Sunday, November 25, 2018

ヨハネの黙示録について

ヨハネの黙示録について
H. U. von Balthasar, Teodrammatica, vol. IV

日常生活の中では説明不要のシンボルもたくさん使われている。例えば、「彼の方はまるで観音様だ」と言えば、話題の人が情け深い人であると分かります。「あのキツネめが」と言えば、「ずる賢いやつ」ということになる。黙示録は、私たちの文化とは違う文化圏で生まれたので、説明がないとわからない。また、著者は旧約聖書に精通していて、旧約の内容を独特の仕方で自由自在にシンボルとして利用するので、旧約の知識なしには理解できないことが非常に多いのです。著者は一つのシンボルの上に他のいくつかのシンボルを重ねて用いる。そして、著者は例に満たされて受けた啓示内容をシンボルに込めて表現しているわけですから、同じ霊によらない限り、私たちにはわからないことがある。
自分の信じる信仰を公に生きるのは難しい社会の中で、神が歴史を導き、歴史に現世を超える意味を与えることができるだけでなく、歴史を目的地に導いていかれるという確信のもとで、現実の歴史の出来事をどのように解釈したらいいのか、を教えています。

子羊は勝利者として、歴史全体の主として紹介されると同時に、いつも戦いに向かっていかなければならないという者として描かれている。宣教のパラドックス(19、11以下)。福音宣教は、勝利の宣言と同時に、絶えざる戦いでもある。
ヨハネが見ているヴィジオンは、「天と地の間」におこる。地は全てではない、天もある。また、天は地において神の臨在を示す特権的場である。その場は、空間的というより神学的な場である。6、14で天は「巻物が巻き取られるように消え去る」といことからもわかります。天は神であるとは言われない。天は地上の対局として描かれている。
ヨハネは、地上に生きながら、同時に自分のことを天にある24人の老人の一人として描いている。死ぬ前に、天における自分の役割を語っている。幼きイエスの聖テレジアが天にいる時に地上のために取りなすというように、宣教は天には不要となるが、その重心は天にある(von Speyr)。


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Saturday, November 24, 2018

Balthasar Teodrammatica vol 4

Lonergan, Method p. 341

Lonergan, Method p. 341

ルソー的桃源郷(とうげんきょう)Arcadia

Apophatic theology 否定神学
Kataphatic theology 肯定的神学
Analogical theology 類比的神学

否定、肯定、優越

イコノクラスム(英語: iconoclasm, ギリシア語: εικονομαχία)とは、宗教的に崇められる画像を破壊する運動である[1](英語の意味においては「悪習の打破」等の他の意味も含意されるが[1]、本項では「破壊運動」の語義に当たる事項のみを扱う)。聖像破壊運動(せいぞうはかいうんどう)ともいう。

キリスト教で有名なイコノクラスムには、東ローマ帝国におけるイコノクラスムと、宗教改革時に西ヨーロッパで起こったビルダーシュトゥルム(絵画嵐)がある。場合によってはイコノクラスムと言えば、東ローマ帝国において8世紀から9世紀にかけて行われたものを特に指すことがある[2]。「偶像破壊」というとキリスト教の運動を中心としていうこともあるが、包括的に宗教的な「偶像」の破壊を指すこともある。


不可知の雲(The Cloud of unknowing)

 「不可知の雲(The Cloud of unknowing)」は、14世紀末中世の英国で書かれた瞑想のガイドブックあるいは指導書である。かなり割り切って言えば、瞑想のハウツー本である。


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Monday, November 19, 2018

晴佐久昌英、福音宣言 読書ノト

晴佐久昌英、福音宣言 読書ノート


p、3 宣言されて初めて福音は福音となり、宣言して初めて福音を福音にできる。

p、102 名のある歌手が平和運動をしたり、福祉活動に協力したりするこちがあり、それ自体はすばらしいこちだし大いにやるべきことであろうが、もしもその人が歌を歌わなくなったならば、その人を歌手と呼べるだろうか。その人が本当に人の心を動かす魂の歌を歌う歌手であるからこそ運動や活動に携わる意味も生まれてくるのであって、活動を共にする仲間たちの期待と信頼もそこからうまれてくるのではないか。

p、142 音楽

p、162 宗教多元論。すべてを相対的に俯瞰(ふかん)しようとする欲望は、結局は「かみのようになれるぞ」という悪の誘惑であり、人間の経験と観念ですべてを支配しようとする傲慢である。

p、166 洗礼。生まれてからずっと親に愛されてきた子どもが物心ついてから親の愛を理解するように、もとより神の子であるのに気付いていなかった人が、自らが神の子であることに目覚める。新たに生まれる。

p、171 赤ん坊が生まれるのは何らかの資格を満たしているからでも自ら願ったからでもなく、ただ親の愛と望みによるものであるように、幼児洗礼は無条件なる恩寵による誕生を過不足なく表す秘跡である。

p、178 現代社会は、今こそ福音を求めているし、教会の秘跡に潜在的に憧れている。…いまだにこの秘跡の喜びの知られていない日本においては、福音宣言の怠惰についてはどんな言い訳も空しい。

p、194 いくつもの宗教のうちのひとつの宗教の教えを「布教」するような相対的な活動ではなく、すべての人にとって救いとなる真理を明確に「宣言」するという絶対的な奉仕であることも、理解すべきだろ。

p、218 友人が「私は絵を信じる。自分は美術に救われ、絵画こそいのちと思って生きてきたし、実際に良い絵もたくさん描いてきた」と言っているからといって、「音楽はすばらしい、音楽で魂は癒される、ぜひこの曲を聴いてほしい」ということに何か問題があるだろうか。



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