Monday, July 11, 2016

暑中お見舞い

濱中 さん

ご丁寧に暑中お見舞いのお葉書をいただき、ありがとうございます。
今年は特別の暑さで草木もしおれるほどですが、皆様におかれましてはお元気のご様子、何よりと存じます。
私もしおれないよう、避暑がてら山岳へ行くなどして無事に過ごしておりますので、ご安心くださいませ。
ついでに、最近どこかで見かけた言葉について分かち合いたいと思います。「これまでが これからを 決める」 のではない。
「これからが これまでを 決める」 のだ    (藤代聡麿)通常は、「これまでが、これからを決める」と考えます。過去・現在・未来という時間の流れからもそう思います。実際のところ、「これまで」のことと無関係な「今」も「これから」もあり得ませんし、「これまで」のことは、決して変えることも消すこともできません。ところが、同じ「これまで」でも、「これから」をどう生きていくかで、その意味が変わります。たとえば、石につまずいて倒れたとき、「どうして、あんなところに石があったのだろう…。」、「あの石がなれければ 順調だったのに…」と愚痴のタネにすることがあります。
反対に 「あの時、つまずいたから、足もとに気をつけるようになって、大きな失敗をしなくてすんだ」と つまずいた石を 踏み台にしてステップアップする生き方もあります。
つまり、「これからが 今までを決める」とは、失敗したことも、惨めだったことも みんな無駄ではなかった、自分には必要なことだったと「これまで」(過去)に意味を見出し、引き受けていくことでしょう。変えることも、消すこともできないこれまで(過去)は、これからの生き方次第で、その意味が大きく変わるわけです。
それならば、人生の最後、いのち終わらんとするときに、「これからが これまでを決める」ということを当てはめてみたら、どうでしょう。つまり、「死んだらどうなるか?」ということ(これから)が 、それまで生きてきた自分の人生(これまで) を 決めることになります。とすれば、いのち終わった後(これから)が、「死んだらおしまい」、「死ねば すべてなくなる」とするならば、その人生(これまで)は、全く意味のない、空しいものとなると言わねばならないでしょう。
いのち終えた後という「これから」が 定まるとき、 「これまで」、つまり 人生そのものに 生きる意味が見出されます。泣いたことも、わらったことも すべて 無駄ではなかったと引き受けていける道が開かれてゆくのです。
それでは、お元気で


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