Saturday, October 11, 2025

アウグスティヌス、『神の国』

 

    

もちろん、以下はアウグスティヌス『神の国』第13巻第18章の日本語訳の要約です。原文の哲学的・神学的な深みを保ちつつ、読みやすく整理しました:(copilot


🌌 18章:天に存在できないとされる地上の身体について

哲学者たちはこう主張します:

「地上の身体は自然の重さによって地に引き戻されるため、天に存在することはできない。」

これに対してアウグスティヌスは反論します:

✝️ キリストの昇天と復活の身体

  • 最初の人間は「楽園」と呼ばれる豊かな森に住んでいた。
  • キリストは肉体を持って天に昇った。
  • 復活後の聖人たちの身体も、地上のものとは異なる性質を持つ。

🛠️ 人間の技術 vs 神の力

  • 人間の技術でも、金属でできた器を水に浮かせることができる。
  • ならば、神の隠された力によって、地上の身体が天に存在することはより信じるに値する。

🧠 魂と身体の関係

  • 魂は身体を動かす力を持つ。健康なときは重い身体でも軽々と動かせる。
  • つまり、重さよりも「調和」が重要である。

直訳:

それでも魂は、自らの肉体の四肢(しし)を、病弱で痩せているときよりも、健康でたくましいときの方が軽々と運ぶ。  そして他人が運ぶ場合には、健康で頑丈な人の身体の方が、痩せて病んだ人の身体よりも重く感じられるが、本人自身にとっては、病気や飢えで力がほとんどないときよりも、健康で肉付きが良いときの方が、自らの身体を動かし運ぶのに機敏である。  つまり、地上の身体を持つにあたっては、それがまだ腐敗し得るものであり、死すべきものであるとしても、重要なのは量的な重さではなく、調和のあり方である。  そして、今私たちが「健康」と呼ぶ状態と、将来の「不死」との間に、どれほどの違いがあるかを、誰が言葉で説明できるだろうか?  したがって、身体の重さについて語る哲学者たちは、私たちの信仰を論駁することはできない。  私は、なぜ彼らが地上の身体が天に存在し得ると信じないのかを問いただすつもりはない。なぜなら、地球全体が虚無の中に浮かんでいるのだから。

この一節は、身体の「重さ」が物理的な質量だけでなく、魂との関係性や健康状態によって変容することを示し、復活後の身体がいかにして天に存在し得るかを論じる重要な箇所です。

 

👼 天使と聖人の力

  • 天使が地上の動物を持ち上げて移動させることができるなら、聖人の魂も神の恩恵によって身体を自由に動かせるはず。

🌍 地球の位置と重力

  • 地球全体が「虚無の中に浮かんでいる」ならば、地上の身体が天に存在できないという議論は成り立たない。
  • プラトンが語るように、神の意志によって生まれたものは滅びず、結びついたものは分離できない。

🔚 結論

神は人間の肉体から腐敗を取り除き、形や性質を保ちつつ、重さによる制限を取り払うことができる。
復活と不死の身体については、神が望めばこの著作の最後でさらに詳しく論じる、とアウグスティヌスは述べています。


もちろんです。以下はアウグスティヌス『神の国』第22巻第5章の日本語による要約です:


✝️ 5章:世界が信じたにもかかわらず、なお信じない者たちについて──肉体の復活

アウグスティヌスは、キリストの肉体の復活と昇天がかつては信じがたいことであったにもかかわらず、今や世界中で信じられている事実を強調します。そして、これに関連する三つの「信じがたいこと」がすでに実現していると述べます:

1. キリストが肉体をもって復活し、天に昇ったこと

2. 世界がそのような信じがたいことを信じたこと

3. 卑しい身分で無学な少数の人々が、それを世界中に説得できたこと

これら三つのうち、最初のものを信じない者がいるが、第二のもの(世界が信じたこと)は否定できず、第三のもの(誰が説得したか)を否定すれば、第二のものの説明がつかないと論じます。

 

直訳:

キリストの肉体が天に昇ったこと──すなわち肉体の復活と天上の座への昇天──は、今や学ある者も無学な者も信じており、驚きつつも信じない者はごくわずかしか残っていない。

もしそれが「信じるに値すること」であったなら、信じない者たちはどれほど愚かであるかを知るべきである。 

もしそれが「信じがたいこと」であったなら、それが信じられているという事実そのものがまた信じがたい。 

つまり、「信じがたいことが信じられた」ということ自体が、もう一つの驚くべき事実なのだ。

このように、二つの信じがたいこと──すなわち「私たちの身体が永遠に復活すること」と「世界がそのような信じがたいことを信じるようになること」──は、神によって、どちらも起こると予告されていた。

そのうちの一つはすでに実現している。すなわち、かつては信じがたかったことを世界が信じた。  ならば、なぜもう一つが絶望視されるのか? 

世界がすでに信じたことが、かつては信じがたいことであったのだから、残る一つも実現するはずではないか?

この二つの信じがたいこと──そのうちの一つはすでに目にしており、もう一つは信じている──は、世界が信じるに至ったその聖なる書物において、どちらも予告されていたのである。

 

さらに、使徒たちが行った奇跡──異言を話す、病人を癒す、死者を蘇らせる──が信仰の説得力となったことを挙げ、これらの奇跡が実際に起こったと認めるならば、肉体の復活と昇天を信じる根拠は十分であると主張します。

そして最後に、もし奇跡がなかったとしても、世界がそれを信じたという事実そのものが、神の力による最大の奇跡であると締めくくります。

4世紀末にはキリスト教徒が帝国内の多数派となり、5世紀初頭には人口(約5,000万〜5,500万人と見積もられています。)の過半数以上がキリスト教徒だったと考えられます。

 

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