Sunday, May 13, 2012

神の存在証明

神の存在証明 (認識論の道)

(Bonazzi A., A Case for Pluralism in a Relativistic Environment, in: Sugiharto B.-R. Voragen, eds., Overlapping
Territories, Asian Voices on Culture and Civilization, Cambridge Scholars Publishing, 2011, 68-80, 71-75からの訳)

主体は五感を通して物事(対象)を知覚する。こういうことから主体(S)と対象(O)の関係について何が言えるのか。まず、SはOではない、そしてOはSではないと言えるだろう。主体は対象に還元できないこと。そうでなければ、主体はゾウを見るときにゾウになってしまい、無という概念を考えるときに自分を無くしてしまうだろう。さらに、OもまたSに還元されえない。対象はユニコーンのように全く想像上のものでも、ユニコーンはキメラと異なるものであり、薄いながら存在性を持ち、完全な無ではない。経験主義者に「経験主義は間違っている」と攻めると、彼はそれを却下するだろう。こうやって、「経験主義は偽である」とその反対の命題「経験主義は真である」とは同じものではないことを証明し、思考の対象は無に還元できないことは証明される。従って、対象は存在と関係があり、その存在性はいかに稀薄であっても、その関係はなくならない。
もし主体と対象は絶対的に同一(O=S)であれば、主体は自分と違うものを知覚するときに自分を無くしてしまうことになる。従って、次のように推論できる。

(1)SとOは異なっており、そうでなければ考えることは不可能になる。言い換えれば、
(2)SとOの差異は、思考するための必要条件である。

SとOは絶対的に異なったものであろうか。つまり、SはOとは、あるいはOはSと、何の共通点もないほどに、異なるのか。「絶対(absolute)」という単語の意味の幅をフルに活用する。もしMという事柄が存在し、MはSと関連をもち、そしてMはOと別の関連をもつのであれば、SとOはMという共通点をもち、絶対的に異なったものではない。SとOは絶対的に異なるようになるためには、何の共通点もなく、それぞれはそれぞれの密封の「宇宙」に閉じ込められていなければならない。これは不条理である。SとOは絶対的に異なるものではなく、共通点・接点をもっている。
当議論は、SとOを認識論的観点から扱っているが、存在論的に拡大できる。二つの事柄は絶対的に異なることはありえない。もしありうるとすれば、それぞれが唯我論的状態(solipsism)におかれることになる。全く関係のないそれぞれの宇宙になる。我々の宇宙には物事はこんなに孤立し、離れているならば、宇宙自体成は立しえなくなり、無に帰るだろう。従って、

(3)SとOは絶対的に異なることは、形而上学的に不可能である。「形而上学的に不可能である」というのは、もしそのようなことが現
にあるならば、宇宙の消滅が起こる、ということを意味する。(3)から結果として得られるのは、
(4)SとOは、同様の(same)もの、同一のものである(しかし、これはA=Aのように、絶対的に同様ということとは違う)。
(5)SとOの同様性は
(5a)存在のために (絶対的差異は、宇宙をバラバラにするから)
(5b)考えるために (絶対的差異は認識的関連を破壊するから) 必要条件である。

項目(1)[SとOは異なる]と(4)[SとOは同様である]を合わせて考えると、SとOは形而上学的対立にあると言える。さて、ここから当を得た形而上学的帰納を行わなければならない。つまり、次の設問に進む。SとOの同様性の起源は何か?例えば、同様性は完全にSからきていると仮定しよう。それならば、Oの差異でさえSから派生し、SとOの差異はなくなる。しかし、これはOは必然的にSと異なる(1)と矛盾する。従って、SとOの同様性は完全にSから出てくることは不可能である。似たような推論で、完全にOからでてくるのも不可能である。しかし(3)のゆえになければならない。従って、

(6)SとOの同様性は、完全にSからも、Oからも派生しない。従って、
(7)SとOの同様性は、SからもOからも自立(超越)している。この結論は形而上学的帰納である。つまり、SとOの形而上学的対立の必要条件としての先在する現実の肯定。それは、認識行為とSとOの差異という現実の必要条件でもある。

注意深い読者はすでに気がついたが、この結論は、物質的身体的条件から離れたマインドという概念に強い疑問を投げかける。人間のマインドは絶対的観点から世界を見、好き勝手に価値を構成するものではない。なぜなら、主体の思考は絶対的なものではなく、SとOの同様性によって条件つけられているからである。同様性は両方からも派生しないので、両方からも自立している。従って、絶対的なマインドは存在しえない。もし、絶対的な思考が存在するならば、それは主体の中に自立した同様性を吸収しなければならないだろう。つまり、同様性への依存をなくさなければならない。しかし、それは主体と対象の差異を破壊し、項目(2)に従って、思考そのものの破壊を帰結する。
人間の認識行為から得られる確実な認識に戻ろう。結論(7)はSとOという認識的関連の中で得られたが、その妥当性は認識に限る理由はない。簡単に見てみよう。もしXとYは任意な有限現実を意味するなら、それらは絶対的に異なったものではありえない(宇宙の消滅を招くから、項目(3)参照)。従って、同様的なものでなければならない。その同様性は、Xのみからも、Yのみからも派生できない(差異をなくすから)。従って、両方が形而上学的対立の中で共存できるためには、両方から自立していなければならない。従って、(7)を強めて次の結論に至る。

(8)二つの有限現実の共通同様性の先在は、それらの形而上学的対立のために絶対的な必要条件である。

我々の実際の宇宙には有限現実はいっぱいある。それらの間にたくさんの形而上学的対立が成り立っている。Xは一つの有限現実だとしよう。Xは無数の形而上学的対立に入り、他のすべての有限現実とは異なっているが、絶対的に異なっているわけではない。他のそれぞれの現実と同様でもあり、従ってXとその他の各々の有限現実の前に先在する共通の同様性がなければならない。Xがすべての形而上学的対立に共通しているので、これらのすべての対立は絶対的に異なったものではありえない。ある程度の同様性ももっていなければならない。
でなければ、Xの有限な同一性は、矛盾的にそれぞれ絶対的に異なった部品に分解するだろう。従って、

(9)有限的な物事の間にある各々の、そしてすべての形而上学的対立の必要条件として、普遍的な同様性は先在しなければならない。

これを、有限な物事からなる我々の宇宙全体の必要条件であるから、「(唯一)全体(the Totality)」と呼ぶことにしよう。もし、二つの(唯一)全体があるとすれば、項目(8)のゆえに、この二つが対立するために、より高い共通の同様性が先在しなければならない。
このより高い同様性は、本当の全体となり、唯一の全体となるだろう。従って、

(10)全体は唯一であり、それを唯一全体と呼ぶには根拠がある。さらに、
(11)唯一全体は外在的(extrinsically)には無限である。もし、全体が別の外在的現実から制限を受けるなら、より高い共通的同様性の先在を伴い、全体の唯一性と矛盾する本当の全体となるだろう。さらに、唯一全体は個々の有限現実によって制約されないように、すべての有限現実に浸透する内包的なものであると付け加えることができる。だがしかし、それは「ダイナミズム」という概念の導入であり、別論の展開に譲るべきである。最後に、

(12)唯一全体は内在的(intrinsically)には有限である。存在するために全体に依存する有限現実たちは、全体の中から全体を物語るのである。この内在的物語り方は、内的制約であり、それを「内在的有限性(intrinsic finitude)」と呼ぼう。要するに、唯一全体は、内在的に有限であり、外在的には無限である。

項目(9)に基づいて、唯一全体が有限な物事の間にある形而上学的対立のために、先在する必要な普遍的共通性であり、そしてそれとして、どのような有限な物事に還元できない、という事実から、唯一全体は各々、そしてすべての有限現実と形而上学的対立にある、と帰結する。全体は、有限現実と同一であり、それらと異なったものである。この対立を解決するために、さらなる形而上学的帰納が必要になってくる。項目(6)と(7)に似た推論によって、全体と有限現実の同様性は、全体にもいかなる有限現実にも還元できない。その同様性は、全体からも各々の有限な物事から自立していなければならない。こうして、我々は形而上学的に、さらなる現実の必然的先在を帰納する。このさらなる現実は外在的に無限である。もし、外在的に有限であれば、自己と唯一全体との間の対立を解くことはできないことになり、そして確かに有限的な物事と全体の対立を解くことはできないことになるだろう。このさらなる現実は、内在的にも無限である。内在的に有限であれば、唯一全体性の構造の反復となり、全体の唯一性と矛盾してしまう(10)。このさらなる現実を「∞Ω」(アルファ・オメガ)と呼ぶことにしよう。そしてこう結論付けよう、

(13)「∞Ω」は内在的にも外在的にも無限である。よりシンプルに言い換えれば、「絶対的に無限」である。絶対的に無限であるから、
(14)「∞Ω」唯一である。なぜなら、反復があれば、それは無限と矛盾し、制約をつけることになるから。その上に、その内在的無
限性(絶対的単純性)のゆえに、(全体のように)それに参与する物事に自らの存在を分配しないことが帰結する。
(15)「∞Ω」は全存在と一致する。そして、
(16)全体を含めて、有限現実の存在は完全に「∞Ω」の内にある。全存在と「∞Ω」のこの一致(15)は、強意の意味(∞Ω=存
在)で理解すべきであり、永遠である。従って、
(17)「∞Ω」は永遠である。これは、「∞Ω」は存在しないのは不可能である、と言い換えることができる。(16)に基づいて、「∞Ω」は各々の、そしてすべての存在者の存在であり、存在性においては他のすべての現実とは異なったものではない、と言える。従って、「∞Ω」は他のすべての現実とは形而上学的対立という関係に立っていない。そして、ここからさらなる形而上学的帰納を行う必要はない。
(18)「∞Ω」は究極的現実であり、神である。


以上





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