Monday, April 11, 2011

信徒でもわかることは、司祭、司教が理解できていない不思議

2010年9月16日
日本に於ける福音の宣教を省みる
夙川教会 河野定男

以下、日本のカトリック教会のあり方について、日頃、疑問に感じていることを綴ってみました.

1.主日のミサを大切にする
「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(典礼憲章10項)とあるように、あらゆる教会生活と宣教の源泉と頂点は感謝の祭儀(ミサ)にあることを教会は教えている.
ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」で次のように主日の大切さを説いておられる.「・・シノドス参加司教は、すべての信者にとって主日のおきてが大事であることを再確認しました.主日は、『主の日』に記念したことを守って毎日の生活を生きることができるようになるための、真の自由の源泉だからです.実際、復活の勝利を記念する感謝の祭儀にあずかる望みを失うとき、信仰生活は危険にさらされます.・・(中路)・・日曜日は主の日であり、聖別された日です.この感覚の喪失は、キリスト信者の自由、すなわち神の子としての自由に関する本来の感覚を失ったことを示す徴候です.・・」(73項)
 日本の教会、特に大阪教区は、この主日のミサの重要性を信徒に教えるのにあまり熱心でないように私には思える.大阪教区に於ける福音の宣教が停滞しているなら、それはこのことと深く関連しているのではなかろうか.司祭の人数が減少し、すべての小教区に司祭を常駐させることが出来なくなるに伴い、司祭不在のときの集会祭儀が強調されるようになった.司祭が不在であるため主日のミサを行うことが出来ない場合には、信徒たちが集会祭儀を行い、主を賛美すること自体は大変すぱらしいことであり、使徒的書簡「愛の秘跡」も75項でこれを薦めているのは確かである.しかし、大阪教区ではこれを安易に取扱い、信徒に誤解を与えてしまい、集会祭儀が主日のミサの代替となるという漠然とした観念が蔓延している.大阪教区の都市部でも常駐司祭のいない教会では一ヶ月に」回とか二ヶ月に1回は、主日のミサが行われず、集会祭儀が行われるのが常態化しているのは、少々異常な状態である.
使徒的書簡が75項で教えているのは「たとえそれがある種の犠牲を求めることになっても」「信者は教区の中で、司祭がいることが保証されている教会に行って」ミサに写るべきであり、共同体として主日に集会祭儀を行うことが薦められるのは、「距離がきわめて遠いために主日の感謝の祭儀に参加することが物理的に不可能な場合」だけだ、ということである ベネディクト16世のこの指針を真筆に受け止めるなら、大阪教区の信徒の大多数が住む大阪・神戸などを中心とする都市部では、優れた交通網が発達しているのであるから、主日のミサの代わりに集会祭儀に参加せざるを得ないという事態は起こりえないことになる.このことを司教、司祭、信徒ははっきりと認識すべきであろう.ミサ(感謝の祭儀)が教会生活と福音宣教の源泉と頂点であることを本当に信じるなら、主日のミサの重要性を教える信仰教育を徹底して行うべきである.司祭は、小教区の枠をこえ、主日には信徒はミサの行われる教会に行くべきことを繰り返し教え、主日を守って生きる喜びを伝えるべきである.ところで、使徒的書簡が指摘する「距離がきわめて遠い」「物理的に不可能」とは大阪教区では具体的にどのような地域に当てはまるかを良く研究する必要があると思う.また、ミサに写るために信徒にある種の犠牲を求める」とはどの程度のものかを考えることが特に大切である、もし仮に信徒たちが「日ごとの糧」を得るために払っている程度の「犠牲」(つまり通勤のために費やす程度の距離と時間)を主日のミサのために「求める」とすれば、大阪教区のカテドラルや神戸の中央教会など、足場の良い、大きい聖堂の教会を数カ所定め、それらの教会で主日には10回程度のミサを行うことにすれば、大阪教区の大多数の信徒は主日のミサに写ることができるということが、少なくとも理論的には成り立つのではなかろうか.そして信徒は主日にミサに行くために払うこの「犠牲」を、「神がみ心に従って聖なる司祭を送ってくださるよう祈るための貴重な機会」(「愛の秘跡」'75項)と捉え、叙階の秘跡を受けた司祭の主日に果たす中心的役割を正しく認識する出発点としなければならない.

2.「信条」の勝手な改変
日本の司教団は2004年2月に新しい口語訳の信条を発表した.その「ニケア・コンスタンチノープノレ信条」を見ると、「われは一、聖、公、使徒継承の教会を信じ」となっていたところが「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」と改められている.この改変は口語にするための単なる翻訳上の問題ではなく、明らかに「内容」の変更にあたる.ニケア・コンスタンチノープノレ信条は公会議の公式文書でるから、一、聖、公、使徒継承という教会の特性を示す伝統的な順序を日本の司教団が勝手に変更することは許されることではない.司教団はこの改変の理由を何も説明していないから、その真意はわからないが、四つの特性のうち、一番員に掲げられていた「唯一」を四番目に変更するという行為は、常識的には、「唯一という特性は、今まで考えられてきたような重要性はなくなった」というシグナルを送ることになる.つまり、キリストの教会は一つであることにあまりこだわる必要はないという、誤った教会観を生じさせることになりかねない問題である.教会が唯一であるのは「教会の起源と原型が三位のペルソナにおける唯一の神の単一性にあるからです. 設立者であり、頭であるキリストは、ただ一つのからだにおいてすべての民の一致を再建なさいます.・・」と「カトリック教会のカテキズム要約(以下『要約』と路)」161が教えている通り、教会の一番目の特性が「唯一」となるのは当然の二とである.エキュメニズムとは、人間の犯した罪のために不幸にして分裂してしまった神の民が、再びキリストにおいて一つの(唯一の)民になりたいというキリスト教徒全体の願いのことである.

3.日本のカトリック教会にカトリックの聖書がない不思議
現在の日本のカトリック教会ではミサの聖書朗読をはじめ、カトリック出版物の聖書引用なども、すべて新共同訳聖書が使われるようになった(例外はミサの答唱詩編で歌う詩編で、カトリック中央協議会の典礼委員会訳を使用)。これは大変すぱらしいことで、カトリック、プロテスタントを問わず、神のことばを、同じ表現の日本語で聞き、読むことができる便宜ははかりしれない.啓示憲章も「分かたれた兄弟たちとの協力による訳が必要であり、教会当局の承認を得て行われるならば、すべてのキリスト者はそれを利用することができる.」(22項)と共同訳を推奨している、ところで、日本のカトリック教会が使用している「聖書一新共同訳旧約聖書続編つき」であるが、この聖書の旧約は旧約聖書(39文書)と旧約聖書続編(13文書、ダニエル書補遺を一つの文書とみるなら11文書)に分かれており、合計52の文書から成っている.『要約』は「聖書は神ご自身が聖書の作者であり、霊感を受けたものといわれ、わたしたちの救いに必要な諸真理を誤りなく教える」と解説し(18項)、「使徒伝承によって教会が識別した、聖なる
書物の完全なリスト、すなわち正典は旧約聖書では46文書である」と教えている(20項)ので、続編つきの新共同訳聖書は、カトリック教会の聖書とは云えないことになる.聖書は聖伝と共にカトリック信仰の源泉であるから、この問題は大変重要である.
一方、新共同訳聖書は、カトリックとプロテスタントの共同事業としてなされた日本のキリスト教にとって画期的な成果であることも事実である.そして、プロテスタントの諸教会も、続編つきの新共同訳聖書以外は使わないのであれば、エキュメニズムの観点から、カトリック教会の聖書とは云えない続編付聖書を、日本のカトリック教会が採用するのもやむを得ないと思う.しかし、実際には、プロテスタントの教会ではほとんど続編付聖書を使用していないのが実情である.この現実を踏まえるなら、新共同訳に基づいた、カトリック教会が当初から採用してきた伝統的な46文書から成る旧約聖書を早急に作成すべきだろう.

4.インカルチュレーション(福音の文化内開花)への視点
インカルチュレーションには「教会から世界へ」と「世界から教会へ」の二つの方向があるという(「カトリック教会の教え」181頁).日本の教会は、後者の方向に沿って、日本の文化・伝統と教会の典礼を調和させた「葬儀」の儀式書を典礼のインカルチュレーションの第一歩として作成している.
このような具体的成果とは別に、日本文化の特色の原点はどこにあるかを、日本の教会がよく理解し、それをインカルチュレーションに活かすように努力しなければならないと思う。
日本文化の特色を探るに最も手っ取り早い方法は、第一に日本国憲法に何が書かれているか知ることであり、第二には日本の宗教事情はどうなのかを見ることであろう. 日本の憲法の第一条に「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴」とあり、日本は天皇を大切にする国であることが解る.事実、天皇にたいする日本人の敬愛の念は幅広く旦つ奥深いものであり、毎年1月2日に行われる皇居の一般参賀に何万という人々が訪れるし、日本の色々な改憲論に皇室(天皇制)を廃止しようというものは皆無である.日本の皇室は2000年の伝統を持ち、しかも単一王朝(万世一系)で継承されている.このような国は世界で日本以外にはない.なぜ、このようだ国が現代世界に存在するのかを研究することが日本に於けるインカルチュレーションの第一歩だろう.
日本の天皇の最大の特色は、「祭祀王」であることだと云う説があるが、私はこの説に注目したい. 天皇陛下の日々のお務めに新嘗祭(11月)を初めとする宮中祭祀が重要な位置をしめている.日本の天皇は「国平らかに民安かれ」(国中が平和で、人民が安らかに暮らせる)を祈る祭り主としての任務を第一としてきたと云われている.この天皇の国民に対する日々の祈りを、キリスト者はどう受け取るべきか.天皇の存在と日本人の天皇に対する敬愛の念を、日本の福音宣教上、どのように位置づけるのが適切なのか、考えなければならない.
第二の日本の宗教事情に著しい特色がある.文部科学省の2006年の宗教統計調査によると、日本 の人口が約127百万であるのに、宗教人口は208百万人であり、その内訳は神道系106百万、仏教系89百万、キリスト教系3百万、諸教系10百万となっている.つまり、大多数の日本人は仏教徒であると同時に、神道の信者(神社の氏子)であるということである.神道は体系的な教義もないし、宣教(布教)もしないので、異なる宗派の信仰をもつ個人個人を共同体として一つの儀礼・儀式に参加させるには、神道の形式によるのがもっとも摩擦が少ない.このことに着目して、すべての日本の戦没者を慰霊するために設立されたのが靖国神社である.人間は本質的に宗教的存在であるから、国や公共団体が慰霊などの儀礼を行う際、何らかの宗教色を伴うことは当然で、日本の場合は神道の国であるから、神道による儀礼となるのは自然である.アメリカの大統領就任式がキリスト教の形式に則って行われるのと同様である.日本の司教団は、1980年頃から信教の自由を守る立場から厳格に政教分離の原則を貫くことを政府に要求しはじめ、首相や閣僚の靖国神社参拝反対を表明してきた.最近では(2009年)、正月の恒例である首相の伊勢神宮参拝に対し、カトリック正義と平和協議会が抗議文を出すまでに至っている.
これはどう見ても異常ではなかろうか.日本の首相や政府の高官が神社に参拝したからといって信教の自由が侵されるわけでは決してない.日本は信教の自由が完全に保証された国であり、これが危険に曝されるような事態は殆ど予測しがたい.それにもかかわらず、なぜ、厳格な政教分離を要求するのか、人間の本源的な宗教性を否定することにならないだろうか.日本のカトリック教会が憲法20条の厳格な適用の主張(これは宗教否定論者の主張につながる)を見直さないかぎり、日本の天皇制度をも否定することになりかねず、これではインカルチュレーションどころか、日本文化の破壊となってしまうのではないか.
以上

Tuesday, March 29, 2011

Jesuit University like Sophia

Is Gonzaga still a Jesuit, Catholic university? The ruminations of a bewildered witness | Dr. Eric Cunningham, Department of History, Gonzaga University | Ignatius Insight | March 28, 2011

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Introduction

"The function of the university" wrote Thomas Merton, "is to help men and women save their souls, and in so doing, to save their society: from what? From the hell of meaninglessness, of obsession, of complex artifice, of systematic lying, of criminal evasions and neglects, of self-destructive futilities." [1] When Merton, a Trappist monk, penned these thoughts in 1965, he was not referring specifically to Catholic universities, but to universities in general. I highlighted this passage from Love and Living back in 1989, and I've returned to it several times over the years. Every time I read it, I try to imagine how a state university official in 1965 might have reacted to the idea that universities exist to "save souls." Then I imagine how a Catholic university official in 2011 would react to the same thought. I can't help but think that the secular administrator and the Catholic administrator would both find it prudent to avoid any mention of "souls" and "salvation" in their mission statements. Phrases like "excellence," "global citizenship," "civic responsibility," and "social justice," work much better, being lofty enough to inspire, yet vague enough not to ruffle the feathers of potential customers who may not care one way or another if salvation is included in the costs of tuition.

Having spent a good portion of my life in universities, it seems to me that the most obvious function of all universities, secular, and Catholic, is to generate enough revenue to remain in operation and, hopefully, grow. What the students do with their souls while they're in college is pretty much up to them. If they were interested in saving their souls, though, it would be awfully nice if they could find a university that would help them do that.

The changing face of Jesuit Catholic identity

During my seven-and-a-half years as a faculty member at Gonzaga, I have participated in numerous campus conversations on Catholic mission and identity, and I have always taken what I think is a strong and outspokenly pro-Church position. I believe that in an era in which Jesuits are few, lay faculty have to be able to articulate the Church's position accurately, especially on the various matters in which faith and reason would seem to be in conflict. Unfortunately, in taking a pro-Church position, I have often found myself at odds with 1) Catholic colleagues who don't share "my opinion" of what Catholic means, 2) non-Catholic colleagues who are generally indifferent to the question, and find all of the "mission" talk something of an irritation, and 3) the occasional student who doesn't appreciate—to quote one anonymous respondent on a recent instructor evaluation—"having religion shoved down my throat." As frustrating as it's been to try to defend a mainstream Catholic worldview at Gonzaga, particularly when my opponents have so often been Jesuit priests, my career as a reluctant culture warrior has provided me with great opportunities for personal growth. I have learned the meaning of William Blake's assertion that "a fool who persists in his folly will become wise." The wisdom I have attained is the full awareness of the folly of feverishly trying to shore up Catholic culture at a campus that will probably soon either abandon, or be forced by circumstances to drop its Catholic identity.

This is a provocative statement, but I make it with great seriousness, and in the sincere hope that someday, somehow, it will prove to have been wrong. I also make it as a lifelong practicing Catholic, who was not educated in Jesuit universities, and didn't know quite what to expect from day-to-day association with the fabled Society of Jesus. What little I knew of Jesuit education prior to coming to Gonzaga was conveyed to me by my father, who graduated from Holy Cross College in 1956, and by my uncle, who attended both Holy Cross and Boston College, and later taught at LeMoyne College. After many years as an English professor, he was appointed Dean of Arts and Sciences, and then Academic Vice President at Creighton University. My introduction to the Jesuit tradition was both informal and highly anecdotal.

I have vivid childhood memories of listening to my dad talk about his college days at Holy Cross. If I had to make any judgments about the nature of a Jesuit education based on these stories, it would have to be that the "Ignatian experience" was a long ordeal involving eccentric old Jesuit professors, no-nonsense dorm prefects, and early morning masses at daily chapel. I get the sense from my dad that entering the navy after Holy Cross was something of a relief.

My Uncle Bill's evaluation was more positive. As a lay administrator during the 1980s and 90s, he took part in one of the most important transitions in the history of Jesuit education, i.e., the turning over of leadership of the educational apostolate to the laity. People like my uncle, devout, scholarly, and committed to the Catholic Church, were exemplary companions in this project, and he, for one, made sure that the ideals and values of the Jesuit educational tradition were protected and preserved, even as the number of Jesuits teaching in the classrooms went into steep decline. Of course, he was fortunate enough to have learned the traditions, and he knew what he was preserving. When I was hired at Gonzaga, I wasn't entirely sure.

Looking for the ideal

As a cultural alien from the very secular University of Oregon, I felt it was my duty to learn as much as I could about the formal structures of Jesuit Catholic education. I studied the Spiritual Exercises of St. Ignatius, read the Constitutions of the Society of Jesus, the Autobiography of St. Ignatius, and several works on Jesuit education and history by Fr. George Ganss, S.J. I read biographies of great Jesuit scholars such as Robert Bellarmine and Matteo Ricci, and I studied closely the letters written by St. Francis Xavier during his Asian mission. I slogged through the Ratio Studiorum, and I read histories of Gonzaga University and the Northwest missions written by our own late Fr. Schoenberg. I digested the Society's defining statements on social justice and education, promulgated by Fathers General Arrupe and Kolvenbach, and I studied the proceedings of the 34th and 35th General Congregations. In addition to this pointedly Jesuit reading, I also familiarized myself with papal documents dealing with the intellectual life (Fides et Ratio) and Catholic higher education (Ex Corde Ecclesiae), as well the important address to Catholic Educators in the United States given by Pope Benedict XVI in 2008.

Aside from gaining valuable insights into the way the Church defines the purpose of the intellectual life and its standards for higher education, I discovered in these works a great wealth of logic, clarity, fidelity, and a persistent emphasis on sanctity and salvation. It was hard for me to understand how Gonzaga could be satisfied with its obscure and wordy mission statement when the Jesuit tradition included such strong, clear statements as these:
Man is created to praise, reverence, and serve God our Lord, and by this means to save his soul. All other things on the face of the earth are created for man to help him fulfill the end for which he is created. (from The Spiritual Exercise of St. Ignatius, para. 23)

"...[T]he end of the Society and of its studies is to aid our fellowmen to the knowledge and love of God and to the salvation of their souls...". (from The Constitutions of the Society of Jesus, para. 307)

It is the principal ministry of the Society of Jesus to educate youth in every branch of knowledge that is in keeping with its Institute. The aim of our educational program is to lead men to the knowledge and love of our Creator and Redeemer (from the Ratio Studiorum, 1599, para. 1)
I've always thought it unfortunate that these and other solid statements of purpose are largely ignored in most Gonzaga discussions. It's especially unfortunate now as we find ourselves thinking about revising the Core Curriculum and trying to figure out the best way to articulate our Catholic identity. Except for those recent documents that specifically outline the Jesuit commitment to social justice, I can't recall a single time that any foundational text related to our Catholic mission was mentioned in any faculty gathering. Since 2003, I have attended Ignatian Colleague dinners, "conversations on Conversations," and mission development seminars. I was given the rare privilege to be chosen as a delegate to the first-of-its-kind Society of Jesus Lay Congregation. I've been to core revision workshops, outcomes and assessments committee meetings, and fifteen faculty conferences. I'm still waiting for somebody to say something meaningful about our Catholic identity that goes beyond the obvious good of "social justice."

What exactly do we mean by social justice?

In his letter to the Romans, St. Paul provides a good working definition of justice. It is to "render to a thing that which it is due (Romans 13:7)." Implied in the Christian concept of justice is rendering to God that which God is due. Accordingly, if we are not first rendering to God just dues of love, thanks, praise, and fidelity, then any other category of justice we hope to satisfy is arguably groundless—from the standpoint of Christianity, that is. From the standpoint of secular modernity, where all justice is negotiated in the political arena, there is no "absolute" from which all subordinate justices spring. The Enlightenment thinkers invoked "laws of nature," but those laws have been re-configured over the years to suit changing cultural preferences. Now it appears that all definitions of social justice, whether religiously grounded or not, exhibit the quality of a modern secular worldview.

Whenever I hear somebody speak of how much we value social justice, I can't help but think of the once-popular bumper sticker that said "I BRAKE FOR ANIMALS." The only response I can make is "well, who doesn't?" The whole justice "thing" often strikes me as an elaborate rhetorical strategy calculated to make sure the "good and smart" people who favor "justice" and "diversity" can win every argument against the bad and stupid people who just want to oppress, discriminate, and stifle free speech—without ever having to prove a point. It's a strategy that does much to suppress dialogue because anyone who takes issue with the "socially just" position is assumed to be morally or mentally deficient. This leaves them little space to raise important questions about mission definition. When questions are not raised, alternatives are not considered. Thus, all attempts to bring middle-of-the-road Catholic positions into the discussion are overwhelmed by the propagation of slogans, none of which are ever clearly defined. Phrases such as "men and women for others," "action in the world," "preferential option for the poor," "finding God in all things," etc., all of which signify praiseworthy Jesuit ideals, are also easy prey for a kind of Nietzschean "trans-valuation." Interpreted in the light of Catholic tradition and scripture—to say nothing of the context of their original sources—these things have profound and concrete meaning. Unmoored from tradition and scripture, they can mean almost anything, and can be used just as easily to discredit Catholicism as to uphold it.







The "good-bad" dichotomy in which we tend to frame social justice is incomplete, and it easily lends itself to a privileging of material over spiritual values. One could argue that the alternative to social justice is not social injustice, but rather divine justice. If our mission were to teach people to prize holiness and salvation over political satisfaction, we would find them pursuing social justice as a matter of course. Social justice would move fairly quickly from being the elusive end of a political strategy to the first fruits of a transcendental aspiration to render all things to God through Christ—as the Jesuit motto goes, Omnia Ad Majorem Dei Gloriam (All to the Greater Glory of God). Unfortunately, anybody who tries to frame the question of justice in spiritual terms draws accusations of irrelevancy or insensitivity from the ideologically invested stewards of social justice. The real problem, we are admonished, is material misfortune, and an unbalanced distribution of wealth—"God has plenty of glory—it's the poor and suffering who need our help." It goes without saying that we must opt for the poor, but the service we render to our less fortunate brothers and sisters is a species of, and not a replacement for, the love we owe to God.

Re-defining Catholic

The politicization of our conversations on mission can become tedious for people whose ecclesiology is broad enough to accept both "liberal" social justice and "conservative" tradition. Why can't we adhere to the guidelines of Ex Corde Ecclesiae and carry out the progressive Jesuit vision of social justice at the same time? Since the Church herself is capable of embracing the dichotomy, Gonzaga could at least try. The answer to this question, while partially dependent on how much one university can reasonably accomplish with limited resources, is even more determined by decisions that have been made over the years in the making of campus culture. Not all of these decisions have been made by practicing Catholics. At almost any Catholic university, there are people of good conscience who simply don't agree with core Catholic teachings. These people see the Church's opposition to birth control, gay marriage, and women's ordination—to name only three things—as manifestly un-just, and they would like their institutions to replace outdated philosophies with something that better reflects the multiplicity of contemporary lifestyles and worldviews. This is a perfectly reasonable wish from the standpoint of modern civil society, but it requires a re-definition of Catholicism that excludes several currently non-negotiable elements of the faith; among these are the authority of the pope, an exclusively male priesthood, and a "preferential option" for heterosexual marriage. The frustration that many non-Catholics feel toward the Church's strange obstinacy is invariably reinforced by disgruntled and disappointed Catholics in their midst, who often have an entirely different set of gripes with the Church, but share the pain of alienation. In such a climate, tradition easily becomes vilified as the chief obstacle to freedom, and it becomes increasingly difficult for the traditional position to get a fair hearing, because in "fairness," tradition is the problem.

Has this been the real goal of the Jesuit, Catholic educational mission for the last forty years?—to say that true Catholicism is not the old religion of the hierarchy, but is, rather, a new narrative of social justice that the progressive wing of the Society of Jesus, in its intolerance for intolerance, would propose as an improvement over tradition? Are we, to paraphrase the rousing post-Vatican II hymn, trying to "sing a New Church into being," right here at GU? If so, and without passing any judgments for or against this project, I wonder if it is even possible. It would seem to me that implementing any vision of Jesuit Catholicism at Gonzaga will be very difficult, given the rapidly declining number of Jesuits available to sustain it.

Disappearing Jesuits

At present Gonzaga has only two full-time Jesuit professors under the age of sixty, and the American Society of Jesus is not replacing its retired priests with new vocations. This deficit has been looming since the time of the Second Vatican Council (1962-65), and has, in a sense, been prepared for. As any Jesuit will tell you, it has long been the goal of the Oregon province, and the Society as a whole, to transfer an increasing share of the administration of its various apostolates to the laity. While this is a good and probably necessary expedient, it begs at least two questions, 1) which members of the laity are going to be given the task of administering the apostolates?, and 2) how are they going to do it?

As a concerned lay companion in a vital Jesuit ministry, I think it would be helpful to see the establishment of a real lay formation program, so that those of us who have come to love the Jesuit Catholic tradition, in all its dimensions, can learn how we can best serve in the apostolic work, providing of course, that it continues.

Are we Catholic or not?

The larger question this all boils down to is this: Is Gonzaga still a Jesuit, Catholic university, or have we already become a secular liberal arts college with only a fond memory of Catholic origins and some lingering Catholic practices? If our unique Jesuit, humanistic, and Catholic identity is nothing substantially more than Christian flavored version of Enlightenment-style social justice, should we even be calling ourselves Catholic? A Gonzaga education costs a great deal of money—if we are not doing our very best to provide our students with the authentic Catholic education, as well as the Catholic culture that they have every right to expect, it might be better if we didn't call ourselves Catholic. I am certainly not suggesting that we do this—I'm only trying to raise what I think are some serious questions, based on my observations of the last several years.

Conclusion

As to what should be done, it seems to me that there are three broad options available to us, any of which would be dramatically altered by a change in economic realities.

Option One: Status Quo: We keep doing what we're doing, and make no adjustments to the trajectory of our Catholic identity. We continue to grow, and as we do, the Catholic concentration of our faculty and student body gets smaller. We remain officially unbothered by the fact that we are not in compliance with papal guidelines on faculty composition and curriculum. We continue to get hammered in the conservative Catholic press, and we continue not to worry too much about it. Life is good, but if we do nothing, our Catholic identity would almost surely go extinct. Not only would there soon be no Jesuits teaching anything, there would also be entire departments without any Catholic representation at all. We end up as a good private school that happens to have a Jesuit heritage.

Option Two: Gonzaga the Catholic Faith Center: We decide to make a serious return to our Catholic roots. We pick a year, say 2025 or 2030—by which we pledge to be in compliance with Ex Corde Ecclesiae, and we immediately implement new hiring policies, new Student Life policies, and new University Ministry structure to attain that goal.

Option Three: A University for "the New Millennium:" A convergence of economic and demographic factors in the next year or two make it clear that the handwriting is on the wall, and it's time to reinvent Gonzaga according to a bold new paradigm. The initial shock is that the administration announces that with the decrease in the number of Jesuits, Catholic character is no longer a defining issue for our school. At the same time, the runaway national debt and a depressed economy adversely affect our enrollments, signaling the onset of prolonged fiscal "challenges." We radically increase online programs, and make major cuts in the Arts and Sciences.

These scenarios are pure speculation, and I claim no abilities as a forecaster. I do think that the future of Gonzaga, whatever it holds, is completely linked to the choices we make on the question of our Catholic identity, and some serious choices need to be made soon. Identity is literally and figuratively our core concern, and until we grapple with it, it makes little sense to talk about curriculum reviews, outcomes and assessments plans, or the implementation of vision statements.

Conclusion

In the end, Gonzaga can be whatever it wants to be, and I hope we are able to choose our path before circumstances choose it for us. The world has never had a greater need for a strong, faithful Church, and the Church has never had a greater need for strong, faithful universities. I don't envy our administrators, and I know they are doing their best to deal with challenges that academic institutions have never faced before. I pray that they will do all they can to preserve our Catholic identity—not only to honor our founders and their vision, but to give glory to God—and, of course to help save some souls along the way.

ENDNOTES:

[1] Thomas Merton, Love and Living (San Diego: Harcourt Brace, 1979), 4.

[This essay originally appeared in the Spring 2011 issue of Charter: Gonzaga's Journal of Scholarship and Opinion. It has been republished here with the gracious permission of the author.]

Thursday, March 24, 2011

Filosofia della musica

Per una musica sacra e profana che parli nuovamente al cuore

Una riflessione a partire dal direttore d'orchestra svizzero Ernest Ansermet

ROMA, mercoledì, 23 marzo 2011 (ZENIT.org).- Questo mercoledì, alle ore 17:30, nell'ambito del “Seminario Superiore” dell'Accademia Urbana delle Arti di Roma, la prof.ssa Maria Caterina Calabrò – docente di Musica sacra al Master “Architettura, arti sacre e liturgia” presso l'Università Europea di Roma e l'Ateneo Pontificio “Regina Apostolorum” – terrà una relazione presso la sede dell'Accademia (piazza E. Dunant, 55) dal titolo “Un contributo originale ed attuale per la composizione della musica: E. Ansermet, I fondamenti della musica nella coscienza umana”.
Pubblichiamo di seguito una sintesi della relazione.




* * *
Riprendere questi studi di E. Ansermet (1883-1969, matematico e direttore d’orchestra, fondatore dell’Orchestra della Suisse Romande) significa riproporre una domanda quanto mai attuale, che negli anni ottanta lo storico della musica Fedele D’Amico ha più volte posto nelle sue lezioni e nei suoi scritti: se gli ascoltatori dopo più di mezzo secolo di musica contemporanea (e adesso sono passati altri trenta anni) si fossero abituati a quelle sonorità così diverse e se esse fossero diventate espressive e comprensibili all’udito, senza un’operazione in qualche modo ideologica, che esulasse dai suoni stessi. Il prof. D’Amico suggeriva di prendere in considerazione tutti gli scritti del direttore E. Ansermet (primo fra tutti Les fondaments de la musique dans la coscience humaine, Neuchâtel, 1961), che aveva posto la stessa domanda e aveva dato una struttura scientifica alla sua risposta.
Nell’epoca moderna il senso della musica e dei suoi oggetti non appartiene al campo dell’evidenza. L’oggetto musicale in se stesso si offre per così dire spogliato del suo senso, lo si interroga, si cerca di leggerne il senso nella sua struttura, ma in essa vediamo solamente una tecnica dell’evento sonoro che in altra maniera lo spiega: la spiegazione della musica si è sostituita nella persona all’interrogazione del suo senso. Si è andati avanti in questa ricerca perché si è convinti che la composizione oggi di ogni genere di musica sacra e profana non possa prescindere da questo insegnamento.
La fenomenologia della musica (metodologia che Ansermet ha messo a punto dagli studi sulla fenomenologia di Husserl e sulla psicologia fenomenologia di Sartre) ha per oggetto i fenomeni di coscienza che sono messi in gioco attraverso “l’apparire della musica nei suoni” e che ce ne spiegano l’apparire.
Ma i fenomeni di coscienza messi in gioco nella musica sono gli stessi di quelli che sono all’origine delle determinazioni fondamentali dell’uomo nella sua relazione al mondo. Perciò per Ansermet non ci si può fare un’idea chiara della musica senza farsi un’idea dell’uomo, senza vedere delinearsi una filosofia ed una metafisica. Quindi la fenomenologia è metodo e modo di guardare la realtà.
I fisici ammettono come fatto d’esperienza che la percezione degli intervalli è “logaritmica”. Ciò che conta invece per Ansermet non è il numero come tale, ma il significato affettivo che prende per la coscienza musicale. Il primo punto allora è stato il ricercare perché gli intervalli percepiti fossero dei logaritmi e non semplicemente dei rapporti di frequenze: la musica è un fenomeno psichico, la questione è sapere qual è il significato psichico che prendono i logaritmi nell’esperienza musicale. La percezione uditiva umana trasfigura in una somma ciò che si annuncia nel fenomeno sonoro come un prodotto, ciò vuol dire che se percepiamo, per esempio, un la poi un mi, percepiamo non il loro rapporto di frequenza 3/2, ma è il logaritmo di questo rapporto che pone l’intervallo tra i due suoni; la sola cosa che possa spiegare questa trasformazione è ammettere che si stabilisca, nell’udire, una correlazione logaritmica tra la cosa da percepire ed il percepito.
Ogni rapporto di frequenza è espresso nella coclea con il suo logaritmo che dà la misura dell’intervallo e, al prodotto dei rapporti di frequenza, corrisponde la somma di logaritmi, cioè la somma degli intervalli. È il nostro udito pertanto che trasfigura una successione di suoni nella linea sonora continua che chiamiamo melodia. Altezza, intervallo, melodia, sono fenomeni cocleari dovuti alla nostra maniera di percepire. La melodia perciò non è un fenomeno di coscienza, è un’immagine che l’udito si dà della successione dei suoni nel tempo e che proiettiamo sul fenomeno sonoro per farne un cammino del suono attraverso le sue posizioni spaziali. La nostra percezione uditiva interiorizza il fenomeno sonoro, ma perché questa interiorizzazione abbia luogo bisogna che la coscienza interiorizzi la temporalizzazione dei suoni in successione (ritmo).
Perché invece da fenomeno uditivo diventi fenomeno musicale, bisogna che si innesti nell’attività uditiva un’altra attività di coscienza: questa è l’attività del sentimento, attività affettiva che fa del passaggio da una posizione tonale ad un’altra una tensione affettiva tra due posizioni, e per questo, dà ad ogni intervallo un significato affettivo come darà un significato affettivo a tutti i dati uditivi, ritmo compreso. Questo fenomeno presuppone che i suoni con i quali possiamo fare musica sono scelti in tal maniera che i rapporti di frequenza che ci sono tra loro e gli intervalli che questi diversi rapporti fanno percepire costituiscano un sistema di logaritmi. Se non fosse così le operazioni logaritmiche, corrispondenza di un prodotto di rapporto di frequenze e di una somma dei loro logaritmi, cioè di una somma di intervalli, non potrebbero aver luogo.
A questo punto quindi dobbiamo andare ancora più a fondo nel fenomeno percettivo. Se percepiamo, tra i suoni, degli intervalli, è che il suono stesso è percepito come una certa posizione tonale situata ad una certa altezza dello spazio. Ora i suoni hanno altezza solo per l’orecchio; quest’organo chiamato coclea è un canale avvolto su se stesso in forma di spirale elicoidale: è perché la frequenza del suono risveglia la sensibilità del canale cocleare ad una certa altezza di questo canale, relativamente al suo asse, che il suono si qualifica, per la coscienza uditiva, attraverso la sua altezza. I suoni di frequenze differenti sono percepiti a diversi livelli di altezza nel canale cocleare, risultando per l’udito di differenti altezze ed intervalli.
Per quanto riguarda la base del sistema dei logaritmi essa sembra dover essere un intervallo dal momento che la linea melodica è fatta di intervalli. Questo sistema ricercato grazie al metodo di pensare fenomenologico pone la struttura tonale come la sola legge che possa dare un senso alle strutture musicali. La base del sistema è il rapporto della quinta ascendente alla quarta discendente nell’ottava; è il sistema che dà luogo ai suoni pitagorici, da cui deriva la scala eptatonica greca, formata dalle nostre posizioni tonali senza diesis né bemolle. Alla domanda se questi rapporti siano in relazione con la serie dei suoni armonici, che accompagnano ogni suono fondamentale, Ansermet così spiega:
Del resto la coscienza musicale non ha fondato le relazioni tonali sul rapporto di un suono e dei suoi «armonici», bensì sul rapporto di un suono e di altri suoni reali le cui frequenze stanno alla sua nello stesso rapporto che la frequenza degli «armonici» di un suono fondamentale a quella di questo suono fondamentale. (E. Ansermet, Les Fondements de la musique dans la coscience humanine, Neuchâtel 1961, p. 18).
La musica è apparsa perché l’uomo, producendo con la voce o uno strumento i suoni, sentiva riflettere nei loro intervalli la sua attività di sentimento. Praticando poi la musica, l’uomo è giunto nell’era occidentale all’organizzazione tonale, fondata sul sistema di logaritmi di cui si è indicata la base e che ha fatto di questo linguaggio un linguaggio chiaro, razionale ed universalmente comunicabile. Così questa legge appare all’evidenza dei fatti come legge stessa dell’udito musicale, cioè come legge stessa che l’udito musicale doveva scoprire (e l’ha scoperta e messa in opera completamente, secondo Ansermet, nella musica occidentale) perché la musica divenisse appunto un linguaggio comunicabile e di validità universale. La grande musica è quella che ci fa trascendere l’individualità del linguaggio verso il messaggio umano che ci trasmette e perciò la sola novità che sia possibile ora creare in musica è nella maniera di mettere in opera le strutture, cioè nello stile.
Per Ansermet questo è stato possibile in Occidente, poiché è in Occidente che si è prodotta la coscienza affettiva dell’uomo (che è il vero agente del fenomeno), risvegliata all’autonomia e alla attività attraverso l’incontro con il Cristianesimo, con il suo richiamo alla libertà del cuore, alla determinazione dell’uomo attraverso la sua attività di sentimento. Ansermet quindi ripercorre il modo in cui il sentimento musicale ha costituito il mondo tonale nel quale può esprimersi; la musica nell’era occidentale è ridivenuta l’oggetto di una creazione spontanea (come lo era presso i primitivi), la teoria in Occidente ha sempre seguito la creazione, fino alla musica seriale. Ha preso quindi in esame il canto gregoriano osservando che tutte queste melodie procedono in una scala di ottava articolata sulla quarta e la quinta. Questa scala i Greci l’avevano scoperta accordando la loro lira, attraverso un’alternanza di quinte discendenti e di quarte ascendenti. Ma le scale del canto gregoriano non sono le stesse di quelle dei Greci, gli autori del canto gregoriano hanno creato le loro melodie senza sospettare che esse procedessero da queste scale, in seguito ci si è accorti di questo; così fin dalla sua nascita la musica introduceva il musicista in uno spazio sonoro strutturato che ha assimilato e rielaborato. I movimenti di quarta e di quinta ed il sistema tonale sono perciò delle strutture come i verbi e la sintassi nel linguaggio. I modi e le tonalità procedono quindi dalla stessa legge di organizzazione tonale.
Si prende in esame quindi un inedito del maestro Asermet consegnato al prof. D’Amico per una revisione e poi affidatomi per uno studio; in particolare guidando l’ascolto dell’Ouverture del Coriolano di L. van Beethoven, il maestro Ansermet evidenzia i significati che la tonalità e gli intervalli esprimono esemplificando il metodo che ha elaborato. Questa sintesi porta in sé già tutti i temi che interessano a chi desidera operare nel campo della composizione sacra e profana (nello studio sono specificate tutte le dimostrazioni matematiche, il metodo usato della fenomenologia, gli esempi musicali e viene delineato un giudizio sulla storia della musica nei secoli a partire da questo sguardo ed in particolare un giudizio motivato sulla musica contemporanea): è un richiamo efficace alle radici della musica e della musica occidentale, radici e ragioni che in primo piano fanno emergere le possibilità di stile che la musica sacra e profana oggi possono percorrere per parlare nuovamente come linguaggio al cuore dell’uomo.
Ripercorrere le ragioni e guardare alle radici non è lodare un tempo passato, ma inserirsi in un solco profondo ed in una storia viva (Tradizione) che per la sua continuità e verità è stata costantemente operativa nel tempo e che il Cristianesimo come agente fecondo “nella” cultura e “di” cultura ha reso e rende universalmente trasmissibile anche attraverso il linguaggio musicale.

Tuesday, March 15, 2011

石原慎太郎「これはやっぱり天罰だ

石原慎太郎「これはやっぱり天罰だと思う。この津波をうまく利用して、(日本人の)我欲を1回洗い落とす必要がある」
1 :夢缶1号φ ★:2011/03/15(火) 07:53:56.31 ID:???0
 東京都の石原慎太郎知事(78)が14日午後、都内で記者団に対し、東日本大震災への国民の対応について問われ、
「この津波をうまく利用して、(日本人の)我欲を1回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のアカをね。
これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」などと発言した。被災者への配慮を欠いた発言として問題となりそうだ。

 石原氏はこの日、都内で蓮舫節電啓発担当相と会談し、節電への協力要請を受けた。
その後、記者団から東日本大震災の国民の対応について聞かれ、「やっぱり天罰なんです」などと述べた。

 石原氏はその前段で、「日本人のアイデンティティーは我欲になっちゃった。アメリカのアイデンティティーは自由。
フランスは自由と博愛と平等だ。日本はそんなものない。我欲だよ。外国だよ。物欲、金銭欲」などと語っていた。
最後は「被災者の方々はかわいそうですよ」とも付け加えたが、被災者感情を逆なでする発言と批判も出そうだ。

 石原氏はその後、都庁で神奈川県の松沢成文知事(52)、埼玉県の上田清司知事(62)と会見。石原氏は、記者団から発言の真意を聞かれ、
「日本に対する天罰だ。大きな反省の一つのよすがになるんじゃないですか。
それしなかったら犠牲者たちは浮かばれない」などと釈明したが、発言の撤回、謝罪はしなかった。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20110315-OHT1T00004.htm

Saturday, March 12, 2011

Il Conformista - G. Ravasi

Il Conformista - G. Ravasi

Il mattutino

a cura di Gianfranco Ravasi

10/03/2011

IL CONFORMISTA

Un uomo non può permettersi di avere delle idee che potrebbero compromettere il modo in cui si guadagna il pane. Se vuole prosperare deve seguire la maggioranza. Altrimenti subirà danni alla sua posizione sociale e ai guadagni negli affari- Conformarci è nella nostra natura. È una forza alla quale pochi riescono a resistere- Solo ai morti è permesso dire la verità. La sua ironia era tagliente e spesso amara e le righe che abbiamo proposto ne sono una prova folgorante. Come lo è questo terribile aforisma che osiamo trascrivere con esitazione, proprio sulle pagine di un quotidiano: «I giornalisti onesti ci sono. Solo che costano di più». Il pessimismo dello scrittore americano ottocentesco Mark Twain, l'autore delle Avventure di Tom Sawyer, è comunque una sferzata benefica contro la sonnolenza dei luoghi comuni, contro la deriva dell'opinione dominante, contro la banalità di un'esistenza comoda e superficiale, contro l'adulazione servile per interesse personale. Ecco, infatti, nel passo sopra citato la denuncia di quel conformismo a cui si piega il capo per non avere fastidi e soprattutto per ottenere vantaggi egoistici. Vorrei lasciare ancora la parola a Twain: «Non facciamo altro che sentire, e l'abbiamo confuso col pensare. E da questo nasce un risultato che consideriamo una benedizione: il suo nome è Opinione Pubblica. Risolve tutto. Alcuni credono che sia la voce di Dio». Lo scrittore non conosceva ovviamente la televisione e internet e si accaniva contro la stampa, ma se fosse qui oggi aggiornerebbe certe sue staffilate contro gli attuali comunicatori di massa. C'è, al riguardo, un'altra sua frase implacabile, ma sacrosanta, soprattutto nell'odierno circo mediatico: «Esistono leggi per proteggere la libertà di stampa, ma nessuna che faccia qualcosa per proteggere le persone dalla stampa». E continuava: «Una bugia detta bene è immortale».

Tratto da: http://www.avvenire.it/GiornaleWEB2008/Templates/Pages/ColumnPage.aspx?IdRubrica=.mattutino&TitoloRubrica=Il+mattutino&Autore=Gianfranco%20Ravasi


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Friday, March 04, 2011

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O'Connor Flannery

Tutti i racconti

? 14,00
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tipologia Libro
ISBN 9788845262753
genere Letteratura
altri generi Letteratura americana, Narrativa
editore BOMPIANI
curatore Marisa Caramella e Ida Omboni (traduzione)
anno 2009
pagine 604
formato 12x19 cm
peso 0,43 Kg
disponibilità
La virtù dell'umiltà, di cui parla la O'Connor a proposito dello scrittore, è proprio quella che manca ai suoi personaggi. Solitamente si tratta di persone che applicano alla realtà i propri schemi mentali angusti, e vengono regolarmente vinti dalla realtà stessa, nella quale alberga, imponderabile, il Mistero. Questo volume di racconti ci mostra il mondo e l'arte di questa straordinaria scrittrice cattolica americana, morta a soli trentanove anni. Le sue storie, spesso crude e spietate, riescono a essere realiste e simboliche allo stesso tempo. La O'Connor si diverte a ribaltare i luoghi comuni, le facili opinioni della gente, ma anche l'ideologia orgogliosa e l'etica tutta d'un pezzo del laico. Dio interviene a portare sconvolgimento, e al tempo stesso un po' di luce e d'aria, nei rigidi schemi del razionalista. Ed è proprio il razionale che la O'Connor mette continuamente in discussione.

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O'Connor Flannery

Il volto incompiuto

Saggi e lettere sul mestiere di scrivere

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tipologia Libro
ISBN 9788817046206
genere Letteratura
altri generi Letteratura americana
collana I libri della speranza
editore BUR
curatore Antonio Spadaro; Elena Buia, Andrew Rutt (traduzione)
anno 2011
pagine 172
formato 13x20 cm
peso 0,21 Kg
disponibilità
La narrativa riguarda tutto ciò che è umano e noi siamo polvere, dunque se disdegnate d'impolverarvi, non dovreste tentar di scrivere narrativa.
Flannery O' Connor

Per la prima volta in traduzione italiana, un'importante raccolta di testi rivelatori del pensiero e della poetica di Flannery O'Connor che mettono in luce la sua concretezza, il suo indagare l'universo visibile come riflesso di quello invisibile, la tendenza all'infinito e all'imprevedibilità, la poetica del grottesco americano e la complessa e travagliata convivenza con la fede. Antonio Spadaro ci guida attraverso saggi, lettere, recensioni, pensieri, alla scoperta del mondo della grande scrittrice, dominato dal dramma, l'elemento che per la O'Connor fa "funzionare" le storie, e che è soprattutto il dramma dell'accettazione o del rifiuto della grazia: perché "c'è sempre un momento, in una buona narrazione, nel quale si può avvertire la presenza della grazia come in attesa di essere accettata o rifiutata".
Un ritratto inedito e appassionante dell'autrice di una delle più importanti e originali opere nel panorama letterario americano.

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Sunday, February 27, 2011

「日本人は近代以降ずっとキリスト教に関心を持ち続けてきた」と宗教学者の島田裕巳さん。「それも信仰心の薄い日本人にとって宗教への関心ではなく、「なぜこんなに真剣にキリスト教なる宗教を信じる人々がいるのか」という関心です。ミステリー小説への関心 に近い」

「日本人は近代以降ずっとキリスト教に関心を持ち続けてきた」と宗教学者の島田裕巳さん。「それも信仰心の薄い日本人にとって宗教への関心ではなく、「なぜこんなに真剣にキリスト教なる宗教を信じる人々がいるのか」という関心です。ミステリー小説への関心 に近い」

朝日新聞 朝刊 2011年2月21日


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The Catholic Church is for saints and sinners alone. For respectable people, the Anglican Church will do. “

The Catholic Church is for saints and sinners alone. For respectable people, the Anglican Church will do.

— Oscar Wilde

"La chiesa cattolica e' per i santi e i peccatori; per le brave persone va bene anche la Chiesa anglicana"


「カトリック教会は聖人ないし罪人のためにのみある。オネトームにとってはアングリカン・チャーチでも足りるだろう」

オスカー ・ワイルド

Sunday, February 13, 2011

「新求道共同体」全容分からない

「新求道共同体」全容分からない

(カトリック新聞、声、2011年2月13日)

茨城・水戸教会 青木信彦 (76)

本紙にこれまで何度か「道」の活動についての記事が掲載されましたが、予備知識のない私には薄暗の中で時折一部が明かりに照らされ、何か重大事が起きているらしき様子がうかがわれるだけで、全容を知ることができず、不安を感じています。1月30日付のきじで「道」の外から見て何が問題なのか幾つか具体的に書かれていましたが、「道」の中で活動している人たちがどんな問題意識を持っているのかが見えてきません。しかし「道」が何か新しいエネルギーと力を持っているのがうかがわれます。
このこと自体は今の教会にとても必要とされているとも思いますので、深刻な問題を引き起こしているのは残念です。どうか角を矯(た)めて牛を殺す解決にならないことを願っています。最近外国籍の信者も多く、日本人信者に比べて活動が目立ち生活環境も違うので、それが問題となることもあるようです。このような多様性をどう積極かつ発展的に受け入れるかの良い模範となる解決が見出せるよう祈ります。


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Friday, February 11, 2011

Wenn Ihr Alltag Ihnen arm scheint, klagen Sie ihn nicht an; klagen Sie sich an, sagen. Sie sich, daß Sie nicht Dichter genug sind, seine Reichtümer zu rufen; denn für den Schaffenden gibt es keine Armut und keinen armen, gleichgültigen Ort.

Wenn Ihr Alltag Ihnen arm scheint, klagen Sie ihn nicht an; klagen Sie sich an, sagen. Sie sich, daß Sie nicht Dichter genug sind, seine Reichtümer zu rufen; denn für den Schaffenden gibt es keine Armut und keinen armen, gleichgültigen Ort.

Rainer Maria Rilke Briefe an einem junger Dichter

「あなたの日常生活が乏しく見えるときは、生活をとがめるな。自分自身をとがめなさい。あなたはその豊かさを認めるほど十分に詩人ではないから。創造者にとっては乏しいものは何もない。」

R. M. Rilke


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Friday, February 04, 2011

Saturday, January 29, 2011

Analogia in San Tommaso

La teologia secondo san Tommaso d'Aquino 
In adorazione
discorrendo sull'essere


di Inos Biffi 
Nelle attuali ricerche o, come si dice, nel dialogo sul monoteismo - riguardo al quale la fede cattolica professa l'esistenza di un solo Dio, Padre, Figlio e Spirito Santo - è diffusa la discussione sull'essenza di Dio e sulla possibilità di nominarlo e quindi sul valore dei nomi che vengano attribuiti. 
Quanto alla denominazione di Dio:  parrebbe che nessun nome gli convenga e che nessuna idea ci si possa fare di lui, a motivo della sua trascendenza assolutamente inarrivabile e inattingibile e quindi inconcepibile dalla conoscenza umana, pena la sua riduzione ai confini e quindi ai limiti umani. Ed è come dire che di Dio non si può avere nessun concetto e che ogni concetto a suo riguardo sia destinato a essere equivoco:  di Dio non si può parlare, ma solo tacere. 
Ma, se questo fosse vero, la conseguenza sarebbe un'assoluta teoria dell'ateismo, nel senso che qualsiasi tentativo di raggiungere Dio sarebbe destinato al fallimento, e la stessa Rivelazione risulterebbe vana e impossibile, per l'impotenza e l'improprietà di ogni concetto o "immagine" a riferirsi a Dio. 
San Tommaso ha riflettuto acutamente e ampiamente sui "Nomi di Dio", sia nel Commento al De divinis nominibus dello Pseudodionigi - uno dei testi più luminosi e vibranti dell'Angelico - sia in altre sue opere, tra cui la vasta e analitica questione 13 della Summa theologiae. 
In queste ultime possiamo notare come programmatica, l'affermazione:  "Noi possiamo denominare Dio a partire dalle creature, ma non in modo tale che il nome che lo significa (nomen significans ipsum) esprima la sua essenza così com'essa è (exprimat divinam essentiam secundum quod est)" (Summa theologiae, i, 13, 1, c.). Noi diciamo che "Dio non ha nome o sta al di sopra di qualsivoglia nome dal momento che la sua essenza oltrepassa ciò che di Dio possiamo comprendere con l'intelletto o significare con la voce" (Ea ratione dicitur Deus non habere nomen, vel essere supra nominationem, quia essentia eius et supra id quod de Deo intelligimus et voce significamus, ibidem, 1m). 
Non ci è noto il modo di essere di Dio, ma solo il suo riflettersi in modo imperfetto nelle creature:  "Così com'è, il nostro intelletto, in questa vita, non lo conosce" (intellectus noster non cognoscit eum ut est, secundum hanc vitam, ibidem, 2m). Infatti, "in questa vita noi lo conosciamo secondo quello che di lui si trova rappresentato nelle perfezioni delle creature" (ibidem, c.). 
L'affermazione è ripetuta:  nessun nome è in grado di esprimere perfettamente quello che Dio è (quod est Deus perfecte):  "Qualsiasi nome lo significa in modo imperfetto, così come in modo imperfetto egli si trova rappresentato nelle creature" (unumquodque [nomen] imperfecte eum significat, sicut et creaturae imperfecte eum repraesentant, ibidem, 2, 1m). 
In altre parole, bisogna distinguere tra "perfezioni significate" (perfectiones ipsae  significatae)  e  "modo di significare" (modus significandi, ibidem, 3, c.). 
Quanto alle "perfezioni" significate alcuni nomi convengono a Dio in senso proprio, anzi, valgono primariamente per lui - come i nomi indicanti vita, bontà, sapienza, e così via; quanto invece al "modo di significare" non gli convengono in senso proprio:  noi conosciamo solo il modo con cui tali perfezioni si ritrovano e si predicano nelle creature, mentre ignoriamo "come" esse si trovino in Dio, come siano in lui la vita, la bontà, la sapienza. 
In conclusione:  noi non siamo in grado di oltrepassare lo schermo, il prisma creaturale per collocarci all'interno di Dio, evadendo lo spazio del mondo creato. 
D'altronde in san Tommaso sono chiare due convinzioni. 
La prima convinzione è che "di Dio non possiamo sapere quello che è, ma quello che non è; non siamo in grado di riflettere su come Dio sia, ma piuttosto su come non sia" (De Deo scire non possumus quid sit, sed quid non sit; non possumus considerare de Deo quomodo sit, sed potius quomodo non sit, Summa theologiae, i, 3, introduzione). Dio - ed è il pensiero di Agostino nel De verbis Domini (38, 2, 3) - "non può essere alla portata del nostro intelletto, ma il modo più perfetto di conoscerlo nello stato presente sta nel conoscere che egli è superiore a tutto ciò che il nostro intelletto è capace di concepire, per cui ci uniamo a lui come a uno sconosciuto" (Ipse non potest esse pervius intellectui nostro; sed in hoc eum perfectissime cognoscimus in statu viae quod scimus eum esse super omne id quod intellectus noster concipere potest; et sic ei quasi ignoto conjungimur, In iv Sententiarum, 49, 2, 1, 3m). Anche se la Rivelazione ci ha fatto senza dubbio conoscere Dio più pienamente (plenius), manifestandoci perfezioni e proprietà ignote alla "ragione naturale" (ratio naturalis) - si pensi al suo essere uno e trino. 
Con tutto questo, la seconda convinzione  di  san Tommaso è che l'impossibilità  di  conoscere  Dio  univocamente,  cioè  nella sua  essenza,  non  rende equivoco il nostro parlare di lui, ma lo rende  analogico,  inadeguato  sì,  ma   vero e  provveduto  di  sen- so  (analogice,  et non equivoce pure, neque univoce, Summa theologiae, i, 13, 5, c). 
Lo pensano alcuni filosofi che, dopo aver sostenuto vanamente che il Dottor Angelico includeva Dio nell'àmbito degli enti, adesso fraintendono la dottrina sull'assoluta trascendenza divina, giungendo a concepire l'ineffabilità di Dio come una equivocità e a parlare di non-Essere di Dio. 
Senza dire che una logica alternativa alla conoscenza analogica dovrebbe essere un completo silenzio su Dio, o una teologia totalmente "negativa". Che Tommaso rifiuta per affermare che "Dio si onora sì con il silenzio, non perché non si dica o non si conosca nulla di lui, ma perché, qualsiasi cosa impariamo o conosciamo di lui, ci rendiamo conto che la nostra intellezione ha fallito" (Deus honoratur silentio, non quod nihil de ipso dicatur vel inquiratur, sed quia quidquid de ipso discamus vel inquiramus, intelligimus nos ab eius comprehensione defecisse, Super Boetium de Trinitate, 2, 1, 6m):  Dio sta sempre, inarrivabilmente, di là; imprendibile e impercorribile. 
È la prospettiva anselmiana:  Dio è il sempre "Oltre", Colui che non è disposto nella serie, neppure come il primo e il più alto, perché sta nella inconcepibilità (quo magis cogitari nequit). La teologia di Tommaso nasce dall'incessante e gioioso desiderio di comprendere Dio:  desiderio che tiene vigile e impegnata la ricerca, che la nutre di speranza, in attesa della visione. 
Un ultimo rilievo sul Nome divino che ha incantato l'Angelico, quello di Essere. In Dio - egli ripete - l'essenza e l'essere coincidono; "la sua essenza è il suo essere (essentia eius est suum esse)", e questo significa che egli è l'Atto puro e Perfezione illimite. Lasciando trasparire una profonda, anche se come sempre contenuta, emozione, Tommaso definirà la coincidenza tra l'essere e l'essenza di Dio una "Verità sublime" (Haec sublimis veritas, Summa contra Gentiles, i, 22, n. 10), ampiamente dimostrata con la ragione e insieme rivelata a Mosè, il quale la imparò da Dio, quando alla sua domanda si sentì rispondere che il suo nome è "Colui che è". 
Qualcuno confonde il puro Essere di Dio con la staticità o una distaccata mancanza di sentimenti, per cui sente il bisogno di definirlo come essenzialmente relativo alla creatura, dotato a sua volta di mobili sentimenti, in tal modo concependo Dio a immagine dell'uomo. 
È vero invece che, se Dio è l'Essere, non lo è nel modo in cui noi abbiamo l'esperienza dell'essere:  egli non "è", come "siamo" noi, bensì è in modo tutto proprio, che lui solo conosce e che a noi sfugge, legati tuttora come siamo alle insuperabili restrizioni di creature. 
Ma ciò non produce tristezza o risentimento; al contrario genera stupore e incontenibile ammirazione, o una specie di confusione che si risolve in adorazione, che diventa sconfinata e si confonde al pensiero che Dio in ogni istante, dal nostro intimo, ci comunica il dono dell'essere che ci fa esistere. Non è necessario aggiungere la preghiera alla teologia o anche alla filosofia dell'essere:  esse sono oranti per natura loro.



(©L'Osservatore Romano 28 gennaio 2011)

Preghiera

Colui che annuncia la verità deve essere disposto a non essere compreso. Fa', Signore, che nei momenti di incomprensione sappiamo metterci al tuo posto. Fortificaci in modo tale che siamo coerenti rispetto a ciò a cui crediamo. Accordaci la grazia di vivere a volto scoperto, e non permettere che cediamo alla tentazione della viltà: le viltà che si affermano come rivelazioni, o quelle che si nascondono come tradimenti. Infondi nella nostra vita la luce della verità e fa' che sia nostra guida sul cammino della giustizia. 

Thursday, January 20, 2011

Caso Berlusconi: Le parole e i silenzi della Chiesa

SULLA CHIESA GIUDICE NELLA SFERA PUBBLICA E SUI SUOI CORRUTTORI

di Pietro de Marco

L’intelletto politico è segnato nel Novecento, erede delle rivoluzioni moderne, da una costante discriminazione dell’avversario secondo il valore. L’avversario non è tale razionalmente, e reversibilmente, in momenti e su terreni pubblici particolari; è Nemico personale e ad un tempo dell’umanità, della democrazia, della giustizia. I classici della scienza politica, che distinguevano rigorosamente i due livelli di inimicizia, avevano intravisto l’eventualità del loro collasso in uno solo, il Nemico assoluto, anche nelle pratiche conflittuali. La ineluttabilità di un obbligo morale al conflitto, avvertivano, implica un estremo pericolo, poiché la motivazione “per princípi” della lotta politica chiede di prolungare il conflitto fino all’annientamento.
Gli uomini che perseguono risultati radicali devono bollare la parte avversa come criminale e disumana, “perisca pure il mondo”. La lotta assoluta tra valore e disvalore ha una sua sequenzialità devastatrice: obbliga a creare criminalizzazioni e svalorizzazioni sempre nuove, fino all’annientamento di “ogni vita politica indegna di esistere” (Carl Schmitt). L’inimicizia assoluta è teorizzata e alimentata dall’intelligencija moderna, fattasi titolare del giudizio di validità ultima sulle sfere di giustizia.
La tradizione giuridica, teologico-politica, pastorale della Chiesa è l’antagonista – ed è spesso il bersaglio diretto – di questa istanza “rivoluzionaria” di un giudizio che si pretende superiore e sommario.
Infatti, da un lato la Chiesa cattolica non conosce l’imperativo dell’annientamento di “vite politiche indegne di esistere”, se non nell’assoluta eccezione prevista dalla discussa dottrina del tirannicidio. Questo anzitutto perché non riconosce politiche salvifiche, quelle che simmetricamente si affermano le uniche “degne di esistere”.
Dall’altro lato, la potestà di giurisdizione della Chiesa si regola nell’ordinario del tutto diversamente, distinguendo tra materie che riguardano il foro esterno e quelle pertinenti il foro interno. La giurisdizione di foro esterno si esercita in pubblico e si riferisce al bene comune. L’altra guarda immediatamente e direttamente il bene della singola anima; si esercita nel segreto e ha effetto nella coscienza.
Si tratta di un paradigma giuridico, in effetti antropologico e teologico-politico, alto e complesso. Solo il moralismo militante, il nuovo attore politico della modernità che si realizza nella figura dell’opinione publica-partito, può pensare di alterare ad hoc, se e quando serva, con l’arma del “quarto potere”, l’esercizio civile della razionalità politica e cattolica.
Si osserverà che questo ordine sociale, razionale e cattolico, suppone l’autorità del confessore sulla persona privata, oltre ad una potestà della Chiesa nella sfera pubblica. E che le due istanze debbono coesistere e completarsi. Ma i limiti dell’efficacia “erga omnes” delle decisioni della Chiesa in società pluralistiche non ne invalidano una validità permanente; esse restano, anzi, tanto più esemplari quanto più si palesano gli “effetti perversi” del mancato riconoscimento di “tribunali della coscienza” che abbiano autorità sulle condotte private.
Nello spazio pubblico italiano le richieste alla Chiesa di intervenire, oggi, con condanne contro qualcuno, non solo sono “partigiane” (l’opinione pubblica attiva è sempre partito), ma intendono provocare la Chiesa ad un giudizio pubblico per obiettivi estranei, forse opposti, al senso, al fondamento, della sua destinazione e giurisdizione.
Non solo si vuole indurla ad un metodo improprio, anzi illegittimo, perché anticiperebbe, come fa per definizione l’opinione pubblica, la ponderazione rigorosa dei fatti e delle imputazioni. Ma le si suggerisce di assumerere nella propria prassi l’istituto della “ghigliottina politica”, il corto circuito liquidatorio tra foro esterno e “forum animae”, contro la razionalità rigorosa che canonisti e teologi, tribunali e confessori, hanno praticato nei secoli e praticano.
Non sorprende che si tenti di trasformare la Chiesa in uno strumento aggiuntivo, e decisivo, della mobilitazione dell’intelligencija, anzi, in una parte dell’intelligenciia stessa. Minoranze colte di clero e laicato lo sono già, e obbediscono ai suoi moti con perfetto automatismo. Ma l’arruolamento nella “machine” dell’opinione pubblica eterodiretta è il peggio che possa accadere all’intelletto cattolico e all’istituzione ecclesiastica. È da credere che non accadrà.
*
La predicazione e l’ammaestramento della Chiesa non dimenticano, peraltro, di sanzionare il “libertinaggio irresponsabile”, diffuso da decenni nel circuito perverso dei modelli di esistenza “liberata” (non solo sessuale) generalizzati dai nuovi media.
In un coraggioso saggio sul pudore pubblicato dall’editore Einaudi, Monique Selz scrive: “In questa esibizione che fa vedere tutto, è in gioco niente meno che il tentativo o il simulacro della rivelazione del mistero dell’origine, che porta all’illusione che sia possibile comprendere l’altro totalmente e quindi impossessarsene. Contro questo, il pudore ha il compito di nascondere l’immagine per proteggere l’essere”.
La dittatura della trasparenza impudica del sé, l’ipertrofia delle libertà intime congiunta alla comoda retorica delle virtù pubbliche, il frequente “servirsi del richiamo alla moralità, prima tanto dileggiata, per altri scopi” (secondo le parole di monsignor Crociata): per queste strade pubbliche la cosiddetta emancipazione ha camminato e cammina, confermata o anticipata dalle leggi, dalla esibizione dell’orgoglio eversivo, dal “pride” di turno, dai preservativi a scuola e la pillola abortiva nello zainetto, dalla consulenza immoralista dei magazine. Tutto palese, e prevalentemente istituzionale, è ormai questo processo di socializzazione, enormemente diluito nel tempo. E dietro ai tanti educatori “alla libertà” opera una visione del mondo seriosa (non stiamo parlando di veline), programmaticamente rivolta alla decostruzione di principi e istituti.
Nella sfera civile deborda e ad essa sembra appartenere anche quella vita privata un tempo oggetto della chiacchiera sussurrata, della riservata calunnia, e che oggi la vetrina universale dei media di massa rende pubblica. Morale e diritto, però, ci rendono avvertiti. Tra coloro che propongono i modelli del “nuovo”, nel romanzo, nel saggio, nel programma scolastico o nelle leggi di una regione, nella battaglia politica o nella accattivante esibizione del genere Gay Pride, e volentieri dileggiano tutto ciò che è “vero, nobile e giusto”, da un lato, e dall’altro lato colui, chiunque sia, che viene trascinato in pubblico c’è una sostanziale differenza.
Nel primo caso, coloro che propongono un paradigma di emancipazione “libertina” della morale sociale si assumono responsabilità e provocano il nostro giudizio; per parte sua il giudizio cattolico afferma, da molto tempo, che “è in pericolo il bene stesso dell’uomo”.
Nel secondo caso, persone e condotte vengono trascinate da terzi nell’agorà, in modo che le giudichiamo, quasi fossero esse ad esibirsi e presentarsi. Questa procedura piuttosto ci suggerisce, con la mente alla polverosa e assolata piazza dell’adultera, la bruciante frase di Gesù: “Chi di voi è senza peccato…” (Giovanni 8, 7). Infatti non vi è legittimità alcuna in un giudizio del genere; tanto meno legittimità pubblica, poiché quella persona incolpata non attribuisce esemplarità alla condotta di cui la si accusa. Proprio lo spazio privato da cui è stata strappata per dirle:”Così ti mostri a tutti?” fa intendere che tale persona non propone né una dottrina né un paradigma. Altri lo fanno. Non lasciamo che la mobilitazione dei “virtuosi” ci cambi oggi le carte in tavola.
Dunque, né il giudice – a meno non sia un giudice della Lubjanka –, né il giudizio morale del privato dovrebbero accogliere delle deformazioni lesive della persona, fatte per colpire il suo onore, come prove a carico. Giurisdizione e opinione dell’uomo medio si sono, invece, reciprocamente contaminate nel triangolo tra a) intercettazioni a tappeto di dubbia legittimità, b) costruzione e dilatazione mediatica dello scandalo, c) uso politico della peculiare pubblicizzazione del privato nel flusso massmediale. Il giudice si fa parte non tanto per sue interne insindacabili ragioni partigiane, quanto per la contaminazione tra privato e pubblico che, oggi, la pratica delle intercettazioni comporta, senza che egli possa sostenere di non esserne consapevole, anzi attore. Contaminazione che rende liquide le capitali separazioni tra privato e pubblico. E producendo ad arbitrio il “monstrum” di vicende private di interesse pubblico, con procedura inedita nel nostro ordinamento, quella della prova mediatica, apre l’ordinamento stesso al genere del “processo pubblico-politico” rivoluzionario.
Firenze, 19 gennaio 2011

http://magister.blogautore.espresso.repubblica.it/2011/01/19/caso-berlusconi-le-parole-e-i-silenzi-della-chiesa/

Wednesday, January 19, 2011

つまづいたおかげで

つまづいたおかげで

つまづたり ころんだりしたおかげで
物事を深く考えるようになりました
あやまちや失敗を繰り返し おかげで少しずつだが
人のやることを暖かい眼で見られるようになりました
何回も追いつめられたおかげで
人間としての自分の弱さと だらしなさを
いやというほど知りました
だまされたり 裏切られたりしたおかげで
馬鹿正直で親切な人間の温かさを知りました
そして 身近な人間の死に逢うたびに
人のいのちのはかなさを いまここに
生きていることの尊さを骨身にしみて
味わったおかげで人のいのちを
ほんとうに大切にする ほんものの人間に
裸で逢うことができました
一人のほんものの人間に めぐり逢えたおかげで
それが縁となり 次々に沢山のよい人たちに
めぐり逢うことができました
だから わたしのまわりにいる人たちは
みんなよい人ばかりなんです

Wednesday, January 05, 2011

Bellezza e verità

Scriveva il cardinale Ratzinger:  "Nella passione di Cristo (...) l'esperienza del bello ha ricevuto una nuova profondità, un nuovo realismo. Colui che è la Bellezza stessa si è lasciato colpire il volto, sputare addosso, incoronare di spine (...) Ma proprio in questo Volto così sfigurato appare l'autentica, estrema bellezza:  la bellezza dell'amore che arriva "sino alla fine" e che, proprio per questo, si rivela più forte della menzogna e della violenza. Chi ha percepito questa bellezza sa che proprio la verità, e non la menzogna, è l'ultima istanza del mondo. Non la menzogna è vera, bensì proprio la verità. È un nuovo trucco della menzogna presentarsi come verità e dirci:  al di là di me non c'è in fondo nulla, smettete di cercare la verità o addirittura di amarla, così facendo siete sulla strada sbagliata. L'immagine di Cristo crocifisso ci libera da questo inganno oggi dilagante. Tuttavia essa pone come condizione che noi ci lasciamo ferire insieme con lui e crediamo nell'Amore, che può rischiare di deporre la bellezza esteriore per annunciare, proprio in questo modo, la verità della bellezza" (La bellezza. La Chiesa, Castel Bolognese, Itaca, 2005, pp. 25-26).


(©L'Osservatore Romano - 5 gennaio 2011)

Friday, November 26, 2010

Jullien Cina e universalita'

F. Jullien, De l'universel de l'uniforme, du commun et du dialogue entre les cultures, Fayard, Paris 2008, trad. it. L'universale e il comune. Il dialogo tra culture, Laterza, Roma-Bari 2010, pp. XI+190, ISBN 978-88-420-8775-5

"[P]rendiamo in considerazione una cultura che non si affida ad alcuna Rivelazione, ma la cui capacita' di integrazione e di accentramento ideologico e' talmente forte da spingerla a identificarsi con il centro del mondo e a considerare i propri valori pienamente imitabili ed esportabili senza limite alcuno. Sto parlando della Cina: una cultura che 'non si pone neanche' la questione della possibile universalita' dei propri valori. Ma potremmo anche considerare il caso della Cina insieme a quello del Giappone, cosi' da mettere in luce l'uno attraverso l'altro. Due casi opposti, e tuttavia in entrambi ci si dispensa dal porre la 'questione' dell'universale: in uno l'universalita' culturale risulta scontata, nell'altro incongrua. Il Giappone non vi presta attenzione poiche' si compiace della propria specificita' locale che rivendica facendo appello alla sua insularita', al suo clima, ai suoi terremoti, alle sue pianure strette tra le montagne e alle sue coste frastagliate (fudo/yamato, ecc): si considera una terra dal destino unico, distinta dalle altre e protetta dagli dei. Riluttante a intaccare il proprio sentimento di coesione interna, quando e' chiamata a riconoscere la propria dipendenza culturale dal suo imponenete vicino essa riscopre la sua coscienza identitaria attraverso un confronto continuo. Il Giappone, dal punto di vista dei suoi stessi abitanti, e' una cultura del singolare: la questione dell'universale la lascia indifferente.
La Cina invece, nel suo estendersi lungo grandi fiumi e vaste pianure, incontra le proprie province di frontiera ma non scorge mai veri e propri limiti al proprio impero (se non il mare). Sente a tal punto la propria cultura come globale da ritenere questa globalita' un dato di fatto naturale e da non avvertire la necessita' di un concetto di universale che la rivendichi. Lo spazio che assegna a se stessa e' tutto lo spazio che si estende "Sotto il cielo" (tian xia) e "dentro ai quattro mari", fino alle estremita' del globo; il potere del suo sovrano si estende sull'intero genere umano. Di lui viene detto che "Il Figlio del Cielo e' senza eguali", nessuno puo' essere messo sul suo stesso piano e "nessuno, tra i quattro mari, puo' riceverlo seguendo i riti dell'ospitalita'" poiche' tutto "sotto il cielo" e' "sua dimora" e "non v'e' per lui luogo esterno ove recarsi" (Xunzi, inizio del capitolo "Junzi"). Quindi, "qualunche siano le frontiere che attraversa e i paesi in cui va", "non si puo' dire che vi si rechi, poiche' egli e' ovunque a casa sua"...


Gia' nella piu' antica raccolta di poesie cinesi, lo 'Shijing', si legge: "Universalmente sotto il cielo/ non vi e' nulla che non sia terra del Re" (Xiaoya, "Bei Shan" 溥天之下、莫非王土). Cio' che qui traduciamo con "universale" ('bo', ripreso oltre con 'pu') significa "che non puo' incontrare limiti" o anche "infinitamente esteso": non aspira, in senso stretto, al dover essere, ma non immagina neanche delle restrizioni all'affermazione di se'. L'iperbole non esprime qui l'invocazione di una necessita', bensi il non-sospetto di una possibile alterita' (esteriorita'). Non affifando la propria legittimazione ad alcun verbo sacro - non rivendicando quindi alcun Messaggio, ne' richiamandosi ad alcuna grande Epopea - la Cina antica non percepisce se stessa come predestinata, ne' tantomeno come provilegiata: e' semplicemente l'unica civilta' da essa stessa (ri)conosciuta. Dal suo punto di vista, tutto cio' che la circonda semplicemente non ha ancora avuto accesso alla civilta', in quanto non e' ancora "sinizzato".

Thursday, November 25, 2010

Crisostomo agnelli e lupi

Seconda Lettura Giovedi seconda sett. 25 Novembre

Dalle «Omelie sul vangelo di Matteo» di san Giovanni Crisostomo, vescovo (Om. 33,1.2; PG 57,389-390)

Se saremo agnelli vinceremo, se lupi saremo vinti

Finché saremo agnelli, vinceremo e, anche se saremo circondati da numerosi lupi, riusciremo a superarli. Ma se diventeremo lupi, saremo sconfitti, perché saremo privi dell'aiuto del pastore. Egli non pasce lupi, ma agnelli. Per questo se ne andrà e ti lascerà solo, perché gli impedisci di manifestare la sua potenza.
È come se Cristo avesse detto: Non turbatevi per il fatto che, mandandovi tra i lupi, io vi ordino di essere come agnelli e colombe. Avrei potuto dirvi il contrario e risparmiarvi ogni sofferenza, impedirvi di essere esposti come agnelli ai lupi e rendervi più forti dei leoni. Ma è necessario che avvenga così, poiché questo vi rende più gloriosi e manifesta la mia potenza. La stessa cosa diceva a Paolo: «Ti basta la mia grazia, perché la mia potenza si manifesti pienamente nella debolezza» (2 Cor 12,9). Sono io dunque che vi ho voluto così miti.
Per questo quando dice: «Vi mando come agnelli» (Lc 10,3), vuol far capire che non devono abbattersi, perché sa bene che con la loro mansuetudine saranno invincibili per tutti.
E volendo poi che i suoi discepoli agiscano spontaneamente, per non sembrare che tutto derivi dalla grazia e non credere di esser premiati senza alcun motivo, aggiunge: «Siate dunque prudenti come serpenti e semplici come colombe» (Mt 10,16). Ma cosa può fare la nostra prudenza, ci potrebbero obiettare, in mezzo a tanti pericoli? Come potremo essere prudenti, quando siamo sbattuti da tante tempeste? Cosa potrà fare un agnello con la prudenza quando viene circondato da lupi feroci? Per quanto grande sia la semplicità di una colomba, a che le gioverà quando sarà aggredita dagli avvoltoi? Certo, a quegli animali non serve, ma a voi gioverà moltissimo.
E vediamo che genere di prudenza richieda: quella «del serpente». Come il serpente abbandona tutto, anche il corpo, e non si oppone pur di risparmiare il capo, così anche tu, pur di salvare la fede, abbandona tutto, i beni, il corpo e la stessa vita.
La fede è come il capo e la radice. Conservando questa, anche se perderai tutto, riconquisterai ogni cosa con maggiore abbondanza. Ecco perché non ordina di essere solamente semplici o solamente prudenti, ma unisce queste due qualità, in modo che diventino virtù. Esige la prudenza del serpente, perché tu non riceva delle ferite mortali, e la semplicità della colomba, perché non ti vendichi di chi ti ingiuria e non allontani con la vendetta coloro che ti tendono insidie. A nulla giova la prudenza senza la semplicità.
Nessuno pensi che questi comandamenti non si possano praticare. Cristo conosce meglio di ogni altro la natura delle cose. Sa bene che la violenza non si arrende alla violenza, ma alla mansuetudine.