ページ109、キリスト教が「いかに神に近づくか」ということを宗教的な根源的な求めとするのに対して、日本の宗教性には、「いかに神に近づかないで済むか」というところがある。「あなたはこうすれば神に近づけます」というキリスト教のアプローチはそもそも理解されにくい。
〆鎮魂 (死者の魂をしずめる)参照 折口信夫の鎮魂論参照。
ページ110、マイノリティであるという、その存在の意味をもっと肯定的に受け止める必要があると思う。だから教会に人が来なくてもいいんだとか、小さいままでいいんだとか、そういう意味ではありませんが、本質的にキリスト教というのは、少数者の集団なんだ、そういう共同体なんだということを、もっとはっきり理解する必要がある。
〆ベネディクト16世のcreative minority参照
ページ111、マイノリティのままでいいよということではなく、今そうであるならばそれを生かしながら社会を変えていくという性質をキリスト教というのは本来持っているんだということ。
ページ111-112、日本にキリスト教が伝えられたのは、西欧世界でキリスト教がもう圧倒的な社会的マジョリティになって1500年あまりも経ってからの話ですよね。神学的構造そのものがキリスト教世界を前提となっているキリスト教が日本に来た時に、その神学とか、それから礼拝のかたちもそうだが、日本のキリスト教徒たちは必然的に、自分たちが社会的マジョリティではないという劣等感を抱かざるをえなかった。
ページ125、今の日本ではすでにそこにいる人たちだけの教会になってしまっている面が非常に強くなってきている。…すでに教会員になっている人たちの既得権が中心というか、悪い意味での「自分たちの教会」という意識ですね。神から託された働きを意識しない、宣教も行わないという結果になれば、教会がそもそもそこにあることの意味が問われる。
ひとつの集団の形とか雰囲気ができあがってしまうと、なかなか変わらない、変わろうとしないものになっていく。その中にいる人たちにはそれがとてもいいことだが、外部から新しくやってくる人たちにとって非常に高いハードルになってしまう。
ページ140、婦人会とか壮年会とかそういう組織があるけど、それが結束の絆であると同時に、限界というか、閉鎖的なものになってしまっている面がある。
ページ153、クリスチャンというアイデンティティが、自己紹介するとき、一般社会のなかでは出さない、出せない人もいる。
ページ168、もともと日本の教会は極端なマイノリティなわけですから、自分たちだけで十全な働きができるはずもないわけです。
ページ177、日本のキリスト教は退潮傾向に入ったという声を聞くことが増えてきた。こうした現象を目の前にして、こういう時代だからこそ、私たちは、今、自分たちがどういう状況のもとにあるのか、これまでの、そしてこれからの宣教や教会について、本気で考え抜くべき時に立っていると言える。
ページ178、二一世紀半ばに向かう時代にあって、イエス・キリストの福音に堅くたつと同時に、この時代のニーズと期待に応えることのできる教会と宣教とはいったいどういうものなのか、私たちの教会の本質、宣教の本質が問われていることに、今こそ思いを寄せたい。
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