Thursday, May 14, 2015

墳墓の歌 (Dei Sepolcri) フォスコロ Ugo Foscolo(1778―1827)


フォスコロ Ugo Foscolo(1778―1827)

イタリアの前ロマン主義期を代表する詩人。1778年2月6日、ベネチア領だったイオニア諸島のザンテ島(ザキントス島)でベネチア人の父親とギリシア人の母親の間に生まれ、父親の死後、92年にベネチアに移る。古典文化の素養を得、同市の文学界と接触するとともに、アルプスのかなたから流入したフランス革命の自由主義・共和主義思想に共鳴し、オーストリアからの解放のための戦いに挺身(ていしん)した。97年、彼の悲劇『ティエステ』が上演され好評を博した。同年、カンポ・フォルミオ条約ののち、やむなくベネチアを去りミラノに移る。ナポレオン軍に従ってイタリア各地を転戦、大尉まで昇進する。ミラノ、フィレンツェを中心にボローニャ、ジェノバと転々としながら、勉学と文芸活動、政治的責務の遂行、報われなかった恋、社交界への出入り等々、浮沈の激しい情熱的な日々を送った。[古賀弘人]

波瀾の人生

1802年に詩『解放者ボナパルテ賛』を発表、また同年、政治と恋愛をめぐる自らの体験を要約し、心情を吐露した書簡体の小説『ヤーコポ・オルティスの最後の手紙』を刊行し、知識階級の青年層に圧倒的に迎えられた。ついで数々の名ソネットを含む『詩集』(1803)をまとめ、1807年には前年に一気に書き上げた傑作の長詩『墳墓』Dei Sepolcriを上梓(じょうし)した。 一時、パビーア大学で修辞学の教鞭(きょうべん)をとったが、革新思想ゆえそうそうに教壇から追われた。12年、結局未完に終わった頌歌(しょうか)『三美神』Le Grazieの草稿に着手、またこのころ、悲劇『アイアーチェ』と『リッチャルダ』を上演したが、不評であった。ナポレオンが倒れてイタリア王国が失墜すると、14年、フォスコロは返り咲いたオーストリア権力への恭順を拒み、スイスへ亡命の途を選び、なおも追われてイギリスへ渡った。そしてロンドンでイタリア文学論の叙述とイタリア語学教師の労働に従ったが、27年9月10日、市郊外のターナム・グリーンで生涯を閉じた。  人間として、詩人として、時代の壁を打ち破ろうと奮闘したフォスコロの、真摯(しんし)で堅忍不抜な生き方と清新な息吹に満ちたその文学は、マッツィーニらリソルジメント期の革新を志す人々によって模範として称揚され、1871年、彼の遺骸(いがい)はフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に移された。なお、フォスコロが批評家として斬新(ざんしん)で近代的な直観と判断を備えていたことは、今日『イタリア文学史』として集成されている彼の批評が証明している。[古賀弘人]

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墳墓の歌 (Dei Sepolcri)
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原文はこちら:
http://www.oilproject.org/lezione/carme-dei-sepolcri-parafrasi-ugo-foscolo-8506.html#rev72
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ピンデモンテ君へ *

「マネス神への誓いは聖なるものさるべき」*

糸杉の影にであれ、涙に慰められる/骨壺の中であれ、死の眠りは/軽くなろうか。我がために太陽が地上の
草や獣の麗しき家族を増やさなくなれば、/5未来という時は、我が前に曖昧な喜びを/ほのめかす踊りをやめるなら、
また、親愛なる友なる君から/悲しげな和に支配される歌を聞かなくなる、/愛情の女神、乙女のムーサの精神が
10 -そは放浪する我に唯一の原動なるがー/語れなくなるなら、失われし日々に/如何なる石が安らぎになろうか? 陸と海に死が撒く数知れぬ骨に/自他の区別を記すとて。/
15 ピンデモンテ君、最後の女神でさえ、 希望も墳墓を見放すのは如何にも真なるかな。/忘却が森羅万象をその暗夜に巻き込み、/変化から変化へと疲れを知らぬ力が働く。 人間とその墓、最期の足跡と天地の形見を/
20 着替える時間。死すべきものは/消えた後も冥界の一歩手前に留めさせるのに、 なぜ、早めて、その仮象を斜めに見るのか。/昼間のメロディーは物言わぬとき、/彼は地下にいてなおも生きているではないか、
25 優しいお世話〔想起〕で知人のなかにそれを/(メロディー)覚ましうるならば。天からのものだ、/ こうした愛し感情の相応は。天からの/人への備え物。しばしば、それで亡き友と/つきあい、亡き友もまた我らとともにいる。
30 赤子なるを受け入れ養った聖なる土は、/母の胎内とて、最後の宿を与え、形見を/慈悲なき天候や人の踏みつけから守るなれば。 墓碑は名を保ち、友なる木が香しき花で/灰を柔らかな影で慰め給えばなり。
35 愛情の遺産を残さない者に限り、/骨壺の喜び少なき。葬儀の後を/眺めようとするならば、己の魂を アケロンが社寺の哀悼〔苦〕のなかを/さまようなり、天主の許しの/40 広き翼のもとに逃れるを見るや。 彼は、骨土を雑草が茂るも荒れ果てた土地に/残し、そこで愛人の祈りもなし、/旅人一人は廟より自然が送る溜息を
45 聞き取ることもない。/それでも、新たな法により、* /墳墓は敬虔なる視線から 外され、死者の名も取り上げられる。/タレイヤよ、あなたの祭司も/ 50 葬られることはなかった。/貧しき家にて愛情をこめて/あなたを歌い、月桂樹を育て * 冠を飾った。ロンバルディア州の/サルダナパールを風刺したその歌を *
55 あなたはあなたの笑いで飾ってくださった。/かのサルダナパールを喜ばせるのは/アッダ川の岸壁やティチノ川から 聞こえる、飼われる牛のモー鳴き/だけである。それで彼は暇を楽しみ、/60 ご馳走で幸せ。 麗しきムーサよ、何処に?/あなたの神霊を思わせる/アムブロシアの香りを感じない * 母の家に憧れ、溜息する/65 この木々の下で。  *
あなたがこの科(シナ)の木に/来て彼に微笑んでいた。/今や飾り気のないこの枝は ー女神よー 翁の骨壺を/70 覆っていないため震えている。/静けさと木陰で彼に 優しくしていたこの木が。/もしかすると、あなたはあてもなく/さまよいながら庶民の小塚の中で、
 75 あなたのパリーニの聖なる頭は/どこで眠っているかを探している。/ボーイソプラノを好んで集めるその町は 城壁の中で彼のため、陰さす気を置くこともなく、/石も、墓碑も置かなかった。80 恐らく、処刑台で罪科を支払った盗賊の 血まみれの首が彼の骨を汚している。/廃れた雌犬が、墳墓の瓦礫や雑草の間に/彷徨い、飢えて吠えるのが聞こえてくる。 月が逃げたこうべからヤツガシラが/
85 こっそり離れるのを見えてくる。/不純な鳥が墓地に散りばめられる十字架上に飛び、 喪の鳴き声は、忘れられた墓に/惜しみなく与えられる星の光を訴える。/女神よ、暗い夜から露を祈り求めても
90 むだであろう。ああ!亡き者の上に、/人からの誉れ、愛情の涙なしには/花は生まれ育たん。 結婚と裁判と祭壇ができた日から、/人という野獣に自分や他人に対する/95 憐みが与えられ、生者が悪い天候や 獣から哀れなる遺体を守り始めた。/大自然がそれらを絶えざる変化で/別の形態に送る。 墳墓は弥栄への証しであり、/
100 子孫のため祭壇であった。/そこから、先祖の教訓が出て、/墓の傍らでの誓いは恐るべきものとなった。 様々な儀式の崇拝は/祖国の徳と血縁への敬虔を/105 代々に伝えたり。 墓石は聖堂の床となるは常ならず/死体と祈祷者が共に香に/包まれるのも常ならず 街角は骸骨の人形(ひとがた)で/
110 悲しい姿を示すのも常ではなかった。/母親は突然目を覚まして驚き、大切なる 乳飲み子の頭の上に手を延ばし、/死人の長いうごめきから守る。/死人は相続者に、献金で聖堂からの
115 追悼を頼んでいる。/糸杉やヒマラヤ杉はその純粋な香りを/そよ風に浸透させ、常緑を 骨壺の上に伸ばせ、永久なる記念をなしてきた。/宝器は願掛けの涙を受け入れてきた。/
120 地下の夜を照らすために 友が太陽から火花を盗み取る。/死にかける人間の目は/太陽を求めんが故に。 皆、胸の最後の息を/
125 逃げようとする光に送る。/噴水は清めとなる水を 流れさせ、墓の土に/アマランサスとスミレを養ってきた。* 墓のそばに座り、牛乳を灌祭し、 * 130 死者に悩みを語る者には、/極楽なるエリジウムのオーラのごとき香りを * 周りに感じられてきた。/斯くなる敬虔な狂ひは、/英国の娘たちに街中の公園を
135 好むようにさせ、亡き母の愛ゆえに/その墓に寄らせ、そこで、温和に/かの英雄の帰国を神に祈る。   *
英雄は勝った戦艦の帆柱を倒し、/そこから刻んで自らの棺を作った。/
140 栄えあるわざへの望みが眠り込んでいる ところは、金力や〔権力者への〕恐れが/世の中を支配する。そこで、石碑や記念碑は/いたましい冥界の空虚な象に見える。 知識人層と裕福層と貴族層は/145 美しきイタリア王国の飾りと導き手(!)* となり、宮殿にすでに墓をもち、/そこでたえずおべっかが響き、/唯一の誉れは紋章にある。  死は我々に穏やかな住処を/
150 準備し、不運の復讐を止めさせてくれるように/祈りたい。友達が財産ではなく、/自由を促す歌を受け継ぐだろう。 ピンデモンテ君よ、偉人の墓は/心を燃えさせ、偉業に促し、/他所から来た者にとって、 155 その土を麗しき尊きものとする。 為政者の癪を鍛えたかの偉人、 *
 /まつりごとはどれほど涙と血を/垂らすかを世人に見せ、その栄を 削ったかの偉人の遺体は収まった石碑を/160 我見しとき、また、ローマで太高天に/新たなオリンポスを建てた偉人の * 箱舟を見しとき、しかして、かの英国人が * 天空を羽ばたき、そのわけを明かしたのに備えて、/天空に諸惑星を察知し、それらを照らす不動の太陽を 165 眺めた偉人の墓を見しとき、 * 「幸いあれ、君」と我は叫んだ。/命溢れる君の空気、アペニン〔山脈〕から/流れる河川に幸いあれ。 君の空気ゆえに月が最も純粋な光で、葡萄の収穫で喜ぶ/
170 君の岡を包み、家々とオリブ畑が/花々の千の香りを空に送る。 フィレンツェよ、君は最初に/亡命するギベリンの怒りを宥めた * 歌曲を聞いていた。 175 君は、両親と言葉を挙げた/カリオペーのかの甘き唇に 。 * 彼はギリシアとローマの/赤裸々のエロスを真っ白なベールで/飾り、天のヴィナスに帰した。
180 それより、君は幸いのは/一神殿にイタリアの栄光を集め/受け入れ、守ったから。 残りわずかの栄光を。防衛されにくい/アルプスと権力の移り変わりが 185 君の武器と富と祭壇、祖国のほかに/記憶以外はほとんどを奪い取るまえに。/栄光への何らかの望みがあれば、 勇気ある者に、イタリアに/此処が出発となろう。
190 霊感を得るに此処の大理石をヴィットリオが * しばしば訪れた。祖国の鬼神に怒りを持ちながら、/アルノ川の寂しい所を黙って歩きながら/願いを込めて田圃と空を見ていた。/何に出会っても慰められず、/
195 此処に休んだ、死にそうな顔だが、/希望も滲んでいた。彼が此処の/偉人とともに永遠に宿り、その骨は * 愛国の香りを放つ。況や、/その守護霊は聖なる平安を語る。/
200 その平安がペルシア人に マラソンで対抗したアテーネを支え、* そこで勇士(ますらお)の墓およびギリシアの美徳と/瞋恚(しんい)とを永久に讃えた。* エウベア島沿いに通った船人に見えた/ 205 兜や刀の打つかり合いによる火花が/広き暗闇の中、花葬の花火が、闘いを探す/焼き入れし鉄で輝く戦士の幽霊が。 夜の怖き沈黙の中、畑の丘に軍列の掛け声、/ラッパの音、死にかける兵士の兜の上に/
210 駆ける馬の暴走が聞こえる。そして、/ 嘆きと軍歌とパルカの歌が聞こえる。 *
幸いなるかな君、ピンデモンテよ/ 若かりしとき、風の大国(ギリシア)を 訪れ、広く旅したゆえに。 215 舵取りがエーゲ諸島を超える海域に *
導いたのなら、ヘレースポントスの海岸から * 故事の噂が聞こえべし。 而して、汐波がひたひたとトローアドの岸に * アイアースの遺骨の上にアキレウスの武器を *
220 運んだのを聞こえべし。 気前のよい人に死は十分に弥栄を配る。 オデュッセウスに怜悧も王のひいきも 足りなかった、アキレウスの遺骨を守る 闘いに。黄泉の鬼神が彼の彷徨う船から 225 再び奪い取った。 人間の思考活動を司っているムーサイは、 悪しき時代や栄誉を求めんがゆえに 諸国を巡回する我を召し、 ギリシアの英雄たちを歌うに
230 給えることを祈る。 墳墓を守るムーサイは、時の 冷たい翼は残骸をさえ破壊するも、 歌で砂漠を喜ばせ、そのハーモニは 代々の沈黙を超越する。

[以下235~295節は省略]   

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献呈* ピンデモンテ【Ippolito Pindemonte】1753‐1823 イタリアの詩人。ベローナの高貴な家庭に生まれ,1778‐96年ヨーロッパ各地を旅行。ロマン主義の先駆けとなる田園詩,抒情詩で注目された。フランス革命の最中のパリで書いた《フランス》(1789)では,この革命に強く共鳴する心情を吐露したが,ジャコバン派の恐怖政治に幻滅し,帰国後はギリシア古典の翻訳に専念した。なかでも《オデュッセイア》の散文訳は,名訳とされている。なお,兄ジョバンニGiovanni P.(1751‐1812)も詩人,劇作家として知られ,フランス革命に身を投じるほどの熱血漢でもあった。

  00* マネス(Manes)は古代ローマにおいて、亡くなった愛する人の魂を意味した。

38* 【ギリシャ・ローマ神話】 アケロン,三途(さんず)の川 (cf. Styx). 下界,冥土(めいど); 地獄.ルクレティウス【Titus Lucretius Carus】前94ころ~前55ころ]ローマの哲学詩人参照。エピクロスの原子論に基づく哲学詩「物の本質について」により、唯物論的世界観を叙述した。

46 * ナポレオンによるDecret Imperial sur les sepultures、1804年。それによると、墓地は市街の外に(衛生措置として)設けられ、死者の名前は記されない(社会平等のため)。一見して社会の共通前を進めるほうであるが、同時にキリスト教の復活信仰への攻撃であもある。

49 * タレイア(古希: Θ?λεια, Thaleia)は、ギリシア神話の女神である。ムーサの一人で、喜劇(風刺)をつかさどる。その名前はギリシア語の「開花する」による。「祭司」とは、パリーニ Parini, Giuseppe [生]1729 ボシージオ [没]1799 ミラノ。 イタリアの詩人。ミラノで聖職者となり,貴族の子弟の家庭教師や,『ガゼッタ・ディ・ミラノ』紙の編集者などをつとめた。主著の4部作『一日』 Il Giorno (1763~1801) は,貴族社会の偽善と矛盾を風刺したもの。

52 * ゲッケイジュ。古代ギリシア・ローマ時代には、詩作も体育競技とならんで公開の競技であった。その勝利者には詩神アポロンにゆかりの月桂樹の編んだ冠が授けられた。この冠は月桂冠とよばれた。17世紀後の近代イギリスはこの習慣を国家の制度とし、桂冠詩人ポエット・ローリイット(poet laureate)と呼ばれる王室の一つの役職を設けた。

54 * サルダナパールとは、伝説上のアッシリアの王。信じられないぐらい宝もちで堕落した王。フランスの画家ウジューヌ・ドラクロワの絵画(1827-28)参照。原題《La mort de Sardanapale》。『サルダナパロスの死』とも呼ばれる。アッシリア王のサルダナパールの死を描いたバイロン作の戯曲を題材とする作品。パリ、ルーヴル美術館所蔵。ここで、ロンバルディア州の貴族はサルダナパールにたとえられている。

63 * アムブロシアー(古代ギリシャ語: ?μβροσ?α, ambrosia)は、ギリシア神話に登場する神々の食べ物である。日本語訳では「不死」を意味している。通常、神々の飲み物はネクタール(ν?κταρ)と呼ばれ区別されるが、文献によっては混同されていたり、飲み物を指してアムブロシアーと呼称している場合もある。

65 * ミラノのヴェネツイア門にある公園。詩人パリーニが散歩していたと思われる。

128 * アマランサスは赤い葉っぱを出している。不死のシンボルとされる。

129 * ホメロスの『オデュッセイア』(XI, 24-29)参照。古代ギリシアやローマで墓の上に飲み物を捧げる習慣があった。灌祭(かんさい)nāsik; drink offering。ユダヤ教の祭儀。神の賛美,神への感謝,祈願,贖罪の目的でぶどう酒または水を祭壇に捧げる。また、神社で捧げられる酒を参照。お供養もこのたぐいのものであろう。

131 * エリジウム【ギリシャ神話】 エリュシオン 《善人が死後に住む所》. 極楽,浄土,理想郷.2 無上の幸福.Freude, schöner Götterfunken,/ Tochter aus Elysium 歓喜よ、神々の麗しき霊感よ/天上楽園の乙女よ。『歓喜の歌』(かんきのうた。独: An die Freude )は、ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章で歌われ、演奏される第一主題のこと。シャ ンゼリゼ通り(フランス語: Les Champs-Elysées)、フランス・パリの市内北西部にある大通りの名前も参照。パリ市内で最も美しい通りとされていて、特にフランスでは「世界で最も美しい通り 」と言う表現が使われている。『オー・シャンゼリゼ』という流行歌のおかげで日本でも広く知られるようになった。

137 * ホレーショ・ネルソン(英: Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson KB, 1758年9月29日 - 1805年10月21日)は、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督。トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、自身は戦闘中に戦死した。イギリス最大の英雄とされる。

145 * イタリア王国(Regno d'Italia, しばしばRegno Italico)は、イタリア統一以前の1805年から1814年に、現在のイタリアに存在した国家の1つ。ナポレオン1世により設立された。イタリア中東部と北部を含み、首都はミラノであった。

156 * ニッコロ・マキャヴェッリ( Niccolò Machiavelli, 1469年 - 1527年は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官のこと。著書に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始したとされるが、フォスコロのこうした捉え方は興味深い。マキャヴェッリは葬られているのはフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂である。サンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)は、フィレンツェにあるフランシスコ会の主要な教会で、カトリック教会のバシリカ。サンタ・クローチェ広場にあり、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂からは南東800mのところに位置する。元々は市の城壁の外側にある湿地帯だった。この聖堂は、ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった有名なイタリア人たちの埋葬場所でもあり、そのことから「«pantheon» delle glorie italiane(イタリアの栄光のパンテオン)」として知られている。

161 * 聖ペトロ大聖堂のドームを建てたミケランジェロ。

162 * ニュートンのこと。

165 * ガリレイのこと。

173 * ギベリン【Ghibelline】イタリア中世史の用語で〈皇帝派〉を意味する。イタリア語ではギベリノGhibellino。ゲルフ(〈教皇派〉)と対比して用いられる。この語は,12,13世紀に皇帝として積極的なイタリア政策を展開したシュタウフェン家の居城ウィーベリング(現,ワイプリンゲン)の名に由来するといわれる。広く使われるようになったのは,13世紀前半にフリードリヒ2世がシチリアに強固な支配を確立した時代である。都市や諸侯はギベリンとゲルフに分かれて争ったし,都市内では両派が政権を奪いあった。 ここで、神曲を書いたダンテを指している。ダンテは元々はゲルフ派だったが、神曲のなかでむしろギベリン的な立場を示している。

176 * カリオペー(古希: Καλλιόπη, Kalliopē, 「美声」の意)は、ギリシア神話に登場する文芸の女神ムーサたち(ムーサイ)の1神。名はカリオペイア(古希: Καλλιόπεια, Kalliopeia)とも。日本語ではカリオペ、カッリオペー、カッリオペイアなどとも表記される。フランチェスコ・ペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304年 - 1374年)は、イタリアの詩人・学者・人文主義者。ペトラルカは、学者としてはキケロに範を取ってラテン語の文法を整備し、また詩人としては一連の抒情詩集(カンツォニエーレ)を物した。ここでペトラルカはカリオペーの唇となっている 。

  190 * ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri, 1749年1月16日-1803年10月8日)はイタリアの貴族・劇作家。伯爵。自身伯爵の称号を持つ貴族に属しながら共和主義の理想をもち、フランスの啓蒙思想に共鳴しても、ルイ15世下のヴェルサイユの宮廷には我慢がならないという。

197 * ともあれイタリアの著名人となったヴィットリオは、サンタ・クローチェ聖堂の墓所に葬られることになったのだが、この高貴で品のある墓所を制作したのは、19世紀のイタリアにあっては彼ほどの素晴らしい彫刻家はいないとされる巨匠アントニオ・カノーヴァ(Antonio Canova,1757年~1822年)なのである。カノーヴァは、白大理石をふんだんに使って気品ある作品の多くを残した19世紀の彫刻家で知られるが、なかでも女性の裸体を美しく表現するそのテクニックは、彼をおいて右に出る者はなく、完成した作品は他に類を見ないほどの秀麗さを誇示し、その卓越した技に誰もが魅了された。この作品もサンタ・クローチェ聖堂にある。

201 * マラトンの戦いは、紀元前490年9月12日(諸説あり)に、ギリシアのアッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシア王国の遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦いである。マラトンの勝利は、アテナイに絶大な自信を与えた。マラトンで戦った市民軍は、アテナイ戦士像の理想となり、古典期の陶芸芸術のモティーフとして大きな影響を及ぼした。また、プルタルコスによれば、兵士が完全武装のままマラトンの戦場からアテナイまで走り、「我ら勝てり」とエウアンゲリオン(良い知らせ)を告げて絶命したという。これをもとに第1回近代オリンピックでは、アテナイ-マラトン間の走行競技が行われた。アテナイは、遠征軍を撃退したことによってペルシア宥和政策を完全に放棄し、ギリシア文明(ひいては西洋文明)の生き残り、ないし繁栄を可能にした。

203 * 瞋恚は怒り。イーリアスの第一歌の著名な始まりを参照、「*神女よ歌へ、アキリュウス・*ペーレーデース凄すさまく/燃やせる瞋恚」(土井晩翠訳、青空文庫)。

204 * エウベア島(ギリシア語: Εύβοια エウボイア)は、ギリシャの東方、エーゲ海西部に位置する島。ギリシャで はクレタ島に次いで二番目に大きな島である。マラソンの向かいにもある。 211 * パルカ (Parca) は、ローマ神話の運命の女神である。複数形はパルカエまたはパルカイ (Parcae)。文学などではパル ク (フランス語: Parque)・パルツェン (ドイツ語: Parzen) などとも。ギリシャ神話のモイラと同一視される。運命神として のパルカの属性はギリシャ神話から借りられたものであり、本来は誕生の女神だったようである。

パルカ一覧 女神   

原語                対応モイラ         属性
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デキマ Decima   ラケシス    運命の糸を配る (誕生)
  ノーナ Nona    クロートー   運命の糸を紡ぐ
モルタ Morta   アトロポス    運命の糸を絶つ (死)
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215 *エーゲ諸島は、エーゲ海に所在する島々の総称。現代では大部分がギリシャ共和国に、ごく一部がトルコ共和国に属する 。

216 * ヘレスポントス、もしくはダーダネルス海峡(英語: Dardanelles)は、地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマ ルマラ海を結ぶ狭隘な海峡。ボスポラス海峡とともにヨーロッパとアジアの境界をなす。日本では、英語名のダーダネルス海 峡がよく知られている。古くはヘレスポントス(ヘレースポントス、Έλλης πόντος)とも呼ばれていた。

218 * トローアスまたはトローアドは、アナトリア半島の北西部、現在のトルコ、チャナッカレ県に属するビガ半島の歴史的 名称。北西はダーダネルス海峡と、西はエーゲ海とそれぞれ接し、アナトリア半島の他の地域とはカズ・ダー(イダ山)を形 成する山塊で隔てられていた。

220 * 大アイアースはトロイア戦争でギリシア勢に参加した英雄では、アキレウスに次ぐ強さを誇った。アキレウスとはい とこ同士である。大アイアースは、アキレウスの戦死後、遺骸がイーリオス勢に奪われないよう、オデュッセウスなどととも に奮戦した。戦いが一段落した後、アキレウスの母テティスが、アキレウスの霊を慰めるための競技会を開催した。その際、 アキレウスの鎧をかけた争いにオデュッセウスとともに参加した。争いの判定はネストール、アガメムノーン、イードメネウ スに託された。どちらに軍配を上げても、後々どちらかの怒りを買うことになる。そこで、彼らはイーリオスの捕虜に判定を 託すことにした。どのような判定が下るにしても、怨みがイーリオスに向かうので都合が良いと考えたのである。大アイアー スとオデュッセウスは接戦を繰り広げ、イーリオスの捕虜は、オデュッセウスに軍配を上げた。 大アイアースの自害 大アイアースは逆上し、怒りのあまりオデュッセウスなどの味方の諸将を殺そうとした。しかし、アテーナーはオデュッセウ スを救うために大アイアースを狂わせ、羊を諸将と思わせるようにした。大アイアースは羊を殺しまくったが、ふと自分が殺 したのが羊であったことに気がついた。神にあざむかれた大アイアースは、神に嫌われギリシアの諸将も自分を評価しないこ とを嘆き、彼らのために戦うことの虚しさから自刃して果てた。この顛末はスミュルナのクイントゥスの『トロイア戦記』や ソポクレースの悲劇『アイアース』に描かれている。なお、ソポクレースはアテーナーがアイアースを狂わせた原因を、戦場 でアテーナーの庇護をアイアースが拒んだ高慢への罰であるとしている。

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