Tuesday, January 29, 2013

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17 人中、14人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。5つ星のうち 1.0 クリスチャンが「こいつは何もわかってない」と感じる「キリスト教入門」 2012/10/18By masaki tomita
形式:新書|Amazon.co.jpで購入済み
この本は、キリスト教には良い入門書が無いという指摘から始まります。その理由は、キリスト教入門書はほとんどキリスト教の信者が書いているからだということです。神やイエスが唯一絶対に敬うべき方であるという観点から描いてしまうために、信者ではない読者の共感が得られにくいのだということなのです。 なぜ聖書に出てくる神やイエスが高飛車で威圧的な言葉遣いをするのか、といった翻訳の問題。選民思想的な日本人キリスト者の意識など、考えてみれば誰でも思い当たりそうな事ですが、案外クリスチャンが気づいていないネガティブな面がたくさん指摘されていますので、第1章に関しては、キリスト者も一読した方がよい本と思われます。

 第2章から始まる聖書に関する概説は、知識欲を満たすにはやや物足りず、また基本的な間違いも目立ちます。 処女懐胎が書かれているのはマタイ福音書だけ、という初歩的な間違い(38ページ)。 マタイ福音書とルカ福音書は、マタイ福音書に独自の伝承を加えたものという、おそらくワープロソフトの予測変換ミス(90ページ)。 また、「新訳聖書」という誤字もあり、このあたりは扶桑社の担当編集者の仕事にも問題があるのではないかと思われます(79ページ)。 第3章、第4章は、いわばキリスト教の揚げ足取りです。キリスト教は本当に一神教と言えるのか、などといった問いかけは一般向けの入門書には必要がないでしょう。むしろキリスト者自身に自分たちの宗教を顧みる材料として読めば、意味はあるのかも知れませんが。

 第5章から第6章の、キリスト教とマネジメントの関連についての考察は面白いと思います。 経営学の父と呼ばれるピータードラッカーが言うには、中世以前でマネジメントが行われていたのは、軍隊とカトリック教会だという話。 マネジメントで大切なのはマーケティングとイノベーションですが、キリスト教会がヨーロッパにおいて支配的な組織になったのは、マーケティングとイノベーションがあったからだということです。カトリック教会における修道会や公会議におけるイノベーションが、カトリック教会を世界規模にまで大きくしたという考察は面白い。 これは確かに、現在の日本のクリスチャンたちがほとんど考えていない事でしょうが、大事な視点だと思います。日本のキリスト教会はおそらくマネジメントに失敗しているのではなく、マネジメントそのものをしようという発想が無いかのように見えますから。 逆にマネジメント的な視点から伝道や宣教というものを考え直せば、もう少し日本でのキリスト教の勢いも変わってくるのではないかと思わせられました。

 クリスチャンは第8章の「キリスト教はどうして日本で受け入れられなかったのか」だけを読んでもいいかも知れません。 ここでなされている論述は、日本がいかに信徒数の拡大に失敗してきたかを、客観的に(ある意味傍観者的に)ながめた率直な意見です。キリスト者はここを読んで、自分たちの教会活動の問題点を見直せばよいでしょう。 読むうちに、ヨーロッパのキリスト教会は、ゲルマン諸部族を取り込むために、ゲルマンの民間信仰の要素を大幅に取り入れてキリスト教を大胆に改革していったのに、なぜ日本では欧米のキリスト教をそのままそのまま移植しようとしたのか? という疑問が自然にわいてくるように書いてあります。 そしてその一方で、日本人独自のキリスト教運動としての「無教会運動」に対する記述は前向きで、著者が無教会運動に肩入れしているようにさえ思えるほど紙数を割き、他の主流教派よりも詳述しています。 著者にとっては、「日本人であること」への思い入れが強いことが感じられます。 

 キリスト者が読んで最も衝撃を受けるのは、本書の最後の一言ではないでしょうか。 まとめると、要するに「欧米社会を知るためにはキリスト教を理解する事が重要だが、日本人は自分の信仰の拠り所をキリスト教に求めはしない。あくまでキリスト教の外側から客観的に理解するだけだ」ということです。 「この本が、日本人にとってキリスト教をよりよく理解するために役立つなら、これほど幸いなことはありません」と著者は書いていますが、この本を読んで分かったことを「理解した」としても、それはキリスト教を理解したことにはなりません。 この著者の作品に共通して言える事ですが、結局「客観的、客観的」と言いながら、外側から眺めた様子しか描けないのです。 しかし、宗教への信仰というものは、人の内面にまで入らないと、わからない事の方が多いのです。その宗教を信じている人の内面に触れ、共感するものがなければ、本当の意味で宗教を理解したとは言えないでしょう。

 事もあろうに、この著者は「日本人はキリスト教に自分の信仰の拠り所を求めるというわけではありません」と宣言してしまっています。たとえ少数派とはいえ、現実に日本人クリスチャンが日本社会の中で存在し、生きているわけですから、このような「日本人は」という言葉で少数者を無視するような発言は暴力行為と言ってもいいでしょう。 人が何に信仰の拠り所を求めるのか、そんな事は人それぞれが決める事であって、著者がそこまで踏み込むのは余計なお世話です。 そんな余計なお節介をする暇があったら、自分が研究している宗教の信仰の中身まで入り込み、共感し、その宗教の代弁者としてその宗教の外にいる人びとにも本当の意味で理解できるように弁証してみせるのが、宗教学者というものではないでしょうか。 確かに、キリスト者の書いたキリスト教入門書にろくなものがないのは事実です。しかし、当事者の気持ちを代弁することもできない「学者」に「入門書」が書けるでしょうか? 当事者でなくては書けないとまでは言いませんが、当事者の感覚や感情を共有しつつも、それを客観的な言葉に翻訳して、世に紹介するのが知的労働者の仕事というものではないでしょうか。 「ミイラ獲りがミイラになる」ことさえも恐れずに入り込み、ミイラになった自分を、ミイラになっていない人にわからせる文章を綴る。それくらいでないと、文筆業とは言えないのではないでしょうか。

 『キリスト教入門』というタイトルを掲げるのであれば、本当に日本人キリスト者の内面がわかるように解説するものであってほしいのですが、現実にはこの本の内容は、キリスト教に関心があってこの本を買い求めた人に対して、「あなたはキリスト教に入る必要はありませんよ」と門前払いを食わせるようなものです。 私ははっきりと言わせてもらいますが、このキリスト教『入門』は、キリスト者である自分自身が読んでみて、「こいつは全く何もわかってない」という感情を抱くような本でした。 『キリスト教評論』ならまだしも、この本の内容で『入門』というのは、どうでしょうか。キリスト教の信仰に共感を呼び、キリスト教に関する関心を高め、もっと知りたい、知る事で喜びを感じたいと思わせることが、入門書たるものではないかと私は思いますが、そういう事がこの本でできるかは、かなり疑問です。 もちろん、キリスト者自身がもっとわかりやすく親しみの持てる入門書を出せていないという現状への反省は必要ですが、門外漢にわかったような顔をされるのはいい迷惑です。コメント |
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