Saturday, February 26, 2005

性の福音

先生、やたらとメールを送りつけてしまうようですが、お許しください。カトリックの洗礼を受けることは決心しているものの、未だによく解らないことが多いのです。今は春休みですし、私の疑問に答えてくださる方がいないのです。L先生は、機関銃(!)の如くお話しになるので、口を挟めずに話が変わってしまった、ということもあります。他に質問してもよさそうな方が思いつかないのです。で、肝心の疑問ですが、性欲のことに関してです。あまりびっくりしないでくださいね。そんなに露骨な話をするつもりはありませんから(笑)私がキリスト教に興味を持ってから、学術書に準ずるもの以外に、物語として書かれたもの(要は小説です)も読んでみました。イエス・キリストその人が登場するものではありませんが、キリスト教徒がでてくるものです。その中から二冊ほど、印象に残っているものについて、疑問があります。一冊は、明治時代の日本が舞台で、まだキリスト教が邪教と言われ、嫌悪されていた時代のクリスチャンたちの話です。主人公の男性は、クリスチャンが身近にいて、彼らに影響されて洗礼を受けました。(主人公の)身近な人たち(家族、恋人、友人・・・)は何故キリスト教に惹かれたのか。その教えとはどんなものなのか。彼らがありがたがる聖書とはどんな本なのか。そこから、洗礼を受ける意思を固めていきます。その中の一節に、女性を見ると、性的な興味を覚える自分に、「色情を抱いて女を見る者は誰でも、頭の中でその女を犯したのである」という言葉を重ねあわせていました。古くからの友人と語りあう場面で、「それなら、僕は一体何度姦通したことか」と言い、「それは僕も同じさ」と答えていました。もう一冊は、十六世紀のパリを舞台にした作品で、神学を学ぶ学生たちとその先生たちが出てくる話です。その中に、近親相姦を犯した学僧が出てきます。その告白をする場面で、話を聞いていたひとりが「肉欲は、それ自体がキリスト教徒の罪なんだよ」と泣きながら言うところがありました。
私は、この言葉がひどく印象に残っています。でも、私のキリスト教概論の先生は、「罪じゃないよ」とおっしゃり、L先生(一応聞いてみたことはあります)は「人間の体は神さまがお作りになったものなんだから、悪くない」とおっしゃいました。でも、私はあまり納得していません。だったら、どうして聖書にこんな記述があるんだ・・・と思います。性的、肉体的なことに対して禁欲的なのはギリシャ起源だ、ということを、本で読んだことがあります。でも、二冊目の本(『カルチェ・ラタン』という題です)はパリが舞台で、神学生たち、先生たちはカトリック、ちょうどプロテスタントが出てきた頃です。実在の人物とその交流関係を描いているようで、ジャン・カルヴァン、フランシスコ・ザビエル、などが登場していました。これはカトリック的な解釈なのか、それとも時代のせいか・・・。十六世紀に起こった出来事を、今の感覚で受け止めることにそもそもの無理があるのか。さっぱり解りません。
今、メールで細かく説いて聞かせて欲しいとは言いません。先生が英知にお帰りになってから、時間を見つけて教えてくださいませんか。私の疑問のひとつとして、お心に留めておいてください。
日本では、もう杉の花粉が飛び始めています。イタリアに花粉症の人なんているでしょうか? 今年は例年の百倍の花粉が飛ぶそうです。気候の関係から、杉の開花が遅く、花粉の飛ぶ時期もずれて長引くのではないか、というのが気象予報士の見解です。花粉症の最盛期と、先生のご帰国が重なるようですが、学会でくしゃみを連発しないよう、お気をつけくださいね(笑)


Kさん
「色情を抱いて女を見る者は誰でも、頭の中でその女を犯したのである」という言葉はまず正しく理解する必要があるでしょう。美味しいケーキを見てほしがるのと、店の中に入ってそのケーキを盗んでいくのとは同じではないでしょう(少なくとも法律的に)。すごく簡単に言えば聖書は言いたいのは、人間の「悪い行為」の起源は「心」にあるのだよ!ということです。これは、いわば「形式主義的倫理」(形だけ整える倫理)を乗り越えて、人間の「内面」(意図)の倫理を打ち立てるものであり、「結果」だけではなくて、問題の「原因」に目を向けさせるものでしょう。
第二に、「性的、肉体的なことに対して禁欲的なのはギリシャ起源だ」というのはあまり正確的な言い方ではありません。正確に言えば「新プラトン主義やストア派の影響」ということなのですが、ギリシア文化はどちらかと言えば、かなり官能的な文化だった。
次は、16世紀の教会の話ですが、まず歴史を語るときに、「暗い夜に牛はみな同じく見える」(ヘーゲル)というようなことを避けるべきでしょう。ギリシア文化の影響を受けた初代教会と宗教改革後の西欧の教会をどう結びけるかは、一口で言えるようなものではありませんので、ここで省かせていただきます。
要するに、日本では特にカトリック教会の性の倫理に対しては「厳しすぎる」というイメージ(偏見?)があります。それは百も承知しています。それには、歴史的な事情があることは勉強すればわかります。また、人間の性というものを真剣に受け止めているからこそ、厳しくなることがあります。それは、子供のことを真剣に思う親の気持ちに似ていると思います。「遊び」程度にしか性を描かないマスコミのとは違うのも確かです。でも、マスコミは信頼に値すると思わないときは少なくないのも事実です。
で、キリスト教を勉強し始めるにあたって、一般社会のこうしたイメージに引っかかるとはわからないことでものないのですが、枝葉的ものかなと思ったりします。キリスト教(もっと正確に言えばキリスト)を知るために、倫理学的な問題から始まるのはベストの切り口だとは思いにくいのです。あなたは若さで性に対して独特な興味があるでしょうから気持ちはわかります。性というのは、人間に幸せも不幸ももたらすものです。人間世界の多くのことと同じく「両義的(両面的)」なもので、キリストによって「救われる」(正しい意味づけをうける)必要があります。さて、キリストは性に対しても「福音」(よい知らせ)をもたらしたわけで、それをしるためには、まずキリストそのものを知る必要があると思われます。これは、チャレンジですぅが、私からの助言でもあります。
今は、「四旬節」で、「復活祭」への準備をしています。これは知っている者にはすごい恵みのときで、あなたもこうした恵みにあずかれるようにお祈りします。
お互いに身体に気をつけましょう。

1 comment:

Anonymous said...

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