Tuesday, November 27, 2012

6.当惑させる観念


6.当惑させる観念

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 第一に,存在の観念は,理解の行為の表現または明示化から帰結するものであるか?
 他の概念は,それらの名前の使い方への,あるいはわれわれにとっての“もの”への,あるいはものそれ自体への,閃きの結果である。存在の観念は,他のすべての内容を貫徹し,それはすべての概念の明示化(公式化)において示されるものである。存在の観念は存在者への閃きの結果ではない,というのもそのような閃きとはすべてのものについてすべてのことを理解するようなものであり,そうした理解にわれわれは到達しえないからだ。存在者の観念は,すでに述べてきたように,無制限の対象に向けられた知的および理性的意識の方向性である。p.384

 第二に,存在の観念は本質をもつだろうか,あるいはそれ自体が一つの本質なのであろうか?
 他の諸概念が理解の行為の結果であり,理解の働きは或る観点から何か本質的なものを把握することであり,他の諸概念は諸本質である。さらに,他の諸概念が反省のための問いに先だって完璧なものであり,その反省のための問いはそうした本質が在るかどうかを問うものであり,他の諸概念はただ本質としてその実在性や現実性からは切り離されている。 しかし存在の観念は存在者についての理解の結果ではない。存在の観念は,或る観点から何か本質的なものについての把握に基づくのではなく,したがって存在の観念は,何かの本質の観念ではない。さらに,存在の観念は知性のレベルで不完全なものにとどまる。それは概念を反省のための問いへと前進させる。それは単一の判断を超えて正しい判断の総体へと進ませる。そしてだからそれは,実在性や現実性から切り離されてはいない。p.384

 第三に,存在者の観念は定義できるだろうか?
 存在の観念は,通常のどの仕方でも,定義することはできない。というのもそれはすべての定義の内容を支えるものであり,貫徹するものであり,それを超越するものであるからだ。しかしながら,存在の観念は,一定の決まった特徴をもっている。存在の観念はわれわれの知ることの無制限の対象に関わるもので,具体的な宇宙,在るものすべてに関わる。さらに,存在の観念は,われわれの知ることの構造が決まっているかぎりにおいて,決まったものである。したがって,存在の観念は間接的に,知性的把握と理性的肯定によって知られるものすべて関わるものであると,定義することはできる。他方で,そうした定義はわれわれの知ることにおいてどんな問いが適切で,どんな答えが正しいのかを定めるものではない。それは唯物論者が在ることは物であることだと主張するのをほっぽらかしにする。また経験論者が在ることは経験されることだと主張するのも許すし,観念論者idealistが在ることは考えられることだと主張するのも許すし,現象論者が在ることは現れることだと説明したりするのも許す。p.384-385


第四に,どうして存在という一つの観念がそのように多様な意味をもちえるのか?
 なぜなら,存在の観念は間接的にのみ決められるものだからだ。存在の観念は,正しい判断によって決定されるものの観念である。もし戦術的な正しい判断が,物質は実在する,そして物質だけが実在する,というものであるなら,唯物論者は正しい。もし戦術的な正しい判断が,現象がある,そして現象だけがある,とするなら現象主義者は正しい。同様に,他の立場を表明する命題が正しいなら,そのような立場からの存在が明らかになる。存在の観念は,どの立場が正しいかを決定するものではない。それはただ,知性が把握し理性が肯定するものが存在者であるとだけ,決定するのである。p.385

 第五に,存在の観念は,何か前提や属性をもっているだろうか?
 他の諸概念は決まった本質であり,だからそれらは前提や含意をもっている。もしXが動物ではないなら,Xは人間ではない。もしXが人間なら,Xは死すべきものである。しかし存在の観念は,何らかの本質の観念ではない。それはただ正しい判断が成されるに応じて決定されたものとなる。そして存在の観念が完全に決定されるのは,正しい判断の全体がなされたときである。しかし,判断することは決まったプロセスであって,このプロセスの本性を把握するのにすべての判断がなされる必要はない。この事実が,認識論を,具体的な宇宙の一般的な構造を決定するための操作の基礎とするのである。p.385

 第六に,存在者の観念は同名同義的かアナロギア(類比)的か?
 概念は同名同義的といわれるのは、それがすべての適用において同じ意味であるとき,一つの適用から他の適用へと移行するときに意味が体系的に変化する場合にはアナロギア的と言われる〔たとえば、挫折、把握、(Windowsは類比でもあり、同名異義的でもある)。存在の観念はそれがすべての内容を支えるかぎりで同名同義的といわれうるだろう。というのも,その観点からすれば,知りたい欲求とは一つであり,具体的な宇宙(万有)という無制限の対象もまた一だからである。また,存在の観念はそれが他のすべての内容を貫徹するかぎりにおいて,アナロギア的と言われうるだろう。この仕方でもって,esse viventium est vivere,つまり,「生きているものの存在は生きることである」,といえるのである。最後に,存在の観念は同名同義的でもアナロギア的でもないとも言える。というのも,この区別は概念に関わり,これに対して存在の観念は他の諸概念を支えるものであるとともに超越するものでもあるからである。しかし次のことは言っておいてもよいだろう。しばしば「存在(者)の類比 analogy of being」と呼ばれるものは,われわれが「存在(者)の観念は他の諸概念を支え,貫徹し,超越する」と言っているのと,まさに同じことである。p.385-386

 第七に,存在の観念は抽象的なものなのだろうか?
 或る観念が抽象的とされるためには,決まった内容をもっていて,その内容が他のいろいろな内容から抽象される〔人間という観念は肌の色を抽象する〕,という必要がある。存在の観念はなんであれ何ものからも抽象されてはいない。存在の観念はすべてを包括する観念である。その内容は正しい判断の総体によって規定される。

 しかしながら,さらに可能な判断のより大きな総体がある〔つまり、哲学的諸判断〕。そのなかには,戦術的な集合があって,その集合が具体的な宇宙(万有)の一般的な性格を明らかにする(定義する)のに寄与する。異なったいろいろな哲学によって観点が変わるのに応じて,である。そうした戦術的な諸集合については,すでに叙述された。たとえば,物質があって物質しかない,とか,現象があって現象しかないのだとか,思考があって思考しかないとか,われわれの知ることの構造は決定されていて、したがってわれわれの認識に比例する存在の構造は決定されている,とか。

 さて,そうした判断の戦術的な集合体のおかげで,具体的な宇宙の一般的な性格と,具体的な宇宙(万有)のその詳細のすべてとを区別することができる。十分明確に,具体的な宇宙(万有)の一般的性格の決定は,存在の抽象的な見かたである。というのも,それは存在者の全体を全体として考察するのではなく,存在者の全体をいくつかの戦術的な部分もしくは側面によって固定されたものとして考察するからである。

 このやり方で,「存在としての存在」〔アリストテレスの形而上学〕という言い回しの一般的な意味に到達するのである。しかし,何が存在としての存在であるかを決めるためには,どの特定の哲学においても,その哲学における戦術的な判断について検証しなければならない。そして何が存在としての存在の正しい意味であるかを決めるには,正しい哲学の戦術的な判断について検証しなければならない。p.386


Insight 386

第八に,存在の観念は,類〔たとえば動物〕なのであるか,種〔たとえば人間〕なのであるか,種差〔たとえば“理性的な”〕なのであるか?
 存在の観念が他のすべての認識的内容に対してより先であるかぎりにおいて,それは種差を加えることによって〔種へと〕区分けされるのを待っているところの類のようである。しかし,存在の観念が他のすべての内容を予測し,貫通し,そして包括するかぎりにおいては,それは類とは異なり,そしてそれ〔たとえば、麺類〕はその種差の内容〔うどん、そば、スパ〕とはまったく区別されたところの限定された内容なのである。

このようにして,存在者は赤い存在者,緑の存在者,青い存在者へと分類されることができる。そして色は赤い色,緑の色,青い色へと分類されることができる。しかし,赤の概念は,色の概念にはない内容もしくは内容の要素をもっていて,だから赤は色という類を,その類にはなかったものを追加することによって差異化するのである。他方で赤の概念は存在者の観念にはないようななんらの内容も内容の要素をももたない。赤の概念は存在者を,存在者がもたないものを追加することによって差異化することができない。存在(者)を離れては,ただの無であるからだ。p.387

 第九に,いまだ判断することなく考えるとき,〔甲〕人は存在者について考えているか,〔乙〕無について考えているかのどちらかだ。もし人が存在者について考えているなら,人は存在(者)について知るために判断することはいらなくなる。もし人が何も考えていないなら,すべての思考は同じものでないといけない,それはいずれも無を扱っているのだ。

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注:「思考するときは、存在を無視してそうするのである」(p. 377 下から2行目)参照。例えば、ケンタウロスやフロギストンについて考える(p. 378参照)。考えるのレベルですでに存在を考えるのであれば、判断に進む必要はないだろう。ところが、考える、理解を得ようとする作業は「目標的」なものである。どうしても、判断まで進むために考えるのである。認識の諸レベルはつながっている。

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考えて、概念化し、考察し、仮定し、または定義するとき、人は何らかの存在者に対してそうするのである。従って、我々は前者〔甲〕を取る。人が何について考えるかといえば,存在者についてである。さらに,存在者について考えるというのと,存在(者)を知るというのとは、それとはまた別のことである。存在者について考えるというのは認識の第2のレベル〔熟考と判断の前にある思考と理解のレベル〕におけることであり,知ることの完璧な増大への途上にあることである。しかし,それは不完全な増大以上のものには達しないのであって,その不完全さは判断によってのみ,補われるのである。p.387

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注:ローナガンはここで、おそらく「可能的存在」と「現実的存在」の区別を念頭に置いていると思われる。第二のレベルで、同じようにケンタウロスついてもと馬についても考えることができる(可能な存在)。しかし、実際の存在(現実態)が関係してくるのは、判断のレベルのみであって、そこで「これが馬だ」と肯定される。
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 第十に,存在の観念は,具体的な宇宙(万有)の観念である。しかし普遍(万有)的な命題は抽象的な命題であり,それにもかかわらず,そうした普遍的命題は判断において肯定されうる〔例えば、「引力なしには重量はない」。「人間には人権がある」〕。つまり,そのとき判断は,存在者についての判断ではないか,存在者が具体的なものではないか,どちらかである。

 存在の観念が具体的なものの観念であるのは,それが宇宙(万有)の観念であるのと同様にしてである。それが宇宙(普遍/万有)の観念であるのは,問いはもはやなにも尋ねることがなくなったときに止むからである。それが具体的な観念であるのは,具体的なものに到達されるまで,さらなる問いがあることになるからだ。だから,単一の判断ではなく正しい判断の総体が,具体的な宇宙(普遍/万有)に相当するのであり,それが存在なのである。

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注:つまり、単独の判断は存在のある側面〔重量〕にのみ関係する場合はその判断は抽象的でありうる。けれども、その判断は真でありうるのは、正しい判断の総体の内である。存在の全体性と存在の様々な側面という区別は前提になっていると思われる。すべての単独の判断は正しい判断の総体に含まれる。存在の部分的側面の総括は、存在全体となる。(Tekippe)
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 普遍的命題の問題は,分析的命題を,形式的(形相的)と質料的側面とに区別することによって解決できる。形相的には,分析的命題は①条件付けられたものであり,②単語の部分的で道具的な意味が文節の完全な道具的な意味へと融合する,その融合について統治するところの法則によって,その条件に連結されたものであり,③その条件をそれが用いる単語の意味や定義によって充足されたものである。質料的には,分析的命題は,用いられた用語や関係が①事実についての具体的な判断において生じるものとしてと知られうるかぎり、②事実についての具体的な判断において生じるものとして知られえないかぎり,または③事実についての具体的な判断において生じないと知られうるかぎりで,異なるものである。p.387

 形式的には,すべての分析的命題が具体的な万有へと関連するのは,統語論的(構文論的 syntactical)な諸法則が,不完全な道具的な意味を完璧な道具的な意味へと連合(融合)させるその連合(融合)の事実的側面となっているかぎりにおいてである。質料的には,いくつかの分析的命題が具体的な万有に関連するのは,第一のケースのように事実においてか,第二のケースのように試験的にである。p.388


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Analytic principle (p. 333)参照。
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