Monday, June 04, 2018

K 神父へ 

私の感想 (ご参考にならないかもしれない)

大変ひろくて深みのある議論、博学多識な論じ方で、すべてをチェックするのはかなり時間がかかります。また、プロテスタントとしてはめずらしく、聖書ばっかりではなく、哲学もさまざまな学問をも扱っていて、とても勉強になります。著作全体として、ヘーゲルの弁証法の色が勝っている印象を受けます。私は若い時にヘーゲルの魅力をたっぷり感じましたので、懐かしく思うところはたくさんあります。ソ連崩壊まえのヨーロッパの雰囲気を感じます。
もちろん、パネンベルクはヘーゲル哲学を、オーソドックスな神学に使えるために、見直したつもりでしょうけれども、これで満足いくかというと、疑問はのこります。
たとえば、「人格」という概念から考えてみる、そして東洋思想における人格という観点から考えてみる。東洋における人格の概念の背後には、人間は感情と感性の収束であるとする考えが常に存在している。これは確かに心理的自意識の分野に統括されるのであるが、同時にそれは、現象界一般と同じく、人格を幻影(あるいはsunyata [空])の世界に属するものでもあるのである。また、それは例えば「輪廻転生」という考えになっていく。つまり、別の肉体の中に同じ本質を有する霊魂が転生するか、それとも「前生」の残存としてのカルマをめぐる新たな心理的な感覚の核が形成されるか。したがってそれは、同一性というよりは「前生」から引きずる継続性の主張である。要するに東洋では存在論的人格の基点を想定せず、心理的人格の核心すらも、単なる幻想であり、「無我」あるいは「マーヤ(幻)」であるとする。
また、超越性の問題は必ずしもこれに続いて登場するわけではなく、例えば「梵我一如」というようなかたちでおかれる。
パネンベルクは東洋思想を相手にしていないでしょうけれども、上記のような問題群にどのように答えるかと私が想像してみると、おそらく次のようになるかと思います。つまり、パネンベルクは、ヘーゲルのように、存在と思想を同一のものとみなし、弁証法的に同一性へ帰る道をたどるでしょう(『精神現象学』参照)。東洋の人々が考える「心」は、西洋の人々が考えるそれとはいくぶん違っていて、相互にすれ違っていることがある、と。東洋の場合は、心というものを、人間の内面性全体の統合的機構として語っており、それをきっちり理性、意志、感情としては整理分類などしない。むしろこれらのものはすべて一つの大きな直感の中に総括される。
さて、(以下私のコメント)伝統的なスコラ思想の理性、意志、感性のきめ細かな分類法には、確かに長所もあれば短所もある。しかしまた、その区別を行わなかったとしても、究極的にかならずしもよりよい結果がもたらされるというわけでもない。少なくとも伝統的な分類の長所・短所をきちんと吟味すべきではないか。今、東洋では西洋的な技術主義と伝統的な神秘主義が不安定ながら共存しており、その伝統的な精神形態の支えもなく、またそれはそのまま続くことは望むべきものでもないであろう。というのは、にわかのそして容赦のない歴史の流れによってその伝統から引き出された東洋の人々も、物質主義と技術至上主義といういま一つの極端に陥らないように心すべきであろう。極端がいま一つの極論を呼ぶことはドイツ観念論哲学の後に、非常に荒削りな唯物論が続いたことでもよくわかるとおりである。
人格のほかに、人間学に深くかかわるテーマとして、たとえば「人権」とか、「自然法」とかをとりあげてみても、多分同じ問題にぶつかりそうだと思います。

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