Tuesday, November 27, 2012

7 存在観念の諸理論


7 存在観念の諸理論

 
 すべての人に共通とした、自発的に働く存在観念と、哲学的立場によって異なるそれの理論的記述との間に区別がもうけられた。我々の理論的記述が既にあげた。残るは、他の立場から提案された幾つかの見方と対照的に比較することによってさらなる解明を求めることである。
 パルメニデスにとって存在は一つであり、始めもなく終わりもなく、同質で分割不能、不動、不変、充満とした球体であった。

(原注:See F.M. Cornford, Plato and Parmenides (London: Routledge and Kegan Paul)28-52.)

 この立場の起源は次のようである。パルメニデスはブランク否定という選択肢を排除したから、肯定問選択肢しか残らなかった。肯定は合理的に根拠にある場合「真理の道」であり、合理的根拠のない場合は「うわべの道」となる。パルメニデスは「真理の道」に従うことによって自らの存在観念に至った。
 合理的肯定という選択はどのような存在理念に導くだろうか。肯定であればなんでも受け入れる人は、その肯定の意味の正しい名声、仮定、帰結をも受け入れなければならない。いかなる判断も文脈を必要としていて、肯定の文脈を肯定せずには元々の判断は意味を失ってしまう。こうして、合理的肯定は、一つの全体をなす諸判断の集合の肯定でなければならない。したがって、肯定されるものはその集合に匹敵する一つの全体である。
 肯定される一つの全体とは何か。適切な答えは、経験全体に探求と反省をし始めることにある。知られるべき全体は、正しい判断の全体に匹敵する。しかし、パルメニデスは近道をとった。彼は、存在が間接的な定義しかゆるさないという事実に気が付かなかった。彼が、存在観念を、”人間”とか”円形”というような概念と同じように扱った。彼が、存在観念は一定の仮定と一定の帰結をもった一定の本質であると思った。存在は存在するから、存在しないことはありえない。生成することも、消滅することもありえない。逆に、非存在も生成も消滅も、存在ではないから、それら三つは無でないといけない。また、存在は分化されえない。存在と異なるものは存在ではない、したがって無である。また、存在以内には差異はないので、運動や変化はありえない。最後に、空白、空っぽは無である。存在は無と違うから、空白ではありえない。したがって、充満している。などなど。


プラトンの形相〔イデア〕は,通常の感覚的経験を超越した,思惟的天界に投射されたものであった。それでプラトンの形相は,①審美的経験の,②数学者と自然学者の閃きの,③反省的理解による無条件のものの,④道徳的意識の,⑤知的・理性的な合目的的生活の,理念的な対象である。それらは混雑したカバンのようなものであり,『パルメニデス』は転換のきっかけとなって,形相の区別を描く必要性や,より完全な〔形相(イデア)についての〕理論を提示する必要性が明示されている。

 プラトンは『ソフィスト』のなかで,理性的な対話〔discourse: 言葉による思想の伝達〕を通じて存在のイデアに迫るものとして,哲学者を描いている〔254a〕。〔プラトンは〕それぞれの形相〔イデア〕が互いに孤立していることは,対話の可能性を排除してしまうことに気づいていた。対話の可能性は異なった形相、言い換えれば異なった範疇の結合にある〔259e〕。とすると、諸形相の間に混じり合うこと、相互参与があり〔259a〕、”偉大さ”や”公平さ”と同じように”非存在の形相”がある〔258c〕。

 〔プラトンのイデア論の〕立場の不適切さは,知性のレベルと反省のレベルとを区別するのに失敗していることに基づく。この区別なしでは,判断における無条件なものは,秘かにただの思考の対象に帰属させられてしまう。そのように帰属させるのは,それらの無条件なものを永遠の形相へ変換するためである。そしてその逆に「~である」と「~ではない」は,これによって判断は無条件のものを措定するのであるが,それらもまた形相であるとみなされるかぎりにおいてのみ,意味をもつことになる。これらの結果,形相がたくさんになり,それぞれが根源的にしかも永遠に,相互に他のものから区別された形相とみなされる。

------------
〔たとえば「これは犬である」と考えられるのは「これ」の形相,「は」の形相,「犬」の形相,「である」の形相のおかげであり,それぞれの形相は具体的なものから離れてイデア界に存在する永遠のイデア(形相)だと考えられる。判断は諸形相の統合として考えられる〕。
-----------

こうして、さまざまの形相の寄せ集めが出来上がるが、そうした根源的で永遠の形相同士は,理性的な対話を通じてのみ,到達されるものである。そしてもし対話がそれらの形相を参照するためのものであるなら,対話における統合的(synthetic)要素へと関連づけられるべく,それらの受け持ちが混じり合わなければならない。しかし相互に区別された形相同士の混じり合いとは何であろうか? p.389

こんな難問に答えようとする前に、こんな難題は実際に成り立つかどうかを定めた方がよいだろう。我々思うに、事実この設問は成り立たたない。判断に到達するまで、認識の増加は不完全である。判断に到達する前に統合的要素はすでに認識に含まれている。判断が加えるのは、反省のための質問だけであり、イエスかノー、「~である」か「~ではない」である。肯定される、または否定されるものは単独の命題でもありうるし、仮説を構成する命題の集合全体でもありうる。いずれにしても両方は条件づけられたもの、あるいは事実上無条件なものとして把握されうる。したがって、判断は単語の統合ではなく、そのような統合の無条件的な想定である。判断に対応するのは、諸形相の統合ではなく、事実の絶対性である。

プラトニズムは純粋な知りたい欲求への敬虔さにおいて目覚ましかったが,判断の本性を捉え損ねたことで、具体的な万有の事実から理念的な天界へと逸脱したことになってしまった。p.390


 アリストテレスは,判断を統合(synthesis)として定義することにおいて,プラトニズムによりそっていた(Ibid. 263; Aristotle, De anima, III, 6, 430a 26)。しかしかれは,知性のための問い(これは何か? なぜそうなのか? という問い)と,反省のための問い(それはそのようで在るか? ほんとうにそうなのか? という問い)とを峻別した(Posterior Analytics, II, 1, 89b 22-38)。その結果,アリストテレスは事実に対して健全で明晰な見方をもつことができた。事実の正確な含意には到達しないままで。

アリストテレスは経験論者のように事実を感覚的な充足に帰し,感覚的充足を通じて条件付けられたものは無条件のものとして把握される,などとは考えなかった。そうすることなく,実質上無条件であること〔条件をみたすかぎり必然的に肯定されること〕に事実を帰した。

しかし,アリストテレスに,次のような問うをすれば、かれが十分に考えなかったことについて聞くことになる。実質的無条件とは,わたしたちの知ることにおける第3の構成要素なのか,それとも,そうではなくて,実質的無条件とはただの肯定のゴム印のようなものとして,概念について,その感覚的な内容と知解可能な内容とが合致していることについて,ハン押しするものなのか,と。p.390

 この解決されていない曖昧さは,かれの方法論においてもかれの形而上学においても,現れている。アリストテレスにとって,究極の問いは,実在についての問いであった。すでに記述的な知ることにおいて,それは解決済みの問いであった。その解決は,説明のための探求において前提としておかれるようになった。

そして説明の機能は,単純に,或るものがなにものであるか(そのものは何か),なぜそのものはそれがもっているような属性をもっているのか,決定するものであった。説明の本来的に(intrinsically)仮説的な性格と,それがさらに実在についての検証的な判断を必要とすることは,見逃された。

また、アリストテレスは存在とは何か,問うた。その質問は,理解への要求を表明し,原因についての知識への要求を表明するものである。ごく自然に,アリストテレスは次のように答えた。存在の原因は,それに内在する形相である(Metaphysics, VII, 17)。

第一義的には,存在とは実体的形相によって構成されるもので,あるいは,第二の考えでは,実体的形相と質料とから構成されるものである。第二義的には,存在は付帯的(偶有的)形相によって構成されるものである。付帯的形相とは,すなわち「白」とか「熱」とか「強度」とかであり,これらは無ではないが,単純に存在者というとき意味されるものではない。

さらに、存在者とは実在する実体とそれらの実体の属性と,実体の付随的な変化とを寄り集めたものである。しかし,存在者は事実として実在していることを示すけれども,実在するということは,実体的形相の実在性reality以上のものではなく,実体的形相の主として内在する仮定と帰結に伴うものなのである()。p.391

 きわめて当然のことだが,こうした立場からは,存在者の観念の統一性について,問題がもちあがる。アリストテレスはかれの先行者であるパルメニデスやプラトニストたちと袂を分かって,存在者を具体的な万有としてとらえ,事実,万有が存在するとうりに知られるのであるとした。

しかし,つぎの点ではアリストテレスは先行者たちを袂を分かつことはなかった。すなわち。存在者の観念は概念的な内容である,という考えである。アリストテレスは,存在者とは何かと問うた。言い換えれば,アリストテレスは存在者とは何か概念的な内容であると仮定し,そしてアリストテレスは理解の内容の明示化(公式化)に先だって,何の理解の働きが起こることか尋ねた。

しかし,すでにみてきたように,存在者は間接的にのみ定義できるものである。だから,アリストテレスは,どんな特徴的な理解の働きをも示すことはできなかった。ところが,理解の目立ったタイプの働きは閃きであり,閃きは感覚的データに現れる可知的形相を把握する。だからアリストテレスは,存在論的な原理たる「形相」を,ものにおける存在(者)の基盤として示し,形相を把握する認識の働きを閃きとして,その閃きから存在者の概念的内容が起原するものとして,示した。p.391

こういうわけで、中世のスコラ主義は一つの問題を受け継いで〔しまった〕。存在の観念は一つであるか、それとも多数であるか。一つであるなら、その統一性は内容の統一性であるか、それとも多くの内容の関数の統一性であるか。

ガンのヘンリクス(羅: Henricus Gandavensis or Henricus de Gandavo 1217年頃 – 1293年)は、存在の統一性はただ単に名辞の統一性であると考えていたようである。神はある、我はある。両方の場合、存在が肯定される。けれども、肯定される現実は単にそれぞればらばらである。


ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266年? - 1308年11月8日)が、名辞の統一のほかに、内容の統一もあると主張した。汝のいかなる一部分または一側面も、同一性のゆえに、我の一部分または一側面ではないが、それにもかかわらず汝も我も無ではない。であるから、無の否定によって消極的に表されるものを積極的に構成するなんらかの最小限度の概念的内容があるはず。それは何であるかは、他の積極的内容に訴えることによって宣言することはできない。なぜなら、それは思考の究極的原子であるから。単純に単純なものである。けれども、次の方法でそれに接近できる。つまりそれは、ソクラテスは人間を前提にし、人間は動物を前提にし、動物は生きた質料的実体を前提にし、実体は何か、実体よりもより少なく限定されるもの、より少なく排他的なものを前提にしているというふうに指摘することである。存在という概念は、最も小さい内包(connotation)と最大の外延(denotation)を持った概念である。しかも、本質上、抽象的な概念である。外延するのは、単なる存在では決してなく、無限か、それとも存在のある有限的な様態かである。様態というのは、さらなる内容あるいは区別できる内容として見るべきではなく、むしろ基本的な無制限な内容の内在的変数とみるべきである。


トマス・デ・ヴィオ・カイエタヌス(Thomas de Vio Caietanus 1469 - 1534)は、スコトゥスの見解に満足しなかった。それは、スコトゥスがガンのヘンリクスの見解に満足しなかったのと同様である。

No comments: