Tuesday, June 18, 2013

Insight translation 463-467

3.説明的な類と種     Explanatory Genera and Species

 類〔例:動物〕と種〔例:人間〕は,可感的な類似性や非類似性に基づく分類から導きだされたものではなくて,説明的な知識に基づく分類から導きだされたものであるならば,説明的なものである。そのような説明的な知識の一般的な特徴は,すでに「もの things」についての章で示してあるが,それを中心的および接合的な可能態,形相および現実態の言葉のなかにもう一度練り直してみるのは,無駄ではないだろう。

それから二つの質問,すなわち,それは類と種とについての説明的構造であるのかどうか,また,そうした構造は比例的存在者proportionate being についての完全に説明的な知識のなかで存続するものかどうか,という二つの質問を問えばいい。p.463

 そこで第1に,もし何らかの説明的な科学があるならば,接合的形相の集合体 Ci〔{C1,C2,C3,・・・}〕があって,それら接合的形相は相互の実験的に確立された説明的な諸関係によって明確に定義される。 集合Ciからの諸形相の異なった組合せは,説明的な諸統一体またはものども Ti〔{T1,T2,T3,・・・}〕を定義するのに役立つ。説明的な諸統一体またはものどもTiは,互いに種的に異なっているが,同じ説明的類に属する。検証された相互諸関係の異なった組合せは,一連の再起の仕組み(schemes of recurrence)Si〔{S1,S2,S3,・・・}〕を生みだし,そうした仕組みが実現されるにしたがって,それらの仕組みは接合的諸現実(conjugate acts)Ai〔{A1,A2,A3,・・・}〕の生起を体系的なものとする。p.463

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炭酸飲料(たんさんいんりょう、carbonated drink)は、炭酸を含んだ、清涼飲料水である[1]。
この定義では果汁入りのものもあるが[1]、果汁入り飲料を除外する定義もある[2]。
[1]^ a b 『広辞苑』
[2]^ a b 「炭酸飲料品質表示基準」(平成12年12月19日農林水産省告示第1682号)第2

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炭酸(たんさん、英: carbonic acid)は、化学式 H2CO3 で表される炭素のオキソ酸であり弱酸の一種である。

モル質量 62.03 g/mol
密度 1.0 g/cm3 (希薄溶液)
融点 n/a
水への溶解度 溶液中にのみ存在
酸解離定数 pKa 6.352 (pKa1)
特記なき場合、データは常温(25 ℃)・常圧(100 kPa)におけるものである。




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炭酸濃度 [編集]

ペットボトル入り炭酸飲料の内圧は、20℃で4気圧程度である。

日本の法規 [編集]

日本では「炭酸飲料品質表示基準」(平成12年12月19日農林水産省告示第1682号)によって、「炭酸飲料」について、飲用に適した水に二酸化炭素を圧入したもの、及び、これに甘味料、酸味料、フレーバリング等を加えたものと定義している(果実飲料・酒類・医薬品は除かれる)[2]。

種類 [編集]

炭酸入り栄養ドリンク(オロナミンCドリンク、リアルゴールド、レッドブル、ロックスターなど)
ガラナ飲料
クリームソーダ
コーラ
サイダー
シャンメリー(シャンパン風炭酸飲料)
ジンジャーエール
スパークリング・コーヒー (炭酸入りのコーヒー)
ソーダ水(炭酸水)
ティー・ソーダ (炭酸入りの紅茶)
ドクターペッパー
トニックウォーター
ビールテイスト飲料
メッコール
メロンソーダ
ラムネ
ルートビア

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 第2に。仕組みSiによって,タイプAiのすべての接合的現実態が体系的に生起するかもしれないし,そのなかのいくつかが体系的に生起するかもしれないし,他方では非体系的にランダムに生起するかもしれない。もし〔接合的現実態Aiが〕ランダム(非体系的)に生起するなら,接合的現実態のレベルにおいてただ実験的な残余 merely empirical residue の事例があるということだ。数多くのランダムな生起は,より広範囲のただ同時的な接合や継次を生起させ,そしてそうした接合や継次は実験的残余に属するからである。p.463

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心理学や情報学に「継次処理」という用語があります。このとき、継次は「ケイジ」と読む。意味は「連続的かつ逐次的」とか「段階的」という意味ある。対義語は「同時処理」である。
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 第3に,さらなる可能性がみられる。仕組みSiによって体系的に生起し,またランダムに生起するほかに,タイプAiの接合的現実態はきわめて規則的に,しかし仕組みSiのどれにもその規則性を帰することなく,生じることがある。この場合,〔Ciと異なる〕その他の接合Cjの集合の実在を確証するための必要にして十分な証拠があり,〔ものTiとは異なる〕ものTjからなる他の類を定義し,〔仕組みCiとは異なる〕別の射程をもった仕組みCjを生みだして,その仕組みCjは〔接続的現実態Aiとは異なった〕別の接続的現実態Ajを体系的なものとする。p.463

 第4に、記述の可能性は再起的 recurrentである。ランダムで多数の接合的現実態Aijが実験的残余の一事例であり,それで接合的形相Cjによるより高度の体系化のために接合的可能態を供給し,またランダムで多数の接合的現実態Ajkが,接合的形相Ckによるさらにいっそう高度な体系化のために接合的可能態を供給するところの実験的残余の一事例であるかもしれないのである。したがって,一連の類Ti,Tj,Tk,・・・がありえて,それぞれの類に異なった種があって,ものどもはその接合的形相によって定義され,そして接合的形相は,それらが異なった,基盤となっている,多数の下位の接合的現実態を異なったように体系化するのに応じて,異なるのである。p.464


 第5に、より高い類のものどもののなかに,より低い接合的可能態や形相や現実態が存続しているけれど,より低いものどもは存続していない。より低い接続が存続するのは,それらなしではより高い接続の体系が体系化するためのものが何もなくなるからである。他方で,より低いものどもは,より高いものなしでは存続しえない。というのもものは具体的で個別的なデータについての,具体的で知解可能な統一体だからである。

同じデータが異なった観点から,異なった接合的形相のための証拠を提供する。しかし同じデータはそれらについての諸観点の総体のもとで,異なったものどものためのデータとはなりえない。もし何らかのデータがそのすべての観点から或る一つのものに属するなら,それ以外のいかなるものにも属さない。しかしながら注意されるべきは,われわれは「もの things」について語っているのであって,「物体 bodies」について語っているのではない,ということだ。動物の「体」のなかに,多くの異なった「もの」がありえる。

しかしこれらの異なった「もの」どもは動物ではないし,動物の部分でもない。それらの「もの」どもは外からのforeign「体」であるかもしれない。それらは動物と共生的に動物のなかに生きられるかもしれない。しかしそれらは動物に目や他の器官が属するように属するのではない。p.464

 第6に、継次する諸類に関連して,個別の自律的な実験科学(経験科学)empirical scienceがありうる。というのも,それぞれの類は固有の射程の再起的仕組み schemes of recurrence,Si,Sj,Sk,・・・をもち,これらの諸規則 regularities の研究は実験的(経験的)に検証された相互関係の発見に導き,そして明確に定義された接続Ci,Cj,Ck,・・・の集合の発見へと導く。集合Ciのすべての言葉termsは,その内部の諸関係によって定義されるであろう。そして二つの集合は共通の言葉をもたないから,或る集合から別の集合へと移行する理にかなったプロセスというものはない。或る集合から別の集合へと移行する理にかなったプロセスがないから,いくつかの経験科学はそれぞれ区別されて自律的なのである。p.464

 第7に、継次的な,区別された自律的な諸科学は,継次的でより高い観点として関連づけられうる。より低い接合的現実態の同時的な多数は,たとえばAijは,シンボル的にイメージされることができる。さらに,同時的な多数のものは,より高い接合的形相にとって接合的可能態であり,だからシンボル的なイメージは,閃きのための材料(質量)を,より高い形相に関連する諸法(則)のために供給する。しかし,より低いレベルの操作のイメージがより高いレベルの操作を統べる諸法への閃きを生みだすとき,より高い観点がある。したがって,継次的な類の構造はより継次的な高い観点の構造に並行的に走る。p.464-465

 第8、この並行は,立脚点 positionとして,あるいは反立脚点 counterpositionとして,述べられることができる。もし或る人が実在realを存在者として,そして知的把握と理性的肯定によって知られるべきものとして,肯定するなら,その実在は,さまざまの類と種の接合的形相によって差異化された実在する統一体である。この場合,シンボル的イメージは発見的価値のみをもち,というのもシンボル的イメージは一つの科学から他の科学への移行を容易にし,そしてそれぞれの科学によってどれだけデータが説明されあるいはされないかを決定することに,役立つ。

他方で,もし或る人が実在を「すでに,そこに,いま」“already out there now”の下位区分として肯定するなら,イメージは発見的なシンボルではなく,ものが実際にそうであるようなものの表象 representation である。継次的で可知的なシステムは,たんに実体的(主体的)な整理 subjective arrangementであり,というのも可知的なものは想像されえないからだ。

そこで,より高い類それぞれの実在性(現実性)realityは,より低い類へと,もっとも低いイメージに到達するまで,移されつづけていくemptied。そしてもっとも低い類のイメージとして,イメージは見るためには小さすぎて,最下の類の検証できないイメージとともに取り残される。超科学的で偽形而上学的な実在理解として。p.465

われわれは,われわれの類や種の説明的概念について述べてきた。そして二つの問いが生じた。その概念は正しいのか? それは検証可能なのか,それも,もののうちでいまそれらが知られるようにというだけではなく,もののなかでもしそれらが完全に説明されたなら知られうるであろうような形で検証可能なのか? p.465

 たぶん,これらの概念は固有に可能的なものであると注文(クレーム)がつくだろう。より高い諸観点の継次の観念は,論理的には関係づけられることのない諸科学が統一されるための唯一の仕方であろう。より低い同時的な多数の出来事 occurences は,より高い諸形相によって体系化される,という観念は,実在のより高い諸秩序が,より低い諸秩序のなかに,より低い古典的な法(則)を破壊することなく内在することのできる,唯一の方法のように見えるだろう。

これら二つの観念は,相互補完的である。というのも,イメージは同時的多数的なものに応答し,そしてイメージへの閃きは諸形相を把握し,その諸形相はそうでなければ同時的多数のものを体系化するからである。最後に,これらの二つの観念は,抽象的な古典的諸法則,再起recurrenceの具体的な仕組み,統計的残余,より高い諸形相と諸仕組みの発生的確率,そして中心的および接合的な可能態,形相,現実態の形而上学的構造の,より一般的な要求を満足させる。p.465-466


 さらに,概念は経験科学の現今の状態に基づくのではなく,閃きの基礎的内容に基づく。閃きは想像的表象 imaginative representationへと閃く。閃きは諸観点へと累積する。諸観点を表徴する(代表する)諸イメージは,より高い観点へと累積する閃きに導く。この移行は繰り返される。閃きを離れたイメージは同時的で多数のものである。しかし閃きのもとにあるイメージは同時的であることを止める。というのは,それらイメージの諸要素は関連づけられた知解可能なものとなるからである。可能態は,想像された実験的残余(経験的残余)empirical residueと応答する。形相は閃きに応たえる。さらに,直接的な閃きはみずからを抽象的で古典的な法則のなかで表現する。

この抽象性は,一つの不確定性であり,統計的諸法則を把握するところの逆の閃きinverse insightに余地を残す。古典的法則と統計的法則との両立性は,同時的で多数のものに余地を残すが,この同時的で多数のものは,より高い諸形相のための可能性(可能態)を供給するのである。これらの諸要素のすべてが単一の一貫した説明的類や種の叙述accountを供給するためにかみ合わされるわけではないが,しかし結果として生じる叙述は競合するものをもたず,というのもわたしが知るかぎりでは,だれも類と種の純粋理論をつくりださず,そこでは類と種とは描写的にではなく説明的に把握されるからである。p.466


 いまや,概念は,もしその概念が,公正に整然としてsquarely問題に答え,そしてもしそこに代替的で可能な観点がないのであれば,固有に確からしいものuniquely probableである。さらに,いまの時点では,この確からしさ(確率)probabilityはより高い秩序のものである。その確からしさ(確率)が注意を払うのは,プトレマイオスやコペルニクス的なシステムのような,外の出来事 outer eventsについての想像的な統合ではなく,継次的で想像的な統合と体系的な統一体について一般化するものとしての内的な地盤なのである。

そうした統合と統一は,終わりのない継次のなかで,閃きの基礎的な属性の一要素をも改めることなく,興亡する。というのも,これらの基礎的な属性は原理であって,そこでから終わりなき継次が出現するのである。したがって,人間知性とその属性についてより大いに親しむにつれて,よりいっそう明らかになるのは。われわれのより高い観点の観念の,類や種の説明的な理論への発展は,その基盤を続いて起こる修正や改良にもつところの基礎的で永続的な要素を,開発したということだ。p.466

 最後に,そのようなユニークな確からしさ(確率)probabilityは,形而上学が先行する諸章での定義にあわせて考えられるなら,形而上学的理論にとって十分なものである。なぜなら,もし形而上学が,比例的存在者の万有(宇宙)についての単一の見方を生みだすために,経験的諸科学と常識とを統合することを目的とするなら,形而上学は事実factsと取り組まなければならないからである。形而上学は,演繹主義の規準を受けいれることはできない。

その演繹主義は,何か可能な世界の必然的な法則を確定することで満足しようというものである。形而上学は,陰影(いんえい)nuanced あるものとなるはずである。それは中心的および接合的な可能態や形相や現実態について何の疑いももたないかもしれない。しかし形而上学は,それが諸形相の説明的な類と種とを区別するようになったときには,固有の確からしさで満足するのである。p.466-467


 事実についての問いが残っている。宇宙には,種的に類的に異なった“もの”どもが存在するのだろうか,そしてそこではこれらの差異は,描写的にではなく説明的に思い抱かれるのであろうか? 否定的な解答は,反立脚点によって発せられる。というのも,それでは実在は想像され検証されえない中身entitiesへと還元されるが,その中身は可知的にではなく,それらの想像された規定性においてのみ,異なるからである。

他方で,もしわれわれが常識あるいは科学の諸部門の現実の区分けといった太古の確信に訴えるならば,すべての証拠は異なった説明的類の確言を裏付ける。最後に,われわれは未来の証言を引用し,現在の肯定について仮定的な修正者を持ち出すことができる。

というのは,もしかれ〔修正者〕があの,もしくは何らかの肯定を修正するつもりなら,その修正者は経験,理解,判断に訴えねばならず,だからかれは実験的(経験的)で,知解可能な,理性的意識の具体的で知解可能な統一体であるだろう。さらに,修正者は,かれ自身の判決 pronouncementをつくらねばならない。それは,その修正者かれが生物学的,審美的,芸術的(技術的)artistic,ドラマ的,または実践的な経験のパターンを意識している間ではなく,知的パターンを意識している間に,である。

それでも,修正者は,これらの他のパターンにおいても,それらの混合や改訂されたパターンにおいても,経験をもつことはできる。なぜなら,さもないと,かれは人間ではないからだ。つまり,仮定的修正者hypothtical reviserは,もしかれが人間であるなら経験的,知的,そして理性的意識の具体的で知解可能な統一体以上のものである。それならかれは何ものなのか?

人は少なくとも一つの別の接続的形相conjugate forms類をもちだしてinvoke,他のパターンの経験の具体的可能性を説明し,意識のうえに前意識や無意識を説明し,仮定的修正者が人間のかたわらの他のものどものうえを食べたり呼吸したり歩いたりする事実を説明する必要がある。他方で,もし或る人の仮定的修正者が人間ではないなら,人はむしろその〔人間ではないところの〕修正者に他の説明的類の実在が否定されうる仕方を想い抱かせるのに頑張らねばならない。p.467





 

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