Monday, November 13, 2006

Sophistry in Japan

納富信留(のうとみ・のぶる。1965年生まれ、慶応大学文学部助教授)著、『ソフィストとは何か』、人文書院、2800円。

評・橋本五郎(読売新聞編集委員)、読売新聞2006年11月12日(日曜日)

「プロタグラスやゴルギアスに代表されるギリシアのソフィストたち。本来なら『知恵のよく働く人』という意味なのに、『詭弁を弄(ろう)する似而非知者(えせ)』という悪名が付き纏って離れない。『無神論や不可知論、相対主義によって社会と道徳を破壊し、若者たちを腐敗させる背徳者』という烙印を押されてきた。 
しかし、ギリシアに始まった西洋哲学のあり方が根本的に問われている今、ソフィストの存在を見直す作業は不可欠なのだ。哲学の再興を2500年の時空を超えて、ソフィストの対決を通じてしかあり得ない。そんな切迫感と意気込み、そして熱情に溢れた書である。 
ソフィストとは授業料をとって『公的な場で上手に言論を操る技術』を授ける西洋史上初めての職業的教師だった。若者たちは新鮮な知的刺激を与えられ、熱狂的に迎えた。 
プラトンは師ソクラテスがソフィストではなく「哲学者」であることを弁証することでソフィスト批判を展開する。知識の教授と引き替えに金銭を取ることは、知の自立を否定するものだ。『全知』を標榜(ひょうぼう)するなど傲慢であり、「不知」を自覚し「知」を愛し求め続けるところに「哲学者」の所以があるのだ。 
こうしてプラトンの「若者を誑(たぶら)かす不道徳なイカサマ師」というソフィスト像が歴史的に定着していく。その論証には歴史のパズルを解くような面白さがあるが、この書の特徴は、数少ないソフィスト自身の著作から彼らが為そうとしたエキスを抽出していることだ。 
ソフィストをプラトンの”くびき”から解き放つ作業を通じ、相対主義や個人主義、さらには非宗教的態度など日本社会に蔓延(まんえん)する諸現象を考えていこうという試みは、結局はその解を私たち自身に委ねた形になっている。読み終わり重い課題を背負ったとの感を禁じえない。

私のコメント:
日本では「無知の知」をまだわかっていない人は結構いる。その人たちは「教育者」になっている場合は多い。もしかしたら文科省にもありそう。だから日本では教育はだめになっている。

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