Saturday, November 14, 2015

“Insight(閃き):人間の理解に関する研究” Bernard Lonergan Preface(序文)



Insight(閃き):人間の理解に関する研究” Bernard Lonergan
Preface(序文)

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PODCAST:

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理想的な探偵小説では、読者はすべてのヒント(手掛かり)が与えられているにもかかわらず犯人を言い当てることができない。読者はヒントが出てくるたびにその一つ一つに注意を向けるかもしれないが、謎を解くためには更に多くのヒントは必要ではない。謎を解くためには、いろいろなヒントをただ単に知っているとか、すべての事柄を単に記憶していることではなく、すべてのヒントをユニークで説明可能な見方でもって配置し、情報を意味ある形で組み立てるという全く異質の活動が必要なのである。それを理解していないがゆえに謎に包まれたままとなり、解けないだけである。
謎解きは、閃き(ロナガンの「Insight」の訳としてこの言葉を使用する。以下同じ)によって分かったことであるが、注目や注意とか、記憶に基づき行うものではなく、思わず沸き起こった認識(閃きによる認識)に基づいてなされるものである。閃きというのは秘められた直観といったものではなく、身近な出来事であり、普通の知性のある人には簡単に、かつ、しばしば起こるものである。ただし、愚か者には稀で、かつ、難しい出来事である。閃きそのものは単純で明白なものであり、特に注目すべきものでもない。しかし同時に、認識活動における閃きの作用は、探求、判断、という人間的な認識活動の諸条件、機能、およびその結果など認識活動全体において、基本的でかつ驚くべき統一を与える最も中心的なものである。事実、閃きを正しく理解することによって得られる価値は実に驚くべきものである。この著作が何について述べているかを、短く、かつ簡単な方法で説明することは大変難しい、と感じています。著者一人で、目次に示されているこれほど多様なトピックスを取り扱うことが可能なのか、著者がそれらを一つの著作本に纏めようとしたのはなぜなのか、また、この型破りな取り組みに成功したとしても、どのような良い成果が得られることを期待しているのか、などを説明するのも難しいと感じています。
しかし、序文では、このような質問に対し、少なくとも単純で簡易な答えだけは述べておこうと思う。まず初めに、閃きについての閃き、から始めたい。数学者たちは(数式の)構成要素の集まりに閃きを求め、科学者たちは現象データの範囲、幅に閃きを求める。一般的な常識人たちは具体的な状況、あるいは実践的な事柄に閃きを求める。しかし、われわれの関心事は、数学者と科学者と一般常識人のそれらの閃きを、一つの視点によって整理統合することを目指すものである。
本著の目次を見ると、そこにリストアップされたトピックスが表面上解釈の異なるものから構成されているように見えるが、実はそうではない。また、もしあなたが、数学者、科学者、あるいは常識人になりたくてこの著作を手に取るならば、直接的には何の助けも得られないであろう。なぜなら、われわれは数学者が理解しようとしている対象そのものに関心があるのではなく、数学者たちの理解という行為に関心があり、科学者たちが理解しようとしている対象ではなく、科学者たちの理解という行為に、そして常識人が対処しようとしている具体的な状況や問題ではなく、常識人たちの理解という行為に関心があり、それを研究対象としているからである。それは、物理学者は波の形を研究するが、空気と水の分析は化学者たちに任せるのと同様である。
それぞれのすべての理解という行為はある程度共通する類似性を有している。そして、それらの異なる分野において得られた理解という行為を基に、ひとつの論述、説明書に纏めることによって、完全でバランスのとれた見方ができるレベルに到達することができる。
理解するという行為の正確な本性は数学的な事例において最もよく分かる。理解するための(事実や状況などの)ダイナミックな前後関係については科学的方法による探究の中に最も良く見出すことができる。このダイナミックな前後関係は関係のない他への関心事によって乱され、その関心事とはさまざまな程度に常識の中に溶け込んでいるくだらない常識的方法や習慣から出てくるものである。それが各人の注意力に強く影響し、理解の邪魔をする。(だから、この邪魔するものを対象に研究するのが一番いい方法である。)
また一方、閃きは知性の活動のみならず、人間の知識を構成する要素でもある。閃きについての閃きは、ある意味では認識についての認識である(知ることを知る)。認識についての認識は哲学における基礎的な数々の問題に非常に関係しているように見える。そのことを、少し荒っぽい省略した形で、定義されない言葉と証拠の少ない議論によってではあるが、私はここで指摘しておきたい。
まず、第一に、閃きは、興味はあるが解決までは行き着かないテーマと、証拠があって明白に解決できるテーマを区別する。したがって、閃きはデカルトが言った明晰、かつ判明である観念(誰にも分かる観念)の起源である。その点において、閃きについての閃きがすべての明晰で判明な観念の、明晰で判明な起源である。(閃きのメカニズムをつかむことで、認識の程度が分かる。)
第二に、閃きは情報を整理する行為であり、閃きによってものごとの諸関連を把握する。そして、記号には記号に対応した意味があるのと同様に、諸関連には相互に関連づける働き(意味づけ)がある。したがって、閃きは意味の把握を含んでいる。閃きについての閃きが、意味ついての意味の把握を含んでいる。
第三には、カントとは少し違う意味で、あらゆる閃きが先験的(証明の必要がなく初めから分かっていること。アプリオリの訳としてこの言葉を使用する)でかつ総合的である。この先験的であるということは、単に感覚で得たもの(つまりデータ)や経験に基づく思想・意識を超えるものである、ということである。閃きは総合的で、データに説明的な統一と構成を与えることができる。よって、閃きについての閃きは、我々の認識活動の総合的で先験的な要素のすべてについての、総合的で先験的な論述である。
第四に、認識の諸分野について整理し統一することは一つの哲学である。まさに、いかなる閃きも統一し整理することができる。したがって、閃きについての閃きが数学者と科学者と常識人らの諸々の閃きを整理し統一させるだろう。よって、閃きについての閃きが一つの哲学を生み出す、と思われる。
第五に、だれでも、新たに認識ということを整理し統一するには、すでに認識されたものを整理し、統一するという行為が必要である。数学および自然科学そして常識において認識されているものを整理し統一することは一つの形而上学(超自然的・理念的認識学)である。したがって、閃きについての閃きが、我々のすべての認識を整理し統一するという意味で、一つの形而上学(超自然的・理念的認識学)であることを暗示している。
第六に、閃きについての閃きによって生まれる哲学および形而上学(超自然的・理念的認識学)は立証可能である。科学的閃きが、色・音・味・匂いといった普通の経験として現れ、かつ確認できるように、閃きについての閃きもまた、数学者たち、科学者たち、常識人たちの閃きの中に現れ、そして確認できる。したがって、閃きについての閃きが確認可能であるならば、そこから生まれる哲学と形而上学(超自然的・理念的認識学)もまた確認可能である。いいかえれば、理論科学の各々の主張が感覚的事実に関する主張であるとすれば、閃きから生まれる哲学と形而上学(超自然的・理念的認識学)の各々の主張は認知された事実に関するである。
第七に、閃きに関することでは、見落としの問題がある。閃きが注目すべき頻度で起こり、私心のない客観的な探究的活動であることもあれば、その反対に、定期的、かつほとんど組織的に起こる見落としによって、理解そのものからの逃避的活動となることもある。それ故、閃きについての閃きが見落としについての見落としとならないように、理解から逃避しようとする閃きについても考えておかなければならない。
第八に、理解からの逃避は、運の悪い人や悪質な人たちのみが犯してしまう例外的行為と見なされがちであるが、哲学的には、そのような精神病理的、道徳的、社会的、文化的表現を混合させるべきではなく、各々の知性および合理性の知的合理的使用能力が不完全にしか発展していないと考えるべきである。それは、単に完全な発展が無いだけであるが、そのことは結果に大なる影響を与える。なぜなら、理解からの逃避は、閃きの出現の安定したバランスを覆して、閃きを止めてしまう。それは、単に閃きが止められるという受動的な妨害だけではない。それは隠されひねくれたものであるが、才覚があり、独創的、効果的で驚くほどのもっともらしさを示す。それは広い多様な形を認めることを要求し、受け入れられない時には別のものに向かう。そして、表面的に形だけの意見として認めると、本当は不適当であるということを明らかにするために、選ばれた人たちが空しく数百年の歳月を費やさなければならないほどの、鋭くて、深い哲学を作り出してしまう。(例:ヒュームの閃きが間違っていることは判明しているが、それでも何百年も続いている。)
第九に、閃きについての閃きによって、他との違いを識別できる明確な概念を、他と区別して明確に作り出すことができる。そして、意味づけすることの意味を把握し、結果我々の先験的(アプリオリ)で総合的な認識の全体像を示し、数学、科学、常識の哲学的統一を図ることができ、それによって人間的探究のさまざまな分野において知り得たものを、一つの超物理学(形而上学)として論述することができる。それとは反対の理解から逃避するという閃きにおいても、概念・認識などについて、さまざな形の問題点を指摘できる。理解からの逃避という閃きは(1)表面的には明晰ではっきりとした概念に見えるけれども、実は曖昧な概念であり、(2)意味についての意味の見方は異常であり、(3)我々の認識における先験的(アプリオリ)で総合的な構成要素を捻じ曲げ、(4)哲学にはいろいろ多様なものがある、という間違った説明を展開し、(5)形而上学(超自然的・理念的認識学)の間違い、および反形而上学(感覚的・自然科学的認識学)の立脚点に関し誤解し続けている、などがある。
第十に、閃きについての閃きは、方法的、批判的、包括的な哲学を可能にする導き手のように思われる。それが包括的である理由は、すべての哲学の主張を一つの観点に包み込んでいるからである。それが批判的である理由は、無私的で利害関係がなく理解することのみを欲求している場合と、理解からの逃避行動の場合の結果の違いを識別するからである。それが方法論的である理由は、その認識が他の哲学者や形而上学者と同じ意見であることで正しさをアピールするという間違った方法ではなく、哲学者や形而上学者たちの認識方法と同じ形式・手法で、数学者・科学者・常識者たちと同じ閃き、方法、手続きに基づいていることである。
以上のことよりこの著作は、三つのレベルで展開していくことになる。一番目は人間の理解についての研究である。二番目は理解についての哲学的帰結を示す。三番目は理解からの逃避に反対するキャンペーンである。この三つのレベルは互いに関連しており、第一のレベルなしでは、2番目のレベルの基礎がなく、3番目の正確な意味もなくなるだろう。二番目のレベルがなければ、一番目のレベルが基本的な主張を持たなくなり、三番目のレベルに力強さがなくなるだろう。そして三番目なしには、二番目のレベルが信じられないものと見なされ、一番目は放置されるであろう。
たぶん、私はあまりにも広すぎるテーマを取り上げ過ぎである、といわれるだろう。しかし、広くならざるを得ない二つの理由がある。船を作るときと同じように、哲学を作るときにも最後まで行き着かなければならず、未完成で終わればそれまでの努力が無駄になる。さらに、理解からの逃避に反対する場合には中途半端なやり方では役に立たない。包括的な戦略のみが成功する方法である。中途半端な攻撃で理解からの逃避行為の閃きの元を残すと、反撃基地を無傷のまま残すことになり、すぐに反撃してくる。
もし許されるなら、私がしようとしている事柄は、さまざまな異なった分野の専門家の組織的な研究に寄らなければ、適切に遂行することは難しいということを、強く申し上げたい。閃きが発生する様々な分野について、私は有能ではない。しかし私は、素晴らしいタレントが集まることは大歓迎であり、そこに研究の励みとなるプロジェクト研究資金を配分することに協力は惜しまない。また私は研究の内容については、こだわっていない。私の目標は数学を進歩させることでもなければ、科学のさまざまな専門分野に貢献することでもない。むしろ、私の目標は理解のある人々が出会う共通の土俵を見つけることである。この共通の土俵は見えにくいということを知ってほしい。そのわけは数学者、科学者、常識者たちが、閃きという課題に関して明確な発言をしない時代だからである。そこで、まず初めに、残念ながら今だ探究されていない分野への探検から始める(草分け的存在になる)。様々な異なる分野の専門家たちが自分たちの閃きの存在とその意義を発見した後に、幾人かの人には私の意図が分かると思っている。そして、無知が私を惑わせ間違った言動を示したら、私の間違いを訂正し、彼らの豊かな認識でもって私が作ったダイナミックであるが形式的な構造の中身を充実してくれるであろう。
そのような期待が実現すれば、組織的な探究の細かい計画を立てるよりも前に、自発的な協力が始まるでしょう。
さて、ここで一つの質問が出てきそうですね。この本からどのような実用的価値が期待できるか、という質問です。その答えは予想されているよりも素直なものです。それは、閃きは理論的認識の始まりであるのみならず、すべての閃きは実用的で実践的なものであるからである。本当にありとあらゆる理に適った活動そのものです。そして、閃きについての閃きが、どれほど理に適った活動であるか、逆に見過しへの閃きがいかに無意味な活動であるかが明確になるでしょう。実用的であるためには理に適ったことをすること、そして非実用的とは理に適ったことに注意を払わないことである。すなわち、閃きについての閃きと、見過しへの閃きの両方が実践上の最大のキー(Key)である。
したがって閃きについての閃きが、積み重ねられた進歩の過程に光を当て、そして見えてきた具体的な状況が、またいくつかの閃きを引き起こす。その閃きがいくつかの政策にまとまり、そして行動計画へと進み、行動が現在の状況を変え、そして更なる閃きを起こさせる。そしてさらにより良い政策、より良いより効果的な行動計画を作らせる。したがってもし閃きが起こるならば、それは繰り返され、そして閃きが起こるたびに認識が発展し行動の幅が広がり、状況が良くなる。
同様に、見過しへの閃きが、積み重ねられた後退のプロセスを暴露するであろう。なぜなら、理解からの逃避は、具体的な状況が必要としている閃きをブロックするからである。それが理解の無い政策、不適切な行動計画へと導く。そして状況を悪化させ、(数々の閃きを必要とするが、その閃きがブロックされているので、)政策も理解の無い政策となり、行動が不適切なものとなる。最悪なことに、悪化している状況は、無批判的な偏見を正当化するために利用され事実上の証拠となる。そして、どんどん増えていく理解そのものが実践的生活に関係がないと看做される。人間活動は退廃的なルーチンに陥り、暴力が特権的な主導権を持つようになる。(歴史的事例には、ベルサイユ条約でドイツが侮辱され経済が悪くなり、その反動でナチスが勃興し、それが第二次世界大戦へとつながった。悪い閃きが積み重なると状況がどんどん悪化して、悪い状況を打開するには暴力によるしかない,ということにつながる。)
不幸なことに、この閃きと見過ごしが通常、対となっているように、進歩と後退もまた対となっている。私たちは真実を求めている(啓蒙主義的である)にもかかわらず、反啓蒙主義的とも言える実用主義に陥っている。私たちは情熱(非理性的なもの)によって古い悪を正そうとするが、それは新しい善を台無しにする。私たちは純粋より、妥協を選択し、何とか切り抜けることを望んでいる。しかし、知識の進歩が自然および人々を支配し始める。その支配力はあまりにも広く、かつ恐ろしいもので、無意識的で偏見的である善意に委ねることはできない。そこで、私たちは進歩と後退をはっきりと区別することを学ばなければならない。そして私たちは後退を認めることなく、進歩に励ましを与えなければならない。理解からの逃避をガンに知性を器官に見立てることができ、知性を壊すことなく理解からの逃避というガンを取り除く方法を学ばなければならない。
このことは大変デリケートでかつ深遠、大変実践的でかつ大いに切迫した問題であろう。本当に、一人ひとりの心が、自分の偏見性を意識するにはどうすればいいのか。その偏見性が世間一般に見られる理解からの逃避に起因しているとしたら、そしてそれが文明の組織全体によって支えられているとしたら、どうする? そのために利害関係のない無私的欲求に対し、偏見性を強めることなく、新しい力強さ、活力を与えるためには何ができるのか。理解からの逃避が作りだし拡大させ維持している理解し難く、かつ客観的なさまざまな状況を、人間知性がどのように扱うことができるのか。少なくとも正確に理解すべきものは何なのか、閃きを促進するダイナミックな意識の流れは何なのか、そして逃避を推し進めている閃きの障害物は何なのか、という質問から始めることができる。そして最後にはこのような問いかけに対する答えが、人間の思想、行動のガイダンスとなろう。
そろそろ終わりにしよう。次の導入部(introduction)において、本著の目標と構造についての正確な記述を行うことになるが、その前に、私は多方面の方々にお世話になったことへのお礼を手短に述べたい。当然ながら最初に、私に哲学の手ほどきをしてくださって以来28年間にわたり私に目標を与えてくれた先生方と、多くの作家に感謝のお礼を申し上げたい。私の探究が、あまりにも永く、あまりにも多く、自分自身の理解からの逃避との闘争であり、ほとんどがゆっくりとした、よく分からない遠回りをしたので、すべての方に私の心からの感謝を手短に正確に分かりやすく申し上げることは難しい。したがって、ここでは明白な後援者のみへの感謝で済ませることをお許しいただきたい。その方々はモントリオールのl'Immaculee-Conceptionフランス語で「穢れ無き聖母」、そこで閃きに対する歴史的探究がなされた。トマスアクイナスのTheological Studies参照)のスタッフ、トロントのイエズス会の神学校(そこでこの本が書かれた)のスタッフ、Loyola CollegeEric O'Connor 牧師(彼の数学的認識・科学的認識を援用することを許してくれた)、Joseph Wulftange牧師、Joseph Clark牧師、Norrise Clarke牧師、Frederick Crowe牧師、Frederick Coleston牧師、Andre Godin牧師の皆様です。親切にも彼らはさまざまな分野に及ぶ認識をもとに拝読いただき、そして励ましの意見や、節度ある批判をいただいた。お蔭で私の考えが全くの過ちには陥っていないことが確認できた。最後にFrederick Crowe牧師が退屈なインデックス作成を引き受けてくれたことに感謝申し上げます。
Thomas Aquinas.' Theological Studies 7 (1946) 349-92; 8 (1947) 35~79 404-44; 10 (1949) 3-40, 359-93. [In book form, Verbum: Word and  Idea in Aquinas, ed. David B. Burrell (Notre Dame: University of Notre  Darne Press, 1967) CWL 2.]

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