Monday, November 17, 2008

日本の司教のリーダーシップ

日本におけるカトリック教は、信者の中に各界の代表的な人物が少なくないにもかかわらず、総人口の1パーセントに遠く及ばない信者数の乏しさということもあり、また、教会の指導的地位に立つ人々が、世俗の目から見ると必ずしもそうは思えないという聖俗の価値判断の落差の大きさによるショックもあってのことであるが、教会が団結して反戦運動をするというような力もなかったし、いまもないという状態であって、社会的影響力は微弱である。これは、ひとつには教会の古くからの伝統として、比較的古い信者の家柄から司教を選ぼうという慣習があって、初期の日本大司教が聖人であっても文化的社会からは隔絶した風土の中から選ばれたという事情にもよるであろうが、いまひとつは、信者たちが縦のつながりを持ちたがらない傾向があった。日本のような旧来の風習が強く残存する縦社会の場合、むしろカトリック社会でのこの極めて弱い縦の関係のほうが騒ぎが起きなくてよい、という意見も多い。」(148-149頁)

「司教団としては、日本のカトリック学校のもつ前述の屈折した一種の不信感を不従順とか傲慢と取らずに、冷静に汲み取り、対話を続けるだけの寛大な父性(paternitas)をもたなければならない。しかし、はたしてその器量をもっているかどうか。」(151頁)

「教会ないし司教団は、もし派遣者であるとか認可者であると言おうとするならば、つまりは教会法的な権威を持ちたいのならば、苦しい台所事情はあるにせよ、せめて数億円くらい出して、それを基に広く寄附を求めるべきであろう。その小さな額からの積み重ねが、もしかするといくつかの大聖堂を建立する以上に大切で、天主の宿る神殿を世界の未来を担う大勢の少年少女たちの胸に建立することになるのではないか。そうするとき、はじめて大勢の人々が信者として大聖堂を満たすときもあろう。信者の数は問題ではないというが救われる人の数の多いほうがよい。」(155頁)

{今道友信 『超越への指標』 ピナケス出版 2008年) 

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