Monday, November 12, 2012

Trinity


三位一体の主日


三位一体の神秘を最初に本質的に体験したのは、イエスの弟子たちでした。イエスの死後、生きる意味を失って絶望し、まさに死んだも同然だった弟子たちは、突然のように神の愛に包まれて真実のイエスに出会い、神の愛の真理に目が開かれます。いわゆる「復活体験」ですが、この体験によって彼らは神をまことに親であると実感し、イエスはその神の現れである救い主キリストであると悟り、神の愛そのものである聖霊の喜びに満たされました。「復活体験」は「三位一体体験」だったのです。それは観念ではなく体験です。人の知恵による理解ではなく、神がご自身をそのように「啓あ(ひら)」いて「示」した、「啓示」の出来事です。
弟子たちはそれを、個人的な体験としてではなく、永遠なる一つの愛によって、みんなが一つの命を生きる、いわば「教会的な」出来事として体験しました。
「イエスは神の恵みのうちに復活して、今もいつも、永遠の命を生きている」。
「それによって私たちは父と子と聖霊の交わりに招き入れられ、真に生きる者となった」。
「私たちは聖霊の働きに満たされて、今、一つの体になっている」。
これらの理解は、弟子たちの共通体験によるものです。イエスの復活とは弟子たちの復活体験でもあり、教会の三位一体体験なのです。
 大勢の弟子たちがそのような共通の体験をしたことは驚くべきことですが、そのような体験がなければキリストの教会が誕生するはずもありません。すべてを十字架上でささげたイエスの愛が神の愛であることを聖霊の働きによって知った弟子たちが、神の本質をごく自然に「三位一体の神」として実感したのは当然のことであり、初代教会は、それを「父と子と聖霊」と表現したのでした。

ところで、この「三つであり同時に一つである」というのは、一見、抽象的で哲学的な観念のようにも思えますが、実はだれでもごく普通に理解していることでもあります。それはたとえば実際の「親」と「子」と「親心」の関係を考えてみても、すぐにわかることです。
 まず「親」。親は、子がいてこそ親でありえます。「子供がいない親」なんて、言葉の遊びとしては成立しても、実際にはありえません。
 次に「子」。子は生んだ親がいてはじめて子でありえます。生後親を失うことはあっても、始めはいたはずです。だれかが生んだからこそ存在しているわけですから。
 そして「親心」。親と子は、愛によって結ばれています。わが子にどうしても存在してほしいと願い、実際にわが身を削るようにして生み、その子を全面的に受け入れて育てる親心があるからこそ、親子は親子になる。親心がなければ子は生まれないし、たとえ生んだとしても親心で愛さないならばもはや親子とは呼べません。親の愛の有無は、それが親子であるかどうかの前提条件です。親心なしには、親も子も存在しないということです。
 子と親心がなければ親になれない。親と親心がなければ子はいない。親と子がいなければ親心もない。つまり、「親」と「子」と「親心」は、それぞれ単独では意味をなさない三位一体的な存在なのです。親と子と親心は、その三つが一つになってはじめて「親心によって結ばれている親子」という意味をもつわけです。それも、初めは親と子と親心がばらばらで存在していたのが後で一つになったわけではなく、初めから親と子と親心は一つに結ばれていたし、それはいつぃまでも一つです。
 もちろん、神が三位一体の神であり、父と子と聖霊が一つであるという神秘を完全に理解することはできません。しかし、真理は単純であり、その真理によって人間が救われるのだということを忘れてはなりません。キリスト教の核心となる真理は、だれにでも理解できて、だれをも救うものでなければならないのです。
 このように、三位一体の神は親子の類比によって深く味わうことができますし、まさにそれを味わうことこそが、人に救いをもたらします。だれもが父と子と聖霊の交わりの神秘の中へ入るように招かれています。ということは、だれもが、すでにその神秘を直感する暗黙の知恵を与えられているということでもあります。その直感に導かれ、キリストとともに三位一体の交わりに入るときこそ、人は復活体験にあずかっているのです。(晴佐久昌英著、『十字を切る』、女子パウロ会、140-143)

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