Monday, January 22, 2018

祈りというドラマ

祈りというドラマ

日常生活の中で「自分」と呼んでいるものも、演劇(ドラマ)的構築物である。主に記憶によって、ひげそりするたびにかがみでみること、「内面を覗く」という、いとも簡単に外れやすい活動で、構築されている。普段から、この構築物を「自分」と呼び、その舞台を「現実の世界」と呼んでいる。さて、祈りという状態は、この「現実の世界」および「現実の自分」とは、岩のようにしっかりとしたものに程遠い、ということに気づくことから成り立っている。なるほど、自分は体でもって舞台を去って、舞台裏に移ることはできない。観客席に座ることもできない。けれども、舞台裏とか、観客席とかいう、そういう別の場所もあるということを思い出すことができる。現実性に乏しいこの自分は、ピエロか、英雄か、あるいは政治家であったりするが、ルージュの下に実際の自己を持っていて、舞台から離れた生活もある、ということも思い出す。この演劇的な自分は、実際の自己をどこかで隠していなければ、舞台に乗ることは一切ありえないのだから。祈りにおいて、この実際の自己は、言葉を作り出すために闘うのだ。それは、ステージ上の俳優と交わす台詞ではない。何と呼ぶべきだろうか迷ってしまう。誰もがすべてを発明したものだから、脚本家というべきか、彼は我々すべてを指示するから、監督というべきか、彼は演じ方を見ていて、我々すべてのパフォーマンスを判断するから、視聴者というべきか、その彼と交わす言葉を作り出すために闘うのだ。

(C. S. Lewis, Letters to Malcolm, 1964, pp. 122-123)





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