Monday, November 19, 2018

晴佐久昌英、福音宣言 読書ノト

晴佐久昌英、福音宣言 読書ノート


p、3 宣言されて初めて福音は福音となり、宣言して初めて福音を福音にできる。

p、102 名のある歌手が平和運動をしたり、福祉活動に協力したりするこちがあり、それ自体はすばらしいこちだし大いにやるべきことであろうが、もしもその人が歌を歌わなくなったならば、その人を歌手と呼べるだろうか。その人が本当に人の心を動かす魂の歌を歌う歌手であるからこそ運動や活動に携わる意味も生まれてくるのであって、活動を共にする仲間たちの期待と信頼もそこからうまれてくるのではないか。

p、142 音楽

p、162 宗教多元論。すべてを相対的に俯瞰(ふかん)しようとする欲望は、結局は「かみのようになれるぞ」という悪の誘惑であり、人間の経験と観念ですべてを支配しようとする傲慢である。

p、166 洗礼。生まれてからずっと親に愛されてきた子どもが物心ついてから親の愛を理解するように、もとより神の子であるのに気付いていなかった人が、自らが神の子であることに目覚める。新たに生まれる。

p、171 赤ん坊が生まれるのは何らかの資格を満たしているからでも自ら願ったからでもなく、ただ親の愛と望みによるものであるように、幼児洗礼は無条件なる恩寵による誕生を過不足なく表す秘跡である。

p、178 現代社会は、今こそ福音を求めているし、教会の秘跡に潜在的に憧れている。…いまだにこの秘跡の喜びの知られていない日本においては、福音宣言の怠惰についてはどんな言い訳も空しい。

p、194 いくつもの宗教のうちのひとつの宗教の教えを「布教」するような相対的な活動ではなく、すべての人にとって救いとなる真理を明確に「宣言」するという絶対的な奉仕であることも、理解すべきだろ。

p、218 友人が「私は絵を信じる。自分は美術に救われ、絵画こそいのちと思って生きてきたし、実際に良い絵もたくさん描いてきた」と言っているからといって、「音楽はすばらしい、音楽で魂は癒される、ぜひこの曲を聴いてほしい」ということに何か問題があるだろうか。



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