Monday, April 23, 2018

グアルディーニの摂理論 01

グアルディーニの摂理論 01

R. Guardini, Welt una Person, 1939

世界と人格(人間)
後期の中世、特にルネサンスの時代には「自然」naturaという言葉が段々重要性を増してくる。自然とは森羅万象である。人間が手をつける以前の現実全体。星々、地球、植動物、人間も。その全体は、深みのあるもの、有力なもの、素晴らしいものとして経験され、提供される充満性として知覚される。しかし、同時に認識され得る(されるべき)もの、取得され得る(されるべき)もの、積極的に変え得る(変えるべき)ものとしても経験される。自然は認識と活動の対象と同時に、価値基準、認識と活動の価値基準ともなる。「自然」とは、正しいこと、健全、知恵深い、完全なるものである。逆に、「不自然」とは、虚偽的、逸脱、不健全、堕落したものとなる。
自然は全部理解されているわけではない。むしろ、不可思議なことは多いが、究極的なものという性格を持つようになる。自然の彼方に遡ることはできない。原理である。「自然」といえば、それ以上は問われない。
人間は自然の産物ではあるが、同時に自然を観察する者、探求する者、取得する者、変える者として、自然と対面する。「不自然」と言えるのは人間だけである。自然から離れて、自然に帰る(戻す)のは人間の特権である。ここから、「主体」Subjectという考えが生まれた。主体という考えはどんどん大きくなる。近代となると、自然と主体は、二つの対極する究極のとなる。人間が自然を使って「文化」を作る。

以上の観点から、「天地創造」とはどういうことになるだろうか?おとぎ話に聞こえないだろうか。とりあえず、別の観点から世界と人間の関係をみてみよう。人間は世界の一断片だけではない。みて来たように、人間は世界と向き合っている。世界(Welt)に生きているというより、少なくとも部分的に自分が作った「環境」(Umwelt)に住んでいる。人間と環境は影響し合う間柄である。この環境は、さまざまな出来事としてとらえた場合は、すなわち人間の運命でもある(日本に生まれていたら80才まで生きる可能性は高い)。具体的なこの一個人に起こり得る出来事の総体の中に一定の形がある。すべてが一個人に起こるのではなく、一定の部分である。諸出来事の総体の中のパターンは、少なくとも部分的に一個人の影響力による。ただし、その影響力は全部必ずしも目に見えてくると限らない。本人にでさえ隠れている部分もあり、意識されない部分もある。ウムヴェルトとは、広い世界の中において当の本人に関係する事物や諸出来事で構成されている。当の本人の選択でもある。その選択は主に感覚による。この場合、感覚とは人間一般の感覚でもあり、当の本人のそれである。私が知覚しないものは、私の世界に入らない。物理的にだけ影響している。犬と比べれば人間は嗅覚音痴である。さらに、選択は本能に、意志力にもよる。関心の持てないものは、私にとっては存在しないに等しい。もっと正確に言えば、関心を持った場合と比べれば、より少なくあるいは異なった形で働いている。最後に、選択は本人の性格の特徴によって決まる。欲深い人間、従って深いところで不安定な人間の周囲にある物事の反応は、無欲と同時に強い自信を持った人間への反応とは異なる。たえず何かに追われる人間、たえず何かを求める人間の存在の仕方は、満足で落ち着いた人間の生き方とは異なった形になる。愛のある人と硬い心の持ち主、悪意のある人の環境はそれぞれ違う。正直でウソをつかない人とウソつきでずる賢い人の環境も異なる。おおらかで気前の良い人とケチで権力ばかりを求める人も違う。異なった才能も異なった環境を生み出す。器用な人と不器用な人もそうである。環境は道具の扱い方にかかっている部分は大きい場合、農業は頭に浮かんでくるが、楽器や球技もそうである、その環境は実り豊か、フレドリーで快適になったり、あるいはむしろ、手のつけにくい、無味乾燥で、敵意のあるものになったりする。道具を擬人化すべきではないが、人によってはピアノは、たんぼは、テニスのラケットは、相手になってくれる、協力してくれる。あるいはしてくれない。道具には意志はないが、本質的な法律、一定の真理を持っている。その働きは尊重されるのとされないのでは、助けとなったり、
あるいはむしろ破壊力となったりする。道具は、何かを「求めて」いると言えば、擬人化でおとぎ話となってしまう。が、事物は単なる対象ではない、それ自体として意味があり、環境の構造を決める方向性によって、その働きも変わってくる。


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