Thursday, September 11, 2008

土着化

「アシジの聖フランシスコと源義経は、同じ十二世紀末ころの人だが、日本人の信者は、聖フランシスコのほうをずっと身近に感じるだろう。それは時空を超えて魂で感知しているからだ。バッハやモーツァルト、ルオー、ドストエフスキーなどの芸術にふれる時、日本の文化・伝統は要らない。まして渇いた魂の深みに降りるのに、同じ文化・伝統というハシゴは要らない。渇きに苦しむ人は、水の入った器が漆のお椀かグラスかなど問わない。『いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は』(イザヤ52・7)とある。その足が履いているのは、下駄か靴かは、問題にもならない。
 生きる重さに苦しむ時、日本人も外国人もなく、ただ一つの魂があえいでいるだけだ。」
(・・・)
旧約聖書は、私には遠いものだったが、数千年前のユダヤ人の『物語』ではなく、私の人生と深いかかわりがあったという驚きは大きかった。『自分が神になって善悪を判断したい』というエバは、わたしであった。すべては益となることを信じないで、悪魔の囁きに耳を貸して神となり『私の苦しみに意味はない。生きることに意味は無い』と判断していた。『すべては神のはからいだった』と泣くヨセフは私であった。」

(安田美知子、「福音宣教」2006年6月号、33頁)

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