Monday, December 03, 2012

Insight 392-393


トマス・デ・ヴィオ・カイエタヌス(Thomas de Vio Caietanus 1469 - 1534)は、スコトゥスの見解に満足しなかった。それは、スコトゥスがガンのヘンリクスの見解に満足しなかったのと同様である。同一の意味のない同一の名辞が役に立たなければ、同一の意味として思考の次元に限られたかのような同一の意味も役に立たない。したがって、カイエタヌスは、多くの内容の関数の統一性という理論を打ち出した。”ダブル”が、2と1、4と2、6と3、などなど、いずれの関係をも指示するように、”存在”も本質と実在のどのような比例も指示している。または、我々の言い方で、思考によって公式化されたものと、判断によってそれに加えられたものとの比例を表している。この立場では、存在の観念はいつも概念的な内容を含むが、それはどのような内容でもかまわない。さらに、現実態の存在は肯定する判断なしには知られうるものではないが、肯定は単なる肯定でも決してなければ、無限定の内容の肯定でもない。いつも一定の内容の肯定であり、肯定できる限定的な内、容なんであれ足りる。要するにカイエタヌスは、原子的概念的内容は、多様であり、ばらついていることを認めることができる。彼は、スコトゥスの見解、つまり共通の要素、”非無”、絶対的に普遍的な外延に対応する積極的な何かがあるとを否定できる。しかし、同時に彼は多くの内容の関数の統一性という理論でもって、”存在”という一つの名辞と一つの観念を持つことができるだけではなく、その観念は事実実在するどのようなものにも適用できる。(MARC, André. L'idée de l'être
chez Saint Thomas et dans la scolastique postérieure. Paris: Gabriel Beauchesne, 1933(Archives de philosophie).)
 
 次のように指摘できる。スコトゥスが、アリストテレスはそれから自由になれなかったパルメニデスとプラトン主義者の想定を支持しているのであれば、カイエタヌスが主たるアリストテレス的方向性を支持しているのである。ところが、その支持を超えていることによってのみそ、支持するに成功するのである。概念的内容は、可感的表象に発生する形相を把握する理解の行為の産物であれば、そのような内容はばらついて多様性であろうとあらかじめ期待できる。

アリストテレスは問いに答える。存在者とは何か? それは概念的内容を示すことによって答えるのではなく,存在者の基盤を,理解の一般的な対象において,示すことによってである。すなわち形相〔存在(者)とは形相である〕。形相は多数あるから,存在者の基盤は多種多様である。そこからさらに帰結されるのは,存在者の観念が一つであるべきなら,それは多くの内容の関数の統一体として一つなのである。

では一つの関数における変数は何か? その変数の一つは形相である。一見すると,他の候補者は質料である。しかしもし質料が変数として選ばれると,アリストテレスの非質料的な実体は存在者の万有のなかに含まれなくなってしまう。

アリストテレスの立場を維持して統合するには,第二の変数をつくる必要があり,それは反省的理解によって把握され、判断によって肯定されるところの実質的に無条件のものである。これこそ一般的な事例における実在であり,現実性(現実態)であり,事実であり,純粋形相もしくは現実に存在する存在者を構成するための形相と質料の合成体である。p.393


カイエタヌスの取った立場は才気にとんだものではあったが、欠点ももっている。それは、各々が本質と実在とで構成される具体的な存在者の寄せ集めを描いている。存在の観念の統一性〔の原理〕として、概念化されたものとそれが肯定されることとの関係ないし比例を提供している〔蛇を見て、それはマムシであるかそれとも水蛇かを識別するプロセス。前の自動車を追い越そうとするとき、距離とスピードとタイミングの具合を判断するとき〕。しかし、〔カイエタヌスの立場は〕その関係はどうやって一つの観念として我々の認識に出現するかを説明していない。そして、”存在”でもって我々は、個々の存在者だけではなくて、あらゆるもの、全体、万有(宇宙)を意味していることの説明として何のヒントもくれない。要するに、カイエタヌスは存在の観念そのものよりも、存在の観念の統一性を解明することに関心をよせていたようである。

 カイエタヌスの立脚点を徹底するために、彼の先生であった聖トマス・アクィナスにさかのぼる必要がある。アリストテレスもそうであったように、アクィナスにとって人間知性は可能態の全能の能力、potens omnia facere et fieri 〔すべてを作り、すべてになる能力〕であった。ところが、アクィナスの方が、アリストテレスにびっくりさせるような形でこの明言を活用できた。アクィナスが、存在の観念という「〔何かを〕知ろうとする意図」(intentio intendens)と、存在の概念という「知ろうとする意図を知ること」(intentio intenta)とを明示的に区別しなかったが、彼はこの区別の諸帰結について著しく意識していた。


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注:p. 19-20 参照。"The intention of being" p. 382参照。Spinozaのnatura naturans (能産的自然)とnatura naturata (所産的自然)をモデルとした表現であろう。フランス語でpensée pensée vs. pensée pensante。英語で thought, not as object, but as activity; ‘thought-thinked vs.thought-thinking.’。“
”The intrinsic objectivity of human cognitional activity is its intentionality.”(Cognitional Structure, Collected Works of B. Lonergan, vol. 4, p. 211参照)。前者は認識ではなく、単なる意図であり、可能な客観性。後者は、認識であり、現実の客観性。
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 第一に、彼は無制限に知ろうとする要求を認めていた。我々は神の存在を知るや否や、神の本性を知りたくなる。こうして、我々は本性でもって本性的に達成できないことを要求する(ST 1, q. 12; 1-2, q. 3, a. 8; SCG 3, cc. 25-63)。
 第二に、知性の無制限さから、知性の対象の決定が出てくる。知性が「すべて〔何でも〕になる能力」(potens omnia fieri)であるから、その対象は「存在者」(ens)である(ST 1, q. 79, a. 7
〔視力はすべての色を対象としているように、知る能力はすべての存在者を対象としている〕)。
 第三に、同じ理由から、完全に働く知性が無限の働きでなければならない。したがって、有限な知性は可能態でなければならない(ST 1, q. 79, a. 2; SCG 2, c. 98〔「光あれ!」というように神はものを知るときに、そのものは存在を得る。人間は光に対して知る可能性をもつことにとどまる〕)。
 第四に、存在はそれ自体として自然に我々によって知られ(SCG 2, c. 83, ¶31; see B. Lonergan, "The Concept of Verbum ...," Theological Studies 8, 1947, 43-44)、知られないことはありえない(De veritate, q. 11, a. 1, ad 3m)。


アビセンナはアリストテレスの能動知性を非物質的な分離した実体として解釈した。アクィナスはそれを我々に内在するものとして発見した。なぜなら、我々一人一人にある知性に光は、アリストテレスが能動知性に帰していた機能を担っているからだと論じた(SGC 2、c. 77、¶5)。アウグスティヌスはかつて真理に認識は外部ではなく、我々の内部から生じると提言していた。ただし、それは単に我々のうちではなく、物事の永遠の根拠ないし法則を調べるなんらかの照明のうちであるとした。アクィナスは、我々は物事の永遠の根拠ないし法則を調べるのは、一瞥(いちべつ)を投げることによってではなく、永遠の非創造的光への創造的参与である知性の光を内部に持つことによってであると解明した(ST 1, q. 84, a. 5)。


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〔石を空に向かって投げると、石は必ず下に向かって地に落下し、それ以上は動きません。空は石の本来の居場所ではないからです。風は地に落ちることはない、空を本来の居場所としている〕(M・リッチ、『天主実義』p.28)
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第五に、存在は自然に知られ、我々の知性は非創造的光への参与ではあるが、神の存在の妥当な存在論的論証はない(ST 1, q. 2, a. 1)。神の存在認識はアプリオリである。神は、すべてについてすべてを把握する理解の行為である。それに対して、我々は認識へ進むのは、”何ですか”という説明的問いを立て、”それはそうですか”という事実を問うことによってである。
 これらの立脚点において、カイエタヌスの類似理論の証拠だけでなく、その理論の見過ごしがち要素をも、簡単に見ることができる。

概念化と判断以前に、無制限な目標を持った知的合理的意識のダイナミックな方向性がある。この方向性は、問いを立て、それでもって認識を生み出す人間の能力である。人間の内に神的火花がある。神のと同種のものであるが、人間の認識は単なる可能態であり、現実態ではない。〔方向性は〕知的把握と合理的判断の同一の根であるように、把握された本質と肯定された実在の関係ないし比例の同一の根でもある。その目標は無制限であるように、本質と実在からなる単独の複合物だけではなく、万物、全体、無限をも扱っている。
 カイエタヌスがアリストテレスを超えることによって、アリストテレス的思想の主たる方向性を保持していると指摘された。これは、さらなる形而上学的議論を要することではあるが、アクィナスはどうやってアリストテレス的方向性を保持しているかを付け加えることができよう。 アリストテレスは存在者とは何かと問う。けれども、その”何”は実は隠れた”なぜ”である。この質問がほんとうに尋ねているのは,存在者の基盤(根拠 ground)についてである。そしてアリストテレスは実体的形相をそれぞれの存在者の内在的な原因として示すことによって答えた。しかし,アリストテレスの実体的形相は,プラトンのイデアのように固有の分離されたものではないから,アリストテレスの解答は存在者の統一性についての問題を提起することとなった。

もしアクィナスが同じ質問に答えるならば,かれの答えは存在者の根拠は神だ,というものであろう。神ご自身の存在は,自己説明的なそして必然的なものである。アリストテレス的な知る者と知られるものとが一致するという理論では,神の存在は神の理解と同一である。単一の理解という働きによって,神は神ご自身を理解する。そしてまた神ご自身の能力を,また神の能力によって生みだされるすべてを,理解する。したがって,神は,理解の行為(現実態)であって,すべてのものについてすべてのことを理解する理解の働きである。

神的な知性の働きの内容は,存在(者)の理念(イデア)である。そのため,われわれの知性は可能的な知性だというまさにこの理由で,人間の知性は間接的にのみ存在を定義する,つまり,なんであれ知的把握と理性的肯定によって知られるものとして,定義するのである。p.395

 また、カイエタヌスとスコトゥスの立場両方は、論理学者の分野のうちに取り扱うことができる。その分野を超えてそのダイナミックな基盤を求めることによって、カイエタヌスの比例の根拠だけではなく、スコトゥスの最小限度の内容の根拠をも見つけることができる。いかなる概念的内容の共通点は何ですか?すべてが、無制限の目標に対する純粋な要求の意図によって支えられ、浸透されていることである。スコトゥス主義者の存在観念は、存在の浸透する意図と浸透された概念的内容とを区別することによって、達せられる。事例によって概念的内容は異なるが、すべての事例には期待し、包み、浸透する意図があり、それがすべての内容の共通因子であるとスコトゥス主義者は主張する。存在への意図はすべての概念的内容の共通因子ではあっても、すべての内容を超えるダイナミックな要因でもある。このダイナミズムを無視しては、概念的内容の彼方にあるものを無にするだけではなく、存在への意図そのものを無にすることになる。

トマス・アクィナスは有名な小論文のなかでつぐのように述べている。「本質と言われるのは、存在者がそれ〔本質〕を通して、またそのうちに存在を持つという意味においてである」〔Essentia dicitur secundum quod per eam et in ea ens habet esse〕。存在者が実在をもつのは本質において,本質を通じてである。 したがって,本質を離れての存在者は,実在の可能性を離れた存在者である。それは実在しえない存在者だ。しかし実在しえないものは無であり,だから存在の観念は本質を離れては無の観念になる。p.396






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