Tuesday, February 13, 2018

Hさんへのメール


Hさん

 

メールを受け取りました。

P・ティリッヒというアメリカの有名な神学者は、「信仰」あるいは「信じる」ということを、「究極的関心」と言う風に説明しています。ティリッヒは、マルコ福音書から次の言葉を引用しています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ1230)。「心」「精神」「思い」「力」という四つのものとの関係と聖書的な意味について説明するとかなり長くなりますので、おおざっぱに言って「知情意」と言われる場合の「知」「情」「意」に対応すると考えていただいてもいい。

したがって、「信じる」とは、知情意という人間の精神機能すべてがしかも統合された形で関わっている全人格的なものと考えるべきなのです。ですから、信仰=認識(不完全なあやふやな知識)、信仰=意志(無理に信じようとすること、オウム真理教みたいな他律的精神性)、信仰=感情(主観的な気分、独りよがり)といった理解は、よくありがちな信仰への誤解であると言わねばならない。人間の精神全体に関わることなんですが、それは「宗教的」信仰に限ったことではない。我々は日常的にさまざまなものを信頼することによって生きており、人間として生きる上で何ものをもまったく信じないということはおそらく不可能でしょう(電車や飛行機に乗ることを考えてみてください)。つまり、「信じる」とは人間だれしも経験することであり、特別な感受性か鋭い感覚に限ったことではない。相手の誠実さに信頼し、約束を行い、それを遵守したり破ったりする自由と責任を担っているということは、人格的存在者としての人間の基本に属するものであり、宗教的信仰と日常的な信頼関係との両者に共通の構造をもっている。

この共通の構造を表現する用語として「関心」という概念が採用される理由を考えてみると、人間は日常生活において、さまざまな対象に関心をもちながら生活している。家族、恋人、仕事、趣味、事件、食事など。その意味で、「人間である」とは、世界の中で出会う事物や出来事に対して関心を持って生きることであると言い換えることができる。関心をもたない人間はありえない、というぐらいなもの(だから、皆何かを「信じて」いるといえる)。「信仰」とは、人間の全体性に関わる重要なものであると言えるでしょう。

次に「究極性」について。これは、先のマルコ福音書の言葉で言えば、「…尽くして」と表現されていた信仰の性格に関わる。宗教における「信仰」は、日常的な関心(「心」「精神」「思い」「力」)を最高度に高め集中させるところに成立するのであって、真剣で強烈な愛にきわめて類似したものなんです。信仰の対象となるものは信仰する者にとって特別な意味深い価値あるものとして経験されるのです。日常的関心は、生活の一部分にしか関わらない(学生時代は学校に深く関心していても、一生続くわけではない)のに対して、宗教的信仰が生活の一部分ではなく、その全体、つまり全生活、全人生に関わっているということです。信仰者の人生全体の意味がかけられているのです。

ところが、全人生と言っても、これまで経験した部分に関しても、全部理解しているわけではない。これからの部分は、全く分からないから、自分から「神信仰」を生み出すことはできない。信仰の対象を「示して」もらうことが必要なのです。

 

話は変わりますが、この前いただいたプリント(『カトリック教会の文書資料集』)を見たが、これは専門家の使う書物であって、言ってみれば、医者さんが医者になるために勉強する書物みたいなもので、一般の人には分かるはずがない。もっと分かりやすいものを読んでくださるようにお勧めします。例えば、『カトリック教会のカテキズム』。

 

それでは、今回はこの辺で終わりたいと思います。お元気で。

 

ボナツィ


 

 

No comments: