Monday, January 14, 2019

爆発の噴火口 ②

爆発の噴火口 ②

以上の状態の負い目は主に「教会」または「キリスト教界(Christendom)」(訳注、鎮護国家{例えば、聖徳太子の十七条憲法}を参照。)に負わせられる。が、この現象を歴史内的道徳的範囲内に還元しないでより深く考えれば、キリスト教はすでにその創始者からして、人類の未来のために地上的に満足いく計画の概要を描くことはできなかったし、そうする意思もなかった、と言うことを発見する。いずれにせよ、この点に関して、今でも次のように自問自答することは許されるであろう。すべてにもかかわらず、イエスとその真なる弟子から世界史の上に間接的に後退する光は、人類によって設計された救済プログラムのいかなるものよりも、もっと便利で啓蒙的ではないか、と。さらに、次のように自問自答することも許されるであろう。キリスト以後に考案された、未来に関するこれらの諸プログラムは皆、事実上キリストのアイデアに触発されたアイデアを、(相対的)地上の未来に投影しようとしてるではないか。ところが、キリストのアイデアは、神の絶対的な未来にも向けられているのである。
となると、キリストの到来によって世界史にできた爆発の噴火口は、その歴史の中心を規定づけるものとなるであろう。そして、キリストは我々の間に現れたことによって時代
(訳注:Aeon、永劫、年代区分の最大単位)の間にできた分水嶺(ぶんすいれい)は、彼は本当に時が満ちることにおいて、時が満ちるとともに来たしるしではないかと思われる。ところが、彼が現れたのは、神の無限的自由の地方から、「上から」(ヨハネ8・23; 3・13; 6・62)であり、そして最後に自分の存在をその「上」に超越させるためであるから、現れた時点は、歴史内在的な必然性を持っているかどうか、と言う質問に答えるのはきわめて難しいことである。ヘーゲルのように、歴史を合理的に再構築する者は、ためらうことなくその必然性を肯定する。その裏付けとして、ヘブライ文化の時代(eon)とギリシャ・ローマの時代の継続として、到来は予想されるべきであったという指摘をあげている。K・Löwithは、このような合理的な歴史再構築とそれに似たものを脱構築させるのに努力した(Weltgeschichte und Heilsgeschehen、1953参照)、それは、ハベルマスのPhilosophische-politische Profile, 1971においても批判されるように、「歴史的意識からの後退」として)。ところが、ここで「世界の歴史」、一義的に人間から構築されるものと、一義的に神から構造される「救済史」との間に区別を設けるのは避けられないであろう。後者は、"それ自身において"前者と同一の広がりを持たなければならないが、我々にとって明確に把握できるのは、旧約史によってカバーされる短時間の外にはありえない。旧約史においてこそ、そしてそこにおいてのみ、キリストの到来という出来事に収束する線を描くことができる。もちろん、収束する点を定めるのは、振り返ってみることにおいてのみである。つまり、受肉の「適切性(convenientia)」(訳注、トマス・アクイナスの神学大全を参照)が確認されてからである。さまざまな時代に現れた救済に対するさまざまな期待にもかかわらず、世界の歴史から出発しては、このような必然性は導き出すことはできない。旧約から、ギリシアとローマを媒介に、新訳への移行を説明しようとしたヘーゲルの天才的な試み、及び救済史を世界史に(逆の方向もありうる)還元しようとする試みは、失敗としか考えられない。ヘーゲルの真似を試みる今日の神学者についても同じことが言える。我々から言えるのは、キリストは存在して(いた)いるのは、世界の歴史全体にとって、繰り返すことのできない挑発である、と言うことだけである。それは、後の時代、遅い時代、恐らくはキリストの出来事の影響力に間接的にしか触れなかった大陸や文明についても同じことが言える。キリストは、再現できない挑発であるのは、それは歴史の流れのど真ん中にユートピア的超越の理想を描いたからだけではなく、それはすでにヘブライ文化が成し遂げた、その理想への到達可能性をも保証しているからである。それ故に、イエスのメッセージは、歴史内的に見ても、終末論的なものとして、克服できない。人類の大多数によって受け入れられても拒否されても、あるいは、反立脚の強制的な終末論によって抑制されても、克服できないのである。神と人類の間に展開されるドラマは、人類自身のうちに、反対したり、生きる意味の自家製のプロジェクトを支持して反論したりすることで展開するドラマは、キリストの終末論的挑発から見れば、すでに「エン ・クリスト」なのである。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」(使徒言行録1・8)届かなければならない彼のたよりの結果は、必ずしも、福音の前ですべての民族は改心するということではなく、少なくとも彼と直面せざるを得ない必然性である。

訳注:「エン・クリスト」
 パウロはその書簡の中でしばしば(70回以上)「エン・クリスト」という表現を用いている。「エン」というギリシャ語は、ほぼ英語の「イン」に相当する前置詞ですから、「エン・クリスト」は普通「キリストにあって」とか、「キリストにおいて」「キリストの内に」と訳される。新共同訳がこれを「キリストに結ばれて」と訳しているのは、分かりやすい訳だと言える。この句はパウロのキリスト告白の鍵となる句です。天地創造も救いもすべてが「エン・クリスト」にあるわけで、ユダヤ人も異邦人も、洗礼を受けた者も受けていないものも、とにかく「エン・クリスト」に存在している。

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