Tuesday, May 29, 2012

トマス・アクィナスにおけるANALOGIA理解について


キリスト教文化研究所紀要・2006年度投稿

トマス・アクィナスにおけるANALOGIA理解について
 
                      ボナツィ・アンドレア

ラテン語のANALOGIA(類比、類似、類推)は、ギリシア語のἀναλογία から、「(一定の)ロゴス(意義)に従って」、「つり合いのとれた」、「比例した」、「見合った」という意味の単語から来ている。特にアリストテレスの形而上学において、異なる種、異なる類のもの同士の一致の一種を述語するために利用される。また、アリストテレスの論理学において、同名同義的にも、同名異義的にも語れない概念を指している。

トマスにおけるANALOGIA
B. MONDIN, Dizionario enciclopedico del pensiero di san Tommaso D'Aquino, Edizioni Studio Domenicano, Bologna 1992; B. MONDIN, The Principle of Analogy in Protestant and Catholic Theology, Nijhof, 1963.

類比はトマスの哲学、神学においては一つの柱となっている。トマスは、analogiaのほかは、proportio, habitudo, similitudo, communitas, convenientia, praedicatio secundum prius et posterius という語を使っている。また、トマスはこの概念を周知のこととして、その理論について項目をたてて論じないが、事実上二通りにとらえている。
まず、論理学の概念として、同名同義性(univocitas)および同名異義性(aequivocitas)[1]と対比させている。また、形而上学においては、同種的一致および同類的一致と対比させている。種や類の異なるものどうしにおける一定のつながりを指している。例えば、被造物と神の間にはこのような類比的なつながりが認められる。

さまざまなアナロギア

1.     ”secundum intentionem tantum et non secundum esse” 「存在に従ってではなく、概念上のみ」。例:「健康的」は動物、薬、顔色、食べ物について述語されるが、本来(存在上)「健康」と言えるのは動物だけであって、薬は健康を取り戻す手段、顔色は健康の状態を示すしるし、食べ物は健康の状態を維持するにすぎない。
2.     “secundum esse et non secundum intentionem” 「概念に従ってではなく、存在上のみ」。例:「物体」というときの「体」という字は、天体についても語られる。
3.     “secundum intentionem et secundum esse” 「同時に概念と存在に従って」。例:「存在」は、実体(基体)と付帯性について語られる。
4.     “ad unum principium” 「一つの原理に従って」。例:「軍事の」は、さまざまなものについて語られる。
5.     “ad unum finem” 「一つの目的に従って」。例:「健康保険」というように、健康に向けられたものすべてについて語られる「健康」。
6.     “secundum diversas proportiones ad unum subjectum” 「一つの主体に対する異なった比例」。例:「絵は一つである」、「絵は古いものである」というときの「である」は、量と質といった異なる次元のものについて語られる。
7.     “secundum proportionem ad diversa subjecta” 「異なる主体に関する比例」。例:身体に対する視力の関係と、魂に対する知性の関係は比例している(例えば、「ヴィジョンを持っている」、「下見に行く」というとき)。
8.     “secundum proportionem” 「比例に従って」。例:六は三の倍として、二の倍である四に類比している。
9.     “secundum prius et posterius” 「先と後の(依存)関係に従って」。例:「健康」の場合は動物が先にあって(analogatum princeps)、他のものにはその性質はない場合もある。
10.  “per unius ad alterum”  「二つのものの間にその二つのうちの一方への秩序あるいは関係」。例えば、実体と付帯性、創造主と被造物。
11.  “duorum vel plurium ad unum”   「多くのものが何か一つのものへの関係を有すること」。例えば、健康。

B. Mondinによれば、類比の様々なタイプを四つの種類に分類できる。


哲学的、神学的価値

1.
Analogia attributionis
intrinsecae
内的属性の類比
 多
2.
extrinsecae
外的属性の類比
 無
3.
Analogia proportionalitatis
propriae
本来的比例の類比
 小
4.
metaphoricae
比喩的比例の類比
 無

類比と言語

言語の自然発生説によれば、最初に作られた語は擬声語(きゃあきゃあ、わんわん)、擬態語(にやにや、ふらふら、ゆっくり)、擬音語(さらさら、ざあざあ)である[2]。自然から直接に学んだこの語のほかに、人間が物事に任意な音をあてて区別してきたと思われる。ところが、物事の数は増えるのに対して、音の選択範囲は限られている。こういうわけで、人間が同じ音に新しい意味を持たせたと思われる。これは二つの方法に従って可能となる。第一に、古い語を組み合わせて新しい語を作るという方法。例えば、airplane, motorcar, television。この方法では、すでに存在している事物の特質のいくらかを新しい事物について語り、理解しやすくなると思われる。第二の方法では、古い事物と新しい事物の類似性に基づいて、古い語に新しい意味を持たせる。例えば、もともと牛車や馬車あるいは人力車でしかなかった「車」はいつのまにか「自動車」という意味を持つようになる。新しく発見された事物の命名にあたって人間がたいていまったく勝手な名称を当てるより、すでに意味のある語を選んでいる。こういう事実からして、名称は事物の本性(本質)のいくらかを反映していると主張する言語学者もいる。
哲学と神学の語彙も上記の二つの方法のどちらかによって得られたと思われる。精神世界を語たるため、我々は否応なしに感覚世界の経験から単語を借りるのである。こうして、我々は、「心の声」、「愛情のあたたかさ」、「性格の強さ」、「心の広さ」、「知性の鋭さ」などについて語っている。
ところが、第二の方法によって得られた語彙に関しては深刻な問題が生じる。それは、古い語に当てられた新しい意味と古い語の比喩的な使用とをどうやって区別できるか、という問題である。例えば、「電流」、「心の目」というときに、「流」と「目」は比喩的に使用されているか、それとも新たに当てられた意味なのであろうか。前者と後者を区別しなければ大変な思い違いが起こりうるのである。例えば、「The great bear is the brightest constellation in heaven”(「大熊は星空のもっとも明るい星座である」)というときのように、二つ以上の意味を担う単語は思い違い(コミュニケーションの遮断)の原因となりがちである。
さて、哲学と神学の語彙のすべては比喩にすぎないというべきであろうか。もう少し日常言語について考えてみよう。例えば、自動車を「車」というときに、我々は古い馬車との類似性(四輪の部分)を含めながらも、しかし現代的な意味での乗り物を強調するだろう。もちろん、20世紀初頭に最初に見られた自動車は限りなく馬車に近いものであっただろうから、類比的にその名が当てられたと思われる。だが時代が進むにつれて比較しにくくなるほど意味内容は違ってきたといえる。物理学において「原子」が発見されたとき、「ATOM」という呼び名があてられた。これは、古典ギリシア語にさかのぼる語で、「分割できない」という意味を持っているからだと思われる。ところが、「原子」が分割されうるという認識は現代物理学者の間では常識になっているのである。
要するに、自然科学や哲学、神学に使用される語彙は最初から類比に基づいているということがわかる。しかし、それはまったく任意的な使用ではなく、ある程度古い意味との関係を保つのである。

Copulaの使い方の違い

類比は言明(主語・述語・動詞)の形をとるとき、例えば、「彼は企業戦士である」、そこで、主語と述語をつなぐcopula(連結詞、連辞、繋辞)「である」(be動詞)の意味が決め手となる場合がある。なお、be動詞は「属性」を語ることと「存在」を語ること、二通りの働きがある。「あの動物はライオンである」というときに、繋辞は或る「存在者」の「存在性」を表示することになる。これは「内的属性」を指示するものである。つまり「ライオン性」は、第一義的に、形相的に、内的に、現実態として存在するのはこの動物である。
ところが、「アキレスはライオンである」というときに、同じ述語はホメロス文学の英雄アキレスについて、本来持っていない外的な属性(ライオン性)を語るのである。しかし繋辞は、アキレスがライオン「のように振舞う」という違った意味をもつようになる。
こうして、一般化して、外的属性の類比における類比性は述語からではなく、copulaの意味の変化からきているといえるのである。
これに対して、内的属性の類比においては、意味変化を蒙るのはcopulaではなく、述語である。例えば、「実体は存在(する)者である」(substance is being)、「神は存在(する)者である」(God is being)、「人間は存在(する)者である」(man is being)。これらの言明においては変化するのはcopulaではなく、「存在者」、あるいは「存在するもの」という述語である。

「属性」と「比例」

「属性」は“secundum prius et posterius” 「先と後の(依存)関係に従って」語られる。そこで、第一義的にある属性を必ず持っているものanalogatum princepsがあって、それに類比される他のものにはその性質はない場合もありうる。属性はanalogatum princepsにおいてのみ存在する場合は、「外的属性の類比」となる。属性は、すべての項目に存在する場合(例えば、神と被造物の善性)は、「内的属性の類比」となる。

「比例」は、それぞれの主体に適合する限りにおける事柄に対する関係は比べられる場合にある。ABの関係は、CDの関係に比べられる(A:BC:D)。例えば、日本の封建社会と武士の関係は、ヨーロッパの封建社会と騎士の関係とは、ある意味では似ている、あるいは同じである。
「いのちとアメーバの関係」、「いのちと人間の関係」、「いのちと神の関係」は、それぞれ異なっているが、ある意味では似ている。関係は実際にすべての主体に存在する場合は、本来的比例の類比となる。「犬性と猟犬の関係」、「犬性と大犬座(おおいぬざ)Canis Maior, Great Dog)の関係」、「犬性と”son of a bitch”の関係」というような場合は、比喩的比例の類比となる。

OMNE AGENS AGIT SIMILE SIBI

存在論的に言えば類比は因果性(作用因)に基づいている。因果関係は原因と結果の類似性をともなう。トマスはこの事実を”omne agens (omnis causa) agit simile sibi”(すべての作用者(作用因)は自らに似たものを作る)という原理で説明している。
ところが、トマスがこの原理にいくつかの制限をつけて、狭い意味でとらえている。
上記の作用因は:
(i)            causa per seでなければならない。音楽家は必ずしも音楽家を生むのではない。音楽家は人間を生むだろう。生殖に関して音楽家であることは、causa per accidensに過ぎないのである。
(ii)          causa principalisでなければならない。学生はレポートを書くときに万年筆を使うかもしれない。この場合はレポートの類似性は主原因である学生と関係するが、手段的原因(causa strumentalis)である万年筆とは関係しない。もっと詳しくいえば、結果は主原因からでる限りではそれに似ている。一方手段的原因からでるかぎりでは、それに似るようになる。
(iii)         複合原因に注意しなければならない。火の作用を受ける玉子は熱くなると同時にかたくなる。この場合は、火の似ているのは熱さだけである。かたさは玉子の質料の性質からきている。したがって、一般論として、類似性は作用の強さに比例していると同時に、作用を受ける側の受容力にも比例している。

「アクィナスはアナロギアを頻繁に用いている。特に被造物が創造者に語り掛けようとするとき、また創造者について語ろうとするときに、この方法を多く用いている。アクィナスの活動に先立つ1世紀間に、聖書の表現様式についての綿密な研究が進み、多様な言語現象の一つ一つを分析する方法が開発されていた。アクィナスはその成果を最大限に利用することができ、神学の領域でアナロギアを繊細を極めた方法で用いたのであった。その後、スコラ学者たちはこの問題についてのアクィナスの業績を分析整理してアナロギアの理論を構築しようとした。その際、アクィナスがアリストテレスに倣って『比例的アナロギア』と『帰属的アナロギア』とを明瞭に区別していたこともあって、この区別が特に強調された。しかしアクィナス自身は両者を時と場合に応じて使い分けていただけであって、特に理論というようなものは持っていなかった。アクィナスの著作からアナロギアに関する『教説』を引き出すようなことをすると、アナロギアの用法についてアクィナスが持っていた器用さを見失ってしまうことになるであろう。カエタヌス(14691543)に対する批判の要点もそこにあった。」(D. BURRELL、「アナロギア」、キリスト教神学事典、教文館、1995年、2829頁)

神についてどのように話すべきか

ヴィットゲンシュタインが言ったように、人間の言葉がコーヒーの特色ある香りを正確に表現できないなら、どうして神のような微妙なものについて語りうるのか。こうした問題提起に対する答えはまさに「類比の原理」と呼ばれるものである。神が世界を創造したという立場をとれば、神と世界との間の基本的な類似性がある。世界は神の存在の表現ということになる。芸術作品において作者の性格を読み取ることができるのと似ている。もちろん、被造物は神に似ていると言っても、神と同一であることにならない。
 例えば、「神は我々の父である」という表現を考えてみよう。アクィナスによれば、これは神が人間の父親に似ているという意味だと理解されるべきである。言い換えれば、神は父に類比的である。ある面では神は人間の父のようであり、他の面においてはそうではない。確かに類似しているところはある。神は人間の父親が子供に心を配るように我々にかかわるのである(マタイ7、911参照)。神は我々の存在の究極的な源であり、それはちょうど我々の父親が我々を存在させるのと同様である。神は人間の父親がするのと同じように我々に対して権力を行使する。しかし、全く似ていないところもある。例えば、神は人間ではない。また、人間には親二人が必要であっても、ふたりの神が必要であるということにならない。あるいはまた、神は男性であると考えるべきではない。そうではなくて、人間の父親について考えることが神について考える助けとなるということである。これは類比である。あらゆる類比がそうであるように、成り立たなくなるところがある。しかしながら、類比はなおも神について考える上で非常に役立つ。類比によって、有限世界の語彙やイメージを用いて、世界を超えているものについて生き生きとした仕方で記述できるようになる。それは、例えばアナログ時計によって、イメージしにくい時間の次元を空間の次元(文字盤)を通して、正確に表現できるようになるのと同じである。
 「神は愛である」というときに、我々は我々自身の愛する能力のことを言っているのであり、この愛が神においては完全であるということを確かめ、想像するのである。神の愛を人間の愛の水準に引き下ろすのではない。そうではなくて、ここに示されているのは、人間の愛が神の愛の表示であるということであり、この表示は一定の限界のもとで神の愛を写し出すのだということである。
 類比には限界がある。それ以上に先に推し進められないところがある。例えば、新約聖書はキリストが自分のいのちを罪びとのための「身代金」としてささげたと言っている。この類比は一体どういう意味なのであろうか。「身代金」という言葉の日常的な用法から出てくるのは三つの考え方である。1)解放。身代金は捕らえられている人を自由にするものである。誰かが誘拐されて、身代金が要求されたなら、その身代金を支払うことは解放につながる。2)支払い。身代金は、ある人を解放するために支払われるお金のことである。3)支払いを受ける者。身代金は、ふつう誰かを捕らえている人に、あるいは第三者に支払われる。これらの三つの考えが、こういうわけで罪びとのための「身代金」としてのキリストの死について語られることに含まれていると思われる。ところが、そのすべてが聖書のテキストにあると言えるであろうか。聖書はキリストの死と復活によって我々が罪と死の恐れとの虜の状態から解放されたと宣言している(ロマ8、21)。また、キリストの死は、我々の解放のために支払われた「値段」であると聖書は明白に言っている(1コリ6、20)。我々の解放のための「値」は高かった。
 この二点は、「購い」という概念にも対応している。しかし、第三の側面は新約聖書においてはどこを見ても見当たらないのである。そこで、「身代金」、あるいは「贖い」という類比を解釈するにあたって、行過ぎた解釈にならないように注意する必要がある。これは、類比が過度に推し進められたと知るための方法である。
 また、聖書は神や救いについて語るときに複数の類比を用いている。それらの一つ一つが神理解のある側面に光を当てているのである。しかしながら、これらの類比は、相互作用の中にもある。例えば、神について語られる譬として、王、父、羊飼いという類比を見てみよう。これらはそれぞれに権威という概念につながるのであり、神理解にとって根本的に重要なものである。王というものは、しばしば勝手にふるまい、いつも臣下の最善に適っていると限らない。こうして、王としての神という類比は神がある種の暴君であるという誤解を生みかねないのである。ところが、聖書が父の子に対するやさしい同情と、羊の群のために尽くす良い羊飼いを挙げることによって、それは意図された意味ではないことが示される。神は、権威を穏やかに賢明に用いられる方であると。
 こういうわけでアクィナスの類比論は、現代でも重要な役割を果たしていると言える。第2ヴァティカン公会議の『神の啓示に関する教義憲章』(第13項)において、次のようにうたわれる。  

 「それゆえ、聖書の中には神の真理と聖性にひとときも抵触することなく、その永遠の知恵の驚くべき「へり下り」が現れており、そのため「わたしたちは言語を絶する神の優しさと、神がわたしたちの本性を気遣い配慮して、どれほど言葉を合わせてくださっているかを学ぶことができる」。(11) かつて永遠なる御父の御言葉が弱い人間性を受け取り、人間と同じようなものになられたように、神の言葉が人間の言語で表現され、人間の言葉と同じようなものにされているからである。 [3]

(11)   Ioannes Chrysostomus, In Gen.3,8 (hom.17,1):ヨアンネス・クリュソストムス『創世記注解』3,8(説教17,1): PG 53,134 . "Attemperatio" grece synkatabasis  」


カール・ラーナーの解釈 (人格存在としての神・神についての類比的な表現)

Karl RAHNER, Grundkurs des Glaubens Einführung in den Begriff des Christentums, Herder, 1976.  カール・ラーナー著、『キリスト教とは何か・現代カトリック神学基礎論』、百瀬文晃訳、エンデルレ書店、93頁以下。訳は一部変更されている。)

超越経験に関して、人はただそれに付随するものを通してしか語ることができない。したがって、われわれは常に、「一方では...他方では…」もしくは「...と同時に...も」というような独特の言い方を用いてこれを語らざるをえない。神についてのこのような話し方は、われわれが神への原初的かつ超越論的な志向性を顕現化し、主題化(テーマ)しようとするとき、どうしても付随的で事象的な諸概念、事象的な次元では相互に矛盾するような諸概念を用いて語らざるをえない、ということからくる。
われわれは、一方では、神は有限的な主体と、この主体が出会う世界内の諸現実の最内奥のものであり、これを最内奥から担うものであると言う。他方ではまた、神は絶対至高の自己所有においてすべてを支配する存在であり、われわれの実存の地平たる機能に尽きるものではない、と言う。そのとき、この「一方では...他方では...」という話し方は、弁証法的な二重の叙述であって、決してより高次な叙述によって概念的に総合されうるものではない。それは、この叙述がそれ自体原初的なものだからではなく、むしろ原初的た超越経験が主題化され、翻訳され、それ自体個別的な対象として、いわば事象的な次元での場を獲得しなげればならないからである。
以上に述べた神についての叙述は、すべて次のことを意味している。すたわち、一方では、神はあらゆる現実の最内奥からこれを担い、根拠づけるものでありながら、他方では、この担われ、根拠づけられた存在者において自らを告示し、またそこから名をもって呼ばれうる、ということである。さもなくば、根拠と根拠づけられた存在者との間の関係は、全く理解されえないであろう。しかるにこの根拠は、根拠としてのみ存在するのであって、決して根拠づけられた存在者と並んであらかじめ与えられている共通の体系に組み入れられるようたことはありえない。この根拠へのかかわりは人間にとってごく現実的であり、人間はこれに目覚めている。それは常に絶対的な神秘に向かって超越し、また絶対的な神秘に由来する人間のかかわりである。かくてこの神秘に関する叙述は、常に原初的な叙述であり、もはやわれわれ自身から左右されず、われわれの内省された叙述の世界内的な由来と、またこの叙述が本来目指している目的地、すなわち超越の行き着くべき目標との間に、いわば揺れ動いているものなのである。
この揺れ動きは、われわれが論理的に、同名同義的な肯定と同名異義的な否定との間の中間の位置に見いだすものではない。そうではたく、その揺れ動きは、もともと自己遂行における精神的な主体としてのわれわれ自身なのである。この揺れ動きを、われわれは伝統的た言葉を用いて「類比(アナロギア)」と呼ぶことができよう。ただし、この言葉の意味していることを、その本来の意味において把握しなげればならない。
さらば、われわれは「類比(アナロギア)」という言葉を、同名同義性と同名異義性との間の中間物のように理解してはならない。もし私が机を「机」と呼ぶならば、私は一つの同名同義的な概念を用いたのである。すなわち、私はこの概念を、それによって意味される家具に、同一の意味において適用したのである。なぜなら、私は個別的な相違を始めから度外視し、相違を捨象したからである。つまり、同名同義的な述語を正確に同意義において語るのである。ところが、たとえばドイツ語で、国家に支払うべき金額、すなわち税金を「シュトイアー」Steuerと呼ぶが、この同じジュトイアーという言葉は船を操縦する舵をも意味しうる。したがって、ジュトイアーという言葉は、この二つの場合において全く異なった同名異義的な意味を有している。この二つの概念は、われわれの理解にとって相互に何ら関係を持たぬものである。スコラ哲学においては、いわゆる「存在の類比」analogia entisが、しばしば同名同義性と同名異義性とのどちらでもなく、それを補足するものとして、その中間にあるものであるかのように教えられる。あたかも人が神について語らざるをえず、しかもその後に神について語る叙述の内容のもともとの理解が、神とあまり関係のない事柄に由来するがゆえに、本来神について語ることはできぬ、ということを知るに至り、それゆえに同名同義的でもなく、同名異義的でもない中間物である類比的な概念を造らねばならぬかのように。
しかし、それは正しくない。超越なるものは、事象的で同名同義的な個々の概念に対して、より原初的なものである。なぜならば、超越はわれわれの全精神的営みの無限の地平を覆い包むものであって、まさにそれを通しでわれわれが個々の経験の諸対象を相互に比較し、位置づけるところの条件であり、地平であり、すべてを担う根拠だからである。この精神の超越論的な営みは原初的なものであり、これが類比という仕方によって表現されるのである。
したがって類比(アナロギア)とは、明確な同名同義的概念と、これに対して、同じ音声的響きを持ちながら全く異なった二つの事柄を指し示す同名異義的な概念との間の、補足的で不正確な中間物のごとくに想像すれば、およそ見当はずれなのである。
むしろ、超越論的な経験は、あらゆる個々の対象の事象的認識が可能であるための条件なのであるから、その本質から言って、類比的な叙述こそ、およそわれわれの認識の最も原初的なものを意味するのである。これに対して同名異義的な叙述や同名同義的な叙述は、たとえそれがわれわれの学問や怪験の叙述との日常のかかわりから慣れ親しんでいるものであろうと、われわれが超越の目標に対して持つ原初的なかかわりの、ごく不完全な形態にしかすぎないのである。そしてこのより原初的だかかわりこそ、まさにわれわれが類比(アナロギア)と呼ぶものにほかならない。
すなわちそれは、事象的な出発点と、聖なる神秘、すなわち神の把握しがたさとの間に揺れ動いているものなのである。あるいは、われわれ自身が、聖なる神秘に基づく存在として、類比的に存在すると言ってもよいだろう。この聖なる神秘は、常にわれわれの認識から身を隠すと同時に、われわれ自身を構成するものであり、われわれ自身を、経験の場における事象的な、具体的に出会う個々の現実へと導く。そして逆に、われわれの出会う個々の現実は、われわれが神について知るための仲介であり、出発点なのである。






同名同義的な                       
言語使用                


同名異義的な
言語使用






派生                            派生 
                            





類比的認識
および言語






土台








欧文タイトル:

The Concept of Analogy in Thomas Aquinas




[1] 中世ラテン語のAequs (同じ)+ Vox(声)からなる。
[2] 英語のcuckoo, croak, swing, babble参照。
[3]和田幹男訳 http://mikio.wada.catholic.ne.jp/DEI_VRBM_2.html)。


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