Saturday, November 14, 2015

“Insight(閃き)” Bernard Lonergan Introduction(序論)101005_1:16:50



“Insight(閃き)” Bernard Lonergan
Introduction(序論)101005_1:16:50
この著作の目標は論点としていくつかのグループにまとめることができる。まず最初の論点は、認識が存在するかしないかではなく、認識の本質を明確にすることである。第二は、無視するわけではないが、認識された内容は認識行為の判別式あるいは行列式(判別因子、決定因子を決める要素)を提供するだけの概略的で未完成なものとして扱うことである。(たとえば自然科学の内容、生物学の内容については認識が成り立つためことの検討材料として取り上げる程度である。)第三は、人間認識の抽象的な属性のリストを規定するためのものではなく、読者が自分の認識活動において内在し、反復される具体的なダイナミックな認識構造を自分のものにするための効果的な手助けをすることである。(読者はほとんど無意識にものごとを理解している。それを意識的にできるようにお手伝いすることである。)第四は、認識構造を自分のものにする過程についての内容である。それは徐々に提供されるものであり、構造全体がいきなり提示されることはなく、むしろ要素、関連性、選択肢、帰結、と徐々に組み立てられていく。第五は、組み立ての順序を支配しているのは論理学あるいは形而上学(超自然的・理念的認識学)で優先される抽象的な考察ではなく、むしろ教育学的な効果のある具体的な動機である。
したがって、本書のプログラムは具体性と実践性の両方の側面を持っている。そのプログラムを遂行することにした真意は、簡単な一般論という領域ではなく、難しい事実関係という領域の中に見出される。もし、ここでの歩みの終わりにおいて読者が事実関係というものについて確信が持てれば、それは大いなる成果と言えるであろう。しかし今この時点で私にできることは、私の信念にもとづいて私の意図を明確にすることぐらいである。
したがって、私は認識が存在するかしないかではなく、認識の本質・本性について問いかけたい。そのわけは我々の認識に二つの異なった種類のものがあるからである。それはデカルトの二元論として、「我思う故に我あり」と言われている疑いようのない外向性認識主体と、実体のある広がり(もの)とが並置されている。(デカルトの認識二元論は、「自分を知る」と「ものを知る」という二つの認識論で、自分が存在するということをどのように知ったか、外のものを知るというのをどのように知ったかを問わない絶対的外向性を前提としている)。これらの二つがそのあとの合理主義的、そして経験(実証)主義的哲学によって分離され、互いに疎遠なものとして遠ざけられてきた。次に、それらがカントの批判哲学によって再び引き合わされたが、しかし互いに相殺するものとされてしまった。このような主張がおおよそ事実に近いものとすれば、人間の認識に関する問題は、認識が存在するかどうかではなくて、その二つの異なった認識タイプは正確にはどういうことなのか、それらの関係はどうなっているのか、ということにある。それが関連のある問題であるならば、同じ程度に、核心・論点がとらえられていないという不幸な状況から出発することになる。いずれにせよ関連する問題は、達成するのが大変難しい探検的旅を始めることによってのみ解決することができる。その旅は、人間が知ることに成功したさまざまな領域、あるいは知ろうと努力したけれども失敗した領域を通り抜けることになる。
第二に、認識について記述する上で、その認識内容を無視ることはできない上に、その認識内容の広大さは百科事典でも間に合わないし、図書館を溢れさせてしまうほどである。その内容は、たとえ一部分をマスターするだけでも人の一生をかけなければならない程に難しいものである。(たとえば、物理学だけで一生かかる。)なお、それでもその内容はいまだに不完全であってさらなる追加を伴い、その内容は不適切で繰り返し見直されるものである。このことから、先ほど提案された探検的旅は単に難しいだけでなく不可能になるという結論になるのではないか。もし目下の探究のために認識のすべての範囲に親しんでいることが前提であれば、確かに、すくなくとも著者にとっては不可能である。けれども実際のところ、我々の第一の関心事は知られるもの(認識内容)ではなく知る(認識する)ことにあり、知られるものは大変広大であるが、知ることはそれが戦略的に選ばれた数々の事実において十分探究され、何回も繰り返されている。知られるものをマスターするのは難しいけれども、現代においては有能な専門家が知識のさまざまな分野の基礎的な要素を、真面目な読者のために選択することに努力し彼らに適切な形で提供することができている。最後に、知られるものは不完全で見直しされるものであるが、我々の関心事は未来における追加と見直しの源である認識者、知る者についてである。(知られるものと知るものとの区別。知る者はどのように知るようになるのかがロナガンの関心事である。)
何について言わないのかをはっきりと示さない本ほど読者を惑わせるものはない。そこで、以上から帰結されるところのいくつかを付け加えることは無駄ではないだろう。この本は基本的に、数学についての本ではなく、科学についての本でもなく、常識についての本でもない。そして形而上学(超自然的・理念的認識学)の本でもない。ある意味では認識についての本でさえない。この本は第一のレベルは、数学についての文書、科学についての文書、常識についての文書、形而上学(超自然的・理念的認識学)についての文書を含んでいること。第二レベルは、これらの文書の意義、それらの志向性と重要性は、数学,科学、常識、形而上学の断片を乗り超えてこそ、それらを知るためのダイナミックな認識構造を把握することができるということ。第三のレベルは、到達すべきダイナミックな認識構造とは、フィッテ(カントの弟子で、観念論者)思想の超越論的エゴでもなく、だれでも彼でも彼らの間に確認できる集団関係の抽象的なパターンということでもなく、むしろ個人的に自分自身が体験した構造(認識構造)を、そして自分自身の知的探究および閃きを、そして自分自身の批判的反省と判断、決意を自分のものとして会得することである。きわめて重大な問題は経験に基づくものであるということで、経験はそれが公然と行われるのではなく、個人的に非公式に行われる。経験は読者自身が自分自身の合理的な自己意識として明晰判明的に自分のものとすることで、それが合理的な自己意識として存在する(「ものを知る私」を知る、というロナガン独特の視点)。すべては決定的な成果次第である。それがすべてをリードし、それからすべてが続いて起こる。たとえその人の認識や雄弁さがどんなものであれ、たとえその人の論理的厳密さや説得力がどんなものであれ、その人があなたに代わって達成することはできない。行為はプライベートなものであるけれども、その行為の前提および結果は公に明らかにされる。自分自身を知る(「ものを知る自分」を知る)ことの二重性という引張り合いの中にいる自分自身を知るための招待を伝える長い文書のシリーズがあるかもしれない。この本が、そのような招待の意味を持つ文書のシリーズの中に数えられるのを願っている。そしてそのような招待が役に立つかどうか、あるいは役に立つのであれば受け入れられるどうかを、秘密のままに残す必要はない。冬の夕暮れと夏の真昼を間違うことが無いように、この本が自分を知る、ものを知る自分を知る、ということを明らかにするでしょう。
第三に、このほかのことは別として、この本の目標は個人的で決定的な行為への招きを発するものである。けれども行為の本性そのものが、行為自体において理解され、そして帰結が理解されることを要求する。一体全体、合理的な自己意識というのはどういうものなのか、その自己意識が自分自身をわがものにするという招きによって、どういうことが意味されるのか。その自分自身を所有するというのが何故にそれほどに決定的、偉大なものと言われるのか、などのこれらの質問はもっともなことであるが、その答えは簡単に出せるものではない。
ところが、その答えそのものが大事なのではなく、答えがどのように読まれるかが大事である。答えは言葉によって書くしかない。そして言葉は定義と関連性、分析と推論から始めるしかない。もしも読者が私に人の認識の抽象的属性のリストを打ち出さなければならないと主張し続けるならば、読者はその答えの肝心なところを見失うでしょう。この著作を読者が見たこともない地球の遠い地域を、あるいは読者が共有したことのないような違った神秘的な体験を記述しているかのように読むべきではありません。これはあくまで認識についての記述です。私が読者の一人一人に個人的なさまざまな体験を思い出させることはできないけれども、読者が自分でそうすることはできる。私の一般的な文章を思想という薄暗い世界から剥がして、生き生きとした人生の流れの中に貼り付けることができる。(ロナガンの一般論を自分の経験に当てはめることができる。)さらに数学や自然科学という分野においては、ある程度の厳密性でもって明晰な閃きのまさにその内容を描くことが可能である。けれども内容の描き方の肝心なところは、読者が他の人に次々と繰り返すための言葉や、そこから推論したり結論を導いたりするための用語や関連性を読者に提供することではない。むしろ、ここでの肝心なことは、他のことと同様に、自分のものにすることである。自分の知性の活動について発見すること、確認すること、馴染むことである。肝心なことが純粋な知的活動とほかの多様な経験的な関心事の間にある個人の信念でもって簡単に見分けられるようになる。経験的な関心事はそれらが知的作用に侵略し知的作用と合流し、ミックスして、知的作用を両面的で曖昧な主張にしてしまう。(そのことに注意することが必要である。)(57:10)
ところでここまで考えてくると、読者になる見込みのある多くの人は忠告するであろう。この最初の第1章から第5章に提供されている実例はその読者の関心領域には存しないだろう。知性と合理性が現代人の全てに共通する特徴である。ところが、数学と科学についての私の最初の集中的な論じ方は、自分の合理的な自己意識をわがものにするという私の出した招きの実際の範囲と比べておそらく狭すぎると見えるであろう。(この本のタイトルからして、この本は人文科学に属する分野だろうけど最初の五つの章が数学と自然科学では狭すぎるのではないか、哲学はどうなるのか、と疑問視するだろう。)
おそらく、このような事柄に私の決定を導いた動機についての説明が、私の進め方・手続きを説明するためだけではなく、本全体から利益を得るためにこの最初の5章を理解することがどれほど必要なことであるかを、読者一人ひとりが自分で判断するのに役に立つだろう。まず最初に、閃きという概念は、そして閃きの積み重ね、そしてより高い観点、そしてそれらの発見的意義、そして帰結、それらが明晰判明的に把握されるときだけでなく、同時に可能な限り自分自身の個人的な知的経験において判明されることが欠かせない。それらを識別する正確な本性は、自己肯定(私がものを知ったと言えること)の章において明確にしたい。なぜなら、明らかに分かるように、内省と知的経験を捉えることは、ごく普通で簡単なことであり、精密に検証されたときには無意味になってしまうことがあるからである。けれども、この意識のレベルについてのわれわれの自覚に対する記述が理解可能でなければならないとすれば、意識の一連のレベルを定義し、そしてレベルを特徴づけるための活動の一連のタイプを、厳密にしっかりと先行して把握しなければならない。次には、そのような活動の把握が明晰判明でなければならないとすると、最大の注意が献身的にはらわれた、そして最大の厳密性が達せられた知的努力の領域を好んで選ばなければならない。(数学と自然科学には厳密な手続きがあるのでしっかりとした正確な認識が得られる。それが第一章から五章までに選ばれた動機である)。したがってこの理由のために、私は閃きおよびその拡張についての記述を始めるにあたって、数学的そして科学的な実例でもって、初めなければならないと感じた。私は常識といわれる普通の知性の使い方の実例でも、本質的に同じような活動が説明できることを認める。同時に、常識が厳密に何を説明するのかを、常識でもって把握し記述することは不可能であると認めざるを得ない。(哲学で常識を説明することができるが、常識で哲学を説明できない。)
それでもなお更なる熟考が有効である。なぜなら、この私の企画が曖昧さを明らかにし、両義性を取り除くことを気遣っているからである。ヒッポの聖アウグスティヌスは、実体というものと物体・物質とは異なった意味合いを有している、ということを発見するために何年もかかったと言っている。(物体=実体ではない。)あるいはもっと身近な時点で説明すると、近代の科学はその探究の対象が、想像できる時空において想像できるプロセスを通して動く想像できる存在者ではない、ということを発見するために400年かかった。プラトンでさえ自分の対話編を通じて伝えようとしたこと、そしてアウグスチヌスでさえ晩年には、最終的にはプラトン主義者から学んだということ、それが古典的な香と、現代人のマインドに明らかに不適切な事柄を失った。アインシュタインとハイゼンベルクの以前にも、科学者によって描かれた世界は変な感じで、芸術家によって描かれていた世界や、常識の人々が住んでいる世界とは違っていた。けれども21世紀の物理学者に残された事柄としては、人間の母体的想像力につないでいたへその緒を切ることによってのみ、物理学者たちの科学が自分たちの対象につながる可能性を予想することが残された仕事であった。(101019 Start)
読者がすでに推測することができたように、現在の研究における数学と数学的物理学の妥当性は閃きの記述に明晰性と厳密性をもたらしてくれるだけではなく、古い機械論(あらゆる自然現象は物質とその作用によって説明できる、とする考え方)から相対性理論への移行、そして古い決定論(すべての出来事は、それ以前の出来事から必然的に導かれる結果である、とする考え方)から統計学的法則への移行という意義もある。もっと古い時代には自分の思考について把握しようとした人は、プラトンの対話編の助けを借りることができたし、もっと難解なレベルでは、ミスター・ギルソン(20世紀で有名なトマス主義者)が、古代、中世、そして近代に亘っての哲学における歴史的実験と呼んだものに求めることができた。ところが、今日では考える人にとって、ガリレオにみられる科学的原理と哲学的前提の融合で始まった補完的な歴史的実験が、厳密性と感動的なスケールの両面で提供されている。それが我々の時代では鋭い分離となっている。プラトンが彼の芸術的な対話編を自分自身のものにするという努力を通して伝えようと非常に努力をしたもの、そしてアウグスチヌスの知性が宗教的回心の激しい苦しみの中において徐々にしかマスターできなかったもの、そしてデカルトを普遍的懐疑(疑っている自分を知る)というものに導いたもの、そしてカントを純粋理性批判に取り組むことに駆り立てたもの、それらが一つの影を落とした。その影は精密科学の領域において、極めて重要とは言えないが、はるかに鋭く定義されたものである。明らかに、現代の人間の認識における二元論(ものを知る私、を知る)を解決する努力において、愚か者でも無視できないことであり、最も目立つとは言えないかもしれないが、少なくともこの問題に関して提供される証拠において最も正確な要素を無視することはできない。(なぜ、認識論において数学と科学から始めるかを述べている。)   (15:58)
ところが、私には科学的思考の方法を自分自身のものにすることを通して達成したい三つ目の目標がある。科学的思考は組織的・系統的であるゆえに、科学者はあれこれの科学的システムや結論にではなく、科学的方法そのものの妥当性を信じている。しかし、究極的には科学的方法の本性および根拠は、我々の探求の対象の反省的把握と専門的応用であり、はっきり言って、人間の認識活動において内在的で反復的に作用している力学的構造以外の何物でもない。したがって、経験主義的科学は組織的方法として発見のためのヒントをただ単に提供するだけでなく、我々が研究しようとしているより大きく、かつ多様式なダイナミズム(力動説)を吟味するための具体的な実例を提示している。それ故に、以下に示すように一見してバラバラに見える要素を、我々が一つの観点にまとめようとするのは、科学的方法が構造的で力学的な特性を有するからである。
       •      まだ知らなかった探求者の段階の者が、自分が達した真理をいかにして認めたのか、というプラトンの質問。(ソクラテスの質問を通して探求者が、「分かった」といったときにそれは何なのか。)(35:07)
       •      知性主義者(概念主義者ではない)が物質的条件から形・外形を抽象して、普遍的な概念を取り出すこと。
       •      アクイナスの神の本質を知ることへの本質的で、自然的欲求、という心理的兆候
       •      デカルトが彼の未完の著作「精神指導の規則」(確実な認識に至るための法則)において伝えようと奮闘した事柄
       •      カントが抱いたアプリオリ(先験的)な総合
       •      ヨゼフ・マレシャル(イエズス会)が幅広い労作-「形而上学の出発点」-の中で述べている知性の最終状態という事柄(トマス主義とカント主義を結婚させようとした試み、人間の知性は真理をとらえるためにあるという合目的性論を展開。)
私がここでエッセイを始めるにあたって、自分を認識者として自己同化することを助けるために、数学的物理学の吟味から始めようとした動機について、重要性を強調してきた。しかし、誇張しすぎないために補足すると、その数学的物理学の吟味の意義は、いわゆる論理学的というよりも心理学的なものである。(読者には、この本を論理学的な完璧なシステムとしてではなく、教育学的なもの、自分の教育的な歩みの助けとして読むことを期待している。)したがって、この著作は二つの編に分かれている。第1編では、閃きが一つの活動として、そしてほかの関連性のあるさまざまなパターンとして発生する事象として研究されている。第2編では、閃きが認識として、そして一定の条件もとで存在という世界を示す事象として研究されている。第1編は、私たちが知るという時に、そこで何が起こっているのか、という問いを取り上げている。第2編では、その認識が起こった時に、そこで何を知るのか、という問いに進んでいく。第1編は心理学上の課題を別にすれば、定義とその解説集であると言える。というのも、論理学的な視点については、第2編の最初(第11章)に、この著作全体で最初にあらわれる判断として自己主張の判断について示しているからである。ところが、否定できない事実として、人間の認識に二つの異なったタイプがあるという心理学上の課題がある。その二つのタイプが分化されずに混在し、この二つがはっきりと区別され、その区別の帰結がはっきりと打ち出されない限り、両面性の矛盾を抱えたままである。(ものを知る私と、その私を知るという認識が分化しないで、人間の中に二つの異なったタイプの認識が共存している。ものを知るということと、ものを知る私を知る、という二つの「知る」を分化する必要があり、そのためにロナガンについて行かなければならない。つまり教育を受ける必要がある。)個人の心理学的問題は、真である命題を主張し偽である命題を否定するだけの普通のやり方では解決することができない、ということは否定できない事実である。なぜなら、真である命題の本当の意味は思想によって常にそれが誤解される傾向にある。その真の命題の意味はアウグスティヌスでさえ何年も費やし、近代科学は数百年かけてもまだ発見していない。しかし、発見される必要があるものである。
この著作の目標を定めるために私たちが提案した5つの分岐点の最後の二つについて言わなければならない。すでに気づかれたように、我々は認識の在り方ではなく認識の性格に関心を持っており、そして知られるものではなく知ることの構造について関心があり、そして認識的プロセスの抽象的属性ではなく、自分自身のダイナミックで繰り返し働くところの認識活動の構造についての個人的把握に関心がある。さて、次の四つ目の分岐点が説明されるべきときが来た。それは自己同化(自分のものにすること)-自分自身を把握するという努力は一度きりのものではなく、本質的に、主体の中で主体的に発展するものであり、すべてのものの発展と同様、骨の折れるそして徐々に進む形においてのみ固まり、そして実りをもたらすものである。
さて、発展の進捗を手助けするという申し出は、発展全体が既に成就した事実とすれば、ばかげたことであろう。幾何学の先生が、任意の曲線の曲率に関して、n次元多様性理論にはユークリッド全体は含まれていると確信しているかもしれないとしても、先生はユークリッドを義務教育のプログラムから追い出して、その生徒がテンソール算法(非ユークリッド幾何学)から始めるべきである、と結論づけることはしない。と言うのも、ユークリドが特殊な場合であるとしても、一般論にアクセスを与えるところの一つの特殊な場合であるからである。幾何学全体、一般論について考えた時には、ユクリッドの公理に疑問がつくかもしれないけれども、効果的に教える先生は生徒におぼろげにしか理解できないことで迷わせるような疑問を与えることはしないだろう。先生の役割は、できる限り生徒を束ねてそして「ロバたちの橋」(ポンスasinorum)を渡らせることにあるのだから。(ロナガンの教えはユークリッドと同様の位置づけである。)
それと同じような形で、この著作は上から下にではなく、下から上にという形で書かれている。いずれも、理論整然とした既述の集合であり、定義、前提(必要条件)、結論の三つに分けることができる。しかし、そのことが一つの本の前表紙から後表紙まで、一つの筋の通った集合の既述であることを限らない。一つの本でも、書く観点は移動していくことがありうる。その場合は筋の通った既述の一つの集合ではなく、むしろ筋の通った既述と関連のあるものが連続する集合である。さらに明らかなように、発展を助けるためにデザインされた書物は観点を移動しながら書かざるを得ない。かなり長い期間の、そして難しい努力の最後にのみ獲得できるものを、読者が一挙に理解するということを仮定することはできない。それどころか、逆に最小限度の観点、最小限度の文脈から始めなければならない。最小限度のものを使って更なる質問を立て、その質問が観点を拡大させ、文脈を拡大させる。この拡大された観点および文脈から、深い問題を取り上げるのに必要な観点および文脈へと進んでいく。さらに探求するために参照できる基礎と事柄を変えていく。明らかにこのような手続きはほんの一回、二回繰り返されるだけではなく、現実のすべての側面を包括するところの普遍的観点と、完全に具体的な文脈に達するために必要な限り、何回も繰り返される。
ところがこのような手続きのみが著作の目標に適合するならば、その手続きの帰結を見過ごすべきではない、ということを一度だけ強調させていただきたい。スピノザがその時代において幾何学的スタイルと思われていた倫理学を書いたからといって、私がスピノザの跡を継ごうとしていると推論すべきではない。また、私がゲーデルの定理を聞いたことがない、という推論もしてほしくない。(ゲーデルは20世紀の中での有名な論理学者で、不完全性の定理、がある)さらに、私は観点を移動させることで、次々と文脈を超えて行こうとしていると推論してほしくない。このような推論をしてはいけないとするならば、推論の更なる帰結も前提にしてはならない。私自身の立脚点が演繹できる前提から、第一章の第一セクションにおいて、閃きという単語の意味を定義するために短い努力の記述があるが、それを自分の前提の全部であると考えてほしくない。(1:21:20)

“Insight(閃き):人間の理解に関する研究” Bernard Lonergan Preface(序文)



“Insight(閃き):人間の理解に関する研究” Bernard Lonergan
Preface(序文)

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PODCAST:

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理想的な探偵小説では、読者はすべてのヒント(手掛かり)が与えられているにもかかわらず犯人を言い当てることができない。読者はヒントが出てくるたびにその一つ一つに注意を向けるかもしれないが、謎を解くためには更に多くのヒントは必要ではない。謎を解くためには、いろいろなヒントをただ単に知っているとか、すべての事柄を単に記憶していることではなく、すべてのヒントをユニークで説明可能な見方でもって配置し、情報を意味ある形で組み立てるという全く異質の活動が必要なのである。それを理解していないがゆえに謎に包まれたままとなり、解けないだけである。
謎解きは、閃き(ロナガンの「Insight」の訳としてこの言葉を使用する。以下同じ)によって分かったことであるが、注目や注意とか、記憶に基づき行うものではなく、思わず沸き起こった認識(閃きによる認識)に基づいてなされるものである。閃きというのは秘められた直観といったものではなく、身近な出来事であり、普通の知性のある人には簡単に、かつ、しばしば起こるものである。ただし、愚か者には稀で、かつ、難しい出来事である。閃きそのものは単純で明白なものであり、特に注目すべきものでもない。しかし同時に、認識活動における閃きの作用は、探求、判断、という人間的な認識活動の諸条件、機能、およびその結果など認識活動全体において、基本的でかつ驚くべき統一を与える最も中心的なものである。事実、閃きを正しく理解することによって得られる価値は実に驚くべきものである。この著作が何について述べているかを、短く、かつ簡単な方法で説明することは大変難しい、と感じています。著者一人で、目次に示されているこれほど多様なトピックスを取り扱うことが可能なのか、著者がそれらを一つの著作本に纏めようとしたのはなぜなのか、また、この型破りな取り組みに成功したとしても、どのような良い成果が得られることを期待しているのか、などを説明するのも難しいと感じています。
しかし、序文では、このような質問に対し、少なくとも単純で簡易な答えだけは述べておこうと思う。まず初めに、閃きについての閃き、から始めたい。数学者たちは(数式の)構成要素の集まりに閃きを求め、科学者たちは現象データの範囲、幅に閃きを求める。一般的な常識人たちは具体的な状況、あるいは実践的な事柄に閃きを求める。しかし、われわれの関心事は、数学者と科学者と一般常識人のそれらの閃きを、一つの視点によって整理統合することを目指すものである。
本著の目次を見ると、そこにリストアップされたトピックスが表面上解釈の異なるものから構成されているように見えるが、実はそうではない。また、もしあなたが、数学者、科学者、あるいは常識人になりたくてこの著作を手に取るならば、直接的には何の助けも得られないであろう。なぜなら、われわれは数学者が理解しようとしている対象そのものに関心があるのではなく、数学者たちの理解という行為に関心があり、科学者たちが理解しようとしている対象ではなく、科学者たちの理解という行為に、そして常識人が対処しようとしている具体的な状況や問題ではなく、常識人たちの理解という行為に関心があり、それを研究対象としているからである。それは、物理学者は波の形を研究するが、空気と水の分析は化学者たちに任せるのと同様である。
それぞれのすべての理解という行為はある程度共通する類似性を有している。そして、それらの異なる分野において得られた理解という行為を基に、ひとつの論述、説明書に纏めることによって、完全でバランスのとれた見方ができるレベルに到達することができる。
理解するという行為の正確な本性は数学的な事例において最もよく分かる。理解するための(事実や状況などの)ダイナミックな前後関係については科学的方法による探究の中に最も良く見出すことができる。このダイナミックな前後関係は関係のない他への関心事によって乱され、その関心事とはさまざまな程度に常識の中に溶け込んでいるくだらない常識的方法や習慣から出てくるものである。それが各人の注意力に強く影響し、理解の邪魔をする。(だから、この邪魔するものを対象に研究するのが一番いい方法である。)
また一方、閃きは知性の活動のみならず、人間の知識を構成する要素でもある。閃きについての閃きは、ある意味では認識についての認識である(知ることを知る)。認識についての認識は哲学における基礎的な数々の問題に非常に関係しているように見える。そのことを、少し荒っぽい省略した形で、定義されない言葉と証拠の少ない議論によってではあるが、私はここで指摘しておきたい。
まず、第一に、閃きは、興味はあるが解決までは行き着かないテーマと、証拠があって明白に解決できるテーマを区別する。したがって、閃きはデカルトが言った明晰、かつ判明である観念(誰にも分かる観念)の起源である。その点において、閃きについての閃きがすべての明晰で判明な観念の、明晰で判明な起源である。(閃きのメカニズムをつかむことで、認識の程度が分かる。)
第二に、閃きは情報を整理する行為であり、閃きによってものごとの諸関連を把握する。そして、記号には記号に対応した意味があるのと同様に、諸関連には相互に関連づける働き(意味づけ)がある。したがって、閃きは意味の把握を含んでいる。閃きについての閃きが、意味ついての意味の把握を含んでいる。
第三には、カントとは少し違う意味で、あらゆる閃きが先験的(証明の必要がなく初めから分かっていること。アプリオリの訳としてこの言葉を使用する)でかつ総合的である。この先験的であるということは、単に感覚で得たもの(つまりデータ)や経験に基づく思想・意識を超えるものである、ということである。閃きは総合的で、データに説明的な統一と構成を与えることができる。よって、閃きについての閃きは、我々の認識活動の総合的で先験的な要素のすべてについての、総合的で先験的な論述である。
第四に、認識の諸分野について整理し統一することは一つの哲学である。まさに、いかなる閃きも統一し整理することができる。したがって、閃きについての閃きが数学者と科学者と常識人らの諸々の閃きを整理し統一させるだろう。よって、閃きについての閃きが一つの哲学を生み出す、と思われる。
第五に、だれでも、新たに認識ということを整理し統一するには、すでに認識されたものを整理し、統一するという行為が必要である。数学および自然科学そして常識において認識されているものを整理し統一することは一つの形而上学(超自然的・理念的認識学)である。したがって、閃きについての閃きが、我々のすべての認識を整理し統一するという意味で、一つの形而上学(超自然的・理念的認識学)であることを暗示している。
第六に、閃きについての閃きによって生まれる哲学および形而上学(超自然的・理念的認識学)は立証可能である。科学的閃きが、色・音・味・匂いといった普通の経験として現れ、かつ確認できるように、閃きについての閃きもまた、数学者たち、科学者たち、常識人たちの閃きの中に現れ、そして確認できる。したがって、閃きについての閃きが確認可能であるならば、そこから生まれる哲学と形而上学(超自然的・理念的認識学)もまた確認可能である。いいかえれば、理論科学の各々の主張が感覚的事実に関する主張であるとすれば、閃きから生まれる哲学と形而上学(超自然的・理念的認識学)の各々の主張は認知された事実に関するである。
第七に、閃きに関することでは、見落としの問題がある。閃きが注目すべき頻度で起こり、私心のない客観的な探究的活動であることもあれば、その反対に、定期的、かつほとんど組織的に起こる見落としによって、理解そのものからの逃避的活動となることもある。それ故、閃きについての閃きが見落としについての見落としとならないように、理解から逃避しようとする閃きについても考えておかなければならない。
第八に、理解からの逃避は、運の悪い人や悪質な人たちのみが犯してしまう例外的行為と見なされがちであるが、哲学的には、そのような精神病理的、道徳的、社会的、文化的表現を混合させるべきではなく、各々の知性および合理性の知的合理的使用能力が不完全にしか発展していないと考えるべきである。それは、単に完全な発展が無いだけであるが、そのことは結果に大なる影響を与える。なぜなら、理解からの逃避は、閃きの出現の安定したバランスを覆して、閃きを止めてしまう。それは、単に閃きが止められるという受動的な妨害だけではない。それは隠されひねくれたものであるが、才覚があり、独創的、効果的で驚くほどのもっともらしさを示す。それは広い多様な形を認めることを要求し、受け入れられない時には別のものに向かう。そして、表面的に形だけの意見として認めると、本当は不適当であるということを明らかにするために、選ばれた人たちが空しく数百年の歳月を費やさなければならないほどの、鋭くて、深い哲学を作り出してしまう。(例:ヒュームの閃きが間違っていることは判明しているが、それでも何百年も続いている。)
第九に、閃きについての閃きによって、他との違いを識別できる明確な概念を、他と区別して明確に作り出すことができる。そして、意味づけすることの意味を把握し、結果我々の先験的(アプリオリ)で総合的な認識の全体像を示し、数学、科学、常識の哲学的統一を図ることができ、それによって人間的探究のさまざまな分野において知り得たものを、一つの超物理学(形而上学)として論述することができる。それとは反対の理解から逃避するという閃きにおいても、概念・認識などについて、さまざな形の問題点を指摘できる。理解からの逃避という閃きは(1)表面的には明晰ではっきりとした概念に見えるけれども、実は曖昧な概念であり、(2)意味についての意味の見方は異常であり、(3)我々の認識における先験的(アプリオリ)で総合的な構成要素を捻じ曲げ、(4)哲学にはいろいろ多様なものがある、という間違った説明を展開し、(5)形而上学(超自然的・理念的認識学)の間違い、および反形而上学(感覚的・自然科学的認識学)の立脚点に関し誤解し続けている、などがある。
第十に、閃きについての閃きは、方法的、批判的、包括的な哲学を可能にする導き手のように思われる。それが包括的である理由は、すべての哲学の主張を一つの観点に包み込んでいるからである。それが批判的である理由は、無私的で利害関係がなく理解することのみを欲求している場合と、理解からの逃避行動の場合の結果の違いを識別するからである。それが方法論的である理由は、その認識が他の哲学者や形而上学者と同じ意見であることで正しさをアピールするという間違った方法ではなく、哲学者や形而上学者たちの認識方法と同じ形式・手法で、数学者・科学者・常識者たちと同じ閃き、方法、手続きに基づいていることである。
以上のことよりこの著作は、三つのレベルで展開していくことになる。一番目は人間の理解についての研究である。二番目は理解についての哲学的帰結を示す。三番目は理解からの逃避に反対するキャンペーンである。この三つのレベルは互いに関連しており、第一のレベルなしでは、2番目のレベルの基礎がなく、3番目の正確な意味もなくなるだろう。二番目のレベルがなければ、一番目のレベルが基本的な主張を持たなくなり、三番目のレベルに力強さがなくなるだろう。そして三番目なしには、二番目のレベルが信じられないものと見なされ、一番目は放置されるであろう。
たぶん、私はあまりにも広すぎるテーマを取り上げ過ぎである、といわれるだろう。しかし、広くならざるを得ない二つの理由がある。船を作るときと同じように、哲学を作るときにも最後まで行き着かなければならず、未完成で終わればそれまでの努力が無駄になる。さらに、理解からの逃避に反対する場合には中途半端なやり方では役に立たない。包括的な戦略のみが成功する方法である。中途半端な攻撃で理解からの逃避行為の閃きの元を残すと、反撃基地を無傷のまま残すことになり、すぐに反撃してくる。
もし許されるなら、私がしようとしている事柄は、さまざまな異なった分野の専門家の組織的な研究に寄らなければ、適切に遂行することは難しいということを、強く申し上げたい。閃きが発生する様々な分野について、私は有能ではない。しかし私は、素晴らしいタレントが集まることは大歓迎であり、そこに研究の励みとなるプロジェクト研究資金を配分することに協力は惜しまない。また私は研究の内容については、こだわっていない。私の目標は数学を進歩させることでもなければ、科学のさまざまな専門分野に貢献することでもない。むしろ、私の目標は理解のある人々が出会う共通の土俵を見つけることである。この共通の土俵は見えにくいということを知ってほしい。そのわけは数学者、科学者、常識者たちが、閃きという課題に関して明確な発言をしない時代だからである。そこで、まず初めに、残念ながら今だ探究されていない分野への探検から始める(草分け的存在になる)。様々な異なる分野の専門家たちが自分たちの閃きの存在とその意義を発見した後に、幾人かの人には私の意図が分かると思っている。そして、無知が私を惑わせ間違った言動を示したら、私の間違いを訂正し、彼らの豊かな認識でもって私が作ったダイナミックであるが形式的な構造の中身を充実してくれるであろう。
そのような期待が実現すれば、組織的な探究の細かい計画を立てるよりも前に、自発的な協力が始まるでしょう。
さて、ここで一つの質問が出てきそうですね。この本からどのような実用的価値が期待できるか、という質問です。その答えは予想されているよりも素直なものです。それは、閃きは理論的認識の始まりであるのみならず、すべての閃きは実用的で実践的なものであるからである。本当にありとあらゆる理に適った活動そのものです。そして、閃きについての閃きが、どれほど理に適った活動であるか、逆に見過しへの閃きがいかに無意味な活動であるかが明確になるでしょう。実用的であるためには理に適ったことをすること、そして非実用的とは理に適ったことに注意を払わないことである。すなわち、閃きについての閃きと、見過しへの閃きの両方が実践上の最大のキー(Key)である。
したがって閃きについての閃きが、積み重ねられた進歩の過程に光を当て、そして見えてきた具体的な状況が、またいくつかの閃きを引き起こす。その閃きがいくつかの政策にまとまり、そして行動計画へと進み、行動が現在の状況を変え、そして更なる閃きを起こさせる。そしてさらにより良い政策、より良いより効果的な行動計画を作らせる。したがってもし閃きが起こるならば、それは繰り返され、そして閃きが起こるたびに認識が発展し行動の幅が広がり、状況が良くなる。
同様に、見過しへの閃きが、積み重ねられた後退のプロセスを暴露するであろう。なぜなら、理解からの逃避は、具体的な状況が必要としている閃きをブロックするからである。それが理解の無い政策、不適切な行動計画へと導く。そして状況を悪化させ、(数々の閃きを必要とするが、その閃きがブロックされているので、)政策も理解の無い政策となり、行動が不適切なものとなる。最悪なことに、悪化している状況は、無批判的な偏見を正当化するために利用され事実上の証拠となる。そして、どんどん増えていく理解そのものが実践的生活に関係がないと看做される。人間活動は退廃的なルーチンに陥り、暴力が特権的な主導権を持つようになる。(歴史的事例には、ベルサイユ条約でドイツが侮辱され経済が悪くなり、その反動でナチスが勃興し、それが第二次世界大戦へとつながった。悪い閃きが積み重なると状況がどんどん悪化して、悪い状況を打開するには暴力によるしかない,ということにつながる。)
不幸なことに、この閃きと見過ごしが通常、対となっているように、進歩と後退もまた対となっている。私たちは真実を求めている(啓蒙主義的である)にもかかわらず、反啓蒙主義的とも言える実用主義に陥っている。私たちは情熱(非理性的なもの)によって古い悪を正そうとするが、それは新しい善を台無しにする。私たちは純粋より、妥協を選択し、何とか切り抜けることを望んでいる。しかし、知識の進歩が自然および人々を支配し始める。その支配力はあまりにも広く、かつ恐ろしいもので、無意識的で偏見的である善意に委ねることはできない。そこで、私たちは進歩と後退をはっきりと区別することを学ばなければならない。そして私たちは後退を認めることなく、進歩に励ましを与えなければならない。理解からの逃避をガンに知性を器官に見立てることができ、知性を壊すことなく理解からの逃避というガンを取り除く方法を学ばなければならない。
このことは大変デリケートでかつ深遠、大変実践的でかつ大いに切迫した問題であろう。本当に、一人ひとりの心が、自分の偏見性を意識するにはどうすればいいのか。その偏見性が世間一般に見られる理解からの逃避に起因しているとしたら、そしてそれが文明の組織全体によって支えられているとしたら、どうする? そのために利害関係のない無私的欲求に対し、偏見性を強めることなく、新しい力強さ、活力を与えるためには何ができるのか。理解からの逃避が作りだし拡大させ維持している理解し難く、かつ客観的なさまざまな状況を、人間知性がどのように扱うことができるのか。少なくとも正確に理解すべきものは何なのか、閃きを促進するダイナミックな意識の流れは何なのか、そして逃避を推し進めている閃きの障害物は何なのか、という質問から始めることができる。そして最後にはこのような問いかけに対する答えが、人間の思想、行動のガイダンスとなろう。
そろそろ終わりにしよう。次の導入部(introduction)において、本著の目標と構造についての正確な記述を行うことになるが、その前に、私は多方面の方々にお世話になったことへのお礼を手短に述べたい。当然ながら最初に、私に哲学の手ほどきをしてくださって以来28年間にわたり私に目標を与えてくれた先生方と、多くの作家に感謝のお礼を申し上げたい。私の探究が、あまりにも永く、あまりにも多く、自分自身の理解からの逃避との闘争であり、ほとんどがゆっくりとした、よく分からない遠回りをしたので、すべての方に私の心からの感謝を手短に正確に分かりやすく申し上げることは難しい。したがって、ここでは明白な後援者のみへの感謝で済ませることをお許しいただきたい。その方々はモントリオールのl'Immaculee-Conception(フランス語で「穢れ無き聖母」、そこで閃きに対する歴史的探究がなされた。トマスアクイナスのTheological Studies参照)のスタッフ、トロントのイエズス会の神学校(そこでこの本が書かれた)のスタッフ、Loyola CollegeのEric O'Connor 牧師(彼の数学的認識・科学的認識を援用することを許してくれた)、Joseph Wulftange牧師、Joseph Clark牧師、Norrise Clarke牧師、Frederick Crowe牧師、Frederick Coleston牧師、Andre Godin牧師の皆様です。親切にも彼らはさまざまな分野に及ぶ認識をもとに拝読いただき、そして励ましの意見や、節度ある批判をいただいた。お蔭で私の考えが全くの過ちには陥っていないことが確認できた。最後にFrederick Crowe牧師が退屈なインデックス作成を引き受けてくれたことに感謝申し上げます。
Thomas Aquinas.' Theological Studies 7 (1946) 349-92; 8 (1947) 35~79 404-44; 10 (1949) 3-40, 359-93. [In book form, Verbum: Word and  Idea in Aquinas, ed. David B. Burrell (Notre Dame: University of Notre  Darne Press, 1967) CWL 2.]

Saturday, October 31, 2015

天主実義・東洋文庫

https://drive.google.com/file/d/0B0rBqolru176Tm9PYm1hVU9XZjA/view?usp=sharing

天主 2 現代文




 https://drive.google.com/file/d/0B0rBqolru176aEhIb1Y4ZDNnQk0/view?usp=sharing

Bonazzi AndreaさんがDropboxで1件のファイルを共有しました 省略

こんにちは、
Dropbox内にある「天主実義・序と引・省略.pdf」へのリンクです:
https://www.dropbox.com/s/dl5fc8au63bhzat/%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%AE%9F%E7%BE%A9%E3%83%BB%E5%BA%8F%E3%81%A8%E5%BC%95%E3%83%BB%E7%9C%81%E7%95%A5.pdf?dl=0


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天主実義・序と引・省略.pdf



 https://drive.google.com/file/d/0B0rBqolru176dHRQNjFZU0lhYlE/view?usp=sharing

天主 1 漢文



https://drive.google.com/file/d/0B0rBqolru176MF9CcFFjVENHUEk/view?usp=sharing


坤輿萬國全圖
(こんよばんこくぜんず) 


Thursday, October 15, 2015

John Henry Newman
Sermon 1. Holiness Necessary for Future Blessedness 
"Holiness, without which no man shall see the Lord." Hebrews xii. 14.

Nay, I will venture to say more than this;—it is fearful, but it is right to say it;—that if we wished to imagine a punishment for an unholy, reprobate soul, we perhaps could not fancy a greater than to summon it to heaven. Heaven would be hell to an irreligious man. We know how unhappy we are apt to feel at present, when alone in the midst of strangers, or of men of different tastes and habits from ourselves. How miserable, for example, would it be to have to live in a foreign land, among a people whose faces we never saw before, and whose language we could not learn. And this is but a faint illustration of the loneliness of a man of earthly dispositions and tastes, thrust into the society of saints and angels. How forlorn would he wander through the courts of heaven! He would find no one like himself; he would see in every direction the marks {8} of God's holiness, and these would make him shudder. He would feel himself always in His presence. He could no longer turn his thoughts another way, as he does now, when conscience reproaches him. He would know that the Eternal Eye was ever upon him; and that Eye of holiness, which is joy and life to holy creatures, would seem to him an Eye of wrath and punishment. God cannot change His nature. Holy He must ever be. But while He is holy, no unholy soul can be happy in heaven. Fire does not inflame iron, but it inflames straw. It would cease to be fire if it did not. And so heaven itself would be fire to those, who would fain escape across the great gulf from the torments of hell. The finger of Lazarus would but increase their thirst. The very "heaven that is over their head" will be "brass" to them.

Thursday, October 08, 2015

一万の難点は一疑問にもならない  J. H. Newman


Blessed John Henry Newman wrote, "Ten thousand difficulties do not make one doubt." What he means is that there is a difference between a doubt and a difficulty. When we start to think through our Catholic faith we would be negligent or stupid not to have some problems. After all, the things we propose as true in the Catholic faith stretch the human mind and heart.


However, many people are worried that they are doubting their faith if they scratch their heads puzzled over our beliefs.

There is a difference between doubt and difficulty. The person with a difficulty says, "How can that be so?" whereas a person who doubts says, "That can't be so!"

The first statement expresses difficulty, but willingness to believe. The second statement expresses cynicism and unwillingness to submit to the Church's teachings. The person with difficulties says, "I believe, Lord; help my unbelief!" The person with doubts says, "I don't believe Lord, and don't bother to help my unbelief!"




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Friday, September 11, 2015

Difficult Terrain Ahead, Guide Recommended

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Difficult Terrain Ahead, Guide Recommended

lareviewofbooks.org - SHORTLY AFTER the appearance of A Secular Age in 2007, I suggested to its author, Charles Taylor, that he consider publishing an abbreviated version of the book. At a hefty 874 pages, I feared that his work might not reach the wide audience it deserved. And there was a precedent for this proposal: Taylor's large, eponymous book on Hegel, published in 1975, was followed four years later by his shorter Hegel and Modern Society. Yet my suggestion of a micro version of A Secular Age was greeted with a mixture of horror and disbelief. "Shorter?" asked Chuck incredulously. "Shorter? It needs to be longer!" Given the book's reception at even that early stage, I did understand his point. Many commentators had identified significant omissions in Taylor's tracing of the pathways in religious belief in the modern Western world from 1500 to now. Judaism, for example, plays a negligible role. Islam and European colonialism are likewise neglected. I could readily comprehend Taylor's insistence that his long book needed to be even longer, but my worry about the inverse correlation between page and readership number remained: how many people would buy or borrow, let alone read, a work of that size?

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Tuesday, August 04, 2015

Insight 723

Insight 723

L'Ecclésiaste montre que l'homme sans Dieu est dans l'ignorance de tout et dans un malheur inévitable. Car c'est être malheureux que de vouloir et ne pouvoir. Or il veut être heureux et assuré de quelque vérité, et cependant il ne peut ni savoir ni ne désirer point de savoir. Il ne peut même douter.

 「伝道の書」の教えるところ[注1]によれば、神を持たぬ人間は、何事も知らない状態にあり、どうしようもない不幸の中におちこんでいるのである。いったい、自分ではその気持ちがあるのに、できないというのは不幸なことである。ところで、人間は、幸福になりたいと思い、なんらかの真理の確信を持ちたいとねがっている。しかしながら、人間は知ることもできず、知りたいという望みを持たずにいることもできない。疑うことさえできない。(389番)

[注1]伝道の書8・17


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Monday, July 06, 2015

Voegelin View




As Pavel Florensky puts it in Ikonostasis, “. . . the spiritual world of the invisible is not some infinitely far off kingdom; instead, it everywhere surrounds us as an ocean; and we are like creatures lost on the bottom of the ocean floor while everywhere is streaming upward the fullness of a grace steadily growing brighter.”10

Florensky, Pavel. Ikonostasis. Trans. Donald Sheehan and Olga Andrejev. Crestwood, New York: St. Vladimir’s Seminary Press. 1996, 64.


We all experience the pull of transcendence because we “all experience our own existence as not existing out of itself but as coming from somewhere even if we don’t know from where.”15 We participate in Divine Being because we feel a tension, a pull, toward the Beyond, a mysterious attraction that only can be love. Reason, as well, pushes us to participate and becomes both our tool and our guide in the quest for the Ground.

15. Voegelin. “In Search of the Ground,” The Collected Works of Eric Voegelin II: Published Essays 1953-1965. Ed. Ellis Sandoz (Columbia: University of Missouri Press, 2000), 230.

Musica e verità

Musica e verità Il grazie di Benedetto XVI a due atenei di Cracovia Sono cresciuto nel salisburghese, segnato dalla grande tradizione di questa città. Qui andava da sé che le messe festive accompagnate dal coro e dall’orchestra fossero parte integrante della nostra esperienza della fede nella celebrazione della liturgia. Rimane indelebilmente impresso nella mia memoria come, ad esempio, non appena risuonavano le prime note della Messa dell’i n c o ro n a z i o n e di Mozart, il cielo quasi si aprisse e si sperimentasse molto profondamente la presenza del Signore. Accanto questo, tuttavia, era comunque già presente anche la nuova realtà del Movimento liturgico, soprattutto tramite uno dei nostri cappellani che più tardi divenne vice-reggente e poi rettore del Seminario maggiore di Frisinga. Durante i miei studi a Monaco di Baviera, poi, molto concretamente sono sempre più entrato all’interno del Movimento liturgico attraverso le lezioni del professor Pascher, uno dei più significativi esperti del Concilio in materia liturgica, e soprattutto attraverso la vita liturgica nella comunità del seminario. Così a poco a poco divenne percepibile la tensione fra la participatio actuosa conforme alla liturgia e la musica solenne che avvolgeva l’azione sacra, anche se non la avvertii ancora così forte. Nella Costituzione sulla liturgia del concilio Vaticano II è scritto molto chiaramente: «Si conservi e si incrementi con grande cura il patrimonio della musica sacra» (114). D’altro canto il testo evidenzia, quale categoria liturgica fondamentale, la actuosa di tutti i fedeli all’azione sacra. Quel che nella Costituzione sta ancora pacificamente insieme, successivamente, nella recezione del Concilio, è stato sovente in un rapporto di drammatica tensione. Ambienti significativi del Movimento liturgico ritenevano che, per le grandi opere corali e financo per le messe per orchestra, in futuro ci sarebbe stato spazio solo nelle sale da concerto, non nella liturgia. Qui ci sarebbe potuto esser posto solo per il canto e la preghiera comune dei fedeli. D’altra parte c’era sgomento per l’impoverimento culturale della Chiesa che da questo sarebbe necessariamente scaturito. In che modo conciliare le due cose? Come attuare il Concilio nella sua interezza? Queste erano le domande che si imponevano a me e a molti altri fedeli, a gente semplice non meno che a persone in possesso di una formazione teologica. A questo punto forse è giusto porre la domanda di fondo: Che cos’è in realtà la musica? Da dove viene e a cosa tende? Penso si possano localizzare tre “luoghi”da cui scaturisce la musica. Una sua prima scaturigine è l’esp erienza dell’amore. Quando gli uomini furono afferrati dall’amore, si schiuse loro un’altra dimensione dell’essere, una nuova grandezza e ampiezza della realtà. Ed essa spinse anche a esprimersi in modo nuovo. La poesia, il canto e la musica in genere sono nati da questo essere colpiti, da questo schiudersi di una nuova dimensione della vita. Una seconda origine della musica è l’esperienza della tristezza, l’e s s e re toccati dalla morte, dal dolore e dagli abissi dell’esistenza. Anche in questo caso si schiudono, in direzione opposta, nuove dimensioni della realtà che non possono più trovare risposta nei soli discorsi. Infine, il terzo luogo d’origine della musica è l’incontro con il divino, che sin dall’inizio è parte di ciò che definisce l’umano. A maggior ragione è qui che è presente il totalmente altro e il totalmente grande che suscita nell’uomo nuovi modi di esprimersi. Forse è possibile affermare che in realtà anche negli altri due ambiti — l’amore e la morte — il mistero divino ci tocca e, in questo senso, è l’essere toccati da Dio che complessivamente costituisce l’origine della musica. Trovo commovente osservare come ad esempio nei Salmi agli uomini non basti più neanche il canto, e si fa appello a tutti gli strumenti: viene risvegliata la musica nascosta della creazione, il suo linguaggio misterioso. Con il Salterio, nel quale operano anche i due motivi dell’amore e della morte, ci troviamo direttamente all’origine della musica della Chiesa di Dio. Si può dire che la qualità della musica dipende dalla purezza e dalla grandezza dell’incontro con il divino, con l’esperienza dell’amore e del dolore. Quanto più pura e vera è quell’esperienza, tanto più pura e grande sarà anche la musica che da essa nasce e si sviluppa. A questo punto vorrei esprimere un pensiero che negli ultimi tempi mi ha preso sempre più, tanto più quanto le diverse culture e religioni entrano in relazione fra loro. Nell’ambito delle più diverse culture e religioni è presente una grande letteratura, una grande architettura, una grande pittura e grandi sculture. E ovunque c’è anche la musica. E tuttavia in nessun altro ambito culturale c’è una musica di grandezza pari a quella nata nell’ambito della fede cristiana: da Palestrina a Bach, a Händel, sino a Mozart, Beethoven e B ru c k ner. La musica occidentale è qualcosa di unico, che non ha eguali nelle altre culture. Questo ci deve far pensare. Certo, la musica occidentale supera di molto l’ambito religioso ed ecclesiale. E tuttavia essa trova comunque la sua sor- ---------------------------------------------------------- Honoris causa Il 4 luglio a Castel Gandolfo il Papa emerito ha ricevuto il dottorato honoris causa da parte della Pontificia Università Giovanni Paolo II di Cracovia e dell’Accademia di Musica della stessa città. Facendo eccezione alla sua scelta di non ricevere onorificenze, Benedetto XVI ha accettato la proposta avanzata il 1° gennaio 2015 — dai rettori dei due atenei e dal cardinale Stanisław Dziwisz, metropolita di Cracovia e cancelliere dell’Università — come atto di omaggio a Giovanni Paolo II. Pubblichiamo quasi per intero il ringraziamento del Pontefice emerito. ---------------------------------------------------------- gente più profonda nella liturgia nell’incontro con Dio. In Bach, per il quale la gloria di Dio rappresenta ultimamente il fine di tutta la musica, questo è del tutto evidente. La risposta grande e pura della musica occidentale si è sviluppata nell’incontro con quel Dio che, nella liturgia, si rende presente a noi in Gesù Cristo. Quella musica, per me, è una dimostrazione della verità del Cristianesimo. Laddove si sviluppa una risposta così, è avvenuto l’incontro con la Verità, con il vero Creatore del mondo. Per questo la grande musica sacra è una realtà di rango teologico e di significato permanente per la fede dell’intera cristianità, anche se non è affatto necessario che essa venga eseguita sempre e ovunque. D’altro canto è però anche chiaro che essa non può scomparire dalla liturgia e che la sua presenza può essere un modo del tutto speciale di partecipazione alla celebrazione sacra, al mistero della fede. Se pensiamo alla liturgia celebrata da san Giovanni Paolo II in ogni continente, vediamo tutta l’ampiezza delle possibilità espressive della fede nell’evento liturgico; e vediamo anche come la grande musica della tradizione occidentale non sia estranea alla liturgia, ma sia nata e cresciuta da essa e in questo modo contribuisca sempre di nuovo a darle forma. Non conosciamo il futuro della nostra cultura e della musica sacra. Ma una cosa è chiara: dove realmente avviene l’incontro con il Dio vivente che in Cristo viene verso di noi, lì nasce e cresce nuovamente anche la risposta, la cui bellezza proviene dalla verità stessa.

Friday, July 03, 2015

L’assoluto nell’istante

Cristianesimo e universalità L’assoluto nell’istante ---------------------------- Anticipiamo uno stralcio dall’articolo «Uni- versalità e cristianesimo in un’età secolariz- zata» che uscirà sul numero 3/2015 di «Vita e Pensiero», il bimestrale culturale dell’Università Cattolica del Sacro Cuore. -------------------------- di ADRIANO FABRIS --------------------------------- Per “salvare i fenomeni” dalla loro contingenza Platone ha l’universale. Lo ha posto in un mondo a parte, preliminare: il mondo delle idee. Si tratta del mondo vero, cioè del mondo assoluto ed eterno, a cui si deve commisurare il mondo dell'esperienza. In questa prospettiva i fenomeni guadagnano certamente un punto di riferimento stabile. Lo guadagnano se risultano adeguati al mondo delle idee. Ma c’è un solo modo di ottenere questa adeguazione e di verificarla. E questo modo è conosciuto appunto dal filosofo. In Platone, dunque, la mediazione tra particolarità e universalità viene fissata una volta per tutte nella forma di un assorbimento dell’elemento particolare, contingente, in una prospettiva universale ed eterna. Rispetto a questa sussunzione del particolare nell’universale, rigida e unica, il cristianesimo propone un’altra via. È quella, per un verso, dell’incarnazione e, per altro verso, della redenzione. L’incarnazione è, per esprimerci in termini filosofici, l’assoluto che si fa contingente, ed entra nella storia. In tal modo non si ha una separazione definitiva tra storico ed eterno, che può essere governata solo attraverso l’adeguazione del primo al secondo (cioè subordinando il particolare all’universale), ma si ha invece una relazione dinamica fra questi due livelli, che permette il loro collegamento anche se viene mantenuta fra di essi un’insup erabile differenza. La redenzione, poi, è non solo il punto d’arrivo della salvezza, e dunque l’esperienza del recupero dell’eternità di ciò che è contingente, ma è anche il cammino che l’essere umano è chiamato a percorrere per realizzare tutto questo. Di più. In tale cammino l’essere umano cerca di anticipare per quanto è possibi- le, con le sue azioni e nei riti della comunità, la vita eterna nella propria stessa vita. Sia l’incarnazione sia la redenzione non identificano dunque, in maniera indifferente, ciò che è assoluto e ciò che è contingente, ciò che è universale e ciò che è particolare. Ma neppure separano una volta per tutte questi due livelli, o pongono tra di essi, come unica possibilità di collegamento, una subordinazione e un assorbimento del particolare nell’universale. Ciò che mostra il cristianesimo, nella sua storia e nella sua dottrina, è invece l’idea che la relazione autentica non si realizza eliminando le differenze. E questo è possibile perché si tratta di una relazione dinamica, non già di un rapporto statico. In altre parole, nell’incarnazione ciò che è assoluto viene incontro a ciò che è contingente e lo abita. Ciò che è contingente, storico, risulta in tal modo santificato e impegnato a realizzare sempre di più, nella storia, la sua santificazione. Perciò esso può indirizzarsi verso l’asso luto e intraprendere il cammino della redenzione. E in questa relazione l’assoluto resta assoluto e il contingente, pure, rimane tale. Se dunque il problema è di come intendere il rapporto tra particolare e universale senza ricadere né nell’i n d i f f e r e n za né nel fondamentalismo, la soluzione, forse, può consistere in un modo diverso di comprendere la nozione stessa di “universalità”. Non si tratta di pensare separati universale e particolare. E nep- pure di confonderli insieme. La loro relazione è il risultato di una mediazione, di un cammino. E la dinamica, il cammino che sono propri del passaggio dal particolare all’universale. A partire da questo processo possiamo comprendere anche il concetto, tipicamente cristiano, di “missione”. Ecco perché, se l’universalità è un processo e non un dato di fatto, invece che di universalità dobbiamo forse parlare, meglio, di una universalizzabilità. Questo termine indica il modo in cui la particolarità della propria posizione può non già risultare, immediatamente, universale, o adeguata a una dimensione universale, ma venire spinta a realizzarsi in maniera universale. E, per far questo, dev’essere disposta a confrontarsi con le posizioni altrui, deve esporsi a esse e da- re testimonianza di sé di fronte a esse. Deve farlo perché è consapevole che proprio nella sua particolarità, in virtù dell’incarnazione, c’è un aspetto che può essere universalizzato. Che spinge all’apertura e non alla chiusura. Sempre tenendo conto, tuttavia, che il cristiano vive nel saeculum, ma non è del saeculum

LONERGAN, Insight、Method の翻訳

LONERGAN, Insight、Method の翻訳 ポルトガル語 Insight – Um estudo do conhecimento humano. Tradução: Mendo Castro Henriques e Artur Morão. São Paulo, É Realizações: 2010. 728p. ISBN 978-85-88062-87-0 ítulo: METODO EM TEOLOGIA isbn: 9788580330588 idioma: Português encadernação: Brochura formato: páginas: 448 ano de edição: 2013 イタリア語 1) B. Lonergan, L’intelligenza. Studio sulla comprensione dell’esperienza, trad. it. di C. Miggiano Di Scipio, Edizioni Paoline, Alba 1961 [dalla II edizione inglese del 1958] 2) Insight. Uno studio del comprendere umano, edizione italiana a cura di Saturnino Muratore e Natalino Spaccapelo, Città nuova, Roma 2007. 3) Il metodo in teologia 1 gen. 2001 di Bernard Lonergan e N. Spaccapelo Non disponibile 4) Il metodo in teologia Author: Bernard Lonergan, S.I. Publisher: Brescia : Queriniana, 1985. Series: Biblioteca di teologia contemporanea, 24. スペイン語 Lonergan, Bernard, Insight: Estudio sobre la comprensión humana , Universidad Iberoamericana-Sígueme, Salamanca, 1999, traducción Francisco Quijano Método en teología Author: Bernard J F Lonergan Publisher: Salamanca : Sígueme, 1988. フランス語 Traduction française Pierrot Lambert: L'Insight. Étude de la compréhension humaine, Montréal, Bellarmin, 1996, 796 p. Pour une methode en théologie Author: Bernard J F Lonergan Publisher: Montréal : Fides, ©1978. ドイツ語 Methode in der Theologie Gebundene Ausgabe – Mai 1990 von Johannes Bernard (Herausgeber), Bernard J. F. Lonergan (Autor) ロシア語 Metod v teologii Taschenbuch – 2010 von SJ Bernard Lonergan (Autor)

Thursday, June 18, 2015

Miracles

Miracles

"There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is as though everything is a miracle."


― Albert Einstein

There is no first hand source of Einstein's writing or speeches that contains this quote. The first appearance of this quote that I can find is in Living With Nature's Extremes: The Life of Gilbert Fowler White (2006) by Robert E. Hinshaw, p. 62. In this book Hinshaw quotes Gilbert Fowler White's Journal of France and Germany (1942 – 1944) as the original source of the quote. It is here that Gilbert Fowler White wrote,

"As I look back over the truly crucial events in my life I realize that they were not planned long in advance. Albert Einstein said, 'There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is as though everything is.'"

The most likely source of Gilbert's for an Einstein quote on miracles would be David Reichenstein's Die Religion der Gebildeten (1941), which was released a year prior to Gilbert's Journal. It is here that Reichenstein asks Einstein about Arthur Liebert's theory that uncertainty and indeterminism in quantum mechanics allows for the possibility of miracles. Einstein replied that he could not accept the argument because it dealt "with a domain in which lawful rationality does not exist. A miracle, however, is an exception from lawfulness; hence, there where lawfulness does not exist, also its exception, i.e., a miracle, cannot exist."

Gilbert Fowler White may have inadvertently invented this Einstein quote based on his understanding of Einstein's conversation with David Reichenstein above.





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Wednesday, June 10, 2015

Kim Sheung Chiaretto Yan, Il Vangelo oltre la Gran

Kim Sheung Chiaretto Yan, Il Vangelo oltre la Grande Muraglia. Sfide e prospettive del cristianesimo in Cina (EMI, 2015).

Nella cultura asiatica ed in particolare confuciana, l'autorità civile o l'imperatore vengono posti al di sopra della religione, mentre in Occidente, per molti anni, è avvenuto il contrario. C'è quindi una diversa concezione della libertà religiosa. Capendo questo, possiamo imparare a dialogare meglio. Quindi anche il tema del rapporto tra Chiesa e potere civile si può affrontare e risolvere.


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Monday, June 08, 2015

Chosen by God R. C. Sproul

Chosen by God 

R. C. Sproul 

People do not seek God. They seek after the benefits that only God can give them. The sin of fallen man is this: Man seeks the benefits of God while at the same time fleeing from God himself. We are, by nature, fugitives.


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Sunday, June 07, 2015

天主実義

天主実義

詩経  《皇矣》(こうい)、文王の什7

皇矣上帝 臨下有赫
  皇(おほい)なるかな上帝 下(しも)に臨みて赫(かく)たる有り
 
  偉大なる上帝は、上に在って下に臨み、下土を監視している。
                     上帝  上代漢民族の申后の対象たる宇宙の絶対神。
      赫 明らかなること。

監觀四方 求民之莫
  四方を監觀(かんくわん)し 民の莫(さだまら)んことを求む
 
  上帝は四方を監視して、人民が安定して幸福な生活を享受することを求めてい
  る。

"維(こ)れ此の文王
"小心翼翼たり
"上帝に昭事し
"ここに多福を懐(おも)ふ
"その徳回(たが)はず
"以て方国を受く"
(訓読は白川静、"詩経雅頌2"、東洋文庫、によります。)

訳:
この文王ぞ
心つつましく
上帝につかへ
多福を求む
徳正しくて
国授かりたまふ
(白川静氏による)





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Wednesday, May 27, 2015

Kin Sheung Chiaretto Yan

甄健湘先生,意大利家协驻华代表、米兰国际家具展公司(Cosmit)新闻公关驻中国代表,主讲:“梵二精神光照下透视利玛窦对现今中国福传的意义”。

Tuesday, May 26, 2015

Postumano

Chiaretto Yan
Il Vangelo oltre la grande muraglia
天下一家

Manzocco Esseri umani 2.0

Postumano e transumano

MacLean, evoluzione del cervello e comportamento umano

Cervello rettiliano mammaliano umano
爬虫類(はちゅうるい)

Singolarità 2045



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Tuesday, May 19, 2015

Einstein’s observation that the most incomprehensi

Einstein's observation that the most incomprehensible thing about the world is that it's comprehensible.

  • One may say "the eternal mystery of the world is its comprehensibility."
    • From the article "Physics and Reality" (1936), reprinted in Out of My Later Years (1956). The quotation marks may just indicate that he wants to present this as a new aphorism, but it could possibly indicate that he is paraphrasing or quoting someone else — perhaps Immanuel Kant, since in the next sentence he says "It is one of the great realizations of Immanuel Kant that the setting up of a real external world would be senseless without this comprehensibility."
      Other variants:
    • The eternally incomprehensible thing about the world is its comprehensibility.
      • In the endnotes to Einstein: His Life and Universeby Walter Isaacson, note 46 on p. 628 says that "Gerald Holton says that this is more properly translated" as the variant above, citing Holton's essay "What Precisely is Thinking?" on p. 161 of Einstein: A Centenary Volume edited by Anthony Philip French.
    • The most incomprehensible thing about the world is that it is comprehensible.
      • This version was given in Einstein: A Biography(1954) by Antonina Vallentin, p. 24, and widely quoted afterwards. Vallentin cites "Physics and Reality" in Journal of the Franklin Institute(March 1936), and is possibly giving a variant translation as with Holton.
    • The most incomprehensible thing about the world is that it is at all comprehensible.
      • As quoted in Speaking of Science (2000) by Michael Fripp
    • The eternal mystery of the world is its comprehensibility … The fact that it is comprehensible is a miracle.
      • As quoted in Einstein: His Life and Universe by Walter Isaacson, p. 462. In the original essay "The fact that it is comprehensible is a miracle" appears at the end of the paragraph that follows the paragraph in which "The eternal mystery of the world is its comprehensibility" appears.


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