Sunday, March 27, 2005

復活祭の説教 (園田教会にて)

イエス・キリストの復活を信じることは人間の力ではできない。すなわち、人間がどのように頑張っても、イエス・キリストの復活を信じることは出来ません。それは、死んだ人間が生き返るなんて今まで一度も無かったからです。人間は死ねば、それで終わりでした。一巻の終わりです。その後はないのです。もう二度と会えないのです。いくら立派な仕事をしても、いくら立派な人格者であっても、いくら善行を積んだとしても、死んでしまったら、二度と生き返ることはないのです。これは変えることの出来ない事実でした。ですから人間であるイエス・キリストが生き返る話は信じることが出来ないのです。
それでは、なぜキリストの復活がしんじられないのかを考えてみましょう。それは、人間の罪に原因があります。「罪の支払う報酬は死」とローマの信徒への手紙(6:23)に書いてあるように、罪の結果は死であって、けして命ではありません。永遠の死は私たちの内にありますが、永遠の命は私たちの内にありません。したがって、私たちには死を考えることが出来ても、永遠の命を考えることが出来ないのです。私たちのうちに永遠の命に至る正しさがないからです。
復活が信じられない第二の理由は、どちらかといえば、心理的な反発からです。信じられないというよりも、信じたくないといった方がよいかもしれません。つまり、死によってこの世の苦しみから解放されたいと願う人たちにとっては、無意味な延命はごめんこうむりたいと願うことでしょう。復活してまで苦しい人生を続けたくはないという気持ち、この気持ちも人間として理解できないわけではありません。
弟子たちは素直に復活を信じたのかといえば、決してそうではありませんでした。イエスの墓が空っぽであったことを最初に発見した婦人たちの報告を聞いたとき弟子たちは「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)とはっきり聖書は記しています。
それでは、最初に空の墓を発見した婦人たちはどうだったのでしょう。マルコによる福音書の記事はとても印象的な終わり方をしています。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)
 恐ろしさのあまり、正気を失うほどの衝撃的な体験だったというのは、喜ばしい復活の出来事を書き表すにはあまりにも薄気味悪い表現です。報告を聞いた弟子たちが、婦人たちの言ってることが「たわ言のようの思われた」というのももっともだと感じられます。
 しかし、誰もが信じられないと思っていたところに、かえって「何かが起こったに違いない」という印象を強くされます。 さて、キリストの復活は事実であったのかという疑問もさることながら、もっと興味のあることは、聖書がそこでどんな意義を説き明かそうとしているのかということです。もし、その意義付けがなければ、キリストの復活を信じる意味が失われてしまいます。
復活は事実だと信じても、それが、もし、私たちにとって意味のないことであれば、いくら事実であっても、私たちの人生に何のインパクトもあたえません。
ところが、キリストが復活されたということは、死が終わりでないことを、私たちに教えてくれます。キリストの復活を信じる者たちも、やがて、復活にあずかることができるのです。もし、私たちの人生がこの世のものだけなら、生きているうちに好きなことをして、楽しめるだけ楽しんでおけば良いということになります。パウロの時代も、そうした生活をしている人が多くいたようで、パウロは、この手紙の32節で、その人たちのモットーを引用しています。「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」しかし、私たちは、死のかなたにも輝かしい将来があることを知っているので、正しい生活に励むことができるのです。キリストの復活によって、私たちは生活の方向を定めることが出来るのです。

パウロも、きょうのコロサイの手紙のなかで、天を見つめるように呼びかけます。「上にあるものを求めなさい、そこにはキリストが神のの右の座についておられます。地上のもではなく、上のものに心を向けなさい。

(祈り)

 父なる神さま、キリストの復活が無ければ、私たちの人生はどんなにか、無意味なものになっていたでしょうか。しかし、事実、キリストはよみがえられました。キリストは生きておられます。このキリストの復活の事実が、私たちの生活の中に働くように、私たちの信仰を、もういちど新しくしてください。人々が「キリストは生きておられる」ことを私たちの中に見いだすことができるまでに、私たちを導いてください。主イエスの御名で祈ります。

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