Tuesday, May 29, 2012

聖書の解釈と科学


神戸海星大学『研究紀要』第38号(1999)

聖書の解釈と科学
                 A・ボナツィ

I.    歴史的的展望

 J・B・ボシュエやG・B・ヴィコに見られるように、一七世紀から、聖書に関する解釈をめぐって解釈学の必要性を感じさせる引き金となったのは「歴史意識」の目覚めである。[1]「歴史意識」とは聖書その他の文献がすべてある過去の一時代に生きた人々によってその時代の何らかの特定の目的のために書かれているという理解であり、それらを正しく解釈するにはそれらの書かれた歴史的背景を知らなければならないという問題意識である。この問題意識は「様式史批評」 (Formgeschichte)、「史的批評」(Historical criticism)の方法の発達と共に、今では聖書解釈に携わる者が持つべき必要条件の一つとなっている。文献を中心において、「解釈する側」と「解釈される側」を区別してこの問題意識を分類するならば、聖書の解釈をめぐっての「歴史意識」は主に「解釈される側」の歴史性に関する問題意識であったと言える。
 しかし、また一方で、解釈学上のもう一つの問題である「解釈する側」の歴史性が歴史学の分野において問題として指摘され始めた。一七世紀以降、解釈学と並ぶ形で発達したのは科学としての歴史学であるが、歴史学の中核をなすものは歴史資料の解釈である。科学としての歴史学は、あるがままに歴史を理解するには、歴史を解釈する者が、すでに持っている偏見や前理解を払い去った状態、J・ロックの「白紙」(tabula rasa)の状態で、歴史の解釈にあたらなければならないという主張のもとで、「解釈される側」ではなく、「解釈する側」に関する問題を中心においたものである。なぜ、このように移行してきたかと問うならば、解釈という行為は解釈されるデータを軸に「解釈される側」と「解釈する側」がその題材に関する理解において一致することによって成り立つ行為だからであると言えよう。
 しかしまもなく、この立場が含んでいる大きな問題が指摘されることとなった。つまり、歴史学者がいくら偏見や、前理解を捨てたと言ったところで、その歴史学者が生きている時代を支配する考え方から抜け出すことは不可能である。[2]だれもが、なんらかの前提を持っている、しかしその前提がどのようなものかを明らかにしようと努めることによって、理解や解釈を始めようとするその最初から、間違った前提を少しづつ取り除くことが可能になるのである。理解・解釈に影響を及ぼす前提を制御する方法とは、つまり解釈の行為を行いつつ、そこに働いている前提はどのようなものかを明かにするよう、対象事項の内容に対して払う以上の注意を、自らが持つ前提の性質に対して向けるという方法である。
次に、解釈者の持つ前提を明るみに出した後に、どの前提が正しく、どの前提が訂正すべきかということを判断する「基準」について問題となる。そのためにここで解釈という行為の性質について自然科学と人文科学の研究対象とするものの違いを通じて述べる必要がある。

I,1 科学論の幾つかの基本概念について

 自然科学と人文科学の違いをその対象物に関して一言で述べるならば、自然科学の対象物(これらを「自然事項(natural things)」と呼ぶことにする)はその存在が人間の理解判断に依って成り立つものではない。一方、人文科学の対象物(「人間事項(human things)」と呼ぶことにする)は、そのほとんどが人間の理解と判断によって存在するようになったものであるということである。[3]
 二対一の割合で水素と酸素が化合して構成されている物質を我々は「水」と呼び、化学式では「H2O」と表しているが、水が存在するのは人間がその存在を望んだからではない。それは人間がその存在に気づく以前から存在しており、それが何であるかということについて人間が問いをかけその構成要素を理解するようになり、人間がその性質についての理解を得たからといって、その構成要素に変化が生じたわけではない。人間は水なしに生きられないにしても、水は人間の存在に頼る事なく存在している。
 一方、人文科学の対象とする物(例えば:学校、習慣、経済、文学など人間社会、あるいは人間生活に関わって存在するもの)はその存在を人間存在、特に人間の認識行為に基づいており、人間の理解、判断が発展、成長する、あるいは沈滞、誤解が起こるごとに発展、成長し、あるいは後退、消滅するという性質をもっている。
 「火」とは「存在するもののすべてがそれによって構成される四要素の一つ」としたアリストテレスに対して、十八世紀になってその誤りが指摘され、その変わりにフロギストン(phlogiston)の理論が生じた。[4]この理論によれば、火とは物体中にあるフロギストンという要素を抜き出す過程に起こる現象である。さらにこの理論の弱点がA.L.Lavoisierによって訂正され、この段階において、火とは酸化(oxydization)過程の一部であることが理解されるようになった。
 ここで指摘すべき点は、火についての「理解」が時代を経るに従ってに訂正され、発展していったにもかかわらず、火の「実体」には何の変化もなく、昔と同じように燃え続けてきたという事実である。これと異なり人間についての理解が異なると共にその性質そのものが変わってしまうのが人間事項である。例えば、同じ「宗教」という語句にに含まれる古代キリスト教と現代日本仏教が、ある程度の共通した性質をもっているとしても、なぜ異なり、個性を持っているのかということになれば、それは、「宗教」というものの存在の基礎を人間の認識においているからであろう。故に、宗教の役割、意味、働きなどの在り方について人間の理解に発展あるいは沈滞があれば、「宗教」にも発展(沈滞)が見られることになる。人間事項の持つこの性質こそが「歴史性」の基礎をなすものである。「解釈」という人間事項の在り方も、解釈する人間の理解、判断によって左右されるとなると、解釈の性質についての研究は人間認識の性質についての理解に基礎を求めなければならないことが明かである。そして、認識行為の構造を理解することによって、認識行為が古今東西すべての人間に共通する普遍的なものか否か明らかにされるのである。つまり、人間の理解は時と共に、また場所によって、絶えず変化していくから、人間の認識行為の性質や構造を問わなければならない。

I,2 人間認識に関する三つの問い

 人間認識に関する探求の歴史は長い。それはプラトンの時代に始まり他の様々な問いと絡み合いながら分化し発展してきた。今までに問われた認識に関する問いをその種類によって分類すると大きく三つに分けられるが、それらの問いをそれらが問われた時代の順にそってあげるならば、次のようになる:
①「認識行為によって我々は何を認識するのか」(古代)
②「何かを認識するということはそもそも可能であるか。もし可能ならば、認識したということをどうして知ることが出来るのか」(カント以来)          
③「一体、認識行為とはどのような成り立ちを持っているか」
この三番目の問いが実証可能な方法で問われるようになったのは今世紀半ばになってからである。[5]なぜ、「実証可能な方法で」という但し書きが付くのかと言えば、次のような理由による。内容からして、①と②の問いは③の問いへの答えを前提としており、その意味では③の問いは①の問いが問われた時からその問いを通じて問い続けられ、様々な答えが出されて来た。しかし、それらの答えはひとつの共通した弱点を持っていた。つまり、それぞれの答え、認識に関する理論の正しさを具体的データにおいて実証する方法を伴わなかったことである。ゆえに、認識に関する問題は新たなな転機を迎えることになった。
 ③の問いに実証的に答えることによって明らかにされた認識の性質とは次のようなものである。人間認識は大きく分けて二つの種類の問いへの答えによって構成される。それは、
1a「何(what)」、「なぜ(why)」などの疑問によって導かれる質問と、
1b(「何」「なぜ」という問いへの答えが)正しいか否か(Is it so?)という質問(判断)である。

I,3 記述(description)と説明(explanation

 人間の認識は質問を発することから始まるが、問われる質問はすべて初めから同じ種類、レベルで起こるわけではない。問いは一つひとつ孤立して突然に問われることはまれであり、ほとんどの場合、一つの問いは別のいくつかの問いを前提とし、同時にまた別の問いの前提となっており、時を経るにしたがってそれらは発展し、総合され、また同時に更に細かく分化していく。そして、質問の発展に応じて理解も発展していくが、人間がまず最初に問う質問は、
イ)自分の生活に関わる「もの(thing)」と「自分」との間の関係についてである。この問いが様々な角度から問われた後に現れてくるといが、
ロ)「もの」の現象の「理由」をなす、その「もの」を構成する要素間の関係とその「もの」と他の「もの」との関係に関する問いである。
前者の種類の問いに対する答えを「記述(description)」、後者の種類への答えを「説明(explanation)」として区別すれば、「記述を求める探求(descriptive inquiry)」は知的欲求のみではなく、それらの問いを発する人間の日常生活において必要となる、生物的、動物的、あるいは社会的欲求によって導かれる探求であり、そこに得られた理解の積み重ねとそれを共有することによって特定の文化、社会における「常識(common sense)」が構成される。
 他方、「説明を求める探求(explanatory inquiry)」は、純粋に知的探求のみに導かれて、日常生活で観察される現象のレベルを越えて、「なぜそのような現象が起こるのか」を問い、ものそれ自体の性質を理解しようとするものであり、この種類の探求によって「科学」が成立する。例を挙げてみよう。
 同じ部屋にある木材の椅子と金属の椅子に手を触れると、後者のほうが前者よりも冷たく「感じる」。これは、椅子と手の皮膚感覚を通しての我々の間の関係についての理解、つまり「記述」である。一方、「なぜ金属のほうが冷たいのか」と問うことによって、我々は「説明」の領域に入っていくのである。そして、「熱」とは微分方程式によって表される「温度」、「時間」、「位置」、「伝導性」、「密度」、「熱容量」の間の関係、つまり、それぞれに変化する要素(variable)の間の一定(invariant)の関係であることを把握することによって、説明的理解に達することができる。
 「記述」と違って「説明」は「もの」の具体性から抽象することによって、その「もの」の成り立ちと他の「もの」との関係をつかむがゆえに、その理解が正しいと判断される限りにおいて時と場所、個人、文化、社会の独自性を越えて有効であり、説明によってこそ異文化にまたがる認識や、記述のレベルでは全く関連がなく見える状況を関連づけることが可能になるのである。しかし、この二つの種類の認識はどちらが勝り、どちらが劣るというものではなく、それぞれが別の役割を担うことによって互いに補いあっている。一方で、科学は探求する対象についての日常生活における多くの記述を前提としてこそ可能となるものであるし、また他方では、限られた範囲での人間との関わりの理解にとどまる記述は科学的な理解によって補われる必要があるのである。

I,4実在(reality)」と「客観性(objectivity)」

 上に述べた認識に関する問い①、「認識行為によって我々は何を認識するのか」の答えは「実在」であるが、この問いは「認識行為」の存在を前提としているので、その答えの内容は「認識行為とはどのようなものか」という問いに対する答えによって左右される。ここで、今述べた認識行為の構造と性質についての理論を「立脚点(position)」と呼び、これと異なった理論を「反立脚点(counter-position)と呼ぶとし、立脚点と反立脚点が、どれほど差を生じさせるかをみてみたいと思う。
              立脚点に立てば、「実在」とは「有(being)」であり、「有」は知性による理解可能性の把握と、理性にかなった、つまり、正しい判断によってとらえられうるものの総体である。「実在」するものの一つの特徴は、それが、無条件の存在 (formally unconditioned)ではなく、条件付き(conditioned)であり、事実においてたまたまその条件が満たされたが故に存在するのであるという点にある。その条件が「事実上」(virtually)満たされていることを把握するのが「判断」の働きである。そして判断によって直接観察によってとらえた理解可能性が認識者に依存しているのではなく、認識者を超越して存在することが確かめられるのである。観察が起こるために必要となる「ものの表象(image)は五官の供給するデータに基づいているが、表象を貫いて直接観察がとらえ、反省的観察がその存在を確認する「理解可能性」は五官によってとらえられるものではない。故に、「実在」の基準は五官を超えて、正しい判断が行われるか否かという点にある。もし、認識行為とは、複数の異なった機能作用の総合作用などではなく、単に目の前にある対象をよくみつめることによってのみ成り立つとする理論(反立脚点)においてはとらえられるのは実在ではなく「物体」ということになる。
              立脚点に立てば、「もの(thing)」と「物体(body)」とは全く異なるものである。物体とは、知性と理性のレベルにおける質問を通じて認識される以前のものである。一方、「もの」は知性と理性のレベルにおける質問を通じて、ある一定のデータの総合関係の一体性(unity)、同一性(identity)と全体性(whole)を把握することによって認識されるものであり、「もの」の「ものたること(thinghood)」は五官によってとらえられるものではない。例えば、エレクトロンはどれほど高性能な顕微鏡を使ったとしても目に見えるものではない。その理解可能性と存在はエレクトロンとその他の「もの」との関係を理解し判断することによって認識されるものである。
"Our casual observation of phenomena seldom reveals the causal mechanisms;
indeed, careful scrutiny of the observable phenomena does not generally
reveal their presence and nature. So our effort at finding causal relations andcausal explanations often - if not always - take us beyond the realm of
observable phenomena. Such knowledge is empirical knowledge, and it      involves descriptive knowledge of the hidden mechanisms of the world but itdoes go beyond descriptive knowledge of the observable phenomena."[6]

  第②の問いが問題とするのは認識の客観性である。「客観性」とは主体と客体の間の関係であるが、立脚点に立てば、客観性は正しい判断の持つ絶対要素に基づき、いくつかの判断の組み合わせによって到達するものである。まず第一の判断は認識者自身の「自分は認識行為を自らの内に行っている主体である」という認識者としての自己同一性(identity)の判断である。第二の判断によってとらえるのは直接観察によって捉えられた理解可能性の実在である。そして、その二つの判断をもとに、「認識者である自分」と「その実在をとらえた対象」が異なった存在であるという三番目の判断によって主体と客体との間に絶対客観性が成り立つのである。[7]ところが、もし、認識行為の意味するものが対象を「ただ良く見つめる」という事であるなら、「客観性」とは認識者(主体)と認識対象(客体)の間に空間的距離があるか否か、或いは五官によって知覚されうるかがその基準となってしまう。

I,5 古典的科学から近代科学への変遷[8]

 過去四世紀の間に起こった自然科学の発達は大まかに分けて二つの段階を経て発達してきたと見る事が出来る。第一の段階は、コペルニクスから量子論革命(The Quantum Revolution)までであり、もう一つの段階はダーウィンの『種の起源』(1859)から現在までである。第一段階は自然科学における探求が、その性質において「記述」から「説明」に移行した段階であるが、この段階に置いては探求の多くが反立脚点に基づいており、また、科学とは「必然的な原因を捉える事に依って得る知識」[9]というアリストテレスの定義から抜け出ていない。
 第二段階は諸々の新しい発見によって自然科学が、意識されずとも、実際の研究行為の上で、アリストテレスの演繹論とその科学の定義の弱点が見いだされることによって新しい「科学」の定義が生まれ、認められるようになった。量子力学が紹介されるまで主流をしめてきた科学観によれば、この世界の事象は組織的に必然的に存在するものであり、その組織性は自然法則を理解することによってすべて解明できると考えられてきた。しかし、量子力学の発達に伴って、事象の「性質」とその「発生」とが区別され、この世界の事象の「発生」は組織的に必然的に起こるわけではなく、統計的に発生(emerge)するものであることが明らかにされてきた。つまり、ものごとの成り立ちと相互関係の説明は古典的法則を見いだすことによって得られるものであるが、その法則に沿って実際にものごとがどのような頻度で起こる、あるいは、存在するようになるかという点は古典的法則では理解されえず、それは統計的法則によるという意味である。そして、この世界の事象が古典的法則と統計的法則の相互補完によって明らかにされるという理解に伴って、この世界の存在自体が本質的に統計的であり、未知なるものの発生に向けて「開かれている」、未だ完成してはいないものであることが明らかになってきた。もちろん統計的法則の存在が意味するのはものごとの発生が理解不可能な気まぐれなものであるということではなく、逆に、組織的ではなく、統計的にしか捉えられない「ものごとの発生の偶発性」の究極的原因としての神のこの世界への絶えざる「かかわり」について自然科学の分野からの神についての新たな問いを開くことになったのである。[10]
近代科学においては古典的法則はすべて、この世界におけるものごとの発生が統計的に開かれたものであるために蓋然的(probable)であり[11]、また、なんらかの現象とそれを説明する可能性のある古典的法則との間に唯一絶対の関係が成り立たない限り、その認識には絶えず訂正の余地があり、「ほぼ確実」とは言い得ても「確実」とは言い得ない。従って現象は必然的にではなく、蓋然的に実証(verify)されるものである。[12]しかし、蓋然的にしか実証しえないということはそれについての認識がまったく得られないことを意味するわけではない。[13]
 科学はこの世界に絶えず内在する「原因」としてのアルケー(avrch,)を求めるものであるということは近代科学に当てはまらない。アルケーに関する問いは近代科学においては扱われていないのである。アリストテレスの四つの原因で言うなら、科学とは「始動因(efficient cause)」と「目的因(final cause)」と「形相因(formal cause)」を探るものであるが、実際の近代科学者の探求の対象は「形相因」のみである。例えば、物理学者が取り扱う問いは「地球を含めたこの)宇宙ではいったいどのようなことが起こっているのだろうか」という問いではあるが、「この宇宙の存在の目的は何か」とか「そもそもなぜこの宇宙は存在するようになったのか」という問いではない。[14]
このように、認識構造のどの部分を正しく理解し、どの部分の働きを見落として、あるいは誤解しているかによって認識、実在、客観性についての様々の異なった理論が現れてくる。その中の主なものを挙げれば、唯物論、論理的原子論、感覚論、ポジティビィズム、プラグマティズム、観念論、相対論、概念論等を見いだすことができる。これらの理論はより以前に現れた理論の弱点が契機になって、その弱点を補うべく、あるいは、長所をさらに発展させるべく問われるようになった新しい問いに答える形で現れてきたものであり、今後もそれらの弱点の訂正と長所の発展につながる問いが出され続けるはずである。つまり、一度に完璧な認識理論が現れてきたのではなく、一歩づつながら、反立脚点の訂正と立脚点の発展という積み重ねられた過程の一部として様々な理論が現れ、これからもその過程は続くであろうということである。[15]
聖書解釈もそれぞれの時代の認識論の影響を受けながら、飽くまで「目的」、あるいは物事の「なぜ」を問う学問でなければならない。

II. フレ-ゲにおける「意味と指示」の解釈学的適用について

 フレ-ゲは、固有名詞が表現する意味(Sinn)とそれが指示する対象(Bedeutung)とを区別し、意味によって指示対象の与えられ方が示される、言い換えれば意味を通じて指示対象の同定がなされる、と考えた。この考えは多くの研究者に受けいられ、後に多様な観点から一層洗練されようとしたものである。本稿の主張は、フレ-ゲの区別は論理学的もしくは科学的命題だけではなく、いかなる言述にも原則として妥当するということである。
対象指示の問題は、二つのレベルでとらえる事が出来ると思われる。すなわち意味論のレベルと解釈学のレベルである。前者は、対象指示は文を単位とする言述にのみ関係する。後者は文より大きい規模の言語現象を対象にする。言語分析の伝統において、言述理論を発展させたのは論理学者や認識論者である。彼らは時に文学批評に注意を払うことはあっても、言語学者達(ソシュ-ル等)や解釈学者(ディルタイ以降)の研究にはめったに関心を寄せない。しかし言語に関する研究は様々な局面に広がり、今や科学的言述と人文科学的研究を総括的に捉える時代になったと思われる。具体的にそれは、例えば、アングロ・サクソン系の意味論と言語学(linguistics)ないし解釈学的意味論をドッキングさせてることによって可能になると思う。

II,1 記号論と意味論

 フレ-ゲの有名な「文脈原理」("Nur im Zusammenhang eines Satzes bedeutet  ein Wort etwas")によると、文のみが意味と指示作用の区別を可能にする。全体として据えられた文のレベルにおいてのみ、言われることと、それについて言われているものとを区別できる。意味と指示の違いは、次のような方程式的な定義として表わすことができる。つまり、A=Bにおいて、AとBはそれぞれ異なる意味を持っているとすれば、もしも一方が他方に等しいと言うなら、同時に、両者は同一のものを指示する、ということになる。一つの指示に対して二つの意味がある場合(アレクサンドロ大王の師/プラトンの生徒)と、経験的に指定できる指示対象がない場合(地球から一番遠い物体)とを考えたら、指示作用と意味の相異を示せることがわかる。フレ-ゲが言うには、考えるべきことは「記号と、その意味と、その指示との間の規則的な関係」[16]である。この規則的な関係とは、「記号には一定の意味が対応し、意味には一定の指示が対応するのに対し、ただ一つの指示(唯一の対象)は一つ以上の記号を許容する。」[17]というようなものである。たとえば「〈宵の明星〉の指示と〈明けの明星〉の指示とは同じであろうが、それぞれの意味は異なるだろう。」(p.103)
 このように意味と指示の区別は日常言語の特徴であり、それが日常言語と完璧な記号体系とは異なるものであることを意味する。この区別は、記号論の内在性の原理(つまり記号は同じ体系内に他の記号と関係づけられ、ゆえに記号論においては、指示対象を取り損ねる問題はない)とは真向から対立する。記号は体系の内在性において、他の記号としか関係づけられないのに対し、日常言語の言述は事物に関わる。しかし、記号論と意味論の間のこの単純な対立からさらに進んでいかなくてはならない。記号と言述の二つの面は、ただ区別されるだけでなく、前者は後者の抽象である。記号が結局のところ、記号として意味を受け取るのは、言述における記号の〈用法〉のおかげなのである。記号を、記号がその代わりになるものと結びつける〈志向性 Intentionalität〉を、記号論における記号の〈用法〉から受け取るのでなかったら、記号が何かを表わす(代わりになる)ことをどうして知り得ようか。記号論は、〈記号世界〉という閉じられた領域にとどまっているというかぎり、記号論は意味論からの抽象であると言わざるをえない。[18]意味論は意味の内的構成と、対象指示の〈志向〉とを関係づけるものである。対象指示は、言語の〈自己超越〉のしるしである。言語は、文とともに自己自身から外に出ようとする。おそらく他のいかなる特質にもまして、この特質こそは、意味論性と記号論性の根本的相異を示すものである。記号論性は言語内関係しか知らない。意味論性のみが記号と、指示された事物との関係、結局は言語と現実世界の関係を求める。すなわち、言述のされるものは、述語行為を土台にして、その指示対象である言語外の現実を志向する。もちろん、対象の存在しない指示がいつもあり得るとしても、それは「意味と指示」の区別を弱めるものではない。なぜなら、対象をもたないこともまた指示の一つの特徴なのであり、それは指示対象の問題がつねに意味の問題によって開かれていることの証明であろう。

II,2 文全体の指示と単語の指示

 欧州大陸の言語学においても、フレ-ゲの区別に相当する、〈能記Signifiant〉と〈所記Signifié[19]という区別がある。しかし、フレ-ゲの区別はまずは単語(正確には、固有名詞)に適用されるべきのにたいして、言語学の区別は文全体の意味・指示(志向されるもの)にも適用されるのである。その根本的な相違は指摘できるのである。確かに、フレ-ゲが最初に定義したのは、固有名詞の指示対象であり、それは、「我々がその名で指定する対象そのもの」である。しかし、指示の観点から見た文全体も、それが〈指示〉する事態に対しては、固有名詞と同じような役割をはたす。「或る固有名(語、記号、記号の組合せ、表現)は、その意味を表現し、その外示的意味を表示または指示する」[20]。我々が或る固有名(たとえば:月)を口にするとき、我々は自分の表象(つまり特定の心的な出来事)について語るだけにとどまらない。「我々は意味だけに満足せず」(つまり、心的な出来事に還元できるような、理念的な対象にとどまらず)、「我々は指示対象を前提とする」(ibidem)。我々を(指示対象の存在などについて)誤らせるのは、まさにこの前提である。だが誤るのは「我々のことばや思考において暗黙に含意されている意図(Absicht)」が、指示対象を要求するからである。(p. 108)この意図とは、〈真理への欲求〉である。「我々を意味から指示対象へと駆り立てるものは、この真理の探求、真理への欲求である。」(p. 109)この真理への欲求は、固有名と同一視可能な役割をもつ文全体を活気づける。だが、フレ-ゲにとってあくまでも文が指示対象をもつのは、固有名を介してなのである。「なぜなら、述語が肯定されたり、否定されたりするのは、この名の指示についてなのであるから。もし指示を認めないならば、それに述語を賦与したりも拒否したりもできない。」(ibidem)したがって、言語学者とフレ-ゲの理論の間には重なる部分がある。フレ-ゲにとって、指示は固有名から命題全体に伝達される。その命題は指示対象に関連して、事態を指す固有名となる。言語学者にとって指示対象(所記)は文全体から語へ、連辞内の細分化によって伝達される。語はその用法によって意味論的価値をおび、そのとき語は指示対象をもち、具体的な状況において、語が対応する個別的な対象である(Benveniste)
 これら二つの考え方は、相補的である。つまり、固有名から命題に上昇するか、分析的分解によって、言明から語の意味論的単位に下降するか、の違いだけである。もし名の指示対象が考慮されると、それは〈対象〉と呼ばれ、もし文全体の指示対象が考慮されると、それは〈事態(état de choses)〉と呼ばれる。ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において、この指示対象の両極性を裏付けてくれる。彼は世界を物(Dinge)の総体ではなく、事実(Tatsachen)の総体と定義する(1.1)。さらに事実を「諸事態の存立」(das Bestehen von Sachverhalten)(2.0)と定義する。そして事態は諸対象(事物)の組合せ (eine Verbindung von Gegeständen, Sachen, Dingen)(2.0)と主張する。こうして、世界における対象=事態の対は、言語における名詞=文の対に相当する。
 まとめて言えば、言語学者達とともに、言明によって志向されるものは、記号論における「所記」とは違って、事物に、世界にかかわると認め、そしてさらにフレ-ゲにしたがって、いかなる文においても、その意味とその指示作用、つまり言語をこえた外部にむかって超越していく働きとを区別できると主張し得るであろう。日常言語では、理解は意味でとどまらないで、意味を通りこして対象指示にむかっていくのがフレ-ゲの「意味と指示」における重要な論旨である。

II,3 「発見の原理」

 さて、対象指示の理論は、文よりもずっと拡大した、いろいろな面で特殊的なものとしての〈テクスト〉(たとえば、文学作品や聖書)にあてはめるとき、違った理論が必要となってくる。意味論は文から始まり、文でおわるから、この問題は意味論よりも、解釈学に属するようになる。もちろんテクストは特殊的なものであり、その諸特性は言明や文の単位での理論の中で直接に扱えない。しかし、試みとしてフレ-ゲの指示概念を再解釈してこの問題にあてはめてみることもできると思われる。
 「我々は意味だけに満足せず、さらに指示を前提とする」と言うかわりに、{我々は作品の意味だけに満足せず、作品の世界を前提とする}と再定式化すれば十分に参考になる。ある作品を解釈するとは、作品の〈配置〉、〈ジャンル〉、〈文体〉から、つまり作品の構造(意味)から、作品が指示する世界を展開させることである。解釈学とは、まさに作品構造から作品の世界への移行を対象とする学問である。ただし、ここで私はロマン主義的な理論ではなくて、P・リク-ル[21]の基本理念にしたがって論じるつもりである。ロマン主義(シュライエルマッハやディルタイ)にとって解釈の最高の法則とは、著者の魂と読者の魂との「同属性」を探求することである。これに対して、作品構造から得られた意味(単文の意味と等しい)と作品の世界(文の指示に相当するような概念)との関係が問題になる。
 文学的言述は、多くの場合dénotationをもたず、connotationしかもたないので、一見してフレ-ゲの理論にあてはまらないと見える。フレ-ゲは、意味を指示の方へ進ませる真理への欲求を、科学の言明に対してははっきり認めているが、文学の言明に対しては拒否しているようである。フレ-ゲは叙事詩の例をあげて、「ユリシ-ス」(Ulysses)という固有名は、指示対象がない、と主張する。「命題の意味が起こす表象や感情のみが、我々の注意をひきつける。」(p.109)つまり、科学とは異なり、芸術の言述は、「指示」なき「意味」でとどまるようである。しかし、上に述べたフレ-ゲ理論の再定式を参考に次のように言える。つまり、文学作品の固有の意味作用によって、言述の指示作用が中断されるという条件のもとでのみ、世界を発見させる。言い換えれば、文学作品では、(第一階概念と同様に)第一階の指示(first-level reference)を中断させるおかげで、言述は第二階の指示を展開するのである。現実を「再記述」(redescription)する能力としての文学的言表にとって、字通りの指示の中断こそ、第二階指示というべき文学的指示能力が解放されるための条件である。M・ブラック[22]によると、「フィクションによる再記述」は、科学のモデルと同じ働きをし、それと同じように、現実に対する新しい発見を促す「発見の原理」(heuristic principle)である。




[1] REIMARUS H.S., Abhandlungen von den vornehmsten Wahreiten der natürliche Religion, 1754;   Apologie oder Schutzschrift für die vernünftiger Verehrer Gottes, 1767. SCHWEITZER A.,
Geschichte der leben-Jesu-Forschung, Tübingen 1913参照。 
[2] このように指摘したのは、歴史の分野ではCOLLINGWOOD R.G., The Idea of History, Oxford, 1946、哲学においてはHEIDEGGER M., Sein und Zeit, Tübingen, 1927; GADAMER H.G. Wahrheit
und Methode, Tübingen, 1960 である。
[3] LONERGAN B., Insight: A Study of Human Understanding, London, 1957参照。
[4] 「火」についての理解の発展の歴史に関してはCOHEN I.B., Revolution in Science, Harvard Univ., 1985; FABER E., The Evolution of Chemistry, N.Y., Ronald, 1969を参照。
[5] LONERGAN, op. cit.
[6] W.C.SALMON, Four decades of Scientific Explanation, Minnesota Studies in the
Philosophy of Science, Vol. XIII, 1991, p.133.
[7] 客観性には、絶対的要素のほかに規範的、経験的要素とがある。LONERGAN B.. Insight, pp.380-381参照。
[8] BUTTERFIELD H., The Origin of Modern Science 1300-1800 (1957), N.Y.: MacMillan, 1965; COHEN I.B., op. cit.; HEIM K., The Transfomation of the Scientific World View, London: SCM, 1953; LINSAY R.B.-MARGENAU H., Foundations of Phisics (1963), Woodbridge: Ox Bow, 1981参照。
[9] ARISTOTLE, Posterior Analytics, Book A, 2.
[10] BYRNE P.H., “God and the Statistical Universe”, in: Zigon, vol. 16/4, 1981, p. 346; LINDSAY-MARGENAU, op. cit. pp.188-252参照。
[11] 立脚点に立てば、ハイゼンバーグの「不確定原理(Uncertainty Principle)」の理論も、統計的法則に基づく「ものの発生の蓋然性」と「認識にまつわる蓋然性」の問題に含まれる。
[12] 「実証」(Verification)と「証明」(Proof)の違いは次のような仮言三段論法で表すことができる。証明は「もしAならばBである。然るにAである。故にBである」。実証は「もしAならばBである。然るにAである。故に、たぶんprobablyAである」、つまり「もし理論が正しければ、次のようなデータが得られるはずである。然るに、そのようなデータが得られた。故に、たぶんその理論は正しい」。なぜ、ここで「たぶん」という条件がつくのかと言えば、ABとは互いに関係していることが確認されても、BA以外の原因との関係は完璧に除外されないからである。Bという現象の起こる原因がA以外のものによる可能性が残るかぎり、AのみがBを説明する唯一絶対の原因であるとは言えない。しかし、研究の結果としてA以外のものによるBの原因の存在可能性が狭ければ狭いほど、「たぶん」の度合いは低くなり、「ほぼ確実」と言う判断を下せる。
[13] 「ものの発生」における蓋然性と「認識」における蓋然性の違いについては、LONERGAN B., op. cit. pp.58-69参照。
[14] 近年になって、物理学の中の自然界の力(今までGravitation, Electromagnetism, The Weak Nuclear Force, The Strong Nuclear Forceは確認されたが、もう一つの種類の力が存在するとおもわれている)について探究する中で宇宙発生の瞬間を再生する試みがなされているが、このような試みは再び、科学者をアルケーについての問いへ導く可能性がある。
[15] さらに、反立脚点に立てば、「記述」と「説明」の区別が困難になり、「記述」と「説明」が混乱すると「説明」の領域に想像の要素を混入してしまう危険が起こる。この世界が原因と結果の連続体であるという「連続体」をアリストテレスの意味で理解していればアリストテレスの「連続体」(sunech,j)はその究極のリフアランス・ポイントとして想像可能な絶対空間と絶対時間を前提としている。しかし、絶対空間と絶対時間というものの存在は未だに実証されておらず、さらに1905年にはアインシュタインが「特殊相対牲理論」によつて空間と時間の定義が想像によつて措けるものではなく、その理解可能性は五感と想像力によつて支配される記述の領域を越えなければ理解できないことを示すにいたった(PASACHOFF J. –KNUTTER M., Invitation to Physics, New York, 1981, pp.129-150)。現在「連続体」は微積分法によって含蓄的に定義されるものであり、その理解はその定義に意味を与える「関係」を把握しないかぎり不可能であり、そこには想像可能な要素の入る余地はないのである。
[16] FREGE G., Über Sinn und Bedeutung, “Zeitschrift für Philosophie und philosophisce Kritik”, 100, 1982: 仏訳 “Sens et dénotation”, Écrits logiques et philosophiques, Paris, éd. du Seuil, 1971, p.104.
[17] Ibidem, p.104
[18] U.ECO, A Theory of Semiotics, I.U.P., 1976. 池上嘉彦訳『記号論 Ⅰ』岩波現代選書、1985参照。
[19] BENVENISTE E., Problèmes de linguistique générale, Paris, Gallimard, 1966. 岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』みすず書房、1983; “La forme et le sens dans le language”, in: Le Language, Actes du XIII congrés des sociétés de la philosophie de langue française, Neuchâtel, 1967, p.27-40参照。
[20] G.FREGE, 前掲, p.107.
[21] La Métaphore vive, Seuil, 1975 (伊訳 La Metafora viva, Jaka Book, Milano, 1981. 久米博訳(抄)『生きた隠喩』 岩波現代選諸、1984参照)
[22] Max BLACK, Models and Methaphors, Ithaca, Cornell Univ.Press, 1962

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