Sunday, August 19, 2007

日本人における宗教観

日本人における宗教観

宗教とは、我々の人生観、世界観に百八十度の転回を与えるものでなければならない。「人もし全世界を得るとも、生命を失わば、なんの為かあらん」、といわれる永遠なる生命の自覚がなければならない。平凡なる日常底にギリギリの奇特を発見することが宗教だとも言える。信心とは、如何なる苦境にあっても、人生を生き抜いてゆく力であり、また如何なる幸運に恵まれても堕落しない鎖であるといわれる。信仰の大切なことは、自分の心の乾きが癒されることが肝心で、法のすべてを極め尽されないからといって悩むことはないと思う。梅尾の明恵上人は「くりかえし」一切経を読みたれば「あるべきようの六字なり」と歌っておられる。

信心のありどころである人間の心とは、仏教では心のことをアラヤ識と名づける。翻訳して含蔵職という。つまり、アラヤとは蔵ということである。どんな蔵かというならば、記憶の蔵である。一切の経験と知識を貯えておく蔵である。記憶というものが人間の脳細胞のどこに貯えられるか今日の心理学でもわからぬそうである。それは生まれてからの経験と知識どころではない。親の経験、先祖の経験から、人類以前の記憶まで、潜在意識として貯えられていると心理学者は言うのである。

心を水にたとうれば、白穏和尚は歌って言う。「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷無く、衆生の外に仏無し」と。凡夫と仏の差は水と氷の差に過ぎない。妄想執着があるとないの違いに過ぎない。水と氷は科学的に見て、まったく同一成分である。ただその姿と働きにおいて大いに異なるものがあるだけだ。水は温かいもの氷は冷たいもの、水は流れるもの氷は流れぬもの、水は形はないが凍りには形がある。水は叩いても壊れぬが凍りは壊れる。水はどんなところへもしみ込んでゆくが、氷はしみ込まない。水は魚を生かし草木を育ててゆくが、氷は魚を殺し草木を傷めてゆく。科学的成分は、まったく同じであるのに、その働きはこんなにも違うのである。ある先生の高説によれば、男性の本質は盲目的博愛主義にあり、女性の特質は惑溺的母性愛にあるようだといわれる。とすれば人間性の父とは恐るべき盲目的本能(無明)であり、母とは飽くなき貪婪なる溺愛(貪愛)である。かかる父なる無明、母なる貪愛を殺害してこそ、はじめて人間は真実なる自由をかち得られる。

社会の進歩は闘争によってかち得られるかもしれない。しかし明けても暮れても闘争々々に心臓を燃やしていることは、考えても堪えられないことである。戦国の武将達が、時には二畳板目の茶席に端坐して、松風の音に心をすまし、静寂の雰囲気に、心を洗った風情が思いやられる。永遠に連なる生命の静寂茶道ではこれを侘と言う。

信仰の究極、あるいは芸道にあってもそうであるが、とどのつまりが、まごころである。自己をあざむかず人をあざむかず誠実一片で行く事だろう。いいかえるならば愛情、人間愛、人類愛、愛情こそ人間性のまごころである。

(安川菊子、レポート2004年)



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