Monday, May 22, 2023

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Sunday, May 21, 2023

“聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー:教皇フランシスコの教皇職の最新の方向性 2023年5月12日”


聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー:教皇フランシスコの教皇職の最新の方向性 2023512


    彼らは、教理もなく、教義もなく、信仰もない教会を提唱しており、そこではもはや何かを教える権威は必要ありません。すべては『愛と奉仕』の精神に溶解しているのですが、それが何を意味するのか、どこに至るのか、よく分からないままです。

    教会は、矮小化された超自然的ではない「福音」を提示するだけに還元され、人類がもはや回心する必要がないと提示するのです。

    残念なことですが、エクレジア・デイのこれらの団体のメンバーは、トリエント典礼を捧げることを望む他の多くの司祭と同様に、教会生活における現在の出来事に直面して沈黙し、恐怖の中に生きています。この状況は、典礼の領域と教理の領域との間に永久に続く二項対立を引き起こし、そのことが、司祭たちを永久に続く欺瞞の中に生きさせ、信仰告白の必要に直面したときに、彼らを救いようのないほど麻痺させるという危険性があります。


Interview with the Superior General of the Priestly Society of Saint Pius X


聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー


2023512

FSSPX.NEWSサイト


教皇フランシスコの教皇職の最新の方向性


202355日の聖ピオ五世の祝日にFSSPX.NEWSがメンツィンゲンで行ったインタビュー


【問い(FSSPX.NEWS)】総長様、教皇フランシスコは先日、教皇在位10年を迎えました。ここ数年で最も重要なポイントは何だとお考えですか?


【ダヴィデ・パリャラーニ神父】教皇の二つの中心的かつ革新的な思想、つまり「普遍的な恩赦」【全てをゆるす】と理解されるあわれみと、地球を「全人類の共通の家」として尊重することに基礎を置く新しい道徳、この二つの思想に続いて、近年ではシノダリティーという思想によって特徴づけられていることは否定できません。シノダリティーは決して新しい思想ではありません(注1)が、教皇フランシスコはこれを自らの教皇職の優先軸に据えました。


シノダリティーとは、成熟し完成した近代主義の真髄を表しているにもかかわらず、この思想があまりにもどこかしこにも遍在しているため、多くの人は、時に、これに関心を失っています。教会学的な観点から見ると、シノドス革命は、教会の位階構造、機能、そして何よりも信仰の教えにおいて、教会に衝撃を与えるとともに、教会を深く変容させるものだと考えられます。


(注1)第二バチカン公会議直後から始まったシノドス運動だが、それ以来、千回以上の教区シノドスが開催されており、その際、信者が頻繁に参加していた。このことは、まったく革新的なことである。

教皇フランシスコは、教皇就任当初からシノダリティーという概念の要素を明確にした。第一に、「信仰の感覚」(sensus fidei)および、民衆の敬虔さを啓示の源として解釈することを通して(使徒的勧告「福音の喜び」[Evangelii gaudium119-120番参照)、次に、「司教シノドス設立50周年記念講演」(20151017日)において、より率直にシノダリティーの問題を述べることによって、明示していたからである。これに基づいて、国際神学委員会は、「教会の生活と使命におけるシノダリティー」(2018年)という概念を具体的にするテキストを作成し、今日私たちが動いているのを目にしているプロセスを理論化した。

このように、シノダリティーに関するシノドスは、公会議以来広く実験されてきた概念を教会全体の規模で実践的に適用したものとして現れている。この概念は、現教皇在位期間を通じて、提示され、神学的に探求されてきた。


【問い】なぜ、人々はこのシノダリティーに疲れてしまったのでしょうか?


【パラリャーニ神父】考えられるのは、シノダリティーが過度にドイツ語圏の問題として認識されてきたこと、あるいは、おそらく、すべての物事を誇張せずに言えば、シノダリティーは基本的にはベルギーの問題であって、その普遍的な次元が時間の経過とともに失われてきた可能性があることです。ドイツ人たちがこのシノドスのプロセスで特別な役割を果たしたことは確かですが、この問題自体はローマの問題であり、したがって普遍的なものであり、そのため、カトリック教会全体に関わるものなのです。


【問い】このシノドスのプロセスをどのように定義なさいますか?


【パラリャーニ神父】第一に、このプロセスは、あらかじめ定義された教理というよりは、或る具体的な現実です。このプロセスは、混乱した手法であり、もっとよく言えば「一つの実践」(a praxis)です。あらゆる可能性を前もって知ることがないままに開始されたものです。具体的に言うならば、教会をひっくり返そうという断固とした願望です。教導教会は、もはや自らを天主からの啓示の管理者、守護者であるとみなしていません。そうではなく、教皇と共にいる司教団とみなしており、彼らが耳を傾けるのは、信者の声、特にあらゆる周辺部の声であり、つまり最も疎外された霊魂が提案するものに特に注意を払っているのです。それは、牧者が羊になり、羊が牧者になる教会なのです。


その根底にある思想は、天主がご自身を啓示なさるのは、位階階級によって守られている聖書や聖伝という伝統的な経路を通じてではなく、「天主の民の体験」を通じてである、というものです。このため、シノドスのプロセスは、世界中の全教区の信者による話し合いから始まりました。このデータに基づいて、司教協議会のレベルで要約が作成され、数カ月前に最初のローマのまとめ(synthesis)が発表されました。


【問い】天主がご自身を啓示され、天主の民の体験を通じて御旨を周知させられるという思想は、どのような意味を持つのでしょうか?


【パラリャーニ神父】この思想は、近代主義という建築物全体の基盤そのものです。聖ピオ十世は、回勅「パッシェンディ」(Pascendi)全体を、啓示に関するこの誤った思想を糾弾することで構築しています。もし、聖書と聖伝に言及する代わりに、信仰が、最初は個人的な体験に、そして共有されたときには共同体的な体験に還元されるとすれば、信仰の内容、ひいては教会の構造は、あらゆる種類の可能性のある進化に開かれてしまいます。定義によれば、体験とは、ある瞬間と、あるいはある期間と結びついています。体験とは、時間と歴史の中で起こる現実であり、したがって本質的に進化的なものです。それと同じように、私たち一人一人の人生の中にも運動があり、それゆえに進化していくものなのです。


このような信仰体験は、歴史のさまざまな瞬間の認識と必要性に応じて必然的に進化する運命にあり、新しい内容で常に「豊かに」され、同時に、もはや現代的でないものは脇に置かれます。このように、信仰は、むしろ、人類の歴史と同様に、常に新しくて変化する偶発的な出来事と結びついた、人間的な現実となるのです。長期的には、永遠のもの、超越的なもの、不変のものが残される余地はあまりありません。私たちがまだ、天主とカトリック教会について語るならば、この二つの現実は、体験が「ここで、今」(hic et nunc)感じられることを投影したものに終わってしまいます。この二つの用語【天主とカトリック教会】は、私たちの信仰の他のすべての教義的な要素とともに、その真の意味と範囲において取り返しのつかないほど変えられています。この二つの用語は、ぼんやりとしたこの世的で変化しやすいだけのものの中に、徐々に再吸収されていくのです。その用語の意味は、人類と、人類の持つ天主への経験とともに進化します。この思想は新しいものではありませんが、シノドスのプロセスは、その広さと深さの新たな最高点を表しているのです。


【問い】総長様が言われたこの「ローマのまとめ」について、どんなものかをお教えいただけますか。


【パラリャーニ神父】このローマのまとめは、202210月に発表された文書で、タイトルは「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」です。


これは、シノドスの旅の大陸段階で司教たちの内省のために、すなわち、それぞれの大陸で共に会う司教たちのために、作成された作業文書です(注2)。この文書は、信者の「信仰の感覚」(sensus fidei)を表現したものであり、司教たちはこれを「シノドス的な教会への回心の道筋を示すあかしであると認識する弟子の目で」祈りながら読み()「教会は()どのようにその福音宣教を刷新するか、()耳を傾けることから学びます。」(注3)したがって、この「信仰の感覚」の表現を前提として、司教たちは結果を導き出して最終決定を下すことが期待されているのです。


(注2)大陸のグループは七つに分かれている。南米と北米は別の存在であり、中東はアジアと別である。

(注3)「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」、13番。


さて、このテキストの内容とそこに含まれる提案は、最初から最後まで大惨事です。カトリックの信仰を表現したものとみなされ得るものは、実質的に何一つありません。それどころか、提案のほとんどは、教会がまったく新しい現実へと溶解していくことを提唱しています。信者の一部(そして特に現代では司祭の一部)が奇妙なことを言うのは理解できるかもしれませんが、バチカンのシノドス事務局が作成したまとめにそのような記述が残されたのは絶対にあり得ないことです。


【問い】このまとめの中で、特に危険だと思われる箇所はありますか?


【パラリャーニ神父】残念ながら、文章のほとんどが恐ろしいものです! しかし、特に二つだけ、この文書全体の意図、特に、カトリック教会の本質そのものを、シノドスのプロセスを通じて変えたいという願望を要約しているように思えるものがあります。第一に、権威に関連して、逆向きに機能する教会、教導教会がもはや何も教えることができないという教会を認めたいという明確な願望があります。「一人だけで行う運営を特権化するピラミッド型の権力を解体する教会的パラダイムとして、シノドス的組織モデルを構築することが重要です。教会における唯一の正当な権威は、主の模範に従った、愛と奉仕の権威でなければなりません」(注4)。


ここで私たちが疑問に思うのは、一つの異端があるのか、あるいは単に、私たちが表現することさえできない「無」があるのか、どちらだろうかということです。異端者とは、実際には、まだ何かを「信じて」おり、たとえその思想が歪んでいるとしても、まだ教会についての思想を持っているかもしれません。しかし、ここで私たちが扱っている教会の概念は、曖昧であるばかりでなく、現代の表現を用いれば「流動的」でもあるのです。ここで彼らは、教理もなく、教義もなく、信仰もない教会を提唱しており、そこではもはや何かを教える権威は必要ありません。すべてが「愛と奉仕」の精神に溶解しています。しかし、それが何を意味するのか、どこに至るのか、よく分からないままなのです。


(注4)同上、57番。


【問い】総長様は、特に気になる第二の箇所があるとも言われましたね?


【パリャラーニ神父】はい、あります。次の第二の文章は、全テキストの精神を要約していると同時に、教皇フランシスコの教皇職のこの数年の本当の感情を表しているように私には思えます。「世界は『出向いていく教会』を必要としています。それは、信者と非信者の間の分裂を断ち切り、人類に目を向け、教義や戦略以上のもの、救いの経験、人類と自然の叫びに応える『贈り物の一撃』を提供する教会です」(注5)。この短い文章には、最初に見る文章よりもはるかに深い意味と重要性があると私は確信しています。


(注5)同上、42


信者と信者でない人の区別を拒否することは、現在の文脈では論理的ですが、確かに狂っています。もはや信仰が本物の超自然の現実でなくなれば、信仰を守って宣教するはずの教会そのものが、その存在意義(raison d'être)と人間の中での使命とを変えることになります。


実際、もし信仰が他の経験の中の一つに過ぎないのであれば、どうして信仰がより良いものであるかのように描かれ、またなぜ信仰が普遍的に課されなければならないのでしょうか? 簡単に言えば、一つの感情・経験は、絶対的真理に一致することはあり得ません。その価値は、特定の意見の価値であり、これはもはや伝統的な言葉の意味での真理ではあり得ません。このことは、論理的には、信者と信者でない人の区別を拒否することになります。残っている唯一のものは、期待、意見、叫びを持つ人類であり、そのような人類は超自然のものを主張することはないのです。


このように、教会は人類に対して、もはや超越的な啓示の伝達とは言えない教えを提供することになります。教会は、矮小化された超自然的ではない「福音」を提示するだけに還元され、その時、福音は単なる内省と慰めの書にすぎず、区別なくすべての人に適応している本になりさがります。この観点から、「ラウダ―ト・シ」(Laudato si)が提案する新しい神学と新しい環境保護的な道徳は、人類がもはや回心する必要がないと提示するのです。またその神学と道徳においては、信者と信者でない人の区別はもはや存在していないことを私たちは理解します。


【問い】メディアでは、シノドスが同性婚に注意を払っていることが特に目立ちます。この問題をどのように捉えておられますか?


【パリャラーニ神父】この分野における世界的な圧力が、シノドスのプロセスにも影響を与えていることは否定できません。教会は、特に使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Lætitia)によってこれらの人々に扉が開かれた後、これらの人々の感情的な必要性に対して、さらに歓迎し、気配りをするよう求められています。これは、最も期待が高まっているテーマの一つです。私たちの受けた印象は、一方では、教会当局が、このようなカップルを祝福することはできないという原則を繰り返し(例えば、20213月の教理省の回答)、他方では、何度かこのようなカップルが祝福されている(役所で法律上の結婚をした後に祝福を受けるために教会に来るカップルもある)というものです。


数カ月前、フラマン語圏ベルギーの司教団は、これらのカップルを祝福する公式な儀式を発表したほどです。この新しい取り組みに対して、バチカンは今のところまだ反応を示していません。アントワープの司教によれば、教皇はこのことをご存じでしたが、ただなすがままにさせておくことにしたのだということです。同じように、ドイツの司教団は、この分野での大きな、そしてあからさまに革命的である前進を提案しています。このすべてのことが、司教や信者の一部による反発を引き起こすのは避けられません。しかし、他の多くの人々は、物事を受動的に観察することで満足しています。


こうして、この分野でも他の分野でも、弁証法的で混乱した状況が生まれ、その中で誰もが自然に、管轄当局からの宣言を待つだけになってしまっています。すると、この当局は、物事が早すぎると思われるときには自由にブレーキをかけますが、譲歩して物事を前に進め、少しずつ、さまざまな慣習や習慣の一部になるようにすることもできます。時には、教会の伝統的な教理が繰り返し述べられ、不変のものとして定義されることもあり、このことは保守派を安心させます。しかし、特定のケースの司牧上の必要性も同様に強調され、和解不可能なものを和解させるという「奇跡的」なあわれみが適用されます。現実には、伝統的な道徳原理や信仰は、このようにして選択可能な意見へと変容していくのです。これは、権威を行使する方法の特徴であり、もはや超越的な原則に導かれることなく、その時々の期待に対して敏感に反応を見せ、純粋に現実的な方法で評価された好機に従って、その期待を満たすことを決意するのです。


しかし、このようなことが、ある時点ですべて止まるというわけではないと理解することが重要です。このように権威を行使する方法は、現代の民主主義国家を支配しているのと同じメカニズムを使っています。今日認可され得なかったものが、明日、同じ弁証法によって、また新しい圧力と新しい前例によって、状況が十分に成熟し、心が十分に準備されたときに、認可されることになるのです。これが、シノダリティーが引き起こすメカニズムの簡単な説明であり、これが、私たちが近代主義の最も完成された例に直面していると言った理由です。


【問い】直近では、教皇フランシスコの教令は、トリエント・ミサを捧げることを望む新任司祭は、聖座の明示的な許可を得なければならないと再定義されました。さらに、小教区の教会で聖伝のミサを許可するためには、聖座の許可も必要であるとされています。これらの施策をどのように評価なさっていますか?


【パリャラーニ神父】経験豊かな専門家でなくても、聖伝のミサを廃止しようという明確な願望がここに見て取れると思います。20232月に発表されたこの教令も、20226月の使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio desideravi)も、聖伝のミサ典礼書の使用をできる限り制限し、さらにそれを使いたいと思う人を脅して挫かせようとするものです。このような状況下で、トリエント・ミサを捧げる許可を得るために聖座に働きかける勇気を持つ若い司祭がいるとは到底思えません。好むと好まざるとにかかわらず、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)以来、このミサは教会で事実上禁じられています。ロシュ枢機卿がつい最近私たちに思い出させたように、公会議によって「教会の神学は変化した」(注6)ため、その結果として典礼も変化したのです。なぜなら、典礼は教会の神学を表現したものであるからです。


(注6)ロシュ枢機卿はこう主張した。「教会の神学は変化しました。以前は、司祭が少し離れたところにいるすべての人々を代表していました。彼らは、ミサを捧げるこの人物だけを通して、いわばつながって(channnelled)いました。(しかし、今日では、)典礼を捧げるのは司祭だけでなく、洗礼を受けた人々も司祭とともにそうするのです。ですからそれは、非常に大きな声となるのです」(BBCラジオ4放送、2023319日)。


【問い】このような状況の中で、エクレジア・デイ団体のさまざまなメンバーは、不確実性と不安の瞬間を経験しているところです。もうすぐ、それに関する新しい教皇の文書が出されるかもしれないと私たちは聞いています。このことについて、何か語ることがおできになりますか?


【パリャラーニ神父】そのような文書については、私は何も知りません。しかし、私は、ダモクレスの剣が常に頭の上にぶら下がっているようでは、司祭は充実した司祭職を送ることはできないと思います。同じように、いつも単なる噂に常に気を取られていては、司祭は平穏な生活を送れません。司祭は、明日ミサを捧げるのを長上から許されるかどうかを気にせずに、ミサに忠実に生きなければなりません。


司祭は、自分が配る大いなる宝を、他の霊魂に与えることに関心を持つべきであり、自分からそれを奪われることを常に恐れて生きたり、自分が置かれている不安定な状況から逃れることができる奇跡を希望して生きなければならなかったりするべきではありません。私は、天主の御摂理がこのような状況を望んでおられるとは、まったくもって思っていません。


さらに、残念なことですが、エクレジア・デイのこれらの団体のメンバーは、トリエント典礼を捧げることを望む他の多くの司祭と同様に、教会生活における現在の出来事に直面して沈黙し、恐怖の中に生きています。悲しいかな、彼らは、今日教会で起こっていることについて懸念を表明し始めたその日に、ダモクレスの剣が自分たちに落ちてくる可能性があることを十分に承知しています。また、ロシュ枢機卿は、彼らにいつでもこのことを思い出させることができるように準備しています! 私は愛徳の心でこう言います。この状況は、典礼の領域と教理の領域との間に永久に続く二項対立を引き起こし、そのことが、司祭たちを永久に続く欺瞞の中に生きさせ、信仰告白の必要に直面したときに、彼らを救いようのないほど麻痺させるという危険性があります。そのため、今日、特にある国々では、シノドス運動という狂気に対する反発が、逆説的ではありますが、聖伝のミサ典礼書の使用を固守しないグループから多く出てきているのです。


【問い】聖ピオ十世会の将来を、どのように考えておられますか?


【パラリャーニ神父】簡単に言えば、聖ピオ十世会は、今まで当会が代表していたものと完全に連続していると私は考えています。聖ピオ十世会は教会の現状に関心を持たなければなりませんが、噂や、この枢機卿があの神学生に内緒で言ったこと、あるいは教会で起こり得るであろうこと、あるいは私たちに起こるかもしれないことに関心を持つことはありません私たちはそのすべてを超えて生きる必要があるのです。


カトリック教会の善のために、聖ピオ十世会は、聖伝の典礼を捧げる完全な自由を、司祭と信者に維持し、保証しなければなりません。同時に、聖ピオ十世会は、この同じ典礼に付随し、その典礼を支える聖伝のカトリック神学を保存していくのを確実にし続けなければなりません。今でもまだ明晰なカトリック信者は、この教理を放棄することはできません。ロシュ枢機卿の言葉を借りれば、公会議によって行われた教理の変更が、まさに新しいミサを作らせたのです! ミサとカトリック教理の両方を維持し、誤謬とそれを教える人々に対して挑戦する完全な自由を保持することは、私たちの義務です。結局のところ、典礼が定義により公的なものであるならば、それに付随する信仰告白も公的なものです。


今日、私たちはこれまで以上に、カトリック教会の聖伝の典礼が、道徳――私たちにはその原則を変える権利がありません――にも一致していることを、私たちは認識しなければなりません。私たちの宗教の中心に、全能の天主が十字架と真の犠牲とを植えられました。十字架なくして、この犠牲なくして、誰も救われることはあり得ません。偽りの愛と偽りのあわれみの感覚の名において、あらゆる種類の忌まわしいものを受け入れることによっては、誰も救われることはあり得ません。救う愛はただ一種類しかありません。なぜなら、清める真の愛はただ一つしかないからです。それは十字架の愛であり、天主の贖いの愛であり、私たちの主が私たちに示してくださり、私たちに伝えてくださった愛であり、主が「愛徳」と呼んでくださった愛です。しかし、この愛は、信仰なしには存在できず、また、それを教える人たちなしには存在できないのです。


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Tuesday, May 16, 2023

政治と神学

C.シュミットの著書。 1922年刊。このなかで彼は,近代国家におけるすべての重要概念は世俗化された神学概念にほかならないと主張し,しかしながら近代議会制民主主義は,奇跡すなわち例外状況を政治の世界から追放した結果,国家の非常事態たる例外状況の決断を不可能にしたと批判する。そして,神学上の神概念を世俗化させた主権者,すなわち例外状況における決断者の独裁という観念を持出し,マルクス主義の階級神話に対抗するために民族神話を独裁の根拠とするところにこの議論の特徴がある。これは,神学を母体として生み出されてきた近代政治理論が,神学を否定して合理的理論を展開しようとして処理しえなかった政治の非合理的性格を逆手にとった議論であるといえる。


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Forme politiche forme teologiche

Andrebbe anche ricordato che Schmitt ha sostenuto che tutte le forme politiche della modernità sono forme teologiche secolarizzate. Il punto è di fondamentale importanza, perché induce a valutare il nuovo totalitarismo come un fatto "teologico" o, se vogliamo, pseudo-religioso: come una religione dell'irreligione. E qui i giochi si fanno veramente duri. Il termine "pandemonio" presente nel titolo, credo alluda a questa confusione "diabolica" dell'attuale corso della storia che, senza una prospettiva di teologia della storia, diventa scarsamente comprensibile.


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