Wednesday, January 30, 2019

聖書の読み方 『福音の喜び』146-154から

聖書を理解しようとすると立ち止まって、「真理に対して敬虔の念(reverence for truth)」を実践しなければならない。それは、みことばはつねに私たちを超えること、そして私たちは次のような者だと気づいている謙虚な心です。私たちは「決して真理の支配者ではない。私たちは単なる保管者、伝達者、しもべにすぎない」。み言葉に対する敬虔な感嘆を込めた崇敬の態度が必要。私たちに語りたいと願う神への愛がなければ分からない。その愛ゆえに弟子の態度をもって祈る「主よ、お話し下さい。しもべは聞いております(サムエル上3・9)。聖書は文学書としても読めるが、文学書だけではない。「いのちのことば」として読まないと、「死に至る書」となってしまいます。マタイ福音書も指摘しているように、サタンでも聖書を読んで引用している。この点はよくよく注意していただきたい。
テキストの中心をなすメッセージの意味を適切に理解するためには、教会の伝えてきた聖書の教え全体に照らして理解する必要があります。次の点を考慮に入れることは、聖書解釈の重要な原則です。それは、一部分だけではなく聖書全体が、聖霊による霊感を受けたということ、そして、何らかの問題を抱えた民は、その豊かな経験に基づいて神の意志を理解しながら成長していったということです。こうしたりかいによって、同じ聖書の中で矛盾するほかの教えについて、誤った解釈や部分的な解釈を避けます。言語学や釈義上の知識も必要ですが、「いのちのことば」を自分自身のものとすることま必要。従順と祈りの心で近づくことも必要。聖書は剣のように、「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4・12)
たとえば、次のように尋ねてみるのはよいことです。「主よ、このテキストはわたしに何を語っているのですか。そのメッセージによって、わたしの生活の何を変えようとなさっているのですか。このテキストの何がわたしを煩わせるのでしょうか。どうしてここに興味が持てないのでしょうか」。あるいは、「なぜわたしはこのテキストが気に入ったのだろう。このみことばの、何がわたしを駆り立てるのだろう。何がわたしを引き付けるのだろう。なぜ吹き付けられるのだろう」。主に耳を傾けようとすると、しばしば誘惑に駆られます。つまり、単純にいらいらしたり、たまらなくなったり、耳や心を閉ざしたくなったりすることなどです。また、誰もが身に覚えのある誘惑は、そのテキストが示すのは他の人のことと考え、自分の生活に当てはめようとはしないというものです。テキストに特有のメッセージを骨抜きにしてしまうための口実を見付けることです。場合によっては、神から求められる決断があまりにも大きく感じられ、今の自分には受け止めきれないと思ってしまうこともあります。そのために多くの人はみことばに出会う喜びを失ってしまうのです。それは、父なる神よりも忍耐強いかたはなく、神よりも理解してくださり、待っていて下さるかたはないということを忘れてしまうことです。神はわたしたちを一歩先へ導こうといつも待ってくださいます。けれどもわたしたちの準備ができていないのに、完全なこたえを求めたりはしません。神は、わたしたちが誠実に自分の生活を見つめ、ありのままの姿を誠実にご自分に差し出すよう求めておられるだけです。
そして、もっと成長したいと願い、わたしたち自身がまだ手にしていないものを神に求めるようにと望んでおられるのです。

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