Saturday, November 14, 2015

“Insight(閃き)” Bernard Lonergan Introduction(序論)101005_1:16:50



Insight(閃き) Bernard Lonergan
Introduction(序論)101005_1:16:50
この著作の目標は論点としていくつかのグループにまとめることができる。まず最初の論点は、認識が存在するかしないかではなく、認識の本質を明確にすることである。第二は、無視するわけではないが、認識された内容は認識行為の判別式あるいは行列式(判別因子、決定因子を決める要素)を提供するだけの概略的で未完成なものとして扱うことである。(たとえば自然科学の内容、生物学の内容については認識が成り立つためことの検討材料として取り上げる程度である。)第三は、人間認識の抽象的な属性のリストを規定するためのものではなく、読者が自分の認識活動において内在し、反復される具体的なダイナミックな認識構造を自分のものにするための効果的な手助けをすることである。(読者はほとんど無意識にものごとを理解している。それを意識的にできるようにお手伝いすることである。)第四は、認識構造を自分のものにする過程についての内容である。それは徐々に提供されるものであり、構造全体がいきなり提示されることはなく、むしろ要素、関連性、選択肢、帰結、と徐々に組み立てられていく。第五は、組み立ての順序を支配しているのは論理学あるいは形而上学(超自然的・理念的認識学)で優先される抽象的な考察ではなく、むしろ教育学的な効果のある具体的な動機である。
したがって、本書のプログラムは具体性と実践性の両方の側面を持っている。そのプログラムを遂行することにした真意は、簡単な一般論という領域ではなく、難しい事実関係という領域の中に見出される。もし、ここでの歩みの終わりにおいて読者が事実関係というものについて確信が持てれば、それは大いなる成果と言えるであろう。しかし今この時点で私にできることは、私の信念にもとづいて私の意図を明確にすることぐらいである。
したがって、私は認識が存在するかしないかではなく、認識の本質・本性について問いかけたい。そのわけは我々の認識に二つの異なった種類のものがあるからである。それはデカルトの二元論として、「我思う故に我あり」と言われている疑いようのない外向性認識主体と、実体のある広がり(もの)とが並置されている。(デカルトの認識二元論は、「自分を知る」と「ものを知る」という二つの認識論で、自分が存在するということをどのように知ったか、外のものを知るというのをどのように知ったかを問わない絶対的外向性を前提としている)。これらの二つがそのあとの合理主義的、そして経験(実証)主義的哲学によって分離され、互いに疎遠なものとして遠ざけられてきた。次に、それらがカントの批判哲学によって再び引き合わされたが、しかし互いに相殺するものとされてしまった。このような主張がおおよそ事実に近いものとすれば、人間の認識に関する問題は、認識が存在するかどうかではなくて、その二つの異なった認識タイプは正確にはどういうことなのか、それらの関係はどうなっているのか、ということにある。それが関連のある問題であるならば、同じ程度に、核心・論点がとらえられていないという不幸な状況から出発することになる。いずれにせよ関連する問題は、達成するのが大変難しい探検的旅を始めることによってのみ解決することができる。その旅は、人間が知ることに成功したさまざまな領域、あるいは知ろうと努力したけれども失敗した領域を通り抜けることになる。
第二に、認識について記述する上で、その認識内容を無視ることはできない上に、その認識内容の広大さは百科事典でも間に合わないし、図書館を溢れさせてしまうほどである。その内容は、たとえ一部分をマスターするだけでも人の一生をかけなければならない程に難しいものである。(たとえば、物理学だけで一生かかる。)なお、それでもその内容はいまだに不完全であってさらなる追加を伴い、その内容は不適切で繰り返し見直されるものである。このことから、先ほど提案された探検的旅は単に難しいだけでなく不可能になるという結論になるのではないか。もし目下の探究のために認識のすべての範囲に親しんでいることが前提であれば、確かに、すくなくとも著者にとっては不可能である。けれども実際のところ、我々の第一の関心事は知られるもの(認識内容)ではなく知る(認識する)ことにあり、知られるものは大変広大であるが、知ることはそれが戦略的に選ばれた数々の事実において十分探究され、何回も繰り返されている。知られるものをマスターするのは難しいけれども、現代においては有能な専門家が知識のさまざまな分野の基礎的な要素を、真面目な読者のために選択することに努力し彼らに適切な形で提供することができている。最後に、知られるものは不完全で見直しされるものであるが、我々の関心事は未来における追加と見直しの源である認識者、知る者についてである。(知られるものと知るものとの区別。知る者はどのように知るようになるのかがロナガンの関心事である。)
何について言わないのかをはっきりと示さない本ほど読者を惑わせるものはない。そこで、以上から帰結されるところのいくつかを付け加えることは無駄ではないだろう。この本は基本的に、数学についての本ではなく、科学についての本でもなく、常識についての本でもない。そして形而上学(超自然的・理念的認識学)の本でもない。ある意味では認識についての本でさえない。この本は第一のレベルは、数学についての文書、科学についての文書、常識についての文書、形而上学(超自然的・理念的認識学)についての文書を含んでいること。第二レベルは、これらの文書の意義、それらの志向性と重要性は、数学,科学、常識、形而上学の断片を乗り超えてこそ、それらを知るためのダイナミックな認識構造を把握することができるということ。第三のレベルは、到達すべきダイナミックな認識構造とは、フィッテ(カントの弟子で、観念論者)思想の超越論的エゴでもなく、だれでも彼でも彼らの間に確認できる集団関係の抽象的なパターンということでもなく、むしろ個人的に自分自身が体験した構造(認識構造)を、そして自分自身の知的探究および閃きを、そして自分自身の批判的反省と判断、決意を自分のものとして会得することである。きわめて重大な問題は経験に基づくものであるということで、経験はそれが公然と行われるのではなく、個人的に非公式に行われる。経験は読者自身が自分自身の合理的な自己意識として明晰判明的に自分のものとすることで、それが合理的な自己意識として存在する(「ものを知る私」を知る、というロナガン独特の視点)。すべては決定的な成果次第である。それがすべてをリードし、それからすべてが続いて起こる。たとえその人の認識や雄弁さがどんなものであれ、たとえその人の論理的厳密さや説得力がどんなものであれ、その人があなたに代わって達成することはできない。行為はプライベートなものであるけれども、その行為の前提および結果は公に明らかにされる。自分自身を知る(「ものを知る自分」を知る)ことの二重性という引張り合いの中にいる自分自身を知るための招待を伝える長い文書のシリーズがあるかもしれない。この本が、そのような招待の意味を持つ文書のシリーズの中に数えられるのを願っている。そしてそのような招待が役に立つかどうか、あるいは役に立つのであれば受け入れられるどうかを、秘密のままに残す必要はない。冬の夕暮れと夏の真昼を間違うことが無いように、この本が自分を知る、ものを知る自分を知る、ということを明らかにするでしょう。
第三に、このほかのことは別として、この本の目標は個人的で決定的な行為への招きを発するものである。けれども行為の本性そのものが、行為自体において理解され、そして帰結が理解されることを要求する。一体全体、合理的な自己意識というのはどういうものなのか、その自己意識が自分自身をわがものにするという招きによって、どういうことが意味されるのか。その自分自身を所有するというのが何故にそれほどに決定的、偉大なものと言われるのか、などのこれらの質問はもっともなことであるが、その答えは簡単に出せるものではない。
ところが、その答えそのものが大事なのではなく、答えがどのように読まれるかが大事である。答えは言葉によって書くしかない。そして言葉は定義と関連性、分析と推論から始めるしかない。もしも読者が私に人の認識の抽象的属性のリストを打ち出さなければならないと主張し続けるならば、読者はその答えの肝心なところを見失うでしょう。この著作を読者が見たこともない地球の遠い地域を、あるいは読者が共有したことのないような違った神秘的な体験を記述しているかのように読むべきではありません。これはあくまで認識についての記述です。私が読者の一人一人に個人的なさまざまな体験を思い出させることはできないけれども、読者が自分でそうすることはできる。私の一般的な文章を思想という薄暗い世界から剥がして、生き生きとした人生の流れの中に貼り付けることができる。(ロナガンの一般論を自分の経験に当てはめることができる。)さらに数学や自然科学という分野においては、ある程度の厳密性でもって明晰な閃きのまさにその内容を描くことが可能である。けれども内容の描き方の肝心なところは、読者が他の人に次々と繰り返すための言葉や、そこから推論したり結論を導いたりするための用語や関連性を読者に提供することではない。むしろ、ここでの肝心なことは、他のことと同様に、自分のものにすることである。自分の知性の活動について発見すること、確認すること、馴染むことである。肝心なことが純粋な知的活動とほかの多様な経験的な関心事の間にある個人の信念でもって簡単に見分けられるようになる。経験的な関心事はそれらが知的作用に侵略し知的作用と合流し、ミックスして、知的作用を両面的で曖昧な主張にしてしまう。(そのことに注意することが必要である。)(5710
ところでここまで考えてくると、読者になる見込みのある多くの人は忠告するであろう。この最初の第1章から第5章に提供されている実例はその読者の関心領域には存しないだろう。知性と合理性が現代人の全てに共通する特徴である。ところが、数学と科学についての私の最初の集中的な論じ方は、自分の合理的な自己意識をわがものにするという私の出した招きの実際の範囲と比べておそらく狭すぎると見えるであろう。(この本のタイトルからして、この本は人文科学に属する分野だろうけど最初の五つの章が数学と自然科学では狭すぎるのではないか、哲学はどうなるのか、と疑問視するだろう。)
おそらく、このような事柄に私の決定を導いた動機についての説明が、私の進め方・手続きを説明するためだけではなく、本全体から利益を得るためにこの最初の5章を理解することがどれほど必要なことであるかを、読者一人ひとりが自分で判断するのに役に立つだろう。まず最初に、閃きという概念は、そして閃きの積み重ね、そしてより高い観点、そしてそれらの発見的意義、そして帰結、それらが明晰判明的に把握されるときだけでなく、同時に可能な限り自分自身の個人的な知的経験において判明されることが欠かせない。それらを識別する正確な本性は、自己肯定(私がものを知ったと言えること)の章において明確にしたい。なぜなら、明らかに分かるように、内省と知的経験を捉えることは、ごく普通で簡単なことであり、精密に検証されたときには無意味になってしまうことがあるからである。けれども、この意識のレベルについてのわれわれの自覚に対する記述が理解可能でなければならないとすれば、意識の一連のレベルを定義し、そしてレベルを特徴づけるための活動の一連のタイプを、厳密にしっかりと先行して把握しなければならない。次には、そのような活動の把握が明晰判明でなければならないとすると、最大の注意が献身的にはらわれた、そして最大の厳密性が達せられた知的努力の領域を好んで選ばなければならない。(数学と自然科学には厳密な手続きがあるのでしっかりとした正確な認識が得られる。それが第一章から五章までに選ばれた動機である)。したがってこの理由のために、私は閃きおよびその拡張についての記述を始めるにあたって、数学的そして科学的な実例でもって、初めなければならないと感じた。私は常識といわれる普通の知性の使い方の実例でも、本質的に同じような活動が説明できることを認める。同時に、常識が厳密に何を説明するのかを、常識でもって把握し記述することは不可能であると認めざるを得ない。(哲学で常識を説明することができるが、常識で哲学を説明できない。)
それでもなお更なる熟考が有効である。なぜなら、この私の企画が曖昧さを明らかにし、両義性を取り除くことを気遣っているからである。ヒッポの聖アウグスティヌスは、実体というものと物体・物質とは異なった意味合いを有している、ということを発見するために何年もかかったと言っている。(物体=実体ではない。)あるいはもっと身近な時点で説明すると、近代の科学はその探究の対象が、想像できる時空において想像できるプロセスを通して動く想像できる存在者ではない、ということを発見するために400年かかった。プラトンでさえ自分の対話編を通じて伝えようとしたこと、そしてアウグスチヌスでさえ晩年には、最終的にはプラトン主義者から学んだということ、それが古典的な香と、現代人のマインドに明らかに不適切な事柄を失った。アインシュタインとハイゼンベルクの以前にも、科学者によって描かれた世界は変な感じで、芸術家によって描かれていた世界や、常識の人々が住んでいる世界とは違っていた。けれども21世紀の物理学者に残された事柄としては、人間の母体的想像力につないでいたへその緒を切ることによってのみ、物理学者たちの科学が自分たちの対象につながる可能性を予想することが残された仕事であった。101019 Start
読者がすでに推測することができたように、現在の研究における数学と数学的物理学の妥当性は閃きの記述に明晰性と厳密性をもたらしてくれるだけではなく、古い機械論(あらゆる自然現象は物質とその作用によって説明できる、とする考え方)から相対性理論への移行、そして古い決定論(すべての出来事は、それ以前の出来事から必然的に導かれる結果である、とする考え方)から統計学的法則への移行という意義もある。もっと古い時代には自分の思考について把握しようとした人は、プラトンの対話編の助けを借りることができたし、もっと難解なレベルでは、ミスター・ギルソン(20世紀で有名なトマス主義者)が、古代、中世、そして近代に亘っての哲学における歴史的実験と呼んだものに求めることができた。ところが、今日では考える人にとって、ガリレオにみられる科学的原理と哲学的前提の融合で始まった補完的な歴史的実験が、厳密性と感動的なスケールの両面で提供されている。それが我々の時代では鋭い分離となっている。プラトンが彼の芸術的な対話編を自分自身のものにするという努力を通して伝えようと非常に努力をしたもの、そしてアウグスチヌスの知性が宗教的回心の激しい苦しみの中において徐々にしかマスターできなかったもの、そしてデカルトを普遍的懐疑(疑っている自分を知る)というものに導いたもの、そしてカントを純粋理性批判に取り組むことに駆り立てたもの、それらが一つの影を落とした。その影は精密科学の領域において、極めて重要とは言えないが、はるかに鋭く定義されたものである。明らかに、現代の人間の認識における二元論(ものを知る私、を知る)を解決する努力において、愚か者でも無視できないことであり、最も目立つとは言えないかもしれないが、少なくともこの問題に関して提供される証拠において最も正確な要素を無視することはできない。(なぜ、認識論において数学と科学から始めるかを述べている。)   (1558
ところが、私には科学的思考の方法を自分自身のものにすることを通して達成したい三つ目の目標がある。科学的思考は組織的・系統的であるゆえに、科学者はあれこれの科学的システムや結論にではなく、科学的方法そのものの妥当性を信じている。しかし、究極的には科学的方法の本性および根拠は、我々の探求の対象の反省的把握と専門的応用であり、はっきり言って、人間の認識活動において内在的で反復的に作用している力学的構造以外の何物でもない。したがって、経験主義的科学は組織的方法として発見のためのヒントをただ単に提供するだけでなく、我々が研究しようとしているより大きく、かつ多様式なダイナミズム(力動説)を吟味するための具体的な実例を提示している。それ故に、以下に示すように一見してバラバラに見える要素を、我々が一つの観点にまとめようとするのは、科学的方法が構造的で力学的な特性を有するからである。
             まだ知らなかった探求者の段階の者が、自分が達した真理をいかにして認めたのか、というプラトンの質問。(ソクラテスの質問を通して探求者が、「分かった」といったときにそれは何なのか。)(35:07)
             知性主義者(概念主義者ではない)が物質的条件から形・外形を抽象して、普遍的な概念を取り出すこと。
             アクイナスの神の本質を知ることへの本質的で、自然的欲求、という心理的兆候
             デカルトが彼の未完の著作「精神指導の規則」(確実な認識に至るための法則)において伝えようと奮闘した事柄
             カントが抱いたアプリオリ(先験的)な総合
             ヨゼフ・マレシャル(イエズス会)が幅広い労作-「形而上学の出発点」-の中で述べている知性の最終状態という事柄(トマス主義とカント主義を結婚させようとした試み、人間の知性は真理をとらえるためにあるという合目的性論を展開。)
私がここでエッセイを始めるにあたって、自分を認識者として自己同化することを助けるために、数学的物理学の吟味から始めようとした動機について、重要性を強調してきた。しかし、誇張しすぎないために補足すると、その数学的物理学の吟味の意義は、いわゆる論理学的というよりも心理学的なものである。(読者には、この本を論理学的な完璧なシステムとしてではなく、教育学的なもの、自分の教育的な歩みの助けとして読むことを期待している。)したがって、この著作は二つの編に分かれている。第1編では、閃きが一つの活動として、そしてほかの関連性のあるさまざまなパターンとして発生する事象として研究されている。第2編では、閃きが認識として、そして一定の条件もとで存在という世界を示す事象として研究されている。第1編は、私たちが知るという時に、そこで何が起こっているのか、という問いを取り上げている。第2編では、その認識が起こった時に、そこで何を知るのか、という問いに進んでいく。第1編は心理学上の課題を別にすれば、定義とその解説集であると言える。というのも、論理学的な視点については、第2編の最初(第11章)に、この著作全体で最初にあらわれる判断として自己主張の判断について示しているからである。ところが、否定できない事実として、人間の認識に二つの異なったタイプがあるという心理学上の課題がある。その二つのタイプが分化されずに混在し、この二つがはっきりと区別され、その区別の帰結がはっきりと打ち出されない限り、両面性の矛盾を抱えたままである。(ものを知る私と、その私を知るという認識が分化しないで、人間の中に二つの異なったタイプの認識が共存している。ものを知るということと、ものを知る私を知る、という二つの「知る」を分化する必要があり、そのためにロナガンについて行かなければならない。つまり教育を受ける必要がある。)個人の心理学的問題は、真である命題を主張し偽である命題を否定するだけの普通のやり方では解決することができない、ということは否定できない事実である。なぜなら、真である命題の本当の意味は思想によって常にそれが誤解される傾向にある。その真の命題の意味はアウグスティヌスでさえ何年も費やし、近代科学は数百年かけてもまだ発見していない。しかし、発見される必要があるものである。
この著作の目標を定めるために私たちが提案した5つの分岐点の最後の二つについて言わなければならない。すでに気づかれたように、我々は認識の在り方ではなく認識の性格に関心を持っており、そして知られるものではなく知ることの構造について関心があり、そして認識的プロセスの抽象的属性ではなく、自分自身のダイナミックで繰り返し働くところの認識活動の構造についての個人的把握に関心がある。さて、次の四つ目の分岐点が説明されるべきときが来た。それは自己同化(自分のものにすること)-自分自身を把握するという努力は一度きりのものではなく、本質的に、主体の中で主体的に発展するものであり、すべてのものの発展と同様、骨の折れるそして徐々に進む形においてのみ固まり、そして実りをもたらすものである。
さて、発展の進捗を手助けするという申し出は、発展全体が既に成就した事実とすれば、ばかげたことであろう。幾何学の先生が、任意の曲線の曲率に関して、n次元多様性理論にはユークリッド全体は含まれていると確信しているかもしれないとしても、先生はユークリッドを義務教育のプログラムから追い出して、その生徒がテンソール算法(非ユークリッド幾何学)から始めるべきである、と結論づけることはしない。と言うのも、ユークリドが特殊な場合であるとしても、一般論にアクセスを与えるところの一つの特殊な場合であるからである。幾何学全体、一般論について考えた時には、ユクリッドの公理に疑問がつくかもしれないけれども、効果的に教える先生は生徒におぼろげにしか理解できないことで迷わせるような疑問を与えることはしないだろう。先生の役割は、できる限り生徒を束ねてそして「ロバたちの橋」(ポンスasinorum)を渡らせることにあるのだから。(ロナガンの教えはユークリッドと同様の位置づけである。)
それと同じような形で、この著作は上から下にではなく、下から上にという形で書かれている。いずれも、理論整然とした既述の集合であり、定義、前提(必要条件)、結論の三つに分けることができる。しかし、そのことが一つの本の前表紙から後表紙まで、一つの筋の通った集合の既述であることを限らない。一つの本でも、書く観点は移動していくことがありうる。その場合は筋の通った既述の一つの集合ではなく、むしろ筋の通った既述と関連のあるものが連続する集合である。さらに明らかなように、発展を助けるためにデザインされた書物は観点を移動しながら書かざるを得ない。かなり長い期間の、そして難しい努力の最後にのみ獲得できるものを、読者が一挙に理解するということを仮定することはできない。それどころか、逆に最小限度の観点、最小限度の文脈から始めなければならない。最小限度のものを使って更なる質問を立て、その質問が観点を拡大させ、文脈を拡大させる。この拡大された観点および文脈から、深い問題を取り上げるのに必要な観点および文脈へと進んでいく。さらに探求するために参照できる基礎と事柄を変えていく。明らかにこのような手続きはほんの一回、二回繰り返されるだけではなく、現実のすべての側面を包括するところの普遍的観点と、完全に具体的な文脈に達するために必要な限り、何回も繰り返される。
ところがこのような手続きのみが著作の目標に適合するならば、その手続きの帰結を見過ごすべきではない、ということを一度だけ強調させていただきたい。スピノザがその時代において幾何学的スタイルと思われていた倫理学を書いたからといって、私がスピノザの跡を継ごうとしていると推論すべきではない。また、私がゲーデルの定理を聞いたことがない、という推論もしてほしくない。(ゲーデルは20世紀の中での有名な論理学者で、不完全性の定理、がある)さらに、私は観点を移動させることで、次々と文脈を超えて行こうとしていると推論してほしくない。このような推論をしてはいけないとするならば、推論の更なる帰結も前提にしてはならない。私自身の立脚点が演繹できる前提から、第一章の第一セクションにおいて、閃きという単語の意味を定義するために短い努力の記述があるが、それを自分の前提の全部であると考えてほしくない。(1:21:20)

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