Tuesday, April 16, 2013

Lonergan studies


大ざっぱにいえば、意識の二つの側面です。
思考にせよ、意図にせよ、何かしらの感情にせよ、意識には何らかの作用のような能動的な側面があります。それがノエシスです。
同時に意識は常に「何か」についての意識です。この「何か」がノエマです。
意識の作用的側面がノエシス、対象的側面がノエマということもできます。
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フッサールの現象学

 「純粋経験論」に入る前にもう一人、重要な思想家を取り上げておきましょう。その人の名は西田より11歳年上のフッサール(1859~1938)です。はじめに断っておきますが、私のフッサール解釈は、フッサールを最も分かりやすく解説してくれている竹田青嗣の受け売りです。でもフッサール研究の専門の教授に竹田青嗣のフッサール解釈で問題ないのか伺いますと、概ねオッケーだということですから、これでいきましょう。というのは、フッサールの著作もなかなか意味が取りにくいんです。ところがそれについて解説している竹田青嗣の解説は実に明快なんです。だからみなさんもフッサールについて勉強する場合は、まず竹田青嗣を読むことです。
 フッサールの現象学は、「経験」の代わりに「現象」を置きます。「現象」とは「意識現象」のことです。彼は、「事象そのものへ!」をモットーにまずあくまで現象に即して事態を捉えます。つまり起こっている事象というのは、あくまで意識現象として生じています。意識現象の変化として世界は展開しているわけです。薔薇の花が現れているとしますと、見えているのは色や形や匂いや感触としての薔薇ですから、意識現象に過ぎないわけです。そのような意識の背後に客観的事物としての薔薇があるかもしれません。そしたら客観的実在ですね。しかしそれはあくまでも推論ですね。薔薇という意識現象は、背後に薔薇という事物がなくても生じるかもしれないわけです。
 意識現象を理念で解釈する場合もそうです。ここに白地に赤い丸が中央にある長方形の布がありますと、日本の「国旗」の日の丸じゃないかと思いますね。それは日本に関する歴史的な文化的な知識体系や理念でそう見ているわけです。頭からそう決めつけて見ていますと、テレビ番組『マジカル頭脳パワー』のように、それはとんでもない誤解だって場合もあるわけです。つまり厳密な学として現象を捉える場合は、現象を形而上学的な理念や実在の概念で無理に説明しようとする、つい陥りがちな「自然的態度」を制止しなければならないというのです。フッサールはこれをエポケー(判断停止)と呼びました。そうしますと世界は自分の意識の流れに還元されてしまいますね。厳密に学として展開する場合は、世界はまずは自分の意識でしかないと捉えようというのですから、一見、極めて独我論的に思えます。これをフッサールは「現象学的還元」と言います。
 そうしておいて、意識現象をノエシス―ノエマ関係で捉えるのです。意識現象に意味統一を与えて、対象存在を構成する意識の働きをノエシスと言います。ノエシスを日本語に訳すとすれば「意識の意味付与作用面」かあるいは単純に「作用面」ですね。これは西田も普通日本語にせずに<ノエシス>と表現しています。そしてこの構成された対象性をノエマと言います。例えば色や形や重さや匂いなどの感覚諸要素を素材にして薔薇という対象を意識が構成するとしますと、この構成する働きがノエシスで、構成された意識としての薔薇は対象面として捉えられています。この意識の対象面としての薔薇がノエマに当たるわけです。ノエマ自体は意識の対象面であって、客観的実在としての事物ではありません。同じ意識の作用面がノエシスで対象面がノエマだということです。
 ノエマつまり意識の対象面としての薔薇が、客観的事物の薔薇を言い当てているかどうか厳密には断言できないわけです。しかし我々は日常生活においても科学的実験・観察においても、対象として構成されたノエマを、客観的な事物の本質を言い当てたものとして信憑して行為するしかないのです。これを本質直観といいます。
 例えば果物屋でおいしそうなリンゴを見つけて買うとします。形や色、感触からノエシス的にリンゴという意味を与えて、ノエマとしてのリンゴを手に入れます。手にしているのはノエマとしてのリンゴです。ひょっとしたらこれはリンゴと同じ感覚諸要素の統合としてリンゴもどきかもしれないし、バーチャル・リアルティとしてのリンゴかもしれないのです。そんなに疑うなら食べてみればいいわけで、リンゴと同じ味がすればそれはリンゴとしての事物だとわかる筈だと思われるかもしれません。しかしリンゴの味というのも感覚ですね。やはり意識に過ぎないわけでして、これが本当にリンゴという客観的事物なのかは、結局フッサールに言わせれば、証明できません。でも別に及第点のリンゴの味がすれば、それが客観的事物としてのリンゴであることを疑う必要は、全くないわけです。
 じゃあどうしてそんな下らない議論をするんだと、腹を立てている人はいませんか。ノエマと事物と区別することはないんじゃないかって。でもある感覚的諸要素の統合をリンゴと思い込んでいたのが、その信憑を裏切られて、リンゴもどきで健康に害が出る場合もあります。その人はこういうのがリンゴだという意味付与作用(ノエシス)を修正しなければならなくなります。だからノエマと事物の区別は厳密な学としては必要なのです。
 それにある思想が客観的真理であるかどうかも、同様の問題があります。「リンゴは健康に良い」という思想はビタミンCの効用などが知られ、信憑を得られています。ですから「リンゴは健康に良い」と考えて食べていればよく、この考えは「リンゴは健康に良いという考え」として一種のノエマとして妥当するわけです。でも本当に客観的事実として「リンゴは健康に良いのか」は、また別ですね。食べすぎれば駄目だし、最近のリンゴは農薬等の影響で健康に悪いのもあるかもしれないわけです。ですからこの「リンゴは健康に良いという考え」もノエマにすぎないとして、客観的事実とは区別しておくべきなのです。ノエマと事実も混同してはならないということです。

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