Thursday, May 05, 2005

現実の「背景」にある形相

われわれはときに、「いま・ここ」にある現実の生を究極的な価値としてつかみ取りたいと思うことがある。だが逆にわれわれは、「いま・ここ」にある現実の生がすべてではないという感覚から、現実の背後に回ってみようとか、別の現実を構成してみようとか、あるいは現実に得られるはずの満足を抑圧しようとか思うことがある。こうした欲求はいずれも、なるほど人生の然るべき時期において生じる自然な衝動であるだろう。しかしいったい、「われわれは『現実』をいかに認識すべきか」という認識的かつ規範的な問題を立てるならば、それはきわめて人生論的なテーマであると同時に、社会科学的認識の根本問題を提起するように思われる。
 近代社会とともに生じた社会科学は、「社会」なるものの規範的特徴を明らかにすると同時に、「いま・ここ」の現実がもつ偶然性と偏狭性を超えることを目指してきた。近代社会におけるわれわれの生は、「いま・ここ」に限定されてはならない。言いかえれば、「いま・ここ」にある現実や生というものを、無媒介に肯定して認識してはならない。むしろそこから抜け出て、普遍的な認識の観点を獲得することこそ、「社会-科学」が陶冶する生の理念である。われわれの生は潜在的にはもっと可能な世界に広がりうるのであり、究極的には「啓蒙された主体」としての善き生を求めて、自らの生と社会全体を超越的な観点から展望しなければならない。社会科学はこのように、近代という時代の要求と並行して、一方では「いま・ここ」なる現実をたえず超越しつつ、他方では普遍的で展望的な認識への意志(欲求)を掲げることによって、社会の現実に対する認識をたえず変容させてきたのであった。

No comments: