44階から降りようとする人々を励ますために、歌を歌っていたエピソードがある。この人はベトナム戦争のベテランで、戦争の時にも、砲撃される中で、部下を励ますために歌っていた。
タワーの中から、家族に最後の電話した人々は、言う言葉に困って、歌を歌っていた。
・朝日新聞の記事、2015年。イラク、不屈のタクト 演奏続ける国立交響楽団

 過激派組織「イスラム国」が勢力を広げ、混乱が続くイラクで、国立交響楽団が「音楽による連帯」をめざして活動を続けている。テロの脅威を乗り越え、1月に開いた定期演奏会には、1千人を超える聴衆が集まった。

 イスラム教スンニ派やシーア派、キリスト教、クルド人。様々な背景を持つ団員の奏でる音色が、ひとつの指揮棒の下で共鳴した。
それでもワスフィさんが祖国で活動を続けるのは、「前向きなエネルギーは暴力に必ず勝てる」と信じるからだ。「過激派の青年たちと話せるなら、15分で彼らの銃を楽器に持ち替えさせてみせる」。国難を、指揮棒1本で戦い抜く覚悟を決めている。(バグダッド=渡辺淳基)
・ドミトリー・ショスタコービッチ(1906-1975) 交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」というのがある。
そしてレニングラード。
1942年7月上旬に楽譜が届きましたがレニングラードでは、食料も不足していましたが、紙や鉛筆、ペンも不足していました。楽譜が届いてからそれらも必死に集められ、
模写係の一団が昼夜を徹してパート譜を用意しました。リハーサルが始まったのが7月下旬。レニングラード市内に残っていた演奏家だけでは、足りないので戦場にいた演奏家たちも呼び戻されました。食糧難でしたが、市民は演奏家への特別な配給を認めました。
こんな非常時に音楽を演奏している場合か、という声もありましたが、非常時だから音楽が必要なんだという声が圧倒しました。人々は、食料に飢えていましたが、音楽にも飢えていたのです。8月9日、ホールは超満員になりました。入れなかった人のために拡声器を使いレニングラード全市に流されました。その音楽は、レニングラードを包囲しているドイツ兵にも届きました。ドイツ軍のレニングラード戦線司令官は、演奏中は戦闘の中止を命じ、
かれらドイツ兵士もこの演奏を聴きました。もしかしたら、いやきっと包囲するドイツ兵の中にこの曲を聴きながら、ナチス・ドイツの愚かしさを呪っっていた兵士もいたことでしょう。演奏が終わったら、また戦闘が始まりました。そしてこのレニングラード初演から約1年半後の1944年1月18日に、レニングラード包囲戦は、ドイツ軍の敗退によって終わるのでした。

歌を歌う、音楽が演奏されることはクリスチャンの生活の普通の姿であるが、


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Saturday, September 29, 2018

Creation

Creation

Creation is not a real process, but only interprets the structure of the universe in a temporal scheme.
(H. G. Gadamer, Truth and Method, Part III, 5, 2 B)


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Sunday, September 23, 2018

Definizioni di Dio

 Rudolf Karl Bultmann (1884-1976) dice che Dio è «la realtà che determina il tutto (die Alles bestimmende Wirklichkeit)» (Welchen Sinn hat es, von Gott zu reden?, 1925) 

Gott als Geheimnis der Welt: zur Begründung der Theologie des Gekreuzigten im Streit zwischen Theismus und Atheismus 1977


Eberhard Jüngel

Thursday, September 20, 2018

Words of encouragement for seminarians cf G+ Homiletic and Pastoral Review

There is a form of asceticism (or is it mysticism?) unique to seminarians. Yours is not, at least not yet, the life of public, full-time ministry, with all its challenges and rewards. No: yours is the unsung, often unnoticed, spirituality of academic life and religious preparation, wherein you demonstrate genuine love today toward those you will not meet for another decade—or more. That’s tough; but for those called to it, it is precisely what makes the life of a priest so good, so loving, so wonderful. Delayed gratification, and yes—suffering—are the means by which the power of the Cross softens the hard heart, and makes the loveless lovely. When you finally show up at the parish, you’ll be ready to speak God’s Word in both the triumph and tragedy of people’s lives; both can be moments when grace turns the eye of the soul to what really matters.

Saturday, September 08, 2018

岩下壮一 カトリックの信仰 読書ノート

岩下壮一 カトリックの信仰 読書ノート

p、251-252 プラトン 神の言葉 啓示の必要性

p、252 パスカル 原罪について

p、273 文化の発展は人智を啓発するに相違ないが、またそれだけ生活を複雑にするから、人間相互の理解を必ずしも促進しない。現代における相矛盾せる人生観、世界観の対立と、その宣伝性がこの事実を明らかに証明している。そうして批判力のない大衆は、結局事理の是非は措いて声を高くして叫ぶ者に耳を傾ける。

p、300 和辻哲郎 批判 p、336参照

p、317 我等はハムレットに倣って、かかる実際の歴史をはなれた抽象論者に対して、「この世の中に、汝の弁証法中に夢みられざる多くのことがある」のを告げておきたい。

p、325 「その性に従う、これを道という」(『中庸』)

p、338 この世に賦活した神を与えたのは、ヒステリカルな女の病的想像ではなかったことが分かるであろう。万一、ルナンの小説が真実であったならば、マグダラのマリアの方が、キリストより遥かに偉大な宗教的天才であらねばならぬはずである。それでルナンの唯一の失策は、マグダラのマリア伝を書く代わりに、イエズス伝を書いたことになる。

p、353 キリスト教は歴史的事実である。何人もこれを無視したり、否定したりすることはできない。その根源に神人イエズス・キリストを認めれば、凡ては難なく説明される。そうではないと一切、訳がわからなくなる。アウグスティヌス曰く、「万一その源に奇蹟がなくてキリスト教が成立したのなら、奇蹟なしにキリスト教が成立したという事自身が、すべての奇蹟以上の大奇蹟である」と。

p、354以下 内村門下

p、369 アウグスティヌス 「汝(の協力)なくして汝を造り給える神は汝(の協力)なしには汝を義とし給わず」(Qui ergo fecit te sine te, non te justificat sine te)

p、633 書籍には口が無いかた邪魔にはならぬ。

p、633-637 無教会主義

p、639 Lessing, If God were to hold all Truth concealed in his right hand, and in his left only the steady and diligent drive for Truth, albeit with the proviso that I would always and forever err in the process, and offer me the choice, I would with all humility take the left hand, and say: Father, I will take this one—the pure Truth is for You alone.
• Anti-Goeze (1778)


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Wednesday, September 05, 2018

Revelatum per accidens

Revelatum per accidens

La fede libera la ragione in quanto le permette di raggiungere coerentemente il suo oggetto di conoscenza e di collocarlo in quell'ordine supremo in cui tutto acquista senso». [Fides et ratio, n. 20]

5. Queste dottrina ha le sue radici in Tommaso, che distingue tra ciò che è oggetto di fede *per se e ciò che lo è per accidens

«Ciò che ci è rivelato di Dio e oltrepassa la portata dell'intelletto umano
come tale, appartiene alla fede in senso proprio (per se);
ciò che invece non è alla portata dell'intelletto solo per alcuni, ma non
dell'intelletto umano come tale, non appartiene alla fede in senso proprio,
ma solo accidentalmente (per accidens).
Infatti le cose che oltrepassano la capacità di ogni intelletto umano, non
possono essere provate per dimostrazione [...];
ma alcune delle cose che apprendiamo dalla fede, che sono verità di fede
solo accidentalmente (per accidens), in quanto oltrepassano la portata
dell'intelletto solo per alcuni uomini, e non dell'intelletto umano come tale,
possono essere dimostrate come oggetto di scienza».
[III Sent, d. 24, q. 1, a. 2b, co]

4. Tale opera risanatrice non potrà non avere anche un esito evangelizzante, in quanto, difficilmente, una ragione ben orientata potrebbe resistere all'attrattiva
di quel pieno compimento che può derivarle solo dalla piena adesione alla fede.


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Thursday, August 30, 2018

Etty Hillesum citazioni

Etty Hillesum citazioni

"Credo che tutte le mattine, prima di mettermi al lavoro, dovrò rivolgermi al mio interno e rimanere una mezzora ad ascoltare quello che c'è in me: dovrò "immergermi in me stessa", potrei anche dire meditare, ma ho ancora qualche difficoltà con questa parola.E perchè dovrei farlo?. Una mezzora di pace in se stessi.Muovo le braccia e le gambe e gli altri muscoli al mattino in bagno.Ma questo non è sufficiente.L'uomo è fatto di corpo e di spirito.Una mezzora di ginnastica e una mezzora di meditazione posso costituire un'ampia riserva di pace e di concentrazione, bastevole per tutta la giornata.Ma un'ora di pace non è semplice da conquistare.Bisogna costruirla cancellando nel nostro intimo tutti i guazzabugli e le meschinità"

"Una cosa, tuttavia, è certa: si deve contribuire ad aumentare la scorta di amore su questa terra. Ogni briciola di odio che si aggiunge all'odio esorbitante che già esiste, rende questo mondo più inospitale e invivibile."

"E quasi a ogni battito del mio cuore, cresce la mia certezza: tu non puoi aiutarci, ma tocca a noi aiutare te, difendere fino all'ultimo la tua casa in noi. Mio Dio, cercherò di aiutarti affinché tu non venga distrutto dentro di me, ma a priori non posso promettere nulla. Una cosa, però, diventa sempre più evidente per me, e cioè che tu non puoi aiutare noi, ma che siamo noi a dover aiutare te, e in questo modo aiutare noi stessi. L'unica cosa che possiamo salvare di questi tempi, e anche l'unica cosa che veramente conti, è un piccolo pezzo di te in noi stessi, mio Dio. E forse possiamo anche contribuire a disseppellirti dai cuori devastati di altri uomini"

"È vero, ci portiamo dentro proprio tutto, Dio e il cielo e l'inferno e la terra e la vita e la morte e i secoli, tanti secoli.
Uno scenario, una rappresentazione mutevole delle circostanze esteriori. Ma abbiamo tutto in noi stessi e queste circostanze non possono essere mai così determinanti, perché esisteranno sempre delle circostanze - buone e cattive - che dovranno essere accettate, il che non impedisce poi che uno si dedichi a migliorare quelle cattive. Però si deve sapere per quali motivi si lotta, e si deve cominciare da noi stessi, ogni giorno daccapo."

non mi sento nelle grinfie di nessuno, mi sento soltanto nelle braccia di Dio

"...è un vivere la vita mille volte minuto per minuto, e anche un lasciare spazio al dolore, spazio che non può essere piccolo, oggi. ....Il dolore ha sempre preteso il suo posto e i suoi diritti, in una forma o nell'altra. Quel che conta è il modo in cui lo si sopporta, e se si è in grado di integrarlo nella propria vita e, insieme, di accettare ugualmente la vita "

" Mi sento piuttosto come un piccolo campo di battaglia su cui si combattono i problemi, o almeno alcuni problemi del nostro tempo. L'unica cosa che si può fare è offrirsi come campo di battaglia. Quei problemi devono pur trovare ospitalità da qualche parte, trovare un luogo in cui possano combattere e placarsi, e noi, poveri piccoli uomini, noi dobbiamo aprir loro il nostro spazio interiore, senza sfuggire "

"A ogni nuovo orrore o crimine dobbiamo opporre un nuovo frammento di verità e di bontà che abbiamo conquistato in noi stessi"

" E a volte l'essenziale della giornata è la pausa di riflessione tra due profondi respiri, e quel tornare a guardarsi dentro durante una preghiera di cinque minuti."

"Quel che conta in definitiva è come si porta, sopporta, e risolve il dolore, e se si riesce a mantenere intatto un pezzetto della propria anima."

" E se si prega per qualcuno gli si manda un po ' della propria forza "

"...attraversare la notte con mani vuote e aperte, mani dalle quali si è lasciato andare volontariamente il giorno. E solo dopo si può davvero riposare. E in quelle mani riposate e vuote, che non hanno voluto trattenere nulla, e nelle quali non c'è più alcun desiderio, ognuno di noi, al risveglio, riceve un giorno "




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Monday, August 27, 2018

主の祈りの前文

1.主・キリストが教えてくださった「主の祈り」を唱えましょう。

2.神の国を待ち望みながら、「主の祈り」を唱えましょう。

3.キリストの教えに従って、神である父をたたえて祈りましょう。

4.主の食卓にあずかる前に、キリストご自身が教えてくださった祈りをささげましょう。

5.私たちに命の糧を与えてくださる天の父をたたえて、主の祈りを唱えましょう。

6.主イエスは、神を父と呼ぶように教えてくださいました。ですから、信頼を持って主の祈りを唱えましょう。

Friday, August 24, 2018

内村鑑三 武士道的キリスト教

内村鑑三 武士道的キリスト教

実例として、幕末の武士の一人であり、内村鑑三が代表的日本人の一人に選
んだ西郷隆盛を挙げている。西郷は、陽明学を深く学び、「敬天愛人」を生き
る理念として掲げていた。天の法則に従い、人を愛する心をもつことを重視す
る西郷の姿は、「キリスト者」と言える、とまで語っている。


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Wednesday, August 22, 2018

Japan postal service delivers a message for the world- La Croix International

Japan postal service delivers a message for the world- La Croix International

Japan postal service delivers a message for the world

Part of the Japan Post leaflet advertising its service to use its nationwide network to connect families that live apart. (Photo supplied)

Many years ago, I took a small parcel to the post office in a village in the mountains of northern Japan. I intended to mail it to my family overseas.

"Hmm," said the postmaster. "I'm not sure we've ever handled an international package here. Do you know what it should cost?"

I did not, so he rummaged around and found a shoebox with some leaflets in it, including one about international mail rates.

"OK, I think this is it, but I'm really not sure," he said somewhat doubtfully as he looked at a leaflet that had clearly been in the shoebox so long that it might have been out of date.

"Would you mind giving me the amount I think it should be according to this? Then on my way home tonight I'll make a detour to the main district post office and mail it there. If I'm mistaken in the amount, I'll either get the balance to you or get in touch to collect the difference."

The package reached my family without any problem.

Years later, I received a letter from abroad in response to a magazine article about work I was doing with homeless men in Tokyo. It was addressed: "Father William Grimm, Slum in Tokyo, Japan."

The Japanese postal service is, indeed, a service.

When Japan began to modernize in the 1870s, the first contact between rural areas and the central government was usually a post office. Today, there are more than 24,000 post offices throughout the country, and they remain an important part of any community even as electronic communication increasingly makes their mail function obsolete.

Post offices also serve as banks and insurance providers and thus provide essential services that otherwise might be unavailable in remote areas. As was the case more than a century ago, post offices remain the major point of connection between rural residents and the rest of the country.

Now, the postal system, Japan Post, has initiated a new service in those areas.

As younger people have migrated to cities, rural areas are increasingly inhabited by elderly people who live alone. Their children and grandchildren are no longer on hand to check on their health and happiness.

And so, Japan Post has introduced its new mimamori saabisu (caretaking service), using its nationwide network "to connect families that live apart."

For a monthly fee of ¥2,500 plus tax (just under US$25), family members can arrange for a monthly visit by a Japan Post employee to their rural relative. The visitor will check on the elderly person's situation using 10 categories, and the results will be sent to the family.

For an additional ¥980-1,180 each month, the postal service will make a daily automated phone call to the elderly persons asking them to use their phone's dial pad to answer how they are doing, and will send the results to the family.

Finally, for another monthly ¥800, the post office will arrange with a security firm to be on call for emergency visits at the request of the family.

With increased urbanization throughout the world, the situation of families that live apart is increasingly the norm. That is not just true in rural districts. Even in crowded cities there are elderly, disabled and other people living alone without anyone to at least check on them from time to time to see if they are in good health or have any special needs.

Churches are not unlike Japanese post offices that are spread far and wide through all the communities of a nation. Especially in the Catholic scheme of dioceses and parishes, there are probably few places whose people are not in some way or other within the purview of a group of Christians.

Ubiquity need not be the only point in common between those post offices and Christian communities.

If a government bureaucracy, the proverbial image of unimaginative adherence to past procedures and programs, can develop a creative idea to make its old strengths answer new needs, certainly churches and other religious entities like schools and religious houses should be able to do likewise.

That might mean abandoning "what we've always done" in favor of untried new activities.

In Japan, for example, it might mean looking at the fact that in a country with a declining number of children, about 12 percent of people are under age 14 while 27 percent are over 65. Yet faced with an increasing number of the lonely elderly, the Catholic Church sponsors 752 kindergartens, nurseries and other institutions for children but only 232 for the elderly.

Demographics and needs will, of course, differ from place to place. The need might be among the young or minorities or the environment, but the church in every land is always challenged to meet those situations with creativity and a willingness to try the hitherto untried.

Perhaps we can let the Japanese postal system deliver us a message about service.

Father William Grimm, MM, is the publisher of ucanews.com and is based in Tokyo.



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Tuesday, July 31, 2018

“Though a good deal is too strange to be believed, nothing is too…

"Though a good deal is too strange to be believed, nothing is too strange to have happened."
― Thomas Hardy, The Personal Notebooks Of Thomas Hardy

「多くのことは信じられないほど奇妙ではあるが、起こったからには、あまりにも奇妙なことは何一つない」
トーマス・ハーディ

"Sebbene un buon numero di cose sia troppo strano per essere creduto, niente è troppo strano per essere successo."

Thomas Hardy


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“Though a good deal is too strange to be believed, nothing is too…

"Though a good deal is too strange to be believed, nothing is too strange to have happened."
― Thomas Hardy, The Personal Notebooks Of Thomas Hardy

「多くのことは信じられないほど奇妙ではあるが、起こったからには、あまりにも奇妙なことは何一つない」
トーマス・ハーディ


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Friday, July 27, 2018

Primavera missionaria, di Gianpaolo Romanato (Missioni e colonialismo in età moderna) - Diario

Primavera missionaria, di Gianpaolo Romanato (Missioni e colonialismo in età moderna) - Diario

Primavera missionaria, di Gianpaolo Romanato (Missioni e colonialismo in età moderna)

Riprendiamo da L'Osservatore Romano del 6/10/2011 un articolo scritto da Gianpaolo Romanato. Restiamo a disposizione per l'immediata rimozione se la presenza sul nostro sito non fosse gradita a qualcuno degli aventi diritto. I neretti sono nostri ed hanno l'unico scopo di facilitare la lettura on-line.

Il Centro culturale Gli scritti (14/10/2011)

Le missioni furono la grande scoperta e la grande speranza della Chiesa dell'Ottocento.

Scoperta perché la missione in età postrivoluzionaria, rivolta ai popoli nuovi di Africa, Oceania, Asia e delle due Americhe, non garantita dalle strutture del patronato statale in vigore nell'ancien régime, fu sostanzialmente diversa da quella del periodo prerivoluzionario.

Speranza perché di fronte al nuovo nemico rappresentato dalla modernità e dall'organizzazione dello Stato liberale, la conquista di popolazioni sconosciute e mai toccate dal cristianesimo apparve come una nuova frontiera, un'imprevista possibilità di rifondazione del messaggio cristiano, una rivincita dopo le ripetute sconfitte patite in Europa.

Questa proiezione missionaria avvenne sotto l'egida della più rigida cultura controrivoluzionaria, a partire dal papa che per primo se ne fece interprete e banditore, Gregorio XVI, al secolo Bartolomeo Cappellari, monaco camaldolese originario di Belluno, che prima dell'elezione era stato per cinque anni prefetto di Propaganda Fide.

Egli, mentre impostò con le encicliche "Mirari vos" (1832) e "Singulari nos" (1834) le linee portanti di quella che per un cinquantennio sarebbe rimasta l'intransigenza cattolica antimoderna, avviò anche la rinascita delle missioni con una serie di iniziative che vanno dalla fondazione di quarantaquattro vicariati apostolici nelle terre nuove alla promulgazione dell'enciclica "Probe nostis" (1840), il manifesto della nuova missionarietà.

La cosiddetta "primavera missionaria" ottocentesca nasce così da radici culturali opposte a quelle della modernità.

Che lo slancio della Chiesa verso i popoli nuovi derivasse da un desiderio di rivalsa nei confronti dell'ondata laicizzatrice liberale dilagante in Europa, emerge dalle parole stesse di papa Gregorio XVI. L'enciclica iniziava, infatti, ricordando le "sventure" che opprimevano la Chiesa "da ogni parte", gli "errori" che ne minacciavano la sopravvivenza. Ma, "mentre per un verso dobbiamo piangere – scriveva il papa – dall'altra parte dobbiamo rallegrarci dei frequenti trionfi delle missioni apostoliche", trionfi che dovrebbero suscitare "maggiore vergogna" in "coloro che la perseguitano". Questa contrapposizione diventerà uno dei fili conduttori della storia missionaria, conficcata fin dall'inizio nel più tipico filone intransigente, controrivoluzionario.

Ma non solo la cultura missionaria, bensì anche il personale che la realizzò provenne da una cultura fondamentalmente "ultramontana", di scontro, estranea al mito ottocentesco della nazione che fu invece uno dei grandi alvei in cui si sviluppò la rivoluzione della modernità, di cui il colonialismo ottocentesco fu una delle espressioni.

È importante tenere presente questo sfondo intellettuale e teologico, che conferma, se ce n'è bisogno, la complessità e l'imprevedibilità della storia. Nel caso di cui ci stiamo occupando la novità non è figlia della rivoluzione ma della reazione, cioè di una cultura che normalmente non apre al futuro ma induce a rifugiarsi nel passato. L'elemento vincente della cultura missionaria fu, infatti, proprio la sua estraneità al mito della nazione.

Universalismo cristiano

I missionari che sciamarono per il mondo possedevano molto più il senso della Chiesa che il senso della patria. Si sentivano figli e difensori di una Chiesa perseguitata e costretta sulla difensiva dal liberalismo, dalle rivoluzioni nazionali. Ciò accentuò la loro estraneità rispetto alle idee politiche ottocentesche e rafforzò l'identificazione con l'universalismo cristiano. Le missioni non nascono italiane, francesi o tedesche, nascono cattoliche, figlie di una Chiesa ricompattata attorno a Roma e ormai distaccata dalle vecchie Chiese nazionali prerivoluzionarie, nascono in rotta di collisione con quegli ideali di grandezza e di potenza che mossero le potenze europee a conquistare e ad annettere i continenti nuovi.

Queste considerazioni valgono in particolare per i missionari italiani, quelli più vicini, anche geograficamente, a Roma e al nuovo spirito della cattolicità.

Il missionario italiano si sentì prevalentemente uomo di Chiesa, portatore di un disegno di evangelizzazione, come diremmo oggi, potenzialmente universale, non condizionato da interessi politici o nazionali. Negli istituti italiani sorti nel XIX secolo e dediti esclusivamente ad attività missionaria – dalle missioni africane di Verona fondate da Daniele Comboni al Pontificio Istituto Missioni Estere (PIME), dai saveriani ai missionari della Consolata – l'ideologia nazionale, o nazionalistica, è quasi inesistente. Predomina invece l'ansia apostolica, che diventa più forte e impellente quanto più le vicende politiche italiane sembrano riservare alla Chiesa in Italia un futuro incerto e difficile.

Sono proprio queste difficoltà che rafforzano il loro senso di appartenenza alla Chiesa, al di sopra del sentimento patriottico, il desiderio di aprirle strade nuove presso popoli lontani, non ancora toccati dal cristianesimo, l'ansia di trovare una "missione vergine" dove il Vangelo non fosse ancora arrivato, e fosse possibile predicarlo senza contaminarlo con interessi politici, ideologici.

Nelle "Regole" del PIME è detto che "l'Istituto fin dal principio mirò ad avere missioni proprie tra le popolazioni più derelitte e più barbare". La speranza e l'ideale di questi istituti è quello di rifondare il cristianesimo il più lontano possibile dalla vecchia Europa, dalle sue divisioni e dai suoi interessi.

Analoga l'intenzione di Comboni, che imitò l'istituto lombardo pensando esclusivamente all'Africa come alla "più infelice e certo la più abbandonata parte del mondo". In lui fu sempre chiarissima la consapevolezza che l'opera missionaria sarebbe stata tanto più efficace quanto più libera da fattori politici. La missione "deve essere cattolica, non già spagnola, o francese o tedesca o italiana", non si stancava di ripetere. Egli conosceva perfettamente le associazioni e gli istituti missionari europei, per averli visitati e frequentati, e lamentava che in Francia "lo spirito di Dio" fosse ancora troppo condizionato dallo "spirito di nazione".

Ma neppure in Francia il condizionamento della nazionalità impedì di vedere chiaramente che le missioni dovevano tenersi lontane dalla politica degli Stati cui appartenevano i missionari, come scrisse con grande lucidità il superiore francese della missione in Eritrea al governatore Ferdinando Martini, quando si stava preparando l'espulsione di missionari transalpini dalla nostra colonia: "Per noi non esiste che una sola parola: la Missione Cattolica, siano i membri che la compongono francesi, italiani, tedeschi o inglesi".

Tra missione e colonizzazione

L'intreccio fra missione e colonialismo è complesso. I due fenomeni sono paralleli, contemporanei e interdipendenti, tanto in età moderna quanto in età contemporanea.

In età moderna i missionari giungono nelle Americhe e in Asia sulle navi dei colonizzatori, protetti dalle medesime leggi, imbrigliati nei vincoli del patronato statale. E la situazione non è diversa nelle aree del globo, in particolare il Nord America oggi canadese, all'epoca sotto controllo francese. Ma tanto la Santa Sede quanto gli ordini religiosi impegnati nelle missioni non tardano a entrare in conflitto con il potere politico e a cercare spazi di autonomia.

Roma fonderà la potente congregazione di Propaganda Fide, nel 1622, proprio allo scopo di riportare, dovunque fosse possibile, le missioni sotto il controllo ecclesiastico, anche tramite abili espedienti canonici come l'istituto dei vicari apostolici, vescovi dipendenti direttamente da Roma, vescovi cioè "in partibus", che rispondevano del loro operato alla sede apostolica e non all'autorità politica.

I vicari apostolici furono utilizzati in particolare nel tentativo di aggirare il patronato portoghese. Nel caso del patronato spagnolo il modo per sfuggire al vincolo statale consistette nell'avvio di esperimenti di evangelizzazione svincolati dalla giurisdizione della corona di Madrid, in territori posti fuori o ai margini dalla sua giurisdizione.

In questo secondo caso va ricordato l'esperimento delle Riduzioni fra i guaraní del Paraguay (ma in realtà allargato anche ad altre aree e popolazioni sudamericane). Le Riduzioni erano missioni totalmente sotto controllo della Compagnia di Gesù, sulle quali la corona di Spagna non aveva quasi nessun potere. Sappiamo però che esse crollarono quando Spagna e Portogallo riordinarono i confini e privarono le missioni degli spazi di autonomia di cui avevano goduto per un secolo e mezzo. Non sempre Propaganda Fide riuscì a realizzare gli intendimenti per cui era sorta, neppure con l'espediente dei vicari apostolici.

Per tutta l'età moderna, insomma, missione e colonizzazione vissero una difficile coabitazione, spesso conflittuale.

In età contemporanea notiamo caratteristiche analoghe. Missioni e colonie vanno insieme, sia pure con sfasature non prive di importanza. In genere la missione precede la colonia e spesso si dirige in territori estranei o ai margini della colonizzazione: l'Oceania dove operò il PIME, la Patagonia dove si insediarono i salesiani.

Ma le coincidenze, nonostante queste sfasature, non devono impedirci di notare le diversità.

Nell'Ottocento e nel Novecento i missionari imparano le lingue locali, operano non sovrapponendosi alle culture autoctone ma penetrandole dall'interno, favoriscono la nascita di clero e gerarchie locali, seguendo le direttive romane emanate fin dalla famosa Istruzione ai vicari apostolici del Tonchino del lontano 1659 – un documento pontificio lungimirante, più citato che conosciuto –, ribadite in tutte le successive direttive pontificie e riprese dalla enciclica "Maximum illud" di Benedetto XV del 1919. Mentre la colonia è una conquista di territori, spazi e risorse, un'operazione di potere, la missione è un tentativo di innesto del cristianesimo senza alterare le culture locali.

Non sempre l'operazione fu portata avanti con la necessaria chiarezza, ma l'intenzione era questa. Comboni dirà che la presenza missionaria nella "Nigrizia" – come si definiva allora l'Africa – doveva durare fino a quando fosse nata una cattolicità locale, poi sarebbe dovuta cessare. È esattamente ciò che è avvenuto in Sudan, il territorio della sua missione, dove esiste oggi una gerarchia sudanese, alle dipendenze della quale operano i missionari comboniani. "Salvare l'Africa con l'Africa" fu il suo motto, che esprime appunto tale intenzione. Arrivare, cristianizzare, creare una Chiesa locale e poi venire via.

Se osserviamo a posteriori la storia del colonialismo europeo, notiamo più chiaramente la differenza fra colonialismo e missione. Il colonialismo è esploso lasciando macerie che hanno devastato, e continuano a devastare, i continenti extra-europei. La missione non è esplosa, è sopravvissuta all'età coloniale, si è trasformata e ha dato vita alle cosiddette giovani Chiese, con clero e gerarchia indigeni.

Oggi nel sacro collegio sono presenti decine di cardinali provenienti da Paesi africani o asiatici che furono colonie fino al secondo dopoguerra. Le missioni sono servite a dilatare il cattolicesimo su scala planetaria e a inculturarlo nei popoli nuovi.



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Monday, July 23, 2018

Mindfulness, la pratica di chi non giudica. E non pensa - La Nuova Bussola Quotidiana

Mindfulness, la pratica di chi non giudica. E non pensa - La Nuova Bussola Quotidiana

Mindfulness, la pratica di chi non giudica. E non pensa

Come ultimo derivato delle tecniche di meditazione buddiste, di cui in Occidente ammiriamo praticamente solo una caricatura, si diffonde la mode del Mindfulness. Consigliata e praticata a tutti i livelli, dalle scuole alla Massoneria, induce alla fuga dalla realtà e all'autoinganno.

Mindfulness

Non c'è giornale che non abbia dedicato pagine allo "stato di benessere" con cui i ragazzi thailandesi intrappolati nella grotta hanno accolto i soccorritori. Quasi fosse stata la meditazione insegnata loro dall'allenatore e non l'azione dei poveri soccorritori (di cui uno ha anche perso la vita) a salvarli da morte certa. Una narrazione insistita e sospetta, non c'è che dire, chiaramente indirizzata a solleticare un interesse.

Del resto anche il cardinal Ratzinger ha sostenuto che, del buddismo, l'occidente scristianizzato ama la caricatura. Dovendo tornare sulla sua celebre e fragorosa definizione di buddismo come "autoerotismo spirituale", l'allora Prefetto della Dottrina della Fede spiegò all'intervistatore che quel giudizio valeva proprio per l'«uso consumistico» del buddismo, ed era indirizzato ad «un certo "mercato" che falsifica le grandi religioni adattandole al gusto e alle mode del moderno mondo occidentale». Da qui la domanda. Che volto ha assunto, nel tempo, quella "moda", quella "falsificazione", quella caricatura dell'esperienza buddista? A giudicare dalla mole enorme di manuali, di congressi, di corsi, non ci sono dubbi nell'indicare nella «mindfulness» (o «piena consapevolezza» o "piena attenzione") la risposta al quesito. Parliamo di una tecnica di rilassamento usata come mezzo per sconfiggere lo stress e l'ansia, diffusasi anche in non poche comunità cristiane. Persino i bambini non vengono risparmiati, tanto che titoli come "Attento e calmo come una ranocchia", "Io e te sulla nuvoletta", "Respira con l'orso. Calma, concentrazione ed energia positiva" riempiono le vetrine delle librerie.

Ma a cosa mira questa tecnica di concentrazione? A suscitare uno stato di attenzione sul presente, in cui – senza minimamente sottoporli a giudizio – si possano osservare, oltre alla respirazione, anche i propri pensieri, i sentimenti (non a caso Bhikkhu Bodhi, Presidente della Buddhist Association of the United States, afferma che ciò che si pratica in Occidente sarebbe non "piena attenzione" bensì "attenzione nuda", proprio perché non esiste alcuna componente etica). La medesima assenza di valutazione che si vive nella meditazione si dovrà poi mutuare nella vita quotidiana.

Qui si apre il primo grande problema, perfettamente centrato da Giovanni Paolo II nel libro-intervista Varcare la soglia della speranza. «L'"illuminazione" sperimentata da Budda – scriveva il Pontefice polacco – si riduce alla convinzione che il mondo è fonte di sofferenza per l'uomo», e che «per liberarsi da questo male bisogna liberarsi dal mondo». In questa visione, quindi, risulterà obbligatorio «spezzare i legami che ci uniscono con la realtà esterna [..], presenti nella nostra psiche e nel nostro corpo». Più ci liberiamo dai legami razionali, più ci rendiamo indifferenti alla sofferenza che è nel mondo. La sintesi di Papa Wojtyla coincide esattamente con ciò che cerca di fare la tecnica meditativa della "piena consapevolezza".

A confermare l'analisi, aggiungendo un inquietante dato, è proprio Jon Kabat-Zinn, professore di Medicina presso l'Università del Massachusetts, creatore del programma MBSR (Mindfulness-Based Stress Reduction) e unanimemente considerato lo scopritore della tecnica meditativa. In Mindfulness per principianti (Mimesis, 2018) Kabat-Zinn scrive testualmente che la tecnica «ha l'obiettivo di farci scoprire il valore del "non sapere" (sic), e il valore di imparare a stare con noi stessi, senza giudicare e senza pensare troppo».

Se siamo davvero arrivati all'apologia del "non sapere", ecco che assurge a gigantesco paradosso il fatto che oltre 200 scuole spagnole (anche cattoliche, come in Andalusia) abbiano inserito la mindfulness nell'orario scolastico. Del resto, imbattersi in alunni con gli occhi chiusi, in posizione del Loto, intenti a praticare la "piena consapevolezza" oggi non è raro neanche nelle scuole italiane.

Attenzione però. C'è un elemento che dovrebbe far aprire ulteriormente gli occhi su questa tecnica meditativa: tra gli adepti delle Logge massoniche, gli inviti espliciti ad adottare la mindfulness sono all'ordine del giorno. La Rispettabile Loggia Hermes nº13 di Madrid, ad esempio, arriva addirittura mettere «a disposizione di tutti i massoni i materiali di sostegno alla pratica meditativa». Sul loro sito spiegano l'operazione di divulgazione degli esercizi, «coscienti dell'importanza della pratica dell'attenzione pura come mezzo di realizzazione interiore». La potente Loggia madrilena, infine, non potrebbe davvero essere più chiara (e inquietante) quando spiega che tali pratiche meditative sono «uno degli strumenti più potenti per passare dall'iniziazione virtuale comunicata nella loggia a un'iniziazione effettiva, cioè a un'esperienza della sacralità o della trascendenza». Ai tanti "normalisti" alla Alberto Pellai, per i quali «non c'è alcuna controindicazione alla pratica della mindfulness», consigliamo di meditare sull'"l'esperienza di trascendenza" che a loro parere si può vivere in una loggia massonica.

Giovanni Paolo II aveva previsto tutto, quando nel già citato libro-intervista con Vittorio Messori metteva «sull'avviso quei cristiani che con entusiasmo si aprono a certe di tecniche di meditazione e di ascesi» (senza contare quel Catechismo della Chiesa Cattolica che al nº 2726 mette in guardia proprio dallo «sforzo di concentrazione per arrivare al vuoto mentale»).

Manca un ultimo dato sul fenomeno mindfulness, forse il più importante. La statunitense Susan Brinkmann, ex femminista proveniente dalla New Age e oggi premiata scrittrice cattolica, nel suo documentatissimo A Catholic Guide to Mindfulness, ha fatto rivelazioni importanti, raccontando innanzitutto della crescente preoccupazione del mondo scientifico per la spropositata pubblicità che i media hanno dato circa i benefici della mindfulness. Ciò ha come effetto psicologico il cosiddetto "bypass spirituale": il ricorrere, cioè, a pratiche spirituali per evadere dai problemi concreti, auto-ingannandosi, e soprattutto smettendo di risolvere i conflitti attraverso canali e metodi scientifici riconosciuti, quali, ad esempio, la Psicoterapia. Ma c'è di più. La Brinkmann, dati alla mano, rivela che è una solenne bufala quella delle evidenze scientifiche relative alla bontà della tecnica meditativa. In una recente intervista al National Catholic Register la scrittrice chiarisce che «un'analisi su 18.000 studi di mindfulness, condotti da ricercatori della Johns Hopkins University, ha trovato metodologicamente validi solo 47 lavori, cioè lo 0,0026%». Mentre la stessa ricerca – e questo è il dato completamente taciuto dai media mainstream – «ha portato a scoperte più allarmanti sugli effetti negativi della "piena consapevolezza"». Portando alla luce la letteratura scientifica nascosta, l'apologista cattolica (oggi terziaria carmelitana) afferma che queste pratiche meditative, attraverso «l'uso di tecniche progettate per svuotare o gestire la mente», inducono a «stati di coscienza alterati», tanto che in alcuni casi si è arrivati «fino al punto di richiedere l'esorcismo».

Questo insomma sembra il prezzo da pagare per una pratica "gentile", che non crea problemi di coscienza, e che, a differenza del lascito giudeo-cristiano, non esige nulla perché "non giudica". 



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Interview with Japanese Poet and Cardinal in L’Osservatore Romano - ZENIT - English

Interview with Japanese Poet and Cardinal in L'Osservatore Romano - ZENIT - English

Interview with Japanese Poet and Cardinal in L'Osservatore Romano

Japan, Cardinal Thomas Aquinas Manyo © Vatican News

A Thunderbolt in a Serene Sky

"In a serene sky / a rumble / as a Pentecost." It's by this verse, composed in the brief Japanese poetic form, the haiku, of which he is a master, that Thomas Aquinas Manyo Maeda commented on Pope Francis' decision to include him in the College of Cardinals. The Archbishop of Osaka, who was born in the Archdiocese of Nagasaki and was also Pastor at Hiroshima — the two martyred cities of nuclear folly  — confided to L'Osservatore Romano on July 20, 2018, in an interview where he speaks of the role of the Church in Japan, in an increasingly secularized country.

Here is our translation of the interview.

* * *

What did you do when you learned that the Pope gave you the red hat?

 At first, I was perplexed and, prey to astonishment, I wondered: why me? I'm not qualified! Without thinking, I composed the verse "In a serene sky / a rumble / as a Pentecost," because this announcement was truly a thunderbolt in a serene sky. After a moment, I thought that, if it was the work of the Spirit, that same Spirit would also give me the strength to accomplish the task; and recalling the Gospel phrase "At your word I will let down the nets," I decided to accept, with humility, the engagement that was asked of me.

What are the main challenges that the Church in Japan must address?

 The fact that the number of faithful doesn't increase and the decrease of vocations of priests and consecrated is the most urgent issue. To halt this tendency, I believe that it's necessary that the faithful, the clerics and the Religious be always more aware of the importance to live their faith in joy. If one lives this joy of the faith, I'm certain that the number of Catholics will increase, as well as the number of vocations to the priesthood and the consecrated life. Above all, it's urgent to evangelize the ecclesial community itself. In fact, although it knows how to intervene, because of a lack of courage or out of modesty, it appears incapable of reacting. On the other hand, I also believe that it's important to re-appropriate in a certain way the method of the time known as missionary, perhaps by finding new ways of expression of the missionary method, such as the missionary zeal of that time.

What is the role of education in the context of Christian witness in a country where Catholics are a minority?

 I think that the realm of education is the privileged milieu for the spread of the Gospel among young people. In the past, up to some forty years ago, a very high number of Baptisms were celebrated thanks to the schools. Today, this happens rarely. Not only is there little inclination to administer the Sacraments of Initiation but there is even a certain abstention from giving religion lessons. At school and in the Universities, as elsewhere, it's necessary to transmit the Gospel with more courage. To do that, it's important to form qualified Catholic teachers.

What is the situation in the inter-religious dialogue?

At the heart of the national Episcopal Conference, there is a specific Department that addresses this and, in each diocese, there is a Committee in charge of organizing exchange activities and dialogue with other religions.  For instance, for the promotion of peace, there were numerous initiatives in collaboration with representatives of Buddhism and Shintoism; prayer vigils are held periodically together.  However, I think it's important to note that dialogue should already be practiced in everyday life. In a same family, there are persons that belong to different religions. It's moving to observe how these persons live, respecting one another mutually, in seeking the will of God. I find it important to consider the dialogue also from this point of view.

Can one evangelize in a secularized society?

Precisely because we live in a society where secularization is very advanced, I think that the proclamation of the Gospel is even more necessary. Or rather, it seems really that an increasingly higher number of people are seeking good news, such as that of the Gospel. To satisfy this need, I believe it's necessary to cultivate enthusiasm and to renew the methods and expressions of the proclamation.

What role do the consecrated play in the Church of the Land of the Rising Sun?

I would say it's very important: today, despite the aging of the personnel and the decrease of vocations, the different Religious Congregations contribute largely — with activities connected with each one's charism –, to the evangelization of the society. Suffice it to think of their engagement in the area of education, of health and in other sectors of social life. Then, within the diocesan pastoral they support the parishes and the activities of different Commissions. In particular, the work of the consecrated is revealed important in the pastoral of foreigners. At the same time, as one reads in the Instrument of Work in preparation for the Synod on the "New Evangelization," with the offer of themselves, the consecrated witness God's priority over all things and by the means of life in common, they witness the strength and the depth of the bonds that spring from the Gospel. I believe that this witness represents a very important aspect of their mission. The composition of Religious Communities becomes also a form of witness. In fact, they are increasingly international and, in a society, such as Japanese society, which opens slowly to diversity, that witnesses that it's possible to live "together" beyond national barriers.

What do you do for the numerous immigrants that arrive every year?

The Church's engagement in this area presents different aspects. First of all, there is the pastoral dimension. Finding themselves suddenly in a different world and culture than those of their origin, immigrants are in need of help to be able to maintain and cultivate their faith. In offering them our assistance, we work so that this is possible. Regular celebrations are planned in the mother tongue of the countries of origin; at the same time, in the parishes, we make an effort to receive them warmly and to walk with them. There is also a social aspect. Migrants who arrive in Japan, meet with several difficulties: they need lodging, must learn the language, they are in need of help in the education of their children, legal advice, etc. We make an effort to offer them assistance in all these areas. In my Archdiocese of Osaka, the Center for Social Activities is in charge of contributing this type of assistance. And then there is a humanitarian aspect. Whether they are Christians or not, we engage ourselves in welcoming them with warmth and in protecting their rights as persons. Finally, priestly and religious vocations are also born among the immigrants. We cannot but rejoice.

 [ZENIT's translation by Virginia M. Forrester]

 



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Friday, July 20, 2018

Il Sismografo

Il Sismografo

Intervista al giapponese Thomas Aquino Manyo Maeda. Poeta e cardinale

(Nicola Gori) «A ciel sereno / un rombo / come di Pentecoste»: con questo verso composto nella breve forma poetica giapponese haiku, di cui è maestro, Thomas Aquino Manyo Maeda ha commentato la decisione di Papa Francesco di annoverarlo nel collegio cardinalizio. L'arcivescovo di Osaka — che è nato nell'arcidiocesi di Nagasaki ed è stato anche pastore di Hiroshima — le due città martiri della follia nucleare — lo ha confidato all'Osservatore Romano in questa intervista in cui parla anche del ruolo della Chiesa in un Giappone sempre più secolarizzato.
Cosa ha fatto quando ha appreso che il Pontefice le concedeva la porpora?
All'inizio sono rimasto perplesso e, in preda allo stupore, mi dicevo: perché io? Non sono qualificato! Senza pensarci ho composto il verso «A ciel sereno / un rombo / come di Pentecoste». Perché quell'annuncio è stato proprio un fulmine a ciel sereno. Dopo un po' ho pensato che, se questa è opera dello Spirito, lo stesso Spirito mi avrebbe dato anche la forza per assolvere il compito; e ricordando la frase evangelica, «Sulla tua parola getterò le reti», ho deciso di accettare con umiltà l'impegno richiestomi.
Quali sono le principali sfide che deve affrontare la Chiesa in Giappone?
Il fatto che il numero dei fedeli non cresca e la diminuzione delle vocazioni di sacerdoti e consacrati, sono le questioni più urgenti. Per contrastare la tendenza, ritengo necessaria una sempre maggiore consapevolezza, da parte dei fedeli, del clero e dei religiosi, dell'importanza del vivere con gioia la propria fede. Se si vive questa gioia della fede, sono certo che il numero dei cattolici crescerà, come anche il numero delle vocazioni al sacerdozio e alla vita consacrata. Innanzitutto, è urgente evangelizzare la stessa comunità ecclesiale. Infatti, pur sapendo come intervenire, essa per mancanza di coraggio o per pudore, si mostra incapace di reagire. D'altra parte, ritengo anche importante riappropriarsi in certo modo del metodo proprio dell'epoca cosiddetta missionaria, magari trovando nuove modalità espressive sia per quel metodo missionario sia per lo zelo missionario di quell'epoca.
Che ruolo svolge l'educazione nell'ambito della testimonianza cristiana in un paese in cui i cattolici sono una minoranza?
Ritengo che gli ambienti educativi siano l'ambito privilegiato per la diffusione del Vangelo fra i giovani. In passato, fino a circa quaranta anni fa, un numero molto alto di battesimi si celebrava grazie alle scuole. Oggi avviene di rado. Non solo si è restii ad amministrare i sacramenti dell'iniziazione, ci si astiene anche dal fare la lezione di religione. A scuola e nelle università, come altrove, è necessario trasmettere il Vangelo con maggiore coraggio. A tal fine, è importante formare insegnanti cattolici qualificati.
Qual è la situazione nel dialogo interreligioso?
All'interno della Conferenza episcopale nazionale c'è un dipartimento specifico che se ne occupa e, in ogni diocesi, c'è un comitato incaricato di svolgere attività di scambio o dialogo con le altre religioni. Ad esempio, per la promozione della pace, sono state avviate numerose iniziative in collaborazione con i rappresentanti del buddismo e dello shintoismo; insieme si celebrano periodicamente anche veglie di preghiera. Tuttavia, penso sia importante notare come il dialogo venga già praticato nella vita di tutti i giorni. Nella stessa famiglia ci sono persone appartenenti a religioni diverse. È commovente osservare come queste persone vivano, rispettandosi a vicenda, nella ricerca della volontà di Dio. Ritengo sia importante considerare il dialogo anche da questo punto di vista.
Si riesce a evangelizzare in una società secolarizzata?
Proprio perché viviamo in una società in cui la secolarizzazione è molto avanzata, ritengo ancora più necessario l'annuncio del Vangelo. Anzi, sembra proprio che un numero sempre più alto di persone siano alla ricerca di una buona notizia come quella evangelica. Per soddisfare tale richiesta ritengo necessario coltivare l'entusiasmo e rinnovare i metodi e le espressioni dell'annuncio.
Quale ruolo hanno i consacrati nella Chiesa del Sol Levante?
Direi molto importante: oggi, nonostante l'invecchiamento del personale e il calo di vocazioni, le diverse congregazioni religiose contribuiscono grandemente, con attività pertinenti al carisma di ciascuna, all'evangelizzazione della società. Basti pensare al loro impegno nel campo dell'istruzione, della sanità e in altri settori della vita sociale. All'interno della pastorale diocesana, poi, sono di sostegno alle parrocchie e alle attività delle diverse commissioni. In particolare, il lavoro dei consacrati si rivela importante nella pastorale degli stranieri. Allo stesso tempo, come si legge nello strumento di lavoro in preparazione al Sinodo sulla "nuova evangelizzazione", con l'offerta di se stessi, i consacrati testimoniano la precedenza di Dio sopra ogni cosa, e per mezzo della vita in comune testimoniano la forza e la profondità dei legami che scaturiscono dal Vangelo. Ritengo che tale testimonianza rappresenti un aspetto importantissimo della loro missione. Anche la composizione delle comunità religiose diventa una forma di testimonianza. Esse, infatti, sono sempre più internazionali e, in una società come quella giapponese, che lentamente si apre alla diversità, questo testimonia che è possibile vivere "insieme" superando le barriere nazionali.
Cosa fate per i numerosi immigrati che giungono ogni anno?
L'impegno della Chiesa in questo ambito presenta aspetti diversi. Innanzitutto, vi è quello pastorale. Trovandosi improvvisamente in un ambiente e in una cultura diversi da quelli di origine, gli immigrati hanno bisogno di aiuto perché possano mantenere e coltivare la loro fede. Offrendo la nostra assistenza, ci adoperiamo perché ciò sia possibile. Sono previste celebrazioni regolari nella lingua madre dei paesi di origine; allo stesso tempo, nelle parrocchie ci impegniamo ad accoglierli con calore e a camminare con loro. Vi è anche un aspetto sociale. I migranti che arrivano in Giappone incontrano varie difficoltà: necessitano di un alloggio, devono imparare la lingua, hanno bisogno di aiuto nell'educazione dei figli, di consulenza legale ecc. Noi ci adoperiamo per offrire assistenza in tutti questi ambiti. Nella mia arcidiocesi di Osaka, il centro per le attività sociali si incarica di svolgere questo tipo di assistenza. C'è poi un aspetto umanitario. A prescindere dal fatto che siano cristiani o meno, ci impegniamo ad accoglierli con calore e a proteggere i loro diritti come persone. Ultimamente, anche fra gli immigrati nascono vocazioni sacerdotali e religiose. Non possiamo che esserne lieti.
L'Osservatore Romano, 19-20 luglio 2018


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Tuesday, July 17, 2018

Primavera missionaria, di Gianpaolo Romanato (Missioni e colonialismo in età moderna) - Diario

Primavera missionaria, di Gianpaolo Romanato (Missioni e colonialismo in età moderna) - Diario

Primavera missionaria, di Gianpaolo Romanato (Missioni e colonialismo in età moderna)

Riprendiamo da L'Osservatore Romano del 6/10/2011 un articolo scritto da Gianpaolo Romanato. Restiamo a disposizione per l'immediata rimozione se la presenza sul nostro sito non fosse gradita a qualcuno degli aventi diritto. I neretti sono nostri ed hanno l'unico scopo di facilitare la lettura on-line.

Il Centro culturale Gli scritti (14/10/2011)

Le missioni furono la grande scoperta e la grande speranza della Chiesa dell'Ottocento.

Scoperta perché la missione in età postrivoluzionaria, rivolta ai popoli nuovi di Africa, Oceania, Asia e delle due Americhe, non garantita dalle strutture del patronato statale in vigore nell'ancien régime, fu sostanzialmente diversa da quella del periodo prerivoluzionario.

Speranza perché di fronte al nuovo nemico rappresentato dalla modernità e dall'organizzazione dello Stato liberale, la conquista di popolazioni sconosciute e mai toccate dal cristianesimo apparve come una nuova frontiera, un'imprevista possibilità di rifondazione del messaggio cristiano, una rivincita dopo le ripetute sconfitte patite in Europa.

Questa proiezione missionaria avvenne sotto l'egida della più rigida cultura controrivoluzionaria, a partire dal papa che per primo se ne fece interprete e banditore, Gregorio XVI, al secolo Bartolomeo Cappellari, monaco camaldolese originario di Belluno, che prima dell'elezione era stato per cinque anni prefetto di Propaganda Fide.

Egli, mentre impostò con le encicliche "Mirari vos" (1832) e "Singulari nos" (1834) le linee portanti di quella che per un cinquantennio sarebbe rimasta l'intransigenza cattolica antimoderna, avviò anche la rinascita delle missioni con una serie di iniziative che vanno dalla fondazione di quarantaquattro vicariati apostolici nelle terre nuove alla promulgazione dell'enciclica "Probe nostis" (1840), il manifesto della nuova missionarietà.

La cosiddetta "primavera missionaria" ottocentesca nasce così da radici culturali opposte a quelle della modernità.

Che lo slancio della Chiesa verso i popoli nuovi derivasse da un desiderio di rivalsa nei confronti dell'ondata laicizzatrice liberale dilagante in Europa, emerge dalle parole stesse di papa Gregorio XVI. L'enciclica iniziava, infatti, ricordando le "sventure" che opprimevano la Chiesa "da ogni parte", gli "errori" che ne minacciavano la sopravvivenza. Ma, "mentre per un verso dobbiamo piangere – scriveva il papa – dall'altra parte dobbiamo rallegrarci dei frequenti trionfi delle missioni apostoliche", trionfi che dovrebbero suscitare "maggiore vergogna" in "coloro che la perseguitano". Questa contrapposizione diventerà uno dei fili conduttori della storia missionaria, conficcata fin dall'inizio nel più tipico filone intransigente, controrivoluzionario.

Ma non solo la cultura missionaria, bensì anche il personale che la realizzò provenne da una cultura fondamentalmente "ultramontana", di scontro, estranea al mito ottocentesco della nazione che fu invece uno dei grandi alvei in cui si sviluppò la rivoluzione della modernità, di cui il colonialismo ottocentesco fu una delle espressioni.

È importante tenere presente questo sfondo intellettuale e teologico, che conferma, se ce n'è bisogno, la complessità e l'imprevedibilità della storia. Nel caso di cui ci stiamo occupando la novità non è figlia della rivoluzione ma della reazione, cioè di una cultura che normalmente non apre al futuro ma induce a rifugiarsi nel passato. L'elemento vincente della cultura missionaria fu, infatti, proprio la sua estraneità al mito della nazione.

Universalismo cristiano

I missionari che sciamarono per il mondo possedevano molto più il senso della Chiesa che il senso della patria. Si sentivano figli e difensori di una Chiesa perseguitata e costretta sulla difensiva dal liberalismo, dalle rivoluzioni nazionali. Ciò accentuò la loro estraneità rispetto alle idee politiche ottocentesche e rafforzò l'identificazione con l'universalismo cristiano. Le missioni non nascono italiane, francesi o tedesche, nascono cattoliche, figlie di una Chiesa ricompattata attorno a Roma e ormai distaccata dalle vecchie Chiese nazionali prerivoluzionarie, nascono in rotta di collisione con quegli ideali di grandezza e di potenza che mossero le potenze europee a conquistare e ad annettere i continenti nuovi.

Queste considerazioni valgono in particolare per i missionari italiani, quelli più vicini, anche geograficamente, a Roma e al nuovo spirito della cattolicità.

Il missionario italiano si sentì prevalentemente uomo di Chiesa, portatore di un disegno di evangelizzazione, come diremmo oggi, potenzialmente universale, non condizionato da interessi politici o nazionali. Negli istituti italiani sorti nel XIX secolo e dediti esclusivamente ad attività missionaria – dalle missioni africane di Verona fondate da Daniele Comboni al Pontificio Istituto Missioni Estere (PIME), dai saveriani ai missionari della Consolata – l'ideologia nazionale, o nazionalistica, è quasi inesistente. Predomina invece l'ansia apostolica, che diventa più forte e impellente quanto più le vicende politiche italiane sembrano riservare alla Chiesa in Italia un futuro incerto e difficile.

Sono proprio queste difficoltà che rafforzano il loro senso di appartenenza alla Chiesa, al di sopra del sentimento patriottico, il desiderio di aprirle strade nuove presso popoli lontani, non ancora toccati dal cristianesimo, l'ansia di trovare una "missione vergine" dove il Vangelo non fosse ancora arrivato, e fosse possibile predicarlo senza contaminarlo con interessi politici, ideologici.

Nelle "Regole" del PIME è detto che "l'Istituto fin dal principio mirò ad avere missioni proprie tra le popolazioni più derelitte e più barbare". La speranza e l'ideale di questi istituti è quello di rifondare il cristianesimo il più lontano possibile dalla vecchia Europa, dalle sue divisioni e dai suoi interessi.

Analoga l'intenzione di Comboni, che imitò l'istituto lombardo pensando esclusivamente all'Africa come alla "più infelice e certo la più abbandonata parte del mondo". In lui fu sempre chiarissima la consapevolezza che l'opera missionaria sarebbe stata tanto più efficace quanto più libera da fattori politici. La missione "deve essere cattolica, non già spagnola, o francese o tedesca o italiana", non si stancava di ripetere. Egli conosceva perfettamente le associazioni e gli istituti missionari europei, per averli visitati e frequentati, e lamentava che in Francia "lo spirito di Dio" fosse ancora troppo condizionato dallo "spirito di nazione".

Ma neppure in Francia il condizionamento della nazionalità impedì di vedere chiaramente che le missioni dovevano tenersi lontane dalla politica degli Stati cui appartenevano i missionari, come scrisse con grande lucidità il superiore francese della missione in Eritrea al governatore Ferdinando Martini, quando si stava preparando l'espulsione di missionari transalpini dalla nostra colonia: "Per noi non esiste che una sola parola: la Missione Cattolica, siano i membri che la compongono francesi, italiani, tedeschi o inglesi".

Tra missione e colonizzazione

L'intreccio fra missione e colonialismo è complesso. I due fenomeni sono paralleli, contemporanei e interdipendenti, tanto in età moderna quanto in età contemporanea.

In età moderna i missionari giungono nelle Americhe e in Asia sulle navi dei colonizzatori, protetti dalle medesime leggi, imbrigliati nei vincoli del patronato statale. E la situazione non è diversa nelle aree del globo, in particolare il Nord America oggi canadese, all'epoca sotto controllo francese. Ma tanto la Santa Sede quanto gli ordini religiosi impegnati nelle missioni non tardano a entrare in conflitto con il potere politico e a cercare spazi di autonomia.

Roma fonderà la potente congregazione di Propaganda Fide, nel 1622, proprio allo scopo di riportare, dovunque fosse possibile, le missioni sotto il controllo ecclesiastico, anche tramite abili espedienti canonici come l'istituto dei vicari apostolici, vescovi dipendenti direttamente da Roma, vescovi cioè "in partibus", che rispondevano del loro operato alla sede apostolica e non all'autorità politica.

I vicari apostolici furono utilizzati in particolare nel tentativo di aggirare il patronato portoghese. Nel caso del patronato spagnolo il modo per sfuggire al vincolo statale consistette nell'avvio di esperimenti di evangelizzazione svincolati dalla giurisdizione della corona di Madrid, in territori posti fuori o ai margini dalla sua giurisdizione.

In questo secondo caso va ricordato l'esperimento delle Riduzioni fra i guaraní del Paraguay (ma in realtà allargato anche ad altre aree e popolazioni sudamericane). Le Riduzioni erano missioni totalmente sotto controllo della Compagnia di Gesù, sulle quali la corona di Spagna non aveva quasi nessun potere. Sappiamo però che esse crollarono quando Spagna e Portogallo riordinarono i confini e privarono le missioni degli spazi di autonomia di cui avevano goduto per un secolo e mezzo. Non sempre Propaganda Fide riuscì a realizzare gli intendimenti per cui era sorta, neppure con l'espediente dei vicari apostolici.

Per tutta l'età moderna, insomma, missione e colonizzazione vissero una difficile coabitazione, spesso conflittuale.

In età contemporanea notiamo caratteristiche analoghe. Missioni e colonie vanno insieme, sia pure con sfasature non prive di importanza. In genere la missione precede la colonia e spesso si dirige in territori estranei o ai margini della colonizzazione: l'Oceania dove operò il PIME, la Patagonia dove si insediarono i salesiani.

Ma le coincidenze, nonostante queste sfasature, non devono impedirci di notare le diversità.

Nell'Ottocento e nel Novecento i missionari imparano le lingue locali, operano non sovrapponendosi alle culture autoctone ma penetrandole dall'interno, favoriscono la nascita di clero e gerarchie locali, seguendo le direttive romane emanate fin dalla famosa Istruzione ai vicari apostolici del Tonchino del lontano 1659 – un documento pontificio lungimirante, più citato che conosciuto –, ribadite in tutte le successive direttive pontificie e riprese dalla enciclica "Maximum illud" di Benedetto XV del 1919. Mentre la colonia è una conquista di territori, spazi e risorse, un'operazione di potere, la missione è un tentativo di innesto del cristianesimo senza alterare le culture locali.

Non sempre l'operazione fu portata avanti con la necessaria chiarezza, ma l'intenzione era questa. Comboni dirà che la presenza missionaria nella "Nigrizia" – come si definiva allora l'Africa – doveva durare fino a quando fosse nata una cattolicità locale, poi sarebbe dovuta cessare. È esattamente ciò che è avvenuto in Sudan, il territorio della sua missione, dove esiste oggi una gerarchia sudanese, alle dipendenze della quale operano i missionari comboniani. "Salvare l'Africa con l'Africa" fu il suo motto, che esprime appunto tale intenzione. Arrivare, cristianizzare, creare una Chiesa locale e poi venire via.

Se osserviamo a posteriori la storia del colonialismo europeo, notiamo più chiaramente la differenza fra colonialismo e missione. Il colonialismo è esploso lasciando macerie che hanno devastato, e continuano a devastare, i continenti extra-europei. La missione non è esplosa, è sopravvissuta all'età coloniale, si è trasformata e ha dato vita alle cosiddette giovani Chiese, con clero e gerarchia indigeni.

Oggi nel sacro collegio sono presenti decine di cardinali provenienti da Paesi africani o asiatici che furono colonie fino al secondo dopoguerra. Le missioni sono servite a dilatare il cattolicesimo su scala planetaria e a inculturarlo nei popoli nuovi.



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