Thursday, December 14, 2017

フーコーについて

ハーバーマスなどが指摘しているように、フーコーの思想はさまざまな矛盾を抱えている。人間が自由を奪われる、それを奪うのもまた人間が作った制度だと。これからだけでも分かるはずなのだが、自由を語るには一定の覚悟が必要です。仏教も儒教も自由を語らない。自由を語ってるのは、世界史を見渡しても、聖書だけである。しかも、アダムの時から、人間の自由には問題がついて回っている。これだけでも無視しては、一体全体、どうやって自由を十分に論じられようか。フーコーは"truncated reality"(切り詰められた現実しか語っていない。フーコーの思想を使って犯罪を正当化しようとする人がいる。そんなもん、やめていただきたい。
自由は所有物ではなく、預かりものである。預かりものであるからには授け主もいるはず。授け主を無視するとさまざまな問題が起こるではなかったか、そもそも。人間の自由は限られたものである。聖書によると、「covenant」を守るという枠組みでしか働かない。禁物の果実を食べてもいいよ、と言ったのは誰でしたか?フーコーはそれをまねているだけではないでしょうか。Nihil novi sub sole est une expression tirée de la Vulgate signifiant « rien de nouveau sous le soleil ». Sagesse de l'Ecclésiaste (chapitre 1, verset 9)
古いこの世の知らない、新しい霊と真理の被造物になるために私たちは呼ばれているのです。福音の「新しさ」は、超自然が持つ新しさであり、この世の「新しさ」とは全く別のものです。いえ、それどころか、Nihil novi sub sole! この世では、新しいことなど何もの無いのです! 福音の「新しさ」こそ真の意味の新しさであり、時を越えた新しさなのです。愛そのものである天主の永遠の命の「新しさ」なのです。


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