Monday, February 22, 2010

日本人は寛容か?

この記事は衣素材に関するものですけれども、自分にとって都合のいい点だけ相手を利用し、コントロールできなければ排除する、というのは不寛容であり危険だ、という指摘がなされています。

私はこの記事を読んで「日本人は宗教に寛容だ」という通説を思い出しました。

一般に、日本人は「無宗教」を標榜し、それゆえにどの宗教からも中立だと思い込んでいます。
そして、神社で初詣、教会で結婚式、仏教で葬式という「無節操」(自嘲的な表現ながら、そこには特定の宗教に縛られている者よりも上位にあるという無自覚な優越感が存在します)ゆえに、日本人は宗教に寛容であるというお決まりの謬説が結論付けられるわけです。

通過儀礼に複数の宗教を利用するからといって宗教に寛容だと言うのは論理的でない、というのは言うまでもありません。
それだけではなく、私たち日本人は徹底して他者に不寛容なのではないでしょうか。

言っておきますが、寛容というのは、他者の意見に迎合したり、同一化したりすることではありません。
(たとえばイスラム教に対して寛容であるということは、自分がムスリムになるということを意味しません。ムスリムである相手を、ムスリムでない自分が、相手がムスリムであるという事実も含めて相手を認める、という意味です。)
自分とは異なる他者を、その異なる面も含めて自分と同等の存在として認め、遇することです。

「和魂洋才」という言葉があります。
西洋の精神は無視して、自分たちに都合のよい技術だけを取り入れよう、という意味です。
ここには「西洋という他者」に対する視線はありせん。西洋人が自分たちと同等の人間であると認め、交流するという発想は根本的に存在しないのです。自分の利益のために技術を利用できればよい、相手がどのような人間であるかとか、そもそも相手と付き合うなどということはどうでもいい、というわけです。
これは寛容とは対極にあります。

通過儀礼に複数の宗教を利用することも、それと同じです。
そこには、それぞれの宗教に対する寛容や理解は存在しません。ただ自分に都合がいいように、あるいは周囲の考えや流行に従って、諸宗教の表層を「利用」しているに過ぎません。それで「日本人は宗教に寛容だ」というのはおこがましいのではないでしょうか。


ホセ・ヨンパルト神父は、『カトリックとプロテスタント』(サンパウロ)の中で次のように述べています。

寛容というものは、他人に対して寛容であるということです。今日は神社に、明日はお寺に、そして次の日は教会に祈りに行くという人のことを、迷っている人、または自分の宗教心を真剣に考えていない人、あるいは矛盾をおかしている人とは言えますが、決して寛容な人とは言えません。
人間は一定の立場をとらないかぎり、寛容というものはありえないのです。ひと言で言えば、自分の考えが正しく、相手の考えが間違っていることを確信しながら、なおかつその相手の考えを尊重することが、寛容の本質なのです。



寛容には、相手を理解することが大前提です。
宗教で言えば、自分と違う信仰を持つ相手の、その信じていることを知り、理解することが前提です。

「君が信じていることを知る気はないが、決して排除しないし、好きに信じていればいいよ」

これは「寛容」ではなく、単なる「無視」「無関心」です。
そもそも相手と人間同士の関係を結ぼうとしていないのですから、寛容が成立する余地はありません。(それでもこの「無視」を「寛容」と勘違いしている人の何と多いこと!)


相手が何を信じているかを理解した、しかし自分は絶対に相手の信条が間違っていると思う。
そういう時にでも相手を排除せずにいられるか。
それが寛容であるか否かの分かれ目です。

ヨンパルト神父が、自分に確固たる主張があって初めて寛容があり得るというのはここです。
自分の意見があやふやなら、他人が何か主張したって賛成も反対もできません。「どうでもいいよ、君の好きに主張していてくれ」・・・これは先ほどの「無関心」です。

自分が正しく相手の意見が間違っているのを知っていながら、相手のことを排除せず、
「この点については君は間違った意見を持っているが、君という人間そのものを受け入れる」
と言うことができるかどうか。
自分の愛する人々に対しては誰だってしていることですが、他の人々に対してもたやすく同様に出来るものでしょうか。


つくづく、寛容という美徳は困難な、それだけに高貴な徳だと思います。


http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/48641712.html

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