Friday, April 28, 2017

尼崎

尼崎カトリック教会の皆さん、長い間お世話になり、ありがとうございます。特に感謝したいのは、ご一緒に日曜日ごとに典礼の豊かさを味わい、福音の素晴らしさを共に体験できたことです。人によっては、聖書は昔話に聞こえるが、実はみことばは「いのちの言葉」です。この世で生きるために不可欠なのはこの「命の言葉」です。

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(フィリピ215)。

   聞くところによると、尼崎教会のホームページに乗せられたビデオを見ておられる方がたくさんいて、その中で受洗の決意に至った方もおられるそうです。これは、まさにみ言葉の力のおかげであり、最新の技術でもその癒す力が発揮させられている証拠だと思われます。やはり、「まず世間の常識ありき」、と言うのではなく、「始めに言葉があった」というべきでしょう。聖書の言葉を十分深く味わうと、そこに強い希望を感じます。「神はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰も恐れない。神はわたしの命の砦/わたしは誰をはばかろう。神に生きる人々の仲で私は神の美しさをあおぎみる。神を待ち望め/強く、たくましく、神を待ち望め。」ところが、今の社会を見ると先はどうなるか、全く見えないので不安になります。占いを頼りにして生きる人もいますが、でもそれは一時的な気休めにすぎない(20年以上、比較研究として、易経と易占いを研究してきました)。先の詩編のような歌は歌えない。救い主を待ち望むことにおいて、このように歌うことが出来るためにはどうしたらよいか。やはり、日曜日ごとにいただいたみ言葉をしっかり受け入れることほど力強いものは他にないと思います。

私たちは聖書の言葉を大事だとは思うのですが、それは現実から遠いことと感じられ、神様のお言葉をまともに聞くことに妥協するわけですね。そういう姿に対してイエス様は「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」神様の律法は人間がその中から勝手に選んでそれを生きるもんじゃありません。むしろ人間が神様の救いから、どんな小さなすき間からもこぼれていくことがないように守るものとして与えられたのです。

イエス様は決して私たちに「あなた方が律法の一点一画もおろそかにすることなく、完成するように努めなさい」とおっしゃったのではありません。「わたしがそれを完成するために来た」とおっしゃっています。神様が律法の一点一画を完成するためにイエス様を送ってくださったということですね。

神様は私たちの生活の一つ一つを、それがどんなに小さなことであっても、その目でご覧になり、そこで私たちが救いから漏れ落ちることなく、救いに与って生きることを願っておられるということなんです。 

  こういうわけ、日曜日ごとに朗読される聖書はどれだけ大事なのかを理解できるでしょう。しばらく、こういう恵みにご一緒にあずかったことを改めて感謝したいと思います。皆さん、これからも、どうぞよろしくお願いします。


A・ボナツィ神父



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