Thursday, February 22, 2018

Hさんへのメール(その二)

 
Hさん

 

パウロの書簡には、キリストは「新しいアダム」として紹介されていますね。これは、どういうことかと、問うてみた場合は、かなりの深みのある言葉ということに気づきますが、例えば、次のような事柄が含まれているだろうと思われます。「新しいアダム」とは、古いアダムの抱えた問題に解決をつける人だと。古いアダムが抱えた問題とは、神学の専門用語では「原罪」と言います。(注意:原罪に関して不十分な認識を持っていると話は通じなくなる)。分かりやすく言うと、新しいアダムは原罪を持っていない、ということになります。ところが、アウグスティヌスあたりから、議論されてきたように、原罪は人間の誕生によって継承される、というような認識があって、そしたら、イエスは人間のマリアから生まれることで、原罪を受け継ぐことになってしまう。イエスから新しい人類が始まる。「新しい創造」(Kaine Ktisis, 2コリ5・17など参照)が始まった。そしたら、イエスはアダムの原罪を受け継いでいないということを見せるために、マリアにも原罪がないということが必要になってくる。新しい人類は、昔の預言者によって準備されているが、具体的なスタートとして、預言者の子孫であるマリアからである、と。かつて、原罪のないアダムを創造されたゴッドは、原罪のないマリアを造ることはできない、となれば、これは本当におかしな話になります。当然すぎるぐらい当然ですね。でないと、「新しいアダム」という考えた方の重要な中身はわからなくなる。

聖書にないから、という反論はプロテスタントの古い偏見で、すでにトリエント公会議(五百年前)で論駁されていますが、無知な者だけは現在でも繰り返している。特に日本では中途半端な説えを述べる人は目立ちます。

 

以上、同じような話は、聖母被昇天と煉獄(ところで、煉獄を信じない人はダンテの『神曲』を読んだことがない、ということはすぐに推測できます。やはり、無知ですね。無知なものに耳を貸すとどうなる?)についてもできるのですが、長すぎることになるので、別の機会に譲ります。

 

それより以前の話をしておきます。教会の教えには何千年の深い知恵が詰まっていて、知っている人でしたら誰でも認める、史上トップレベルな思考者(アウグスティヌスやトマス・アクイナス)によって吟味されています。ですから、それに反論を唱えるためにはかなりの覚悟が必要でしょう。トマス・アクイナスやアウグスティヌスに勝てるというような気分が必要。これが、かなり傲慢なひとでないとできない。ところが、信仰のことを理解するために逆の態度が必要です。つまり、謙虚さですね。自分の小さな頭や視野に信頼をおくのではなく、本ものの知恵のある者に学び、その知恵に頼ることです。

 

それでは、お元気で

 

ボナツィ

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