Tuesday, May 29, 2012

西田幾多郎の『善の研究』について(要旨)


キリスト教文化研究所紀要・2001年

H・サイデル
西田幾多郎の『善の研究』について(要旨)
A・ボナツィ

本稿は、2000519日、本学で行われた哲学講演の講演者H・ザイデル先生から直接に投稿されたものである。恐らく、時間切れのため、講演会で話せなかった部分だと思われる。H・ザイデル(Horst Seidl)教授は、1938年にドイツのベルリン市で生まれ、1970年から1979年までミュンヘン大学(ドイツ)、1980年から1988年までニーメゲン大学(オランダ)で、哲学の講座を担当する経歴をもった先生である。1989年から現在に至るまでローマのラテラノ大学哲学部で古代哲学を担当している。
ザイデル先生の専攻は古代哲学であるが、講演で明かになったように日本の思想家(特に西田幾多郎と西谷啓治)についても積極的に研究している。今回の講演会のテーマとして、先生自身が「哲学と宗教の関係について」(On the Relation between Philosophy and Religion)を選ばれた。今回の投稿では、西田幾多郎の『善の研究』をとりあげ、西洋の伝統的な哲学の立脚点に立ちながら、西田を批判している。先生の持論を簡単にまとめてみると、このようなことになると思う。つまり、西田や西谷の宗教哲学はハイデガーやジェームスに影響されて、宗教と哲学をうまく区別出来なかった。
宗教的関心と哲学的(認識論的)関心が人間精神の異なる領域に属するのである。というのは、前者の場合は、神的存在者ないし聖なるものに対する、主体の正しい態度、聖なるものとの正しい関係が中心におかれる。その関係について反省し、認識を得るために考える場合関心は異なってくるし、異なる領域に入ってしまうからである。ザイデル氏によれば、西田がこの方法論的な大前提を、何の説明もなしに、見過ごしているということになる。この根本的な誤りから様々な問題が派生する。

「純粋経験」

西田の出発点である「純粋経験」(W・ジェームス参照)は、意識の中身として考えられている。けれども伝統的に西洋哲学では、意識とは存在や存在の善についての認識「と共に」(con+scientia, sunei,dhsij働くものである。従って、意識において一つと感知される主体と対象は、実際に(存在論的に)一つ「である」ということに必ずしもならないのである。神秘体験者は神と合一したと感じることは、二人は存在論的に一つであるということにならない。二つの存在論的レベル(創造者と被造物)があって、根本的に(本質的に)異なり、それぞれ違った認識能力(感覚的認識と理性的認識)を伴う。上層レベルにおいては理性が主体と対象を区別しないわけは、神は単なる対象ではなく、万物でもなく、万物ないしすべての経験の第一原因であり、意識をも起こす原因であるからである。
さらに、思考や意味付けを伴わない「純粋経験」は、まさに「経験主義」(Empirismus)的立場であり、単語の本来の意味を取り損ねている。ラテン語のex+perireは物との独特な関係(物を試す)を言う単語であり、日本語でさえ「経る」と「験す」という二つの概念でもって表現している。
純粋経験は「すべての精神的現象の原因」(ドイツ語訳31頁)であり、理性による概念的区別はそれらを豊かにするどころか、弱めるのである。西田はデカルト的二元論を克服するために、イギリスの経験主義を導入するが、宗教的体験を説明するためによりよい道がいくらでもあると思われる。物事とその(意識における)表出の違いは無視されているし、西洋哲学の根幹には、「存在の類比」を媒介に主体と対象は、両方「現存在者」(Seiendes)であるから結ばれる、ということがある。西田はこの伝統的な立場を知らないかのように見える。
次に主観主義の立場から西田はもっぱら主観の活動性に集中し、認識的活動と実践的活動を混同させて取り上げるのである。結果としていのちは実践に還元されてしまう(Aktivismus)。結局、ショーペンハウアー(Die Welt als Wille und Vorstellung, 1819)と同じように、存在の原理を意志とするプロテスタント的な「主意主義」に陥る。

思惟、意志、知的直観

西田においては思惟が経験主義的な捉え方の下で、感覚的認識に還元されている。J・ロックが「経験主義」の基礎付けとして使った名句、「すでに五感になかったもので、悟性に上るはずがない」(nihil est in intellectu, quod non prius fuerit in sensibus)に対して、ザイデル氏はライプニッツの語で持って答える、「悟性自体以外」(nisi intellectus ipse!!)。悟性が諸々の感覚の束、感覚的刺激への反応に過ぎないのであれば実体のないものになり、従って思考も実体のないものになりはしないか。
意志も、過去の純粋経験から生まれた願望(思い出)によって成り立ち、自己を究極目標とする、単なる「心理的現象」(W. Wundtの心理学の影響が認められる)として扱われる。意志から生まれる運動は、スピノザと同様に、「決定主義的に」(deterministisch)理解される。従って、(スピノザと同様に)自由意志が否定され、自由と感じられるのは意識の「体系的発展」のうちであって、外界に及ぶ実質の目標(善)はないのである。
直観によって、達せられる「超越」とは、西田の場合は(プラトン、アウグスティヌス以来の意味で)経験的世界を垂直的に越えるものではなく、単に水平的にその限界を出てより大きな統一を見るに過ぎない。

実在(意識現象は唯一の実在である)

西田の言う「日常意識」は、意識の外に存在する何かを捉えるのではなく、「万人によって」あたかも仮説として認められる認識しか受け取らない。ヘーゲルは「理性的なるものは実在であって、実在は必ず理性的なるものである」と言ったことに基づいて、西田は「実在は意識の活動」であり、「自己意識の絶え間ない統一」であると主張する。しかし、物と意識は「区別されない」という否定をするために、実は読者側には物と意識の区別という考えが前提に置く必要があるわけで、前提を置いた上で「そうではない」と主張されるのは、論理的誤りほかならない。否定を理解するために肯定を使用するのであれば、やはり肯定の方がより根源的であると言わざるをえない。ヘーゲルの「神学」でも似た誤りが見られる。神は最高の存在者でありながら、自己自身を発展させる絶え間ないプロセスにある。絶え間ないプロセスであれば、終わりがないわけで、最高という地点がないはずである。
アリストテレスのintellectus agensも絶えず活動する意識であるが、そこではintellectus in potentiaintellectus in actuという区別が設けられ(De anima III, 4-5参照)、前者は単なる「準備」であって、後者だけは真なる認識を得るのである。スピノザの時代から、この区別は曖昧になり、同時にnatura naturans(実在)とnatura naturata(可能体)であるスピノザの神は、同時に原因と結果という、矛盾をはらんだものとなる。


近代的経験主義に従う西田にとって、善とは意識内の現象である。従って、行為の道徳性(善)を決める当為(Sollen)は、主体の意図にあるとされ、外界に及ぶ行為は単なる結果である。行為は主体に反作用(遡及的働きRückwirkung)を及ぼすこと、つまり善なる行為によって人間はより善くなり得ること(徳)、そしてまたは徳は魂の姿勢ないし質を変えることができることは、全く無視されている。
善は当為によって定義されるのではなく、むしろ当為は善によって定義されるべきであると、ザイデル氏はアリストテレス的伝統(Ethica Nicomachea)の立場から反論する。行為は、命じられているから善いものになるのではなく、善いものとして認識された行為を命じるべきなのである。

宗教

ザイデル氏によれば、西田の宗教観は三つの側面を含んでいる。
1.     超個人的(集団的)自己(Selbst)ないし生命に基づき、主体は或る一つの絶対統一に吸収される。
2.     その絶対統一は、個人的自己の克服(捨てること)によってのみ達せられる。というのは、すべての区別的認識(主体・対象のような区別)は放棄されるからである。
3.     努力の結果、達せられる目標は主体の「神」ないし宇宙との融合である。
西田は、新約聖書を引用することによってキリスト教をもこのような宗教観に巻き込もうと試みる。ところが、こうした理論は宗教的体験そのものから出てくるのではなく、ある一つの一元論(Monismus)とも言うべき、観念論(ヘーゲルのWeltgeist参照)のようなイデオロギーの産物である。「十字架に付けられたキリスト」は、個人性と他人との区別の放棄を意味するものではない。むしろこの世的感覚に支配された生命を十字架に付け、霊に支配された命を得ることを意味するのである。「自由意志によって人間はほろび、恩寵によって神人はかれを自由にした」(Perierat homo per liberam voluntatem: venit Deus homo per gratiam liberatricem”, S. Augustinus, Sermo CLXXIV, 2)。個人の個性は悪ではない、神によって造られたものとして善である。ところが、「我々の神とは天地これに由りて(くらい)し万物これに由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ」(岩波文庫、217頁)と言うように、西田はキリスト教のことを、理神論(Deismus)という哲学と勘違いしている。確かに、神と人間、無限と有限を徒に対立させるべきではないが、短絡的にしかも内在主義的思想の枠組みの中で、その相違を止揚させるものでもないのである。

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