Monday, October 21, 2013

病の善用を神に求める祈り

病の善用を神に求める祈り

ブレーズ・パスカル

1・主よ、あなたは、なにごとにおいてもこの上なくやさしく、柔和なみ心をあらわしてくださいます。また、あなたは、かぎりなくあわれみに富まれ、あなたの選ばれた者にくる繁栄も、逆境も、すべてはおあわれみのゆえにお授けになるのです。ですから、あなたが義によってわたしをお引き入れになったこの状態にあっても、どうか異教徒のように行動しないようお守りください。

どのような境遇にありましても、まことのクリスチャンとして、あなたをわたしの父、わたしの神と仰いで行くことができますように。わたしの境涯がどう変わりましょうとも、そのことがあなたの上にどんな影響をもたらすこともないのです。

このわたしはうつろいやすいものにすぎないのですが、あなたは、永遠に変化なさることはなく、慰めを与え、許しをたまうときも、苦しめ、罰を加えられるときも、つねに主なる神であられるのです。

2・あなたがわたしに、健康を授けてくださったのは、ただあなたにお仕えするためでしたのに、わたしは、それをまったく俗事に用いてしまいました。今、あなたは、わたしを正しくしようとして、病をお送りくださいます。どうか、この病を耐え忍ぶことができず、あなたのお怒りを招くことがありませぬよう、これを役立たせてください。

わたしが、自分の健康を悪用しましたので、あなたは当然にも、わたしに罰をお加えになりました。このあなたの罰をも悪用するなどということがありませんように。

わたしの本性は、あなたからいただく恩恵をも不正に用いるほどに腐りきっているのですから、ああ神よ、どうかあなたの全能のお恵みによって、あなたのこらしめをわたしの益とならしめてください。

もしいくらかでも体力が残っていて、この心がこの世への執着にみたされるというのでしたら、わたしの救いのため、この体力をうち砕いてください。肉体の弱まることによってか、愛の火に燃えることによってか、ともかくも、この世の楽しみにふけることを出来なくさせ、あなたおひとりのほかは楽しむことのできぬまでにしてください。

3・神よ、わたしの生涯の終わるとき、またこの世の終わりには、わたしはあなたのみ前に出て、自分の行ってきたすべてについて、あなたに正確な報告をしなければならないのです。

神よ、あなたが、世と、世に属するすべてのものを存続させておられるのは、ただ選ばれた者たちを試みられるため、または罪びとを罰されるためにほかならないのではないでしょうか。神よ、あなたは、世の甘美な罪深い習慣のうちに、頑なな罪びとをうち捨てておかれます。神よ、あなたは、わたしたちの肉の体を死なしめ、死のときには、わたしたちの魂を、この世で愛してきたすべてのものから引き離されます。

神よ、あなたは、わたしの生涯の最期のとき、わたしが愛着し、心を寄せてきたすべてのものを、このわたしから奪い取られます。神よ、あなたは末の日にいたって、天と地と、その中にあるすべての被造物とを焼きつくされ、あなたをほかにして何ものも生き残るものがないことを、また、あなたのほかになにものも永続するものがないのだから、あなたのほかになにものも愛するに価するものはないことを、すべての人間に知らしめられます。

神よ、あなたは、その日空しい偶像と、わたしたちの欲望のいまわしい対象とを、ことごとく破壊なさるのです。神よ、わたしはあなたをほめたたえます。わたしをこの衰弱の中へと引き入れてくださり、そうすることによって、わたしのためすべてのものを破壊し去り、あの恐るべき審判の日を先んじてわたしに味わわせてくださいましたことについて、いのちあるかぎり、わたしは日々に、あなたを讃美いたします。神よ、わたしはあなたをほめたたえます。健康の喜びとこの世の楽しみを味わうことのできぬ状態にわたしを閉じこめてくださったことについて、また、やがてくるあなたの怒りの日に、あなたが現実に破壊して、悪人どもを恐慌におとし入れる入れられるはずのいつわりの偶像を、今こうしてわたしの益のため、ほとんどうち砕いてくださったことについて、いのちあるかぎり、わたしは日々に、あなたを讃美いたします。

主よ、あなたがこうしてわたしのためすべてを破壊してくださったのですから、今度はわたしに自分で自分を裁かせてください。そして、やがてくる日、あなたがわたしの命とこの世とをまったく破壊なさるときに、あなた御自身からのさばきを受けずにすむようにさせてください。そうです、主よ、わたしは死の瞬間に、この世から引き離され、すべてのものを取り去られ、ただひとりあなたのみ前に出て、自分の心の動きひとつびとつについて、あなたの義にてらしてお答えしなればならないのです。

ですから、今、この病気をいわば一種の死ともみなし、世より離れ、愛着するすべてのものを取り去られ、ただひとりみ前にあって、おあわれみにより、この心をあらためさせてください、とひたすらお祈りさせてください。こうして、やがてあなたが審判を行われるため、実際に死をお送りになるのに先立って、おあわれみにより、今一種の死というべきものを送ってくださる、このことをこの上ない慰めと感じさせてください。

そして、ああ神よ、あなたがわたしに死を先んじて与えてくださるのですから、このわたしにもあなたの厳しい宣告を先んじて受け入れ、あなたのみ前におあわれみをいただくことのできますよう、あなたの審判に先立って、自分で自分の取り調べをさせてください。

4・おお神よ、わたしの生涯を導いてくださるあなたの褒むべき摂理の秩序を、ただ黙って崇めさせてください。あなたのくださるわざわいも、わたしの慰めとなりますように。

健康であったときは、罪の苦味のうちに生きてきたこのわたしです。今あなたが、わたしを苦しめようとしてお与えになる有益な病の続くうちは、あなたのお恵みのこの世ならぬ甘美さを味わいつくさせてください。

けれども、神よ、わたしの心はこんなにも頑なであり、さまざまの雑念、思いわずらい、不安、この世への愛着に満ちていますので、健康も、病気も、どんな話、どんな本も、あなたの聖書、福音も、いと聖なる奥義も、ほどこしも、断食も、苦行も、奇跡も、秘蹟にあずかることも、あなたのからだの供え物も、また、わたしの努力のすべて、この世の人みなの努力のすべてを合わせても、もし、あなたがお恵みによりたぐいなき助力を、こうしたすべてに加えてくださらなかったなら、わたしの回心を進めるにまったく役立つことはないのだと、わたしにははっきりとわかります。

ですからこそ、神よ、わたしは、あなたをお呼びするのです。全能の神よ、すべての被造物が力を合わせても、わたしにあたえてくれることのできぬ賜物を、あなたがわたしにお与えくださいますようにと。もし、わたしの叫び声を聞き入れてくれますものがほかにありますなら、どうしてわたしは不遜にも、あなたに呼びかけたりいたしましょう。

しかし、神よ、この心を変えてくださいとのわたしのこの望みは、自然のあらゆる努力を超えたわざですから、自然とこのわたしの心をつくられた方、全能の主である方のほか、だれに対してお願いすることができるのでしょうか。主よ、あなたをほかにして、わたしは誰に叫びかければいいのですか。誰に救いを求めればいいのですか。神以外のものは何もわたしの期待を満たすことはできません。ほかならぬ神ご自身だけがわたしは欲しいのです。

神よ、ただあなたに向かい、あなたを得たいとねがって、お呼びしております。主よ、わたしの心を開いてください。これまで悪徳によって閉められていたこの反抗的な場所にふみ入ってください。悪徳がこの心を占領しているのです。強い人の家に押し入るように、この所に押し入ってください。

しかし、この所を支配している強力な敵をまず縛り上げ、その後、そこにある宝物を奪い取ってください。主よ、この世が盗み取っていたわたしの心を奪い返してください。あなたご自身がこの宝物を盗みとってください。というよりも取りもどしてください。この宝は、あなたのものなのです。わたしがあなたにお納めしなくてはならぬ貢物として、そこにはあなたのみ姿がきざみ込まれているのですから。

主よ、あなたがこのみ姿を、私の第二の誕生であるバプテスマのとき、ここへ形作ってくださったのです。しかし、今それはまったく消えうせました。世の雑念が、ここにも深く喰い込んでいて、あなたのみ姿はもう見分けられないほどです。わたしの魂を作ることができたのは、あなただけです。あなただけが、もう一度それをつくってくださることができます。このところに、み姿を形作ることができたのも、あなただけです。あなただけが、もう一度それを形作り、あなたの消えうせた形、すなわち、あなたのみ姿であり、あなたの本質の形である、わたしの救い主イエス・キリストを、もう一度刻みつけてくださることができます。

5・おお神よ、こよなく美しいものを愛して、そのために自分を卑しめることなく、かえってそれに愛着することが益となるという心は、なんと幸いでしょう。

このわたしはこの世を愛するとき、あなたのみ心を傷つけ、自分を害し、さらには自分を卑しめるばかりなのを覚えます。おお神よ、あなたを楽しむことのできる魂は、なんと幸いなのでしょう。この魂は、なんのわずらいもなく、むしろ誇らしい気持ちで我を忘れてあなたを愛することができるのです。その幸福は、どれほど揺らぐことがない、朽ちないものであるでしょう。たましいのこの期待は、決して裏切られることがありません。なぜなら、あなたは決して滅ぼされることがなく、生も死も、たましいを祈りの対象であるあなたから引き離すことはないからです。

悪人どもが、彼らの偶像ともども、等しく破滅に引き入れられていくとき、ちょうどそのとき、義人はあなたとひとつとなり、ひとしく栄光の中へ入られるのです。悪人どもが、彼らの愛着を寄せる滅ぶべきものとともどもに滅び去って行くとき、義人は、永遠にいまし、他のものに寄らずして存在しますかたにしっかとつながれて永遠に生きて行くのです。

ああ、何はさておいても愛さねばならぬ唯一のものを、自分の意志のおもむくまま、そのやむにやまれぬ思いの向かうまま、完全に、また自由に、愛することができる人々は、なんと幸いなことでしょう。

6・おお神よ、わたしの心へのあなたのよきお働きかけが、完全に果たされますように。あなたがその最初であられたごとく、終わりでもあってください。ご自身の賜物を完成なさってください。これがあなたの賜物であることは、わたしにもわかります。

そうです、神よ、わたしはこの祈りが、あなたにどうしても聞いていただかねばならぬもの、それに価するものとは、とても思っておりません。それどころか、本来あなたのためのみに作られたはずで、世のためにも、自分自身のためにも作られたのでないこの心を、被造物に向けたわたし、今はもう、おあわれみにすがるほかどんなお恵みにもあずかれぬ身と、ここにまでにおちこんだ自分を悲しく思っております。この願いすらあなたに聞いていただけるとは思えぬほど、わたしの心はうつろなのです。わたしの心の自然な衝動は、すべて被造物に向かい、自分自身に向かい、ただあなたのお怒りを招くほかありません。

ですからこそ、神よ、わたしはあなたが、わたしの心をよき方へと向けてくださることを感謝し、さらに、あなたに感謝することのできる心を与えてくださっていることをも、重ねて感謝するのです。

7・わたしの心を打って、あやまちを悔い改めさせてください。心の中の苦しみがなければ、あなたがどんなに外側から病をもってこの肉体を鞭打ってくださっても、それがまた、わたしには新たな罪の機会となるかもしれないのです。

肉体の病は罰に他ならぬこと、合わせて魂の病を象徴するものでもあることを、十分に悟らせてください。そして、主よ、このわたしの魂が、その実は病に蝕まれ、腫物に覆われおりながら、なお感じようとしなかったことを、この痛みの苦しさを通じて、しかと味わせてくださり、そうすることによって、肉体の病を魂の病の良薬としてください。

なぜなら、主よ、魂の病のうちいちばん重いものは、自分の悲惨さをまったく感じようとせぬこの不感症であり、衰弱はここに極まったといえます。どうか、このわたしに、自分の悲惨さを身にしみて感じさせてください。そして自分に残された生涯を、これまでに犯した罪を清めるための絶えざる悔い改めに過ごさせてください。

8・主よ、わたしの今日までの生涯は、あなたがその機会を遠ざけてくださったので、はなはだしい罪には陥らずにすんできました。とはいえ、怠惰を常とし、あなたの何より尊い秘蹟に、ふさわしくないままであずかり、み言葉や聖霊の語りかけをあなどり、行動においても、思想においても、ただ無為、徒労のことにふけり、あなたから与えられた時間を無駄に費やして、あなたにしてみればまったくいまわしさの極みというほかありませんでした。

あなたは、この時間を、ただあなたを礼拝し、どんな仕事に従事しているときにもあなたをお喜ばせする手段を求め、罪を悔いあらめるためにだけ用いるようにとお与えくださいましたのに。日々に犯しているこの罪は、どんな義人であっても免れられぬものなのです。

ですからこそ、耐えざる悔い改めの中に生涯を過ごさなければ、彼らとて、義の状態から転落する危険にさらされています。神よ、わたしはこんなふうに、つねにあなたに逆らってまいりました。

9・そうなのです、主よ、わたしはこれまでずっと、あなたのみ霊の語りかけにも耳をふさいでまいりました。あなたのお告げをなおざりにし、あなたの決められたことに反対して、自分で判断を下し、あなたが永遠のみ父のみもとよりこの世にもたらされた聖なる戒めの数々にも逆らってまいりました。

やがて、このいましめに従って、あなたはこの世を裁こうとなさっていますのに。あなたは、「あなたがた、いま泣いている人たちは幸いだ。しかし、あなたがた、慰めを受けている人たちは災いだ」といわれます。ところが、わたしは、「呻き苦しんでいる者はわざわいだ。慰めを受けている者はなんとさいわいだろう」と申しました。また、「豊かな財産、輝かしい名誉、たくましい健康を受けて楽しんでいる人たちは、幸いだ」とも申しました。

それではなぜわたしは、このような人たちを幸いだと思ったのでしょうか。このような利点をもつならば、被造物を楽しむことがたいへん容易になるからではなかったのでしょうか。それこそ、あなたのみ心を痛めることではなかったのでしょうか。そうです、主よ、わたしは告白します。わたしが健康を幸せと思ったのは、健康をあなたの御用に役立たせ、さらにいっそう思いをつくし、心を傾けて、あなたにお仕えし、隣人を助けるのになにより好つごうだったからではないのです。

それどころか、健康を利用して、この人生に充満している楽しみごとに、なんのはばかりもなく没頭でき、そのいまわしい快楽を思うさまに味わえるからだったのです。

主よ、どうか、この腐りきったわたしの理性を改めさせ、わたしの思いをあなたの思いに一致させてください。苦痛の中にあっても幸いと思い、外側での活動がなにもできなくても、今後はわたしの思いがあなたの思いに逆らうことのありませぬよう、まったくこれを清めてください。わたしは衰弱しており、あなたを外側へさがしに行くことはできませんから、わたし自身の内側で、あなたとお会いすることができますように。

なぜなら、主よ、あなたのみ国は、あなたを信じる者たちの中にあるからです。あなたのみ霊とあなたのみ心とがこのわたし自身の中にしっかと宿っていますならば、み国をもまた、ここに見出すことができましょうものを。

10・しかし、主よ、このみじめな土くれの身にみ霊をそそいでいただけるために、わたしは何をしたらいいのでしょうか。わたしという人間のすべては、あなたにとっておぞましいもの、わたしの中には、あなたをお喜ばせできるものはなにひとつありません。主よ、なにひとつ見つけることができないのです。

ただ、いくらかあなたの御苦しみに似たこの苦しみのほかは。ですから、今わたしを苦しめていますこの病、わたしをおそれにひきこむこの病をかえりみてくださいませんか。あなたが手ずからお与えくださったこの傷に、おあわれみの目をとめてください。

救い主なる神よ、あなたは、死にいたるまで、苦難を愛されました。神よ、あなたが人となられたのは、ただ人類の救いのため、誰も味わったことのない苦しみを受けるためでした。神よ、人が罪に落ちた後、あなたが肉をまとわれ、肉体の形をとられたのは、ただわたしたちの罪が当然受けねばならぬすべての痛苦を、身をもってなめつくしてくださるためでした。

神よ、あなたは、苦しむ肉体をこよなく愛されるあまりに、これまで、この世にあった中でもっとも苦痛にさいなまれた肉体を、ご自身のものとしてお選びになりました。わたしのこの肉体をも、み心のうちにお覚えください。この肉体それ自身に、肉体の持っているすべてのものに、何ほどかの価値があるからではないのです。この肉体の持つすべてのものは、あなたのお怒りに値するだけです。ただ、この肉体が耐え忍んでいる苦しみだけを、あなたに見ていただきたいのです。ただこれだけが、あなたから愛していただくにたる唯一のものなのです。

主よ、わたしの苦しみにいとおしみをおかけください。この病苦ひとつをひっさげて、わたしのところへもおいでくださいとお願いいたします。けれど、あなたのお住まいをきちんとととのえておきたいと思いますから、救い主なる神よ、罪ゆえに苦しむこの肉体にあなたの肉体といくらかでも共通点がありますなら、この魂にもあなたのみ霊にあい通じる何かをお与えください。魂もまた、同じ罪のため悲しみにうちひしがれますように。

このようにして、あなたとともに、あなたにならい、肉体においても、魂においても、犯した罪のため苦しんでいくことができますように。

11・主よ、どうかその苦しみもクリスチャンとしての苦しみでありますよう、苦しみの中にあなたからの慰めをつけ加えてください。

わたしは、苦痛から免れることを求めてはおりません。それは、聖人たちに与えられる報酬です。けれど、あなたのみ霊の慰めにあずかることもなく、自然の苦痛のままにうち捨てられたままでいることも、願ってはおりません。それは、ユダヤ人や異教徒に報いられる呪いです。どんな苦しみもなく、慰めにみち溢れて痛いとも望んでおりません。それは、栄光の生涯です。また、慰めもなく、次々わざわいに襲われるままでいたいとも願っておりません。それは、ユダヤ教徒の姿です。

そうではなく、主よ、わたしは、自分の罪のため、自然の苦痛をなめつくすとともに、お恵みにより、み霊の慰めをともどもに味わいつくしたいと願うのです。これこそは、クリスチャンのまことの姿です。慰めもなく、苦痛にもだえることのありませぬように。苦痛と慰めをともどもに味わうことができますように。
そして、やがてはすべての苦痛が消えはてて、ただあなたからの慰めだけを味わうというところにまでいたりつけますように。

主よ、あなたは、み子がおいでになる前には、慰めのない自然の苦しみのうちに、この世を捨てておかれたのでしたが、今や、み子のお恵みによって、信じる者の苦しみを慰め、やわらげようとしてくださいます。み子のご栄光のうちに、あなたに連なる聖徒らを、まじりなき祝福をもって満たそうとなさいます。なんというすばらしさでしょう、このように段階を経て、あなたはみわざをお進めになられます。あなたは、第一の段階からわたしを引き出してくださいました。今度は、第二の段階を通って、第三にいたらせてください。主よ、そのお恵みをこそ、わたしはお願いするのです。

12・わたしをあなたから、あまり遠くへおかないでください。ほかならぬ自分の罪のため死ぬほどまでに悲しまれたあなたのみ心と、死-によって打ち砕かれたあなたの肉体とが、よく見えますように。それを見るたび、自分も、自分の肉体と心とにおいて苦しむのを喜ばずにいられないようにしてください。

あなたが、わたしたちの罪のあがないのため血を流しておられるというのに、わたしたちが世の楽しみに溺れて過ごすとは、これ以上恥ずべきことがあるでしょうか。しかも、多くのクリスチャンにとって、またわたし自身にとって、これが普通の状態であるのです。あなたに属すると自称するクリスチャン、バプテスマを受け、あなたに従うためこの世を捨てた人、教会の前で、生きるも死ぬもあなたとともであると、おごそかに誓った人、世があなたを迫害し十字架につけたことを信じると告白した人、あなたが、人の罪を購うため、みずから神の怒りに身をさらし、人々の残虐に身をゆだねられたことを信じる人、いうならば、これらの真理のすべてを信じ、あなたのおからだを人の救いのためにわたされた犠牲とみなし、この世の快楽と罪こそ、あなたの苦難の唯一の原因、この世こそ、実はあなたを死にわたしたものと信じる人でありながら、なおも同じこの世の泥にまみれ、この同じ快楽にひたって、自分の肉体を楽しませよう一心になっているとは、これ以上恥ずべきことがあるでしょうか。

さらにまた、自分の子の命を救うため自分は死についたというひとりの父親があったとして、その父親を殺した張本人を子にあたる男が撫でさするばかりにかわいがっているのを見たら、おぞましさに身ぶるいせずにいられない人でありながら、ほかならぬこのわたしの救いのため死に渡され、わたしの犯した罪の身代わりになって罰を受けられた方、わたしが自分の神、自分の父ともみなしているかたを、まさしく殺害したこの世にあって、なおも喜びに溢れて生きるなどということができるのでしょうか。

このわたし自身がこのことを知りながら、この恥ずかしい生き方をしてきました。主よ、あなたが、死の陰に安逸をむさぼってまいりましたわたしの罪深いよろこびを、たち切られたのは当然のことでした。

13・ですから、主よ、わたしが自分を愛するあまり、自分の苦しみを悲しんだり、あなたの栄光を仰ごうともせず、世のものごとすべてが自分の意に沿わぬからといって嘆いたりすることのありませぬよう、この憂いを取り去ってください。

けれど、あなたの憂いに一致した憂いを、いつも心に持っていることができますように。わたしのこの苦しみが、あなたのお怒りを鎮めるのに用いられますように。苦しみをして、救いと回心の機会とならしめてください。

これからは、健康も、いのちも、ただあなたのため、あなたとともに、あなたにあって用いつくすことができますよう、そのためにのみお与えください。わたしは、健康も、病も、生も、死も、自分のために願おうとは思いません。ただ、わたしの健康、わたしの病、わたしの生、わたしの死を、すべてあなたが、あなたの栄光のため、わたしの救いのため、お恵みによりわたしも一員であらせていただきたいと願っている、あなたの教会と聖徒たちの益のため、お用いくださいますように。

あなただけが、わたしに益となるものをご存知です。あなたこそ、最高の主であられます。み心のままにしてください。わたしに与え、わたしから取り去ってください。しかし、わたしの心を、あなたのみ心に一致させてください。そして、心からへりくだって、あなたにまったく服従し、清らかな信頼のうちに、あなたの永遠のみ旨がお命じになることを迎え入れるそなえをし、あなたからくるものならなにごとでも、ひとしく讃美しつつ受け入れることができますように。

14・神よ、どのような出来事でも、常に変わることなく一筋の心をもって迎えることができますように。

わたしたちは、求めるべきものが何かを知らぬ者であるくせに、なにかひとつを選んで特にお願いしたいと思うときに、高慢心を捨てられず、自分で勝手にそれを決めて、自在に裁量しようとするものです。あなたが、お知恵をもって、起こってくる結果がどうなるかを知らさずにおこうとなさったのは正しいことでした。

主よ、わたしは、自分が知っているのはただひとつのことであると知っております。それは、あなたに従うのは正しいことであり、あなたに逆らうのは正しくないということです。この一事を除いて、なにごとであろうと、何がいちばんよいことなのか、何がいちばん悪いことなのかも知っていません。健康と病気のどちらが自分には益となるか、富と貧乏とではどうか、そのほかこの世のあらゆる事柄について、わたしはなにも知っていません。

それを判別できるのは、まさに人間や天使の力を超えたことであり、あなたの深く秘められたみ旨の中に隠されていることです。わたしはこのみ旨を、讃美をこめて仰ぐばかり、あえてそれをきわめようなどとはいたしたくありません。

15・ですから、主よ、このわたしが、何者でありましょうとも、あなたのみ心に一致するものとならせてください。今こうして病んでいますときには、苦しみの中であなたの栄光を讃えさせてください。苦しみなくして、わたしは、栄光にいたることができません。

救い主なる神よ、あなたご自身も、苦しみを通って栄光にいたろうとなさいました。そのご苦難の痕によって、あなたは、弟子たちから主であると認められたのでした。あなたが、弟子たるものをお認めになるのも、苦難を通じてなのです。

わたしは今、自分の犯した罪のため、肉と霊とにおいて苦痛を受け忍んでおります。この苦痛のゆえに、わたしをあなたの弟子として認めてください。また、あなたを通してお捧げしないならば、なにごとでも神に喜んでいただくことはできないのですから、わたしの心をあなたのみ心と通じさせ、わたしの苦痛をあなたの忍ばれた苦痛に合わせてください。わたしの苦しみがあなたの苦しみとなるようにしてください。あなたとひとつにならせてください。あなたと、あなたのみ霊とで、わたしを満たしてください。

わたしの心と魂の中へ入ってください。そして、わたしの中でわたしの苦しみを負い、あなたのご苦難のうちなお残っているものを、わたしの中にあって耐え忍びつづけてください。また、あなたのからだである教会がすっかり完成される日まで、あなたの肢体において、ご苦難を完全にお果たしください。

こうして、あなたにまったく満たされ、もはや、生き、苦しむのはわたしでなく、わたしの中にあって、救い主なる神よ、あなたが生き、苦しまれるということになるのです。

こうして、まことにわずかながらあなたのお苦しみにあずからせていただくことによって、あなたは、このわたしに、ご苦難によってかちとられた栄光をみたしてくださいます。この栄光のうちに、あなたは、み父と聖霊とともに、代代かぎりなく生きておられるのです。アーメン。





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