Tuesday, October 16, 2007

IUSTITIA と正義

義 (正義)

羊と我の組み合わせ。我は「鋸」(のこぎり)。羊を鋸で切って、犠牲にすること。儀式のときに供えるいけにえには、羊を使うことが多く、鋸で二つに切り離して供えた。それは羊の内臓をも含めて、すべて犠牲として完全であることを示すためで、毛並みや角・蹄(ひづめ)などに欠陥がないだけでなく、内臓にも何らの病気も無いことを示すためであったと思われる。それで神などに供える犠牲としての条件においてすべて欠陥がないことを「義(ただ)しい」という。(白川 静、常用字解、平凡社)

義歯、義足 (歯や足と同じ役割を果たす)

「それから「義」,すなわち告朔之餼羊(天を祭る月始めの祭りに犠牲として捧げる羊)を我が背負うという意識,つまり天に捧げる共同体の犠牲の獣を自分が選ばれて背負っていく時の気持ちは垂直的には天に対する責任と,水平的には自分をその大事な役目に選んでくれた自分の仲間に対する責任,そういう意味で「義」は責任と言ってよろしいと思います。責任という概念のなかった西洋風の理解により義は正義と同じくjusticeと考えられていますが,義足とか義歯は,正しい足とか,正しい歯という意味ではなくて,足の責任を果たすもの,歯の責任を果たすもので,それに「義」という言葉を使っているのです。昔からある徳目,仁・義・礼・智・信と言われている「義」は,これでみてもわかるように,今の語を使えば責任です。ところでエゴロジカルな個人を本当に表す東洋の単語ないし概念は,私の知る限り良知という言葉になって,17,8世紀に造語されてきたという事実を考えてみますと,概略的に申しますと,ヒューマニズムの教える古典的な文献を辿ってみると,東西の文化圏で道徳の領域でも基本理念に関して逆現象の同時展開が認められ,確かに東西の古典は相補性の関係,お互いに相補うようなメリットを持って古典時代から20世紀まで進展してきています。」(今道友信)

No comments: